ミニレポ第245回  JR中央線外郭環状架道橋 机上調査編

所在地 東京都武蔵野市
探索日 2019.03.24
公開日 2019.06.03

都市に埋もれ続ける架道橋



工事パンフレット(pdf)より転載(一部作者加工)

まずは、外環道について、前回の復習。

東京外環自動車道(外環道)は、わが国の高速自動車国道に与えられた営業路線名(高速道路会社が利用者への案内のために用いている路線名)の一つで、東京都心15km圏を一巡する環状道路として計画されている東京外かく環状道路の自動車専用道路部である。

東京外かく環状道路は、平行する自動車専用道路部と一般道路部の2本立てで計画されており、現在のところ、専用部(すなわち外環道)は、東京都練馬区の大泉ICから千葉県市川市の高谷JCTまでが供用済みである。一般部もほぼ同様の区間が開通しており、その大部分である埼玉県和光市から千葉県市川市までが一般国道298号に指定されている。

復習はここまで。
現地探索によって、情報提供者一子氏の情報通り、西荻窪駅から西へ650mほどのJR中央線に、推定6車線程度の道路を跨げそうな規模を持った、その名も「外郭環状架道橋」なる、昭和44(1969)年完成の橋梁が存在していることが確かめられた。

この一事からも、外環道、ひいては外かく環状道路が、昭和40年代から既に計画されていて、それが今以て完成していない遅速であることが分かると思うが、本「机上調査編」では、この外環道の未開通区間である、いわゆる「東京区間」(関越〜中央〜東名の区間)の歴史を概説しつつ(より詳細な記事はウィキペディアの「東京外かく環状道路」などを参照されたい)外郭環状架道橋が建設された当時に想定されていた外環道の姿を想像してみたいと思う。

それは、私が現地で単純に想像したものとは違った姿であり、なかなか興味深いものだった。





左図は、新旧2枚の都市計画図の比較だ。
このうち色鮮やかな方は、昭和48(1973)年10月現在の三多摩地方都市計画街路網図で、他方は最新版となる平成29(2017)年3月31日現在の都市計画道路図都市計画情報等インターネット提供サービスより)である。

こうして比較してみると、半世紀近い時間を隔てている新旧の都市計画図だが、ほとんど違いがないことが分かる。少なくともこの図の範囲については。

そして、肝心の東京外かく環状道路も、古い都市計画図から全く同じ位置に描かれ続けている。
この路線に、古い方は「外郭環状道路」と、新しい方では「外環」および「外環の2」という路線名が注記されており(後者については後ほど説明)、また幅員も書かれているが、新旧ともに「40m」で共通している。
全幅40mの計画道路幅というのは、外郭環状架道橋の【塗装銘板】に記されていた支間長22.5mという数字(これが2径間で全長45m)とも矛盾しない。

このように、都市計画図からはほとんど変化していなさそうにみえる外かく環状道路の計画だが、実際にはこの図上からは読み取れない大きな変化が、実際の建設計画上に生じていることを、おそらく関東地方にお住まいの多くの読者が、ニュースなどで知っていることと思う。

右の図は、平成29(2017)年4月に、国土交通省関東地方整備局東京外かく環状国道事務所が作成・公表した、「東京外かく環状道路シールドトンネル工事」という工事パンフレット(pdf)に掲載されていた画像である。

1枚目の縦断図では、関越道(大泉JCT)と中央道(中央JCT)の間の外環道が、全て地下道(トンネル)として建設される計画であることが描かれている。ここではJR中央線との交差も完全に地下でなされており、地上の架道橋を潜るようにはなっていない。
これが現在実際に工事が進められている最新の計画であり、もはや外環道によって既存の外郭環状跨道橋が利用されることはない。

次の図も同じパンフレットに掲載されたもので、外環道の横断図であるが、昭和41(1966)年7月に決定された当初の都市計画では「高架構造」であったものが、平成19(2007)年4月に変更され、地表から40m以上の深さである「大深度地下」にトンネルとして建設されることになったことを示している。

この計画の変更は、当時盛んにニュースになっていたので、記憶している方が多いのではないだろうか。
私もうっすらと聞いた覚えがあったから、今回の遺構を見たときもすぐに、「これはもう使われることはないのだ」と理解できたのだった。

ここまでの内容は、私にとっては机上調査をする前からのものだった。
だが、この先の調査で、現地の私がある大きな勘違いをしていたことに気付かされた。
その勘違いとは、外郭環状跨道橋が建設された当時の計画において、そこを潜るものとされていたのは、いわゆる今日「外環自動車道」と称されている東京外かく環状道路の専用道路部(高速道路)だろうと考えていたことだ。
だがこれは間違いで、あれを潜ることが予定されていたのは、東京外かく環状道路の一般道路部の方だったのである。つまり厳密には外環道ではない。

右図の「当初都市計画」の横断図が、高架構造であることは、私のこの勘違いを正そうとしている。
繰り返すが、当初の外環道(専用道路部)は、住宅地を横断する高架道路として計画されていたのだ。


次に引用するのは、外かく環状道路の都内区間の都市計画決定が初めて行われた昭和41(1966)年に、計画の樹立に関わった玉村英二氏が著した「外郭環状道路計画とその意義」という記事の一部である。(雑誌『道路建設 no.224』(1966年9月号)掲載)

人口の都市集中化は20世紀の著しい兆候であるが、首都東京の市街化区域は、1960年代には半径10粁圏から15粁圏(23区全体)に拡がり、今後もさらに拡大化が続き、近い将来は50粁圏まで拡がるものと予想されている。
(中略)
以上述べたような東京の新しい都市計画的背景に基づき、全国から東京に集中してくる新しい国土開発縦貫自動車道法に基づく東名道、中央道、関越道、大宮バイパス、東北道、京葉道のほか第三京浜、横羽線などの自動車専用道路の都市間自動車道路より発生する交通および東京ならびにその周辺の自動車交通を処理するためには、都市間高速道路と都市内高速道路の結節点に、これら交通の分散処理をするに必要な自動車専用道路と平面街路を組み合わせた外郭環状線を作ることが必要となった。
『道路建設 no.224』「外郭環状道路計画とその意義」

『道路建設 no.224』より転載

ここで早くも、外かく環状道路は専用部と一般部からなるものということが述べられている。
そして、この道路の設計は、昭和37年の交通量調査を元に昭和55年の推定交通量を算出して行ったとしたうえで……

外環と中央道のインターより南は6車線、北は4車線とし、南は地形に応じ、平面・掘割・高架部分があるので、高速道路の外側に付属街路を設けることとして側道を設け、外環と中央道のインターより北側は地形もおおむね平坦であるので、平面街路の上に高速道路をのせる形で計画決定をすることとした。
『道路建設 no.224』「外郭環状道路計画とその意義」

右図は、同記事に掲載されている横断設計図だ。
この上から3番目のような設計の道路を、中央道から関越道までの区間に建設することを決定している。
元図から潰れていて読みづらいのだが、中央に4車線の専用部が高架で存在し、その両側に内回り外回り2車線ずつの一般部(平面街路)があって、さらに外側の緑地帯と合わせて道路敷の全幅は40mである。

ちなみに、外かく環状道路で最初に都市計画決定が行われたのが、今回探索した部分を含む都内西側の区間(東名〜中央〜関越)であり、その3年後の昭和44年に、続く埼玉県内・千葉県内・都内東側区間の都市計画決定が行われた。しかし、実際に最初に開通したのは埼玉県内の和光〜三郷間(平成4年開通)であり、計画の順番がひっくり返っている。

そしてこの先行して開通した区間の設計も、前記した都内区間の設計とほぼ同じものであったために、我々は今日その実現した風景を見ることが出来る。
左の写真は、埼玉県八潮市内の外環の風景である。私が立っているのは一般部である国道298号で、上に乗っかっているのが4車線の専用部「外環自動車道」だ。

これと同じような道路風景(ただしこの埼玉県内区間も、昭和60年に両側の緑地帯を広げるなどの都市計画変更を行っているので、完全に同じではない)が、武蔵野市にも計画されていたわけであり、そのことは次に引用する資料からも読み取ることが出来た。

武蔵野市は昭和45(1970)年に『武蔵野市史』を刊行している。
ちょうど外環の計画が市民を揺らした当時の刊行であるためか、項目を割いて紹介していたので、紹介したい。

外郭環状高速道路の計画
この時突如として計画の発表されたのが外郭環状高速道路の計画である。この計画として現在伝えられるところでは、杉並区と武蔵野市との境において、高架化した国鉄中央線を乗り越えようというのである。
この東京外郭環状道路の経緯をみるにつぎのようである。(昭和)35年春、第三京浜道路の計画が具体化するにつれて、その交通をいかにして東京都の区部内に円滑に受け入れるかが問題となった。その後、東海道高速道路・中央自動車道・東北縦貫自動車道等、東京都の区部の周辺に将来予想される放射状の幹線道路の構想や計画の進展に伴い、これらの道路から区部内への交通の導入について総合的に検討する必要性が高まってきた。そして構想されたのが区部の密集市街地の外縁部をめぐる外郭環状道路である。
(中略)
そこで既存市街地あるいは住宅地との関係が生ずる。そこで、京王井の頭線三鷹台附近から、中央線をこえる、約1800mの地下道も考えられるのであるが、これには換気・照明・排水等の構造上の問題がある。そのため中央線を乗り越える高架道路にしようという考えもでてくるのである。
このように、市民の住居関係に影響の大きい計画が、41年3月に発表され、7月30日に計画決定となった。この余りにも突如として発表され、速やかに計画決定となったために、その通過地に当る市民からは、はげしい反対運動が起こっている。この運動に対して市議会も協力している。42年6月23日の本会議で「外環道路反対特別委員会」が設置された。この運動がどのような効果をもたらすであろうか。またこの計画が計画通り実現した場合、武蔵野市にどのような影響をもたらすであろうか。
『武蔵野市史』(1970年)

このように市史の記述では、高架の外環道が中央線を跨ぐだろうと書いており、私が現地で自然に、「外郭環状跨道橋」の下を潜ると考えたこととは、まるっきり違っている。
だがこれは、私も市史も高速道路である専用部にばかり意識が集中していて、初めから一緒に建設することが決められていた一般部を忘れていたために起こった勘違いである。

本来の計画では、中央線を潜るのは一般部の4車線で、さらにその上空に、中央線の高架をサンドイッチするように、4車線の専用部高架が横断することになっていたのだろう。

だが、市史にも書かれている市民による強硬な反対運動が、ここでは実を結ぶことになる。
都内区間の都市計画決定から4年後の昭和45年10月に、当時の根本龍太郎建設大臣が「地元と話し得る条件の整うまでは(建設を)強行すべきではない」旨を答弁したことが事実上の凍結宣言となり、後発の埼玉県内区間が平成に入り続々と開通したのを脇目に、平成10年代に入っても建設は進展せず、表面上は沈黙を守り続けることとなった。

再び建設再開へ向けて大きく舵を切ったのは、平成13(2001)年4月、高架構造で決定されていた従来の都市計画を国と都が見直して「地下化」するという、新たな「計画のたたき台」を公表したことである。
この地下化とは、通常の地下道よりもさらに深い、いわゆる大深度地下と呼ばれる地表から40mよりも下の地中を指していた。
その利用が地上での活動に影響を与えず、通常利用されることのない大深度の地下空間については、地上権を持つ地権者の断りなく公共の用に利用できることを定めた、「大深度地下の公共的使用に関する特別措置法」が同年に施行されたことが背景にあった。

この変更案は反対派にも一定の評価を受けることとなり、その後も様々な折衝を経て、平成19(2007)年には東京都都市計画審議会が高架方式から大深度地下方式への変更案を了承、関越道〜中央道〜東名道区間を大深度地下方式へ変更する都市計画決定が行われた。
平成24年には実際の工事が始まり、現在は2021年(令和3年)の開通を目指して工事が進められている。主に、深〜い地の獄で。



……と、これで話は終わりかというと、まだちょっとだけ、「可能性がある」という話を、最後にしたい。

可能性というのはもちろん、外郭環状架道橋活躍の可能性だ。


「都市計画情報等インターネット提供サービス」より転載(作者一部加工)

右図は、先ほども掲載した平成29(2017)年3月31日現在の都市計画道路図の探索地付近を拡大したものだ。

これは大深度地下方式に変更された後の最新の都市計画図だが、図の下辺りにある五日市街道と交差する部分で、普通に平面交差をするかのような隅切りされた形になっているのが分かると思う。ここには地上と地下を繋ぐICが建設される計画はない。

これはかつての(昭和41年)都市計画にあった、外環の一般部と一般道路を接続するためにあった膨らみだろう。
かつての計画では、全幅40m道路の中央に、高架の専用部が設置されることになっていた。
そしてこの専用部は、現在の計画ではそっくり地下へ移動した。

地上に取り残された一般部だが、なんと計画自体は今も消えずに存続している。
それが、右図にも注記されている「外環の2」である(正式な都市計画道路名は「東京都市計画道路幹線街路外郭環状線の2」)。 この路線も昭和41(1966)年に、当時の名称では「東京都市計画道路幹線街路外郭環状線2」として、都市計画決定がされている。

そして、そのままになっている。

結局、専用部が地下に降りても、地上に全幅40mの一般道路を建設するのでは、土地を守れたとはいいがたい。
当然のことながら、この一般部の計画も議論の対象になっているが、いずれこの計画も見直しされるだろうという見通しが大勢を占めているように思う。
現実問題として、そうなるだろうと私も思う。

だから、今のところはまだ、計画の上では、外郭環状架道橋には、建設された当時に見込まれていた形(一般部として)での活躍の可能性は残っている。

しかし、現実的には、可能性は極めて低いだろう。




完結。


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