今回探索旧ランプウェイは、いったいいつまで現役だったのだろうか。
その答えは、調べるという表現が大袈裟と思えるほど簡単にウィキペディアで知ることができた。
ずばり、平成13(2001)年であるという。
つまり、探索時には廃止から17年余りが経過していたことになる。現地で目にしたいろいろな物の風化具合に照らしても、違和感はないように思う。
なお、現在の針ICの隣にある道の駅「針T・R・S」のオープンも同じ年だった。
右図は、平成10(1998)年と平成19(2007)年の地形図の比較である。
これを見ると、ICが移転している様子がとてもよく分かる。
本線の線形は変わらないが、ICだけが移動していて、しかも移転後のICの姿があまりにも(現代のICとして)「普通」なので、地図の上からはとても旧ICがあったように見えないだろう。
ところで、この地図の比較を見れば明らかなとおり、今回探索した上り線側のオフランプ・オンランプだけでなく、下り線側にもオフランプ・オンランプが存在していた。
そして全体としては、「不完全クローバー型」と呼ばれるインターチェンジの配線が行われていたことが分かる。これは料金所を持たない簡易なインターチェンジでしばしば用いられるありふれた型式だ。
下り線側の旧ランプウェイの入口は、本編でも撮影している、【ここ】に他ならない。
しかし、その先に廃残部は存在しない。
そのことは、次に行った航空写真の比較からも明らかだった。
@ 平成23(2011)年 | |
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A 平成11(1999)年 | |
B 昭和58(1983)年 | |
C 昭和51(1976)年 | |
D 昭和45(1970)年 |
IC移設後の平成23(2011)年から、名阪国道の開通5年目にあたる昭和45(1970)年までのおおよそ40年の間に撮影された5枚の航空写真を比較してみた。
@平成23(2011)年版は、ほとんど現在の姿と変わらない。今回探索した上り線側の旧ランプウェイは、航空写真では緑に半分以上没しているし、下り線側のランプウェイがあった場所の半分は道路管理用施設(【現地写真】)になっていて旧状を留めておらず、残り半分は現在の移転後のICへのアクセスルート(奈良市道)として改良・転用されてる。
A平成11(1999)年版では、ICの移転工事と道の駅の造成工事が盛んに行われている様子が映っている。
B昭和58(1983)年版は、上記のような改編が行われる前の平穏な時代の風景だが、実際の地上に目を向ければ車同士の激闘が繰り広げられていたに違いなく、まさに初心ドライバーにとっての恐怖の殿堂、暗黒の時代を写している。
C昭和51(1976)年版までさかのぼると、また大きな変化に気付く。
名阪国道の本線が、現在は下り線として使われている側の2車線しか供用されておらず、上り線側の2車線では盛んに工事が行われているのである。
D昭和45(1970)年版を見れば明らかなとおり、今日でこそ名阪間の最短ルートとして盤石の4車線道路である名阪国道も、開通当初から10年間ほどは、たった2車線からなる対面通行の道路であったことが分かる。用地は最初から4車線分確保していたが、暫定2車線供用が行われていたのである。わが国の高速自動車国道における最初の暫定2車線供用は、昭和44(1969)年に開通した中央自動車道の一部区間であったが、それよりも4年も早く名阪国道が暫定2車線供用を行っていたわけである。
なお、針ICの旧位置は開通当初からのものであったが、今回探索した上り線側ランプウェイについて見ると、この暫定2車線時代には4車線化以降より少しだけ加速・減速のための余地が長くとられているので、その意味では少しだけ優しかったのかもしれない。
ICの周辺の土地の変化にも目を向けてみると、やはり名阪国道が4車線化を果たした後のBあたりから、IC周辺の都市化が進展しているように見える。
ちなみにDからAまでの期間は都祁(つげ)村の風景であり、@だけが合併によって奈良市となった後の風景だ。
奈良県でも中山間部の過疎問題は深刻だが、大和高原の山間に立地していた旧都祁村の中心地たる針地区に限って言えば、この40年間で人口は著しく増大し、開発が進んでいることがよく分かる。その最大の推進力が、名阪国道がもたらす交通の利便であったことは間違いないと思われる。
本邦の高速道路整備の黎明期に偉大な役割を果たした名阪国道の歴史を語るには、本稿は余りにも末節的であるし、よくまとめられた文献も他に少なくないから、ここで多くは触れない。針ICの改良に焦点を当てて歴史説明を試みたい。
主な参考資料は、『名阪国道工事誌』および『建設省近畿地方建設局50年のあゆみ 記録編』である。
名阪国道の全線、三重県亀山市から奈良県天理市までのおおよそ73kmの全線が、一般国道25号の一次改築として一挙に開通したのは、昭和40(1965)年12月16日のことであった。
当時わが国に高速道路は名神高速道路があっただけで、東名高速も中央自動車道もまだ登場していなかった。
開通当初は暫定2車線だったことは既に述べたが、これも本邦初の試みであったし、高速道路と一般道路の中間的な存在として「準高速道路」の概念が検討され、そのための道路規格(設計速度60km/hの自動車専用道路)が適応されたことも新しかった。無料の自動車専用道路というのも今日では珍しくないが、当時としては画期的であり唯一無二でもあった。
準高速道路であるがゆえ、一般道路との接続に用いるICは(名神高速道路よりも)簡易な構造とされたが、非常に多数を設置することで沿道の開発に資することになった。ICの設置がなくては土地を提供する地元には旨味がないわけで、工事を速成したい者と地域の発展を願う者とがICの配置を材料に手を携えた。それゆえ世に言う“千日道路”(計画発表から完成まで1000日以内で達成する)の工事は成功裏に終わった。
多数設置されたICだが、その想定される利用度に応じてA・B・C級という3段階の構造規格を想定した。
最も規模の大きなA規格ICは起点の亀山ICをはじめ、沿道にある市の中心的なICである上野ICや伊賀ICなどがあった。
針ICがどの規格であったかは明らかでないが、主要地方道(昭和50年に国道369号に昇格)との結節地であり、かつ旧都祁村の中心ICであったから、B規格だったと思われる。
さらに利用度の小さな極めてローカルな位置に設置されたのがC規格のICであった。
ICは各級ごとに設計基準が定められており、例えばランプウェイの勾配の最大値は6%、8%、10%の3段階があった。現代の基準に照らすと、ランプウェイに10%勾配など非常識にもほどがあるが、いまでも名阪国道にはこの基準で建設されたICがそのまま存在しているところもあるだろうから、探してみて欲しい。当然、カーブの曲率半径にも大きな違いがあった。
『名阪国道工事誌』より転載。
そして、多くのICを“恐怖の殿堂”とせしめていた、本線とランプウェイを接続する部分にある加速車線及び減速車線の設計についても、右図のような図面が残っていた。
これについてはICの規格によらず一定だったらしく、加速車線長は75mで、先端に20mの擦り付け長を設けるとされていた(減速車線は長さ25m、擦り付け長20m)。
体験者の中には、絶対に75mもなかったぞと叫びたくなる人もいるかも知れないし、私も現地でそれを見た記憶がないが、設計上はそうなっていた。
いや仮にちゃんと75mがあったとしても、これは普通に考えて短すぎたのだ。
この長さにした根拠を、「本線とランプウェイの車の速度差を20km/hとして」とあるのだが、この前提が既におかしいのだ。あんな曲がりくねったランプウェイを40km/hで走破するのも大変なのに、本線の流れる速度は既に80km/hくらいあるのが実態なんだから…。たった75mの加速車線では、時速60kmでも約3.5秒で通過してしまう。この間に本線へ合流しなければならないのは、かなりハードだ。
『名阪国道工事誌』より転載。
左図は開通直後の伊賀一の宮ICの写真である。
暫定2車線の本線の左右に、減速車線と加速車線がそれぞれ見えており、確かに前記図面の造りをしていることが感じられるが、こうして見晴らしよく眺めてみると、やはり非常にクイックな印象を受ける。あらゆる部分に余裕がない。
こうして昭和40年12月16日に開通した名阪国道だったが、さすがに“千日道路”の急ごしらえは少し無理があって、翌年いっぱいかけて2kmごとの非常駐車帯や休憩施設(これらは開通当初皆無だった)を設置し、一次改築が完成した。その後はみるみる交通量が増え、暫定2車線を車列が埋め尽くすようになるまで余り時間はかからなかったようである。そのため二次改築事業として4車線化が進められ、昭和52(1977)年には全線4車線となった。これで計画当初に描かれていた名阪国道は、完全に完成したわけである。
だが、時代の変化は、名阪国道にもさらなる進歩……、いや、それはもう是正というべきだろう改良を要請したのだった。
国会で、名指しでダメ出し食らってました、針IC。
なお、針ICの悪名は、読者諸兄からも実体験談として多く寄せられている。
その一つを紹介しよう。
小学生当時ですので、約30年前は廃道が現役だったのを覚えています。
名古屋方面に行く際は針インターを使用していましたので、今回の廃道を通っていました。
加速車線がほぼなく、親がぼやいていたのを覚えています。
混雑時は入り口で数台滞留することもありました。
順番が来ると、加速車線を徐行しながら本線の様子をうかがい、タイミングを見てアクセル全開という感じでした。
当時マニュアル車でしたので加速のエンジン音にワクワクしていました。
もっとも、規格の古い名阪国道に安全性を欠く部分があることは、国会で指摘なされる前から、管理者も認識していたようである。
近畿地方建設局と中部地方建設局は、昭和60(1985)年度から「名阪国道リフレッシュ計画」を策定し、平成元(1989)年から工事に着手していた。
具体的な工事内容としては、登坂車線の増設、サービスエリアやICの改良等ということで、実際にこの時期からそれまで危険とされていた箇所が続々改良されていった。
平成9(1997)年までに一部の登坂車線と7箇所(この数字は近畿地方建設局管内のもので、天理東、福住、一本松、神野口、山添、天理、五ヶ谷)のIC改良が完了していたという。
国会で名指しされた“危険IC”の大半がこうして安全に生まれ変わったが、針ICの改良はまだなされなかった。
針ICの改良がすぐに行われなかった事情は明確でない。このICは都祁村の中心地にあり、国道との結節点でもあるから、「あまり重要ではないから後回しになった」のではなさそうだ。
これは私の想像だが、道の駅を併設するという大規模な改良が計画されていたが故に、時間がかかったのだろうと思う。
奈良市の資料「針テラス事業の概要」(pdf)によると、道の駅「針T・R・S」を中心とした「針テラス全体構想」は、奈良県の長期基本構想(大和高原新都市構想)を受けて旧都祁村が計画していた「都祁ハイランドパーク整備事業」の根幹をなすものとして、針IC周辺を事業地に定めて平成6(1994)年に着手したものだそうだ。
この大規模な開発事業とICの移転がセットで考えられてたからこそ、平成13(2001)年7月の道の駅オープンと同時(か同年内かは不明)の新IC開通になったと思われる。
旧都祁村が昭和60年に発行した『都祁村史』は、村を貫いた名阪国道の工事中の模様や開通後の変化、将来への期待について、次のように記述をしている。抜粋して紹介する。
村内には一本松・針・小倉の三つのインターチェンジがある。しかも公共道路の性格からこの利用度はすこぶる高い。国道三六九号をはじめ主要道路もこれに連絡し村内の様相は大きく変化した。
阪神・中京の両経済圏へわずか一時間で結ばれるこの地は、大都市近郊型の農村であり近代産業の誘致にも恰好の条件を備えていると見るべきで、村の発展は国道を外にしては考えられない。
『都祁村史』より転載。
右の写真は、村史に掲載されていた針ICの移転前の風景だ。
撮影時期は定かでないが、4車線化しており、昭和52年以降なのは間違いない。
おそらくは、国道369号が名阪国道を跨いでいる跨道橋から上り方向を撮影した写真であり、私が探索した廃残ランプウェイとは逆の、今は跡形もない下り線側のランプウェイが写っている。
右下に大きく写っているのが下り本線へのオンランプだろうが……
バカヤロウ!である。
道理で、設計図にはあった75mの加速車線が、読者諸兄の体験談からすっぽり抜け落ちているわけだ。
なんと、ぶっとい白線によって合流後すぐさま本線へ入るようになってるじゃあないか!
おそらくこの状況が、冒頭の情報提供者宇佐美氏に、「極悪と言われた減速レーン加速レーン無しのT字ランプ
」なんて指摘されたのであろう。これじゃあ確かに加速レーンがないと言っても過言じゃない!
おっ、驚いた……。
さておき、奈良市との合併によって発展的に解消した都祁村が、かつて満身の期待を込めて育てあげてきたのが針ICであり、針テラスであった。
村政に関わった人の多くは、いまの広々としていていつも賑わっている、そして安全になった針ICの風景を見たら、誇らしく、喜んでくれることだろう。
最後までつきまとった針ICの汚名は、いまや見る影もない。跡形だけが少しあるが、そのことも忘れられつつある。サンデードライバーのパパもニッコリだ!
そして、名阪国道が実践してみせた準高速道路という概念は、同時期に開通した第三京浜道路などにも見られるもので、都市高速道路の整備にも受け継がれていった。
高速道路ほどには完備されていない実態に、様々な悪評を頂戴することもあったが、関係者はあらゆることを学びながら、いまの道を作ってきた。
私がここで見たものは、貴重な試金石の姿であったと思う。
完結。