ミニレポ第246回  東由利 蔵の洞門 現地調査編

所在地 秋田県由利本荘市
探索日 2017.10.05
公開日 2019.10.27

古写真に見つけた不思議な形の隧道


先日読んだ本に、とても印象的な写真が掲載されているのを見つけた。
本のタイトルは、『目で見る本荘・由利の100年』で、郷土出版社が刊行しているこのシリーズは全国津々浦々のものが出ているから、お馴染みという方もいらっしゃるだろう。 発行年は平成14(2002)年であるから、まだ新しい本だ。

それではさっそく、その“印象的な写真”をご覧いただこう。ぜんぶで2枚ある。



『目で見る本荘・由利の100年』より

洞門トンネルの開通
(東由利町・明治時代)

道の両側に並ぶ人びとの服装は和服あり、洋服あり、笠をかぶったり帽子をかぶったりと和洋折衷。明治中期から末期ごろの撮影と思われる。

『目で見る本荘・由利の100年』より

この手の写真集には必ず1枚は入っている、トンネル開通の良き日を撮影した写真だ。
「ああ、あのトンネルの生まれた時の姿なんだな」と合点するのが、だいたいのパターンである。
だが、私はこのトンネルに、全く見覚えがなかった。
こんなトンネル、東由利町のどこにあったんだ?!

なお、土地鑑のない方に説明すると、由利郡東由利町は、秋田県の南部、出羽丘陵地帯の真っ只中に存在した山あいの町だ。
平成17(2005)年に広域合併し、由利本荘市の一部となったためにもう存在しないが、永く秋田に住んだ私にとっては既知の土地であり、この写真のトンネルを見知っていないことは、それだけで大きな衝撃を受ける出来事だった。

そもそも、秋田県はさほど“明治隧道”に恵まれた土地柄ではないから、この写真がキャプションの通り、明治時代に東由利のどこかで撮影されたものだとすれば、私がまだ知らない明治隧道が県内に存在したことの証明になる。これは重大な発見ではないか?!

しかし、写真に写っている光景や、付せられたキャプションからは、150平方キロの広さがあった広い町域のどこで撮られたものかという肝心の情報が、読み取れなかった。
そのうえ、キャプションに出てくる「洞門トンネル」という名前は、まったく地名感がないし、本当にこれが正式名称なのかと疑いたくなる。
日本語における洞門とは、中国語の隧道、英語のTunnelのことである。
当然のように、このワードで検索してみても、めぼしい情報は全くヒットしなかった。



『目で見る本荘・由利の100年』より

さらに写真のトンネルを精査してみる。

明治時代のトンネル、特に東由利のような“地方”在のものとしては、意外なほど大きな断面を持っている。
しかし、長さは短いらしく、出口の向こう側に続いている道や、向こう側の人物の姿も写っている。そこにいる人の大きさと比較すると、本当に大断面だと分かる。余裕で馬車がすれ違える広さがありそうだ。

この断面の大きさ以上に特徴的なのが、奇妙な坑門の形状だ。
坑口に巻き立てがあるように見える。この断面サイズだと、よほど地質に恵まれていない限り、素掘り隧道は崩落に対して安全ではなかっただろう。
しかし、通常の石材アーチならば、もっとスムースな曲線を描いているはずだが、どう見てもカクカク折れ曲がっていて、ヘンだ。
石材でこのような形を作り出したとは思えないから、おそらく木材だろうが、その場合、恒久的な巻き立てではなく、支保工だったのかもしれない。

サイズといい、坑門といい、実物を見たら絶対に忘れないだろう印象的な姿をしたトンネルだった。



なお、同じトンネルを撮影した写真が、同じページにもう1枚掲載されていた。続いてそちらもご覧いただく。



『目で見る本荘・由利の100年』より

洞門橋の竣工記念
(東由利町・明治時代)

藩政時代、橋は防衛上の観点から必要最小限のみ架けられていたが、明治時代になると道路整備とともに次々に架橋された。写真の橋は谷に架かる橋のようだが、かなり立派なもの。奥にトンネルが見えるので、トンネル開通にあわせて橋を架けたことがわかる。交通の便は飛躍的に向上したことだろう。

『目で見る本荘・由利の100年』より

この写真を掲載してくれたことには感謝するが、キャプションはいただけない。ここで欲しいのは、こんな交通史の一般的事情ではなく、写っているトンネルや橋のことなのだ。
他のページのキャプションと比較してみても、これは編集者にとって苦肉の策だったと思う。おそらく編集者にも、この写真の場所や被写体の詳細が、分からなかったのだ。

それにしても、「洞門橋」とは……、またも酷い名前である…。
名前から手掛かりが得られないじゃないか!!



『目で見る本荘・由利の100年』より

ところで、2枚目の写真のトンネルが、1枚目の写真と同じだというはっきりとした記述はないが、そう考えて間違いないだろう。
これらは、同一のトンネルの両坑口を撮影した写真である。
2枚目と1枚目を比較してみると、そのことが分かる。
2枚目に写っている、祝賀のために設置された緑門(りょくもん)や二本交差の日の丸が、1枚目の写真にも見て取れるのである。

しかし、緑門や国旗のために、せっかくの坑門がほとんど見えていないのは、残念である。
坑門には、坑道を取り囲む覆工か支保工だけがあって、それ以外の意匠はなさそうに見える。扁額もなさそうだ。

もう一度、2枚目の写真(全体写真)へ戻って欲しい。

1枚目の写真からは、撮影場所を特定するためのヒントをほとんど得られなかったが、2枚目の写真からは、場所の特定に役立ちそうな情報が得られた。
まとめると……

  • 長さ30m以上はありそう(あまり高くはなさそう)な橋のすぐ先にトンネルがある。
  • トンネル上部の山は低く、稜線まで20mくらいである。
  • トンネルの長さは短く、数十メートル程度。(これは1枚目の写真から)

これらの条件に加えて、明治時代にこの地方でこんな立派なトンネルが掘られる可能性がありそうな“格”を有する道となると…… これはもう……



分かっちゃったゾ!!!


やっぱりここは、私が知っている場所の昔の姿だと思う。

それではさっそく、私が「ここだ!」と思った現地へGoだ!






2017/10/5 15:14 《位置図(マピオン)》

ここは、秋田県由利本荘市東由利蔵にある、蔵(くら)集落である。

かつて東由利町役場が置かれていた老方(おいかた)から2kmほど西にある集落で、
石沢川の蛇行に三方を囲まれた低地に、本荘街道に沿う形で典型的な街村が形成されている。
古くは、本荘藩や亀田藩の参勤交代路にあたっていた土地だけに、宿場として整備された記録は見えないが、
どこからどう見ても宿場でございというような、短冊状の街並みになっている。
昭和58年にバイパスが開通するまで、この街中の通りが国道107号だった。



地図だとこんな感じ。
旧国道と現国道の位置関係や、集落を取り囲む激しく蛇行した川の形などに、
蔵という集落の特徴が、よく現われている。起伏はあるが、平和な集落なのだ。

地図中にはぜんぶで3つのトンネルが見えるが、これらが今回探しているトンネルだと言いたいわけではない。
だが、今回探しているトンネルも、この地図の範囲内、それもとても近い位置にある(あった)と私は考えた。

これから、その場所をご覧いただくが、まずは「現在地」から「旧国道」を西へ向かう。
そうすると、集落の外れの辺りで川にぶつかる直前、道は左へカクッと折れている。
次の写真は、その角である。

平成14(2002)年に、図の左上にあるトンネル(黒沢隧道)をレポートしている。



15:17 《現在地》

蔵集落の西の角へやってきた。
信号機がある丁字交差点で、旧国道は左折だが、直進する道もあり、そちらは県道30号神岡南外東由利線の旧道(ここがかつての終点)である。

交差点を取り囲むように、蔵簡易郵便局やスーパーマーケット、それに(昭和40年代まで地方によく見られた百貨店を名乗る個人商店である)由利百貨店があり、集落における繁華の中心地を感じさせる地点である。

次の写真は、この角を左折した直後の眺めである。




左折すると、50mほど先に大きな切り通しがある。

この道を通ったことがある人なら、ここは印象に残っているのではないだろうか。
私は子供のころから何度も自転車でここを通過しているが、印象があった。
峠道の途中や頂上ではなく、ほとんど地平の高さに突然現われる深い掘り割りで、しかも歴然と街と外界を隔てる感じが、印象的に思えたからだ。

実際、私は昔もここにトンネルの存在を疑ったことがあって、その時は県立図書館で一番古い地形図(大正3年測図版)と『東由利町史』を読んで、どちらにもトンネルが出ていなかったことで、最初から切り通しだったと結論づけていた。
そんなふうに一度は私の疑いを退けた掘り割りが、今回見つけた古写真のために改めて……隧道擬定地点へ返り咲いた!

切り通しは峠ではないと書いたが、こちらから見ると微妙に下り坂になっているので、全く平坦というわけではない。




15:20 《現在地》

ここが、蔵の洞門(仮称)の擬定地である。

街中にある切り通しとしては珍しい深さと高さがあり、隧道の存在を疑わせる姿をしている。

地形の観点から見ると、切り通しは、蛇行する石沢川に両側を削られて残った薄い半島状の尾根を貫いている。

そのため、通り抜けた先に川があり、橋が架かっているという、古写真の条件にピタリと合致する。

しかもここは本荘街道という、由利郡を東西に貫く重要路線であり、大々的なトンネル工事があったとしても不思議ではない。

正直、新旧写真の比較からは、決定的な証拠といえるほどの一致は見られないが、ここを除いて他に擬定地はないと思う。




切り通しの長さは約30m、これが昔の隧道の長さだったと思う。
深さは、15mくらいだろうか。

古写真に写る隧道の幅の広さに驚いたが、切り通しも広い。
ただ、昭和58年に至るまで、東北地方を横断する重要な国道だったことを考えると、切り通しになってからも何度か拡幅を受けていると思う。
現に切り通しの両側の壁は全てコンクリートの擁壁になっていて、そんな昔からの壁には見えない。昭和後半のものだろう。

なお、切り通しの最も深い辺りに、右写真の橋台状構造物がある。
まるで鉄道の橋台みたいだが、私が子供の頃は水路のパイプが渡っていた。道路や鉄道の陸橋ではなかった。いつの間にか撤去され、巨大な橋台だけが残ったものである。
いま思えば、かつて隧道を切り通しに変えたことで、尾根にあった用水路が分断され、その補償として、わざわざ水路橋を作ったのかもしれない。

ここを擬定地として想定した時点で、隧道が現存しないことは明らかだったから、落胆はない。
昔から見知っていた場所が、明治時代には隧道で、しかもあんなに盛大な開通式典によって祝われた地域のシンボルだったことを知って、興奮した。
いまでは、本当に、何食わぬ顔をしていて、記念碑の一つもないのが惜しいが、同時にこの慎ましさを愛おしくも感じた。東北人らしい。




物証こそないものの、現地を見てますます、ここが隧道跡地だと確信した。
だが、まだまだ知りたいことは山積みだ。
ここにあった隧道について分かっていることは、明治時代に作られたことくらいで、「洞門トンネル」という名前さえ疑わしい。

幸い、語り部になる古老は、たくさんいるはずだ。
辺りは生きた集落だし、昔からやっていそうな商店もお寺もある。
徹底的に聞き取りを行えば、納得のいく答えに辿り着ける可能性は少なくないだろう。

とりあえず、さっきの角にあって、一番印象に残ったお店の主に伺ってみることにした。
「すみません、お買い物にきたのではないのですが……」

以下、大変親切に対応してくださった、長年ここで商っているという、60代くらいの店主氏のお話――

  • 自分が物心がついたときには、既に切り通しだった。トンネルだった姿を見たことはない。
  • 切り通しが昔はトンネルだったことは知っている。亡くなった祖父の時代(明治時代)に掘ったもので、開通時に記念撮影した写真が残っていた。
  • トンネルが建設された理由や、切り通しになった理由を聞いたことはない。
  • トンネルに名前があったかは分からない。(単に「トンネル」と呼んでいた?)

確定です!

ここに“明治の隧道”があったことが、確定!
残念ながら、突然の訪問であり、開通時に記念に撮られたという写真を見ることは出来なかったが(残っているかも分からない)、それは高い確率で、『目で見る本荘・由利の100年』に掲載された写真のことではないかと思う。
当時、頻繁にトンネル開通式なんてなかっただろうし、写真を撮る機会も少なかったはずだから。

また、とても知りたかったトンネル名については、ここでも空振りに終わってしまった。
廃止が相当に早かった(戦前で間違いないようだ)うえに、当時近隣に区別すべきトンネルが全くない状況だとすると、わざわざ名前で呼んでいなかった可能性が高い。
(黒沢隧道の完成は昭和26(1951)年なので、それ以前にここは切り通しになっていた可能性大。このことは後の航空写真調査でも裏付けられた)



話を聞いてから、切り通しを抜けた。

切り通し内は覆い被さるような大木の陰でやや暗いが、集落側から入ると緩い下り坂なので、すぐに抜けられる。
抜けると同時に視界が開け、ぱあっと明るくなる。
峠越えではないが、それに似たような解放がある。

石沢川が目の前を横切っている。
切り通しに引き続いて緩い下り坂の橋が架かっている。【古写真】に写っていた「洞門橋」なる連続木橋の代を重ねた姿だ。
対岸には美田が広がり、その向こう側の山裾に横渡という名の集落が横たわっている。
そこまで行くと現国道と合流し、日本海まで通じる道は、石沢川の難所である石沢峡へ続いていく。旧東由利町の範囲は、そこに尽きる。




振り返り見る切り通し。

川があり、山があり、まるで蔵集落を守る天然の城塞のような地形である。
これは偶然ではなく、そういうところに集落が作られた可能性が高い。
というのも、この切り通しがある山の上に戦国時代の館の跡があり、蔵ははじめ、小さな城下町だったと考えられる。
当然、その頃ここに切り通しはなかった。集落の守りは、さらに強力だった。

話は変わるが、写真に付した矢印の方向に、車が入れるくらいのスペースがある。
その奥に、あるものが、ある。
今回見つけたわけではなく、以前から知っていたものだ。





ジャ〜ン!!

隧道だよっ!



隧道擬定地のすぐそばに、ホンモノの隧道があるのだ。

すわ! これが明治の隧道かッ?!

……となるところだが、その可能性はない。

見ての通り、この隧道は水路用であり、人が通るには小さすぎるのだ。
まあ、ギリギリ通れないことはない(実際に通ったことがある)が…。


左のチェンジ後の画像は、反対側の坑口だ。
こちらも切り通しの傍にある。
つまり、切り通しと水路隧道は、ほぼ並行している。
ただし、水路隧道は路面より1mくらい低い位置にある。

この水路隧道がいつからあるものかは分からないが、以前適当に歩いて調べたところでは、おそらく右図のような径路で、石沢川の水を田に引いている。そして現在も使われていると思う。

道路の隧道とどちらが先に誕生したのかとか、技術者に系譜的関係があるかなど、気になる存在である。




15:33 《現在地》

切り通しの先に架かっている橋の名前は残念ながら……、もう分かっていたことだが、「洞門橋」ではなかった。

銘板によると、現在の橋の名前は「高瀬川橋」である。
ついでに河川名は石沢川、竣工年は昭和38年8月になっていた。
高瀬川というのは、石沢川の別名(上流部の名前)なので、幹線道路らしい命名だ。

そして、最後にやりたいことがもう一つ。

この橋の下にある田んぼに降りて……、そこから切り通しを眺めると……。





百有余年の時を隔てて、

いなくなってしまった人たちと写る、なくなってしまった橋や隧道が、まぶたの裏に甦った。

もう同じ場所に日の丸が掲げられることはないだろうが、ここに尊いひとときがあったことを、私は思いだした。




最初に出会った頃から妙に印象的で、私の心を惹きつけていた、“蔵”の切り通し。

その正体に触れる現地探索は、これにて終了。しかし、まだまだ分からないことばっかりだ。



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