ミニレポ第219回 和佐駅近くの不思議廃橋

所在地 和歌山県日高川町
探索日 2015.7.28
公開日 2016.5.03

行き先無き、小さな孤立廃橋


【周辺図(マピオン)】

和歌山県日高川町の紀勢本線は和佐駅近くの交差点に、この写真の青看が立っているのを、通りがかりに偶然見つけた。

<何が珍しいって、1枚の青看に、連番になっている3本の県道番号が表記されていることである。
似たケースは、群馬県長野原町の羽根尾交差点が、連番である国道144号、145号、146号それぞれの起点になっていて、このような場所は日本唯一であるとして道路ファンによく知られているし、現地にはそれを記念した標柱さえ立っている。

対してこの日高川町の和佐駅近くの交差点の場合、国道ではなく県道で、かつ3路線の起点というわけでもない。右図の通り、ここが起点なのは県道193号だけで、他は通過地点に過ぎない。
しかしそれでも青看に3つの連番が並んでいる風景というのは珍しく、個人的には前出の羽根尾の他では目にした記憶が無いのである。
貴方がご存知の、このような青看があったら、ぜひご伝授頂きたいのである。



…という話は、実は本編とは関係が無かったりする。
本編で紹介するのは、この珍しい青看がある交差点から県道192号を140mばかり南下した所でこれまた偶然に発見した、小さな廃橋である。

それでは、さっそくご覧頂こう!





2015/7/28 16:34 《現在地》 

はい、奥に見えているのが冒頭で紹介した青看で、ここはそこから南に140m離れた県道192号上だ。
道路に沿うように、左側に細長い築堤が見えるが、紀勢本線である。

この地点に立ったまま、線路がある左の方を向くと、問題の廃橋がある。

こんなふうに↓




ゴミ収集場の奥に、線路の方へと延びていく、低い築堤があるだろう。
そこに欄干も見えていて、明らかに使われていない“廃橋”があるのが分かるのだが、逆光のせいもあって、写真だと特にこのアングルからは分かりづらい。

ちょっと位置を変えて撮影し直したのが、次の写真だ↓




線路に向かって延びる低い築堤に、小さな廃橋がある!

位置的に、その先には明らかに線路との平面交差(踏切)があったはずだが、ここから見てもそういう設備が無いことは分かるだろう。
また、手前もゴミ収集場のところで「ガクッ」と段差になっていて、本来あるべき路面は、築堤の土ごと削り取られてしまっているようだ。
総じて、前後に一切の道が通じていない全く無能の廃橋と化していて、たいした規模ではないけれど、妙に気になる存在感を醸していた。

下にある田圃の畦道を通って、橋の近くや下まで行ってみよう。



橋は地面と水平に架かっており、高さはかなり低い。
計測はしなかったが、私の背丈よりも低く、せいぜい1.5m程度。

また、橋の下は水が流れているわけではなく、かといって道路でも無いし、鋪装ももちろんされておらず、何だかよく分からない空間である。
雰囲気としては避溢橋っぽいが(避溢橋とは、築堤が洪水の流れを堰き止めてしまうことで冠水の被害が増大することを防ぐべく、築堤の代わりに橋とする構造のこと。低地にある洪水常襲地などでしばしば見られる)、すぐ隣にあるのは鉄道の築堤で、避溢橋を必要とするような地形にはあまり見えない。

橋そのものの構造は、鈑桁(プレートガーダー)にコンクリートの床版を乗せた混合橋で、鈑桁には溶接のほかリベット打ちも見られるので、そこそこ古そうだ。
ただし製造銘板などは見あたらず、これ以上の詳しい情報は得られない。

なお、このアングルから、さらに視線を右に向けると… ↓




?!

暗渠か?


いや、これは一応、道路なのかもしれん…。

…というのも、一つ前の写真に戻って見てもらいたいが、
暗渠の前に鋪装された部分があり、そこは田圃の畦を巡る軽トラが通れる道路になっているのだ。

こんな立地は、排水路や暗渠としては不自然な立地であり、むしろ、
廃橋の代わりに線路を横断するための道路だと考えた方が、しっくりこないか?


綺麗な正円をした……やっぱり大きめの排水路にしか見えない、洞内。
大きさは直径1.5mくらいで、やはり身を屈めないと頭をぶつほど低い。
下の低い所には少し水も溜まっていたが、流れは見られない。
また、廃橋ほどに古いものでは無いようで、コンクリートの表面は結構綺麗だ。


築堤の上にある線路は複線のようだが、それにしても地下道は妙に長く、
どうやら築堤に対し斜めに交差しているようだ。

こんな小さなサイズの真ん丸断面の地下道は経験が無いが、音の反響が独特で笑ってしまった。
普通の反響音では無い。もっと軽妙で、タップダンスでもしているかのような、本当に変な反響音だった。

そして、おおよそ30mほどで、同じ形の出口に達する。



16:36 《現在地》

線路の反対側へ通り抜けると、そこにはブドウの果樹園があって、やはりこの地下道は排水路ではなく、人が行き交うための道路であった。

このまま先へ進んでも仕方ないし、こちら側は廃橋のような目を引くものも無いようなので、戻って、今度は廃橋の上へ行ってみることにした。


しかしこの通路、利用している人はどのくらいいるんだろう?
少し水が溜まっているせいもあるだろうが、踏み跡らしいものはほとんど見あたらない。
中々興味深い“変なもの”ではあるが、人目に付かなすぎるようだ。

しかし、子供の頃には少し大きめの公園とかで良く見たトンネル遊具みたいな地下道で、
童心に還れること請け合いなので、還りたいという人は、潜ってみると良いだろう。



橋の袂を攀じ登り、橋上へ。

欄干の四隅を点検したが、残念ながら親柱は無く、したがって橋の名前を知る手掛かりとなる銘板も見つけられなかった。
橋長も10mに満たず、幅は2m程度である。道路としてはかなり狭い。

そして、一方は線路端に取り付いているが、やはり踏切は存在しない。代わりにガードレールで塞がれていた。
無理矢理横断したとすると、ちょうど線路の反対側にも同じようなガードレールがあり、その後には背の高い草が生い茂っている。どうやらあそこは、線路沿いの築堤が太くなっているようだ。

つまり、“矢印”のように道が通じていた可能性が高いのだが、この狭さと、築堤のために対向車の有無が確認しにくい事を考えれば、酷い劣悪な線形だ……。




南には、このカーブの先の現在地から約400mの位置に和佐駅がある。
微かに構内らしい辺りが見えている。


北には、このカーブの先の現在地から約350mの位置に日高川を渡る日高川橋梁がある。
見通す事は出来ないが、地形的に大河の存在は感じられる。



橋の正体はイマイチ分からないが、手掛かりもないので、ここを離れることにしよう。

この後、県道191号へ迂回して、線路の反対側を見通せる場所へ行ってみた。



16:42 《現在地》

反対側も水田地帯になっていて、線路が通る築堤の存在がよく目立っているが、
先ほど廃橋の上から見たとおり、線路沿いの築堤が奇妙に太くなっている場所がある。
雑草が生い茂っているが、おそらくあれが廃橋や踏切に通じる道路があった名残だろう。
ちょうどその一端に、例のまん丸い地下道の口が見えており、
それが踏切の代替として設けられたものであることを、強く感じさせた。



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帰宅後、ここで目にした廃橋や、その先にあったはずの踏切が、いつ頃まで使われていたのかを知りたくなった私は、歴代の航空写真を並べて比較してみることにした。
すると、ここにはささやかな廃橋の姿からはちょっと思い付かないくらいの、ダイナミックな“変遷”があったことに、気付いたのである。

というわけで、これから見て頂くのは、昭和22(1947)年、昭和38(1963)年、昭和51(1976)年、そして平成23(2011)年に撮影された、4枚の航空写真だ。
(こういう航空写真は、国土地理院の「地図・空中写真閲覧サービス」でいくらでも見る事が出来、大変便利なのだが、いかんせん各年代ごとに縮尺がバラバラで、さらに方位も一定していないので、画像を重ね合わせる作業は相当面倒くさい。4枚を重ね合わせる作業となると、丁寧にやると1時間はかかる。たまにはこんな苦労アピールもいいよね…。)


まずは、昭和22(1947)年版と昭和38(1963)年版を比較してみよう。

今回紹介した廃橋を含む踏切道は、前者には影も形もないのだが、後者にははっきりと描かれていた。
しかも、踏切に連なる道の行く先を見ると、線路のカーブに沿って西へ進み、仲良く並んで日高川を渡っているのである。

さらによくよく観察すると、この踏切から日高川を渡る道路は、線路の付替にともなって発生した旧線敷と、その旧橋を上手に活用したもののように見える。
今回、探索中には紀勢本線の線路付替について全く意識を向けておらず、事前知識も全くなかったので驚いたのだが、この2枚の地形図の比較は、明らかに線路の付替を物語っていた。

これをうけて、『鉄道廃線跡を歩く〈8〉』巻末掲載の「全国線路変更区間一覧」を確認すると…↓

駅間変更時期距離変更理由備考、その他
和佐〜道成寺S32.08.241.1 単河川改修、橋梁架け替え日高川B新設
S52.12.13複線化、橋梁架け替え(大山Tは単線並列)日高川B新設

これまでに日高川橋梁を含む区間では、2度の線路変更が行われていた事が判明した!そしてその1度目は昭和32(1957)年であり、ここで見た航空写真の変化とも合致している。

ここまでをまとめると、今回紹介した廃橋は、昭和32年の紀勢本線の付替で生じた旧線敷きや旧橋を活用して造られた、日高川を横断する道路の一部であったということが明らかになった。



続いては、昭和51(1976)年と平成23(2011)年に撮影された航空写真の比較だ。

先ほど調べたとおり、昭和52(1977)年に2度目の線路付替が行われ、このときに紀勢本線は複線化した。
そして、この新線工事が、小さな橋に引導を渡したようだ。

この工事により踏切が撤去され、その先にあった日高川を渡る橋も、県道191号(県道192号重複)が現在利用している入野橋の建設と引き替えに撤去された模様である。この撤去時期は確認していないが、比較的最近だと思う。残念ながらこれら旧橋の跡地については探索をしていないが、航空写真を見る限り、余り残っているものはなさそうである。

ちなみに、「橋梁史年表」には先代の入野橋のデータが記載されており、それによると全長364.7m、幅3mの多径間PGで、紀勢本線の旧日高川橋梁(昭和32(1957)年廃止)を改修利用したものだと、はっきり記述されていた。


以上をまとめると、今回の廃橋は、昭和32(1957)年頃から昭和52年頃まで、日高川の両岸(和佐〜入野)を結ぶ道路の一部として利用されていたもので、現在の県道191号江川小松原線の旧道に相当するものであったようだ(実際に県道に認定されていたかは未確認だが)。

最後に、これら空中写真の調査からは、この小さな橋が必要だった理由ははっきりしなかったが、これはやはり避溢橋であった可能性が高い。

上流から洪水が押し寄せてきた場合、線路の築堤に沿って和佐集落へ流れ込んでくる事が考えられる。
その時、線路と直行する踏切道路まで築堤であれば、それがダムの働きをして、集落への浸水は一層激しくなるだろう。
それを避け、出来るだけ築堤沿いの低地で洪水を処理すべく、踏切道路には築堤の代わりに避溢橋を設けたものと考えている。



完結。



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