ミニレポ第249回 東日本炭礦広野炭礦専用軌道の隧道 後編

所在地 福島県双葉郡広野町
探索日 2016.4.19
公開日 2020.1.12

未開業?未貫通? 謎の軌道用隧道


2016/4/19 14:17 

坑口埋没、水没、さらには内部閉塞という、まさに隧道三重苦の状況に陥っていた、東日本炭礦専用軌道のものと見られる廃隧道。
幅、高さともに坑道程度の大きさしかなかったそれは、透き通った地下水をなみなみと湛えた状態で、ひっそりと地中に眠っていた。

発見したのは南側坑口だったので、これから北側坑口を探す。
GPSで特定した現在地は右図の通りで、海抜20ほどの高度で尾根へ突っ込んでいる。
このことから推定される北側坑口の擬定地は、尾根の反対側の浅見川に面する同標高帯の山腹である。しかし、地図から一点に絞ることは出来ないので、実際に行って足で探すしかないだろう。

チェンジ後の画像は、『常磐地方の鉱山鉄道』掲載の地図で、隧道は大雑把に描かれている感じだ。
実際に南口が発見された位置は、この地図の坑口記号より高い位置なので、隧道はさほど長くはなかったはず。せいぜい、全長50〜100m程度だったろう。

あとは、どうやって行くかだが、現在地である南口から出来るだけ直線的かつ最小距離で、尾根を乗り越えて行こうと思う。
それが、一方の坑口を発見したアドバンテージを活かして他方を発見するコツである。



「直線的に行く」といっても、坑口の直上は崖になっているため、ストレートに登るのは無理だ。
なので、坑口が見える範囲内の緩斜面を見定めて、頭の中に地中にある坑道の直線を描きながら、そのライン上をよじ登って行くことにする。

が、これは道なき道を行くことになるので、すぐに猛烈な笹藪に行く手を阻まれた。
そのうえ急斜面なので、直進はあまりにもハードワークだ。
結局、GPSの力に最大限頼ることに方針を転換して、通りやすそうな位置を探しながら、尾根を越えることにした。




そうするとすぐに、森は穏便な表情を見せてくれた。
ここは典型的な里山で、特に尾根に近い辺りは管理された杉林になっていたので、作業道のような小径が縦横に通っていた。
それを使って、簡単に尾根に達した。




14:20 《現在地》

ちょうど隧道直上の鞍部で尾根を越えた。
そこには縦走路のような歩道が通じていた。地形図には描かれていないが、擬木コンクリートの手摺りや石の祠なんかがあったので、古い道を利用した遊歩道らしかった。その後の調査で、この道は広野町指定史跡である高倉城に至る歩道と判明した。

隧道は、この鞍部の直下20mほどの位置を潜っていると思う。



GPSを頼りに隧道の進行方向を推測して、その進路を地上でなぞるように意識しながら、尾根の北側へ向かった。
ここでまた道を外れて進んだが、植林地内はどこでも歩けた。

下りはじめて間もなく、等高線をなぞるような顕然たる平場と遭遇した。
軌道跡を捜索している身としては無視しがたい平場だが、どう考えても尾根との比高が少なすぎる。
それに、水の流れているU字溝が通っており、試しに少し辿ってみたが、灌漑用水路と結論づけた。




水路がある平場から見下ろす、浅見川が流れる低地。
下まで杉林になっているようだが、下に道はなく、氾濫原が広がっている。

南口が河床よりだいぶ高いところにあった以上、斜面の中腹に北口もあるはずで、地中でよほど変なカーブを描いていない限りは、いま見えている“ヘ”の字型に凹んだ辺り以外、考えにくい。

しかし、なんか、ありそうな感じがしない地形だなぁ……。




14:25〜35 《現在地》

残念ながら、北口は現存していないようだ。

それが、10分ほどかけて周囲の斜面を這い回って捜索した、私の汗が導き出した答えだ。
そのうえ、北口跡と断定できるような坑口跡の特徴的な地形も発見されなかった。
この写真の場所が、擬定地の中心にあたる斜面だが、特に痕跡らしいものはなかった。

探す場所が悪かったとは、思っていない。
あくまでも私の感想だが……、こちら側に隧道は抜けていなかった、未貫通だったような気がする。

普通は、山腹に坑口だけがポツンとあることはなく、そこに通じる路盤がある。それを見つけることが隧道発見の近道ともなるが、そうした道が見つからなかったのは不可解だ。
大正時代からこれまでの間に、大々的に地形が弄られたとも思えない場所であり、大規模な崩落地でもないだろうから、私の結論は……、未貫通の未成隧道ということになる。

これ以上、隧道の探索を行えないのは残念であるが、大正時代の未成鉱山軌道の未成隧道なんて泡沫物件の僅かな痕跡を見つけ出したというのは、私好みのロマンがあった。

撤収だ。





《現在地》

隧道は発見した。
だが、これだけではちょっと消化不良だ。皆さんもそうだろう。
だから、外濠を埋めるような報告を追加する。

(←)ちょっと探索の時系列を飛ばすが、これも同日に撮影した写真で、国道6号が浅見川を渡る橋(右図の「現在地」)である。

軌道は、橋の向こうにある広野町中心市街地の広野駅付近を出て、隧道へ入る前に、この浅見川を渡った。
何か橋の痕跡が見つかればと思ってきたが、結論を先に述べると、何も残っていない。

それもそのはずで、『常磐地方の鉱山鉄道』に掲載されている昭和8年の地形図を見ると、浅野川の流路が現在とは大きく変化しており、かつての橋の跡が現河道の周囲にあるはずがなかったし、そもそも橋が建設されていたかも不明だ。



この浅見川橋から上流方向を眺めると、高倉城跡がある高倉山から伸びる尾根がよく見え、その中に隧道が埋れている鞍部も見える。
鞍部の周囲は黒々とした杉林であり、隧道の北口擬定地附近も杉林でしかないが、かつて軌道の工事が進められていたなら、この風景の中を通るはずだったろう。
一応、近しい位置に道もあるが、軌道跡と特定できるようなものではなかったし、北口擬定地まで通じているわけでもなかった。

以上、隧道北口擬定地一帯の遠景報告だった。





14:38 《現在地》

北口擬定地の周囲に路盤らしいものがないことをレポートしたが、時系列的には私は先に南口へ戻ってきて、ここを出た路盤がどこへ向かっているかを調べていた。

黄線で示した掘割は、まっすぐ隧道へ通じていたので、間違いなく軌道の跡なのだろう。
だが、ここを出た隧道がどこへ向かっているのかは、いきなりの疑問符である。

私は左の坂道を上ってきたのだが、これは明らかに軌道跡ではない勾配だ。
軌道らしい勾配を保とうとしたら、直進して折木川の広い谷に対岸までのとても長い橋を架けるか、右へ曲がってトラバースしながら緩やかに川底へ下って行くかのどちらかだと思う。
そして、普通に考えたら、弱小鉱山軌道にとって、前者はコスト的に厳しそう。


度々参考にしている『常磐地方の鉱山鉄道』の地図だと、隧道を出た軌道はすぐに折木川を渡り、少し蛇行しながら広野炭礦があった広野川の谷へ入るように描かれている。

ようするに、これだと直進が正解ということになるのだが…

…まっすぐ進んだ先の折木川は、折木川と広野川の合流地点であるために、写真のように低地の幅がとても広い。

この場所に、隧道がある高所から緩やかに下る橋を架けて、そのまま折木川を渡るのは、壮大だが、イメージがちょっとできない。もちろん、そうしたものの痕跡も全くない。
建設前に工事中止になったと言われればそれまでだが、一般的な鉄道の線形として、このルートは不自然な気がする。



そうなると、消去法的に、このルートだけになる。

まあ、あくまでも私の現地での見立てでしかないのだが……。

……で、このルート上なら何か遺構らしいものが見つかったかというと……




下を通る県道から見てみると、私が想定したいトラバースルートがありそうな場所は、森に覆われていて見えない。
また、途中に民家の巨大な土留め擁壁が斜面を覆っている場所があって、通して歩行することは物理的に出来なさそうだ。

手掛かりがない状態なので、無闇に突入して訳が分からなくなるよりは、こうして遠望で何か手掛かりを得られればと思ったのだが、そう簡単にはいかないか……。
とても古いうえに、未成の可能性大なだけに、遺構探しは手強いな。
隧道がすんなり見つかったのは、やっぱり幸運だったらしい。

そんな総括的な諦めのコメントが、現地の私の脳内に生まれていたが、この位置から視線を左へ移していくと……




14:40 《現在地》

なんだか築堤のように見えるものが……。


単に、杉林の伐採や刈り払いのために、この線が見えていいるだけなのかとも思ったんだが、

矢印の辺りをよく見ると……



本格的に、築堤とその突端っぽく見えるよな…。

なんか、急に鉄道っぽい景色が出て来て、面食らってる。

それでも半信半疑なんだが、気になるぞこれは。


ただ、どう見ても民家の裏山というか、庭先っぽいところなんだよな。

どうやれば近づけるだろうか考えながら、沿道にある民家にジロジロ目を向けながら

(実際はその裏手の山を見ていたのだが)走って行くと……






え?

突然パトカーが私の前に止まって、お巡りさんが降りてきたよ。
え?え?え?!  何もやってないよな、今日は。



ざんねん!わたしのぼうけんは ここでおわってしまった?!






はい。

職務質問を受けました。

もちろん、善良な市民である私は快く協力したのであるが、ローソン店長時代に身につけたとびきりのニコニコ笑顔とハキハキボイスでの応対は、どんより曇った田舎の午後にはいささかカラ回っていて、警官の目にはさほど善良には見えなかったかも知れない。
観光地でもなんでもないところで、首から大きな一眼レフカメラを下げてキョロキョロ脇見をしながら自転車を漕いでいるのは異様であるらしく、私はこれまで何度も路上での職務質問を受けてきた。
その都度、地域の古いものを記録する興味があって走り回っているなどと説明したうえで素性を明かすと放免される繰り返しである。

今回、なぜ職務質問を受けたのかも考えてみた。
通報があったのかとも考えたが、その割には簡単な職務質問だったし、終わった後にパトカーは引き返さず、そのまま走り去って戻ってこなかったので、パトロール中にたまたま私の姿を見て、そこで怪しみを覚えて声をかけたということだと思われた。
ちなみに、福島県の浜通り地方では、原発事故以降は空き巣対策などもあってか警戒態勢が高いらしく、よく職質を受ける印象がある。以前は駐車場で車中泊をしていて声をかけられたこともあった。

パトカーは立ち去ったが、今日これからこの場所でしつこくうろつくのは、あまり得ではないと感じたし、正直水を差された気分もあったので、今追いかけている築堤らしきものを確認したら、今日のところは撤退しようと決めた。
張り付けた笑顔を解除して、行動再開。


(全くの私事だが、この先、執筆作業時間にして約2時間分書き進めたところで、ブルスクでOSが落ちて作業を全てロストしましたので、書き直しです……。普段はこまめに保存する癖があるのに、なぜ昨日に限って保存してなかったんだ……orz)




14:51 《現在地》

さて、上ってみたぞ。
遠目に見た時には、めっちゃ築堤っぽく【見えた】場所へ。

ここからズラーッと、山際に明瞭な平場が伸びているような状況を期待したのだが……、間近にこうして見てみると、いまひとつピンとこなかった。
少なくとも、下から見た時に鮮明に【見えた】ラインは、伐採や刈り払いによって作られたものだというのが正しいようだった。

期待したほど路盤らしいとは、思えなかった。




同じ地点から逆方向を見ると、こちらは明瞭に人の手で平にされた土地だと分かる状況で、築堤の突端だといいたくなるが、やはり自信は持てず。

現在この場所は畑として使われていて、確かに人手が入っているのだが、築堤の突端のような細長い形はしていない。下から見た時の印象とは違う。
また、ここは2階建ての屋根よりも高いので、小規模な鉱山軌道が、この高さから長い橋を架けて対岸へ渡るのは、不自然な感じを受ける。
ちなみに、軌道が目指していたとされる炭礦は、向こうの山の裏側を流れる広野川の少し上流にある。だから、どこかで眼下にある折木川を渡る必要があった。

色めき立った発見も、実際に近づいて見るとたちまち色褪せてしまって、成果を結ぶには至らなかった。

そして、この時点で今回の探索の終了を決断した。
これ以上闇雲に探し回っても、成果を得られる見込みは低いだろう。聞き取り調査を行う気力も、この時はなかった。
そもそも、今回の探索は隧道の捜索が目的で、鉱山軌道の全線を捜索する予定はなかった。もし簡単に辿れるようならばとは思っていたが、状況は想像よりも遙かに難解だった。

探索終了!





今回の探索では、隧道の北側坑口と、そこから目視可能な水没閉塞した短い洞内の他は、この坑口に通じるわずかな掘割が発見されただけで、それ以外の路盤はまったく判然としなかった。
時間の経過によって自然に遺構が失われたにしては、痕跡が少な過ぎる感じがする。
これは、先に隧道工事を始めたものの、それ以外の工事はあまり進捗しないうちに中止された、未成線を窺わせる状況に思えた。

発見された成果だけでいえば、没ネタに終わっても仕方がない探索だったと思う。
だが個人的に、まだほとんど知られていない鉱山軌道の廃隧道が、民家の庭先にひっそり眠っていた状況には心惹かれるものがあり、このままレポートしなければ誰にも気付かれなさそうなので、明るみに出したかった。あと、このレポートをきっかけに、さらなる解明が進むことへの期待も、執筆の動機であった。もちろん、私自身も機会を見て再訪して、聞き取り調査などを行ってみたいと思っている。

ここからは机上調査編である。
とはいえ、自分で新たに調べたことは多くない。『常磐地方の鉱山鉄道』にあった記述がベースになっている。
これから同書の記述を数パートに分けて引用しながら、私なりの解説や追記を試みたい。


 『常磐地方の鉱山鉄道』より

東日本炭礦(株)広野礦は当初、寶(たから)炭礦の名義で特許取得したものと推定。
大正7(1918)年における全国の炭鉱の実態を記録した『黄金時代之各炭礦―日本炭礦行脚』によると、「東日本炭礦では目下この松林の中を坑所までの間に運炭のトロを敷設することに努め既に新しいレールを労働者が盆休みにも拘わらず一生懸命に運んでいる」と記載されており、大正8年の三友炭礦(株)の軌道敷設の特許出願の図面にも既開通線として表記されている。しかし、『仙台鉱務署管内鉱区一覧』には出炭は未記載。


いきなり、この路線の最大の謎である開業の有無について、錯綜した複数の情報が提示されている。

大正7年の『黄金時代之各炭礦―日本炭礦行脚』という資料によると、運炭のためのトロッコを敷設する工事が行われていて、レールを敷設する段階にまで達しているらしい。これが事実ならば、路盤は概成していなければならないはずだが。
さらに、大正8年の近隣の炭鉱会社の資料には、既に開通した路線として、この路線が描かれているという。
だが一方、監督官庁側の資料に出炭の記録がないというのは不可解で、軌道を完成させたのに出炭しなかったということが、あり得るだろうか。


『黄金時代之各炭礦―日本炭礦行脚』より

錯綜した情報の中にある真実を知りたい。
参照された古文献のうち、『黄金時代之各炭礦―日本炭礦行脚』は、国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能なので、自分でも確認してみた。

右図は、同書に掲載されていた「常磐炭田略図」で、国鉄常磐線の各駅から河川のように枝分かれしながら伸びる無数の鉱山軌道が描かれている。
チェンジ後の画像は、広野駅周辺及び凡例部分の拡大である。

広野駅からは3本の鉱山軌道が出ている。
凡例に拠れば、右側(北側)の路線は「軽便線」で、他の2本は「軽便豫(予)定線」とあるから、未開業線である。
文字が潰れていて分かりづらいが、「東日本廣野」と書かれた鉱山マークへと伸びているのが今回探索した路線で、未開業線である。
なお、この図だと3本のうち真ん中の路線のように見えるが、実際は矢印を付した左側(南側)の路線が正しいと思う。

『黄金時代之各炭礦』の本文も確認してみたところ、『常磐地方の鉱山鉄道』が引用している前後の文章の内容が判明し、軌道の予定線の周りの風景や位置について、いくらか参考になる情報が得られた。以下に引用する。

 『黄金時代之各炭礦―日本炭礦行脚』より

東日本炭礦の廣野坑は常磐線廣野驛で下車する。仙台街道を折木温泉街道に折れて十ニ三町もあろう。東日本炭礦では目下この松林の中を坑所までの間に運炭のトロを敷設することに努め既に新しいレールを労働者が盆休みにも拘わらず一生懸命に運んでいる。坑所は峰と峰との間の澤にある。(以下略)

この先には、今回は訪れていない鉱山周辺の状況が記載されているが、運炭軌道についての記載はこれで全部だった。
下線部の冒頭にある、「仙台街道を折木温泉街道に折れて」の地点とは、偶然だが、今回私が探索をスタートさせた旧県道入口(折木交差点)であった。そこから鉱山まで12〜13町(=1.3〜1.4km)の距離があったと書かれている。そして、当時この折木地区には松林が広がっていて、その松林の中でトロのレールを運ぶ労働者を見たというのである。

残念ながらどこにも隧道の話は出てこない。また、軌道がどのようなルートで敷設されようとしていたかについても、ここから窺い知ることは難しい。
『常磐地方の鉱山鉄道』の記述の続きを追いかけてみよう。


 『常磐地方の鉱山鉄道』より

広野町役場所蔵の資料によると、東日本炭礦(株)は折木字大平地内と同高倉地内の折木川と郡道を横断する際、当初の桟橋とするのを盛土に変更する計画を立てたが、沿岸域の住民は下流域で洪水が憂慮されることから、大正7(1918)年9月25日付、当初の桟橋の計画に戻して欲しい旨を陳情書として提出。

これは折木川を横断する方法に関して、地元と鉱山会社の間に意見の相違があったことを伝える記述で、この陳情がどのような解決に至ったかは記述がなく不明である。
また、大平と高倉という字(あざ)レベルの細かな地名が出ているので、その位置を把握するため、ゼンリンの地図を調べてみると、その境は右図に示した桃色のラインであるようだ。
このことから、折木川の横断地点をある程度絞り込めると考えられる。

また、同書は陳情書の内容も掲載されており、工法の変更を強く申し入れつつも、「村内ニ事業ノ勃興スルハ大ニ歓迎シ」とあって、鉱山会社の進出自体は大いに歓迎していたことが分かる。
加えて、陳情書の内容から、会社が折木川の横断のために建設しようとしていた築堤の規模も判明した。
それは、「長さ45間(約80m)余高さ45尺(約14m)」というものだった。

意外と河床からの高さがあることに驚かされた。
この高さはおそらく、私が見た隧道南口の高さのままで折木川を渡ろうとしていたのだと思う。

一方で、長さ80mでは、【隧道の正面附近】から真っ直ぐ対岸へ渡るには足りなさそうだ。私が最後に探索したような感じに、上流側へ迂回していた可能性もあるし、反対に下流へ迂回していたかも知れない。私が【見たもの】が、軌道の跡だった可能性も残ってはいる。

いずれにせよ、これほどの大築堤が建設され、今日それがまったく痕跡を失っているとしたら、それはいささか不自然である。
住民の陳情を容れて設計を桟橋に戻して渡河したのか、桟橋も築堤も建設されず終焉を迎えたか、どちらかだと思う。

こうした記述に続いて、最後に地元民の証言が次のように紹介されている。


 『常磐地方の鉱山鉄道』より

地元民の記憶によると、折木字大平地内と同高倉地内に隧道を掘って開通をめざしたものの、石炭を運搬しないままに放棄されたとのこと。

たったこれだけの記述だが、未成線に終わったという唯一の直接的記述である。
おそらく著者のおやけ氏も、この証言を重視し(あるいは現地に遺構が少ないことも考慮して?)、本路線を未開業線と表記するに至ったのだと思う。
これ以外にはっきり未成線だとした資料は見つかっていない。

なお、上記の記述は隧道が太平地内と高倉地内に1本ずつ、合計2本あったようにもとれるが、高倉地内にはこれといって隧道を要しそうな地形がないうえ、実は私自身も(レポートの外で)軽く捜索してみたが、まったく手応えがなかったので、隧道は1本だけだったと思っている。


『常磐地方の鉱山鉄道』の記述は以上であるが、最後にこの軌道敷設の主役であった東日本炭礦(株)という炭鉱企業について、検索して分かったことを少しまとめておく。
おそらく、大勢がこの社名から抱く印象とはまったくかけ離れた実態の企業だったことが、今日残る断片的な情報から伺えた。


『滋賀大学経済学部研究年報Vol.12』所収の小川功氏の論文「大正期の泡沫会社発起とリスク管理」(pdf)に、この会社の概要がまとめられているのを見つけた。
曰く、同社は大正7(1918)年9月に東京都京橋区を本社所在地として資本金200万円をもって起業されていた。
当初主力の広野鉱区(96万坪余)は福島県広野に所在し、木戸鉱区(40万坪)は福島県木戸に所在したという。
同社の起業目論見書によると、第1期は露天掘りを行い58万円余りの収入を計上して年30%配当を、第2期には坑道掘りを行って年50%配当を謳っていたが、これは虚構であった。起業わずか3ヶ月目の7年11月には、「新会社として空前の好成績を示し(日本鉱業新聞)」たとして株主に第1回目の配当を実施したが、これは蛸配当(粉飾決済による配当)で、株価をつり上げる陽動であったというのだ。

最初からこのような有様では盛業となるべくもなく、大正10年には「炭質粗悪なると貯炭多大に上るため採算不能に陥(日本鉱業新聞)」り、赤井村所在の同社所有三星炭礦は休山同然となったという。
大正15年に資本金を130万円に減資したことが、この文献における同社に関する最後の記述だった。


「磐城新聞」昭和2(1927)年7月3日号より

いわき市立図書館が公開している郷土資料のページで、地元紙のバックナンバーを調べたところ、その後の昭和時代における同社の記録も、いくつか見つけることが出来た。

右の画像は、「磐城新聞」の昭和2(1927)年7月3日号に掲載されていた記事であるが、鉱区税を滞納したために試掘権を取り消され、坑口も封鎖されたというから、鉱山会社としてはまったく末期的様相に見える。

なお、この時封鎖されたのは赤井村(現在のいわき市内)の鉱区とのことで、広野鉱区がどうなっていたのかは、まったく分からない。



「常磐毎日新聞」昭和9(1934)年10月16日号より

そして、昭和9(1934)年の「常磐毎日新聞」に久々に登場したと思えば、またも悲しい見出しが踊っていた。
記事曰く、同社経営者が夜逃げに至り、従業員24名に対する給料不払いが発生したという内容で、直前に経営権が譲渡されたことなども出ているが、普通に考えればこの直後に倒産しただろう。
しかもまた本拠とする鉱区が変わっているようで、今度は内郷村(現在のいわき市内だが、赤井村とは別)になっている。

当初の本拠だった広野鉱区はどうなってしまったのよ! と私は問いたい。

どうにか広野鉱区の実績を探り当てるべく、さらに調査を続けたところ、神戸大学経済経営研究所新聞記事文庫で公開されている、大正7(1918)年10月〜12月の「中外商業新報」の記事「下半期諸会社配当予測」に、関係する記述があった。

曰く、「東日本炭鉱会社は福島県広野鉱区に於て現在一日五六万斤の採炭量あり(中略)第一期より相当の収益を挙げ得べければ幾分の配当を決行すべき予定なり」と、会社は収益の見通しを述べているものの、直後に、「同社は未だ今期より利得税を徴収さるる程度には至らざるべしと当局者はいえり」とあって、法人所得税を徴収するほどの利益は出ていないと当局者である税務署が暴露している点で、この産炭や収益も極めて疑わしく思える。

とあって、一見すると開鉱直後の広野鉱区で1日56万斤(約336トン)の採炭が行われているように見えるが(そして実際この発表に合わせて配当を行ったのだが)、末尾の「当事者はいえり」が、全て怪しくしてしまっている。

結局のところ、おそらく運炭のための軌道さえ開通しなかった広野鉱区では、事業と呼べるほどの産炭は行われなかった可能性が高いと思う。


鉱山は、一山当ててなんぼという水物の世界だから、失敗事例は珍しくない。
しかも、失敗の事由にまで目を向ければ、まさに人間の魔性が蠢く世界である。
必死に探しても思うように鉱石が採れないから失敗というのなら憎めないが、鉱山をダシに使った詐欺的商売が横行していた。
東日本炭礦という気宇壮大な社名も、誇大妄想ならば可愛いが、おそらくその壮大さが商売の重要な道具であり、それ故事業不調でもすぐに消えず、名前だけが多くの商売人の手を渡り歩いたと思われる。

そして、こんな生き馬の目を抜く鉱山の“狂想”によって最も哀れな犠牲を払わされたのは、いつだって鉱山がある地域の住人や、弱い労働者たちであった。
文献に出て来た、松林でレールを運んでいた労務者たちは、どこかで報われただろうか。
地域の発展を案じて軌道工事の工法変更を陳情書した住人達は、どうだったか。
私が見た隧道も、誰かが掘ったのだ。もはや名前も知れない誰かが、一生懸命に。

未成道や未成線は、いつだって虚しさを孕んでいるが、その根底が虚構や欺きだとしたら、これほど不幸なことはない。



完結。


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