ミニレポ第258回 机上レポート 〜槍ヶ岳を目指した県道たち〜

公開日 2021.10.09

アルピニスト憧れの頂へと誘う、古き県道たち

<1> 旧道路法時代の県道チャレンジャーたち


今回はミニレポ212回以来久々に現地探索を伴わない机上調査だけのレポートである。



『長野縣明細地図』より抜粋

先日更新したミニレポ257回を執筆するための机上調査で、昭和20(1945)年に改訂出版された『長野県明細地図』という、旧道路法時代の長野県道の位置を記録した地図を見る機会があった。

その地図(右図)の中には“梓槍ヶ岳線”という県道が描かれており、本邦の登山愛好者なら名前を必ず聞いたことがあると思われる槍ヶ岳が、同じ県内とはいえ、ずいぶんと離れた場所にある県道の路線名として登場していることに興味を引かれた。

チェンジ後の画像は、『長野縣明細地図』に描かれた県道梓槍ヶ岳線の全体を示したものである。
この県道の起点は南安曇郡梓村(現在の松本市梓川梓)で、終点は槍ヶ岳山頂。
すなわち、日本第5位の標高を有する槍ヶ岳山頂――海抜3180mの地点まで達していた可能性が高いのである。

ただし、この梓槍ヶ岳線の単独区間は、起点から約6.5km地点の安曇村大野田(現在の松本市安曇大野田)までしかない。その先は終点まで延々と他の(もっと路線番号が上位の)県道との重用区間であった。
地図上に破線で示したのは重用区間である。この重用部分の正確な距離は不明だが、ざっと見繕っても55kmくらいはありそうだ。

そして重要な事実として、槍ヶ岳へ登ったことがある方ならば当然ご存知であろうし、登ったことがない私でも知っているのだが、この北アルプスの峻峰の頂まで行くような車道があるはずもなく、この径路だと上高地までが令和の現在でも車で近づける限界だ。そこから先のおおよそ28kmは、いわゆる“登山道県道”ということになる。
私は、この海抜3000mを抜く高峰……、しかも観光地というにはいささかシビアな峻険に挑む“登山道県道”にとても興味を引かれたので、登る予定もないのに、槍ヶ岳の県道について調べてみた。その成果が本稿だ。

なお、“登山道県道”としての国内最高地点がこの県道でないことは、残念ながら明らかだ。
なぜなら、日本一の高峰である富士山の登山道のうち4本が山梨県や静岡県が管理する県道になっており、中でも山梨県道701号富士上吉田線は海抜3715mまで達している。槍ヶ岳の県道は、高さでは敵わない。



さて、旧道路法時代に存在した県道梓槍ヶ岳線の大部分は重用区間だということを書いたが、言い換えると、槍ヶ岳山頂を目指す県道は、1本だけではなかったということになる。
ここで、次の図を見て欲しい……。



『長野縣明細地図』より抜粋

これは、『長野縣明細地図』の槍ヶ岳山頂付近の抜粋である。

どこにも「槍ヶ岳」という注記がないので分かりづらいが、槍ヶ岳は県境にほど近い(この縮尺だと県境上)位置にあり、チェンジ後の画像に注記を書き加えた。

この地図が描いている道路は、もともと国道と県道だけであり、この抜粋した範囲内に国道はない。しかし、県道は5本も描かれている。
5本の県道には、小さな文字で路線名が注記されており、それもチェンジ後の画像で分かり易く表示した。

この等高線のない地図を見ていると、普通に集落が点在する里山のような県道の高密度ぶりだが、実はこれらの5本の県道が巡っている場所は全て、海抜2000mを越える北アルプスの中枢域である。

このエリアで登山をしたことがある方なら、注記にある「上高地」や「中房」という数少ない地名から、ここが車道の考えがたい領域であることを理解するであろうし、こんなところにかくも多くの県道が張り巡らされていたという事実に、非常な興味を引かれるのではないだろうか。

ちなみに、私を含めた、槍ヶ岳なんて行ったことがないよという方向けに、現地の画像を用意した。
『山渓カラー名鑑 日本の山』に掲載されていた槍ヶ岳の写真をご覧いただこう。

↓↓↓




これが“槍”である。

そして、『長野縣明細地図』を見る限り、チェンジ後の画像の赤線の位置(=東鎌尾根)に、

山頂へ達する県道が認定されていたようだ。そこには現在も登山道が存在してはいるが、

素人が立ち入れる場所じゃないことは、画像から十分に察せられるであろう……。



話が飛んだが、昭和20(1945)年の『長野縣明細地図』には、槍ヶ岳を終点とする県道が5路線も描かれている。

次の地図は、それら5本の県道の全容をまとめたものである。

なお、この地図の作成および、この先の机上調査には、長野県の歴代県道の変遷をまとめておられる「じゃごたろーど」(管理人:じゃごたろ氏)を大いに参考にさせていただいた。



地図中の凡例もご確認いただきたいが、地図の青線部分は、現在車道が存在する区間(昭和20年当時に車道があったかは問わない)赤線は現在(そしておそらく当時も)車道がなかった区間(=登山道県道)破線は重用区間を示している。

槍ヶ岳山頂を目指す県道が5本あり、全てが東鎌尾根から山頂へ達していたようなので、東鎌尾根〜山頂付近は、現在はおそらく存在しない5本の県道の重用区間となっていた(はずだ)。

5本の路線のうち2本は早々に1本となって上高地へ至り、そこから登山道となっていた。
他の3本の路線はそれぞれ異なる登山口を目指して進み、登山道をしばらく登ってから辿り着く稜線上で、上高地からの路線と合流していた。

こうして見ると、梓槍ヶ岳線の登山道県道としての有名無実ぶりが際立っている。なんで“梓大野田線”とか“梓安曇線”にならないで梓槍ヶ岳線となったのか、ふしぎだ。

これら5本の重用競争に勝って(=路線番号が一番若かったと思われるが実際の番号は不明)、1番乗りで山頂に達した名誉ある路線の名前は、県道明科槍ヶ岳線という。
まずはこの路線のプロフィールを書き出しておこう。

日付出来事
大正11(1922)年1月6日東穂高槍ヶ岳線 認定
大正13(1924)年6月13日明科槍ヶ岳線 変更
昭和34(1959)年9月25日明科槍ヶ岳線 廃止

現在も槍ヶ岳への登山基地としてよく利用されている中房温泉を登山口とする経路であり、この県道の登山道区間は、全線とも登山道として現在も利用されている。認定の古さから見て古くから槍登山のメインルートだったのだろう。

なおこのルートの大天井岳(おてんしょうだけ)から水俣乗越、東鎌尾根を通過して槍ヶ岳に至る稜線登山道には、現在も登山者によく知られた「喜作新道」という名前がある。
喜作新道は大正9(1920)年頃に小林喜作が3年がかりで開削した登山道で、これが切り拓かれるまで中房方向から槍を目指す登山者は、大天井岳から一ノ俣へ一度降りてから槍沢を登っていたらしく、日数も余計に掛っていたらしい。大正11年に認定された県道は、出来たてほやほやの新登山道を通行していたようだ。

さて、上記の路線と同時に認定されて槍ヶ岳を目指した県道がもう1本ある。
それは、松本槍ヶ岳線だ。

日付出来事
大正11(1922)年1月6日松本槍ヶ岳線 認定
昭和34(1959)年9月25日松本槍ヶ岳線 廃止

松本槍ヶ岳線という路線名だが、起点から上高地の入口にあたる中ノ湯までは延々と重用区間であった(松本〜奈川渡は松本高山線、奈川渡〜中ノ湯は松本船津線と重用)。単独区間が始まると、“釜トン”をくぐって登山口の上高地へ立つ。そこからは梓川の源流を目指してひたすら進むが、一ノ俣から唐突に北上して東天井岳へ登るルートを採る。この区間に現在登山道はないようだが(1998年版『ヤマケイ登山地図帳1 上高地・槍・穂高』を参考にした)、大正元(1912)年の地形図には徒歩道が描かれており、古いルートであろう。現在の登山道は一ノ俣から槍沢を通って山頂へ素直に進んでいるが、なぜか県道は非常な遠回りをしていた。東天井岳からは常念山脈の縦走登山道となり、大天井岳で前出の明科槍ヶ岳線と合流し、以後は重用で槍山頂へ至る。

これら2本の県道が認定された翌年、早くも次なるチャレンジャーが登場する。しかもまた2本である。

日付出来事
大正12(1923)年4月1日豊科槍ヶ岳線 認定
昭和34(1959)年9月25日豊科槍ヶ岳線 廃止
日付出来事
大正12(1923)年4月1日梓槍ヶ岳線 認定
昭和34(1959)年9月25日梓槍ヶ岳線 廃止

豊科槍ヶ岳線は、大糸線の豊科駅付近から西進して烏川の源流にある常念岳登山口を目指した。これも現在の槍登山者にしばしば利用されているルートである。登山口から一気に常念岳へ登り詰め、常念縦走路を少し北上すると東天井岳で松本槍ヶ岳線と出会い、以後重用して槍山頂へ。
なお、豊科槍ヶ岳線には『長野縣明細地図』ではない別の地図に記載された、蝶ヶ岳回りのルートが存在しているが、これについては後述する。

もう1本が、今回の調査の呼び水を提供した梓槍ヶ岳線だが、この経路はどう見ても槍ヶ岳への登山道整備や集客を目的とした県道認定とは思えない。梓と大野田を結ぶ県道を認定するための“方便”だったのだろうか?

これで4路線までが登場した。いずれも旧道路法が誕生して数年のうちに認定されており古株といえる。
最後の5本目の槍ヶ岳チャレンジャー県道だけはいくらか遅れて、昭和10(1935)年に認定されている。
それが、大町槍ヶ岳線である。

日付出来事
昭和10(1935)年11月14日大町槍ヶ岳線 認定
昭和34(1959)年9月25日大町槍ヶ岳線 廃止

大町槍ヶ岳線は、北安曇郡大町(現在の大町市)から高瀬川をひたすら遡って、その源頭にあり槍の山頂にほど近い水俣乗越へ突き上げる最もシンプルな経路だ。
しかし、現在このルートで槍ヶ岳を目指すことは、よほどの熟練者でも困難ではないかと思われる。登山地図帳には、湯俣温泉以南のルートは「荒廃」という注記と共にオミットされている。かつては整備された登山道があったのだろうか。水俣乗越からは他の4県道と重用して、槍山頂へ至る。

以上紹介したとおり、おおむね現在も通用する登山道を利用した“登山道県道”たちであったが、松本槍ヶ岳線の一ノ俣〜東天井岳や、大町槍ヶ岳線の湯俣温泉〜水俣乗越などは、現在歩かれていないようだ。



『長野県総合開発計画図』より抜粋

なお、当時の市販品である『長野県明細地図』の記述に全ての論拠を委ねるのは危険であろう。
しかし、より県道の記述に関して正確性が期待できる地図でも、ほぼ同じように槍山頂を目指す県道たちが描かれていることが確認できた。

右図は、昭和25(1950)年に長野県が改訂した『長野県総合開発計画図』(飛騨市民氏提供)であるが、下地になっている地図は、昭和13(1938)年7月改訂版の長野県土木部作成全県地図(以下、『土木部地図』とする)である。ここに描かれた道路網の位置は、小縮尺の範囲内においては十分正確性に期待できるはずである。

そしてこの地図においても、やはり5本の県道が槍山頂に達している。
ただし、豊科槍ヶ岳線のルートだけは異なっていて、烏川渓谷を常念岳登山口まで辿らずに途中で南進して鍋冠山の尾根に上り、そこから大滝山を経て蝶ヶ岳、常念岳(以後共通ルート)という、まさにスカイライン的な稜線ルートを描いている。
『明細地図』と『土木部地図』のどちらが正しいのか、或いはどちらも正しい可能性があるが、全体として槍ヶ岳を目指した県道が確かに存在し、しかも道路の区域が決定されていたことも間違いないと思う。

ここで少し法的な話になるが、旧道路法においても、道路が法的に有効になる手続きとして、現行の道路法と同じく、1.路線の認定の公示→2.道路区域の決定と公示→3.供用開始の公示という3段階を踏む必要があった。
このうち、路線の認定のみでは、道路の位置が決定していないことになり、原理的に地図上に描くことができないことになる。

道路区域の決定まで進むとようやく地図上に描けるが、供用開始しているかはまた別の問題であり、『明細地図』も『土木部地図』も凡例を見る限り供用の有無の区別がない。したがって、これらの地図に描かれている県道は、仮に登山道としての実態があったとしても、県道として供用されていなかった部分を含んでいる可能性がある。
ここを厳密にするためには当時の公示をくまなく探す必要があり少々現実的ではないので、本稿では確定しがたいが、仮に供用がなくても、山頂まで県道が認定されていたことは確かである。


ところで、シンプルな疑問だが、なぜこんなにも槍ヶ岳を目指す県道が多かったのだろうか?
この疑問に対する最も素直な回答は、当時の登山ブームによって登山道への需要が高まったために、県が登山道の整備を進めるべく、主要な登山ルートを県道に認定したというものだ。

明治末から大正にかけて、日本アルプスへ登山する人たちが増え始め、大正期に大衆化した。1915年(大正4年)の上高地大正池の出現や、皇族の登山などが、人々を山へ誘った。
1921年(大正10年)の槇有恒のアイガー東山稜登攀をきっかけとして、大正末期にアルピニズムの時代に入った。「先鋭的な登攀」が実践され、「岩と雪の時代」「バリエーションの時代」と呼ばれた。大学や高校の山岳部が、より困難なルートの制覇を目指して山を登った。
1937年(昭和12年)に始まる日中戦争、1938年(昭和13年)に制定される国家総動員法などの時代情勢により、登山ブームは下火になる。

目指した山: 槍ヶ岳 (3180m)
大正11(1922)年1月6日東穂高槍ヶ岳線 認定
大正11(1922)年1月6日松本槍ヶ岳線 認定
大正12(1923)年4月1日豊科槍ヶ岳線 認定
大正12(1923)年4月1日梓槍ヶ岳線 認定
昭和10(1935)年11月14日大町槍ヶ岳線 認定
目指した山: 白馬岳 (2932m)
大正11(1922)年1月6日大町白馬岳線 認定
大正12(1923)年4月1日南小川白馬岳線 認定
目指した山: 浅間山 (2568m)
大正12(1923)年1月19日小諸浅間山線 認定
大正12(1923)年1月19日軽井沢浅間山線 認定
目指した山: 御嶽山 (3067m)
昭和4(1929)年8月5日御嶽福島線 認定
昭和4(1929)年8月5日三岳福島線 認定
目指した山: 乗鞍岳 (3026m)
昭和10(1935)年11月14日松本乗鞍岳線 認定

右表および図の通り、長野県には戦前期において12本もの「山頂を目指す県道」が存在しており、現在も著名な5つの山頂を目指していた。中でも槍ヶ岳が圧倒的な路線数である。
これらの路線の共通点は、麓が起点で山頂が終点であることで、まさしく登山をする“登山道県道”に相応しい認定内容を持っていたのである。
しかも、『明細地図』や『土木部地図』を見る限り、いずれの路線もきっちり山頂まで路線が描かれている。

変わり種というか、凄いなと思うのは、御嶽山の山頂を目指す2本の県道だ。
同じ日に認定された県道御嶽福島線と県道三岳福島線が存在し、読みはそれぞれ「おんたけふくしません」と「みたけふくしません」となる。
正しく読めればいいが、両方とも「みたけふくしません」と読み間違えると区別が付かないし、字面も似ている。後者は御嶽山麓の三岳村と木曽福島を結べば十分そうな路線名なのになぜか山頂まで行ってるし、この2本の県道は三岳村から御嶽山頂に至る登山道部分だけが別ルートで、木曽福島〜三岳村役場は同じ道だった。なりふり構わず2本の登山道を県道にした感が強い。

長野県は、登山道を県道として整備するために、県内の主要な登山道を県道に認定したのだろうか。
登山道整備が誰の手で行われてきたかというのは案外に難しいテーマであり、一般の道路のようにシンプルではない。
行政が依託した土木業者や近隣の山小屋スタッフ、あるいは地元山岳会などが業務として行う場合もあれば、全くのボランティアとして、山小屋スタッフや地元山岳会、または一登山者が行うことも考えられる。

これらの県道に認定されていた登山道が、県道として整備されていたという記録を私はまだ発見できていないが、これを見つけるのは容易ではないと思われる。
長野県がこれらの登山道を県道として整備していたかどうか。そもそも県道として供用開始されていたかについても、現時点では不明としなければならない。
謎多き、槍の県道たちなのである。


『南安曇郡誌』に県道認定の経緯が書かれていた! 2021/10/12追記

やうち。(@Yauchi)氏の情報提供により、大正12(1923)年に南安曇郡教育会が発行した『南安曇郡誌』に、槍ヶ岳に関する県道認定の経緯や経過が記述されていることが判明した。
同書は国会図書館デジタルコレクションで閲覧できるので、さっそく読んでみたところ、旧道路法制定から間もない大正10(1921)年に、槍ヶ岳と関係する以下の2本の県道が、長野県によって認定されていたことが判明した。

路線名起点終点延長平均幅員橋梁数
松本日本アルプス線安曇村細池大天井岳山頂7里27町(約30km)6尺(1.8m)1
東穂高日本アルプス線青木花見槍ヶ岳山頂9里15町(約37km)6尺(1.8m)9

さて、2本とも微妙に初めて目にする路線名である。
槍ヶ岳は路線名に入っておらず、代わりに「日本アルプス」というカタカナ地名が目を引く。現在でも日本アルプスという表現は中部山岳地帯の別称として使われているが、おそらく大正時代には今以上に好かれていた名称なのだろう。なにせ、大正4年に開業した当初の信濃鉄道(現JR大糸線)安曇追分駅がアルプス追分駅を名乗っていたほどだ(登山口と間違って降りる人が多く大正8年に現在の駅名に改称)。

松本日本アルプス線(ほんと名前だけだと大正時代の県道を扱っている気がしない)は、同じく大正10年に認定された県道松本船津線を細池で分岐し、大正元(1912)年の地形図に描かれている梓川右岸中腹の崖道(“釜トン”開通以前からの道)を伝って上高地へ入り、そこから梓川沿いに大天井岳を目指していた。この路線は槍ヶ岳が終点ではなかった。

東穂高日本アルプス線は、現在の有明駅付近を起点に中房温泉を目指し、大天井岳から喜作新道を経て槍山頂を目指すルートであった。

『南安曇郡誌』は、これら「日本アルプス」を県道を認定した経緯を、次のように明言していた。

近来登山熱の勃興と共に登山客の便宜を計らんとして、県は次の三路線を県道に編入す。即ち東穂高日本アルプス線、松本日本アルプス線及び松本船津線之れなり。之れ等の開設は山岳交通の著しき発達を促すに至らん。所管は大町工区に属す。
『南安曇郡誌』より

はっきりと、登山ブーム勃興を背景に登山客の利便のために県道を認定したと述べられている。当時の登山ブームは、それほど強烈な影響力を長野県にもたらしていたのだろう。

ただし、県道認定直後に本書が発行されているせいもあるだろうが、いずれの路線も認定が行われただけで整備自体は未着手であることが路線一覧表に書かれており、その後に県道としての具体的整備が行われたかは分からない。

それに、大正10年に誕生した松本日本アルプス線と東穂高日本アルプス線は、極端な短命に終わったようだ。
この追記前の原稿で既に述べたとおり、この2路線は大正11年1月6日にそれぞれ松本槍ヶ岳線、東穂高槍ヶ岳線へ改訂され、路線名だけでなく、起点や終点および経路の一部が変化している。
栄えある「日本アルプス」を路線名に含む県道は、長くても1年間も存続し得なかったのである。



<2> 現代にも生き続けている、槍の県道の末裔

槍を目指した旧道路法時代の5本の県道だが、図ったように全部同じ日に廃止されている。
昭和34(1959)年9月25日。
日本国内で何か大きな出来事があった日付ではないが、旧道路法時代に認定されていた長野県道たちが一斉に廃止された日として記録される。

現行道路法が公布されてすぐに国道は一新されたが、長野県ではそれから7年ものあいだ、多くは大正時代生まれである旧道路法時代の県道の大半を固守していた。
だがこの日に従来の県道の大半である335路線を廃止して、新たに286路線を認定したのである。
長野県道生まれ変わりの日が、ここにあった。

槍を目指した5県道は1路線も生き残らなかった。
それどころか、白馬や浅間や御嶽や乗鞍を目指した県道も全て廃止された。
だがこの日、槍の麓の焼野原には、早くも3つの新芽が現れた。
新道路法に根ざした、新たな槍の県道たちだった。


日付出来事
昭和34(1959)年9月25日槍ヶ岳線 認定
昭和34(1959)年9月25日槍ヶ岳有明線 認定
昭和34(1959)年9月25日槍ヶ岳上高地線 認定
昭和34(1959)年11月9日槍ヶ岳有明線を
槍ヶ岳矢村線に変更

県道槍ヶ岳線は、大町槍ヶ岳線の後継である。
槍ヶ岳山頂が起点で、大町市の国道148号交差点を終点としている。現在の路線番号は326である。
なお、供用中区間は七倉温泉から終点までである。

県道槍ヶ岳矢村線は、県道明科槍ヶ岳線の後継である。
槍ヶ岳山頂が起点で、安曇野市穂高有明字矢村を終点としている。現在の路線番号は327である。
なお、供用中区間は中房温泉から終点までである。

県道槍ヶ岳上高地線は、県道松本槍ヶ岳線の後継である。
槍ヶ岳山頂が起点で、松本市安曇の上高地を終点としている。現在の路線番号は279である。
なお、供用中区間はなく、全線未供用である。

そしてこの槍ヶ岳山頂を起点とする3路線に加えてもう1本、次の県道が存在する。

日付出来事
昭和34(1959)年9月25日豊科大天井岳線 認定

県道豊科大天井岳線は、県道豊科槍ヶ岳線の後継である。
安曇野市豊科が起点で、大天井岳山頂を終点としている。現在の路線番号は495である。
供用中区間は起点から小野沢5号橋までと、東峠から展望台までの2区間で、これ以外の区間は未供用である。

これらの4本の県道が、“槍県道”の子孫といえる。
豊科大天井岳線は、槍への登頂を諦めたかのように、その前衛であり難所の東鎌尾根を目前とした大天井岳を終点としている。
他の3路線は、下山路にでもなったかのように、起点と終点が入れ替わった。
しかし、槍ヶ岳上高地線に至っては1mも供用区間がないので、実質的には存在しないのと一緒だし、槍ヶ岳線と槍ヶ岳矢村線も、車道である部分だけが供用されており、登山道部分は全て未供用である。
つまり、槍ヶ岳近辺に供用中の登山道県道は存在しない。(富士山の登山道県道は供用中であるので、この点で違いがある)。


ところで、現在では供用区間が存在せず、道路地図帳には現れない亡霊のようになってしまった県道279号槍ヶ岳上高地線だが、昭和34年の認定当初はそうではなかったらしい。
同路線のウィキペディアによると……

認定当初は、槍ヶ岳山頂から南安曇郡安曇村字上高地(現松本市)までの21.6kmが区域とされていたが、1982年(昭和57年)に道路の供用が廃止された。
ただしこれは、登山道としての道路が廃止されたわけではなく、現在の県道は自動車交通に供する道路整備に適当しないために供用が廃止されたというものであり、現在でもその登山道が県道としての位置づけであることには変わりない。
ウィキペディア「長野県道279号槍ヶ岳上高地線」 より

……とのことで、道路区域の決定だけでなく、供用も行われていたらしいのだ。
大正池の奥に、全長21.6kmの登山道県道があったのである!
が、昭和57(1982)年に供用が廃止されたらしい。
昭和57〜58年といえば、当時の国土庁、環境庁、林野庁、建設省の4者が、上高地における保全計画の基本的な考え方を協議して決定した年であるが、上高地以奥に一般車両の通行する道路は建設しないことを追確認されたのだろうか。登山道県道の供用を廃止した経緯は不明だが、現在の槍ヶ岳上高地線に供用区間がないことには、やはり事情があるようだ。
しかし、道路区域の決定だけは現在も生き続けているのだろう。


『走りやすさマップ全国版』より抜粋

武揚堂が平成20(2008)年に発売した『走りやすさマップ全国版』は、やや特殊な道路地図帳で、一般的な道路地図帳が描かない県道や国道などの未供用区間を表示している。小縮尺なので、正確性にはやや難があるが、全国の道路管理者が所有する管内図をベースに作成されたものらしく、道路マニア的にはお宝の1冊である。
右図は、同書の槍ヶ岳周辺の抜粋である。

さきほど、旧道路法や現行道路法が道路を管理する手続きとして、1.路線の認定の公示→2.道路区域の決定と公示→3.供用開始の公示の段階があると書いたが、この地図には3段階の違いが表現されている。
すなわち、着色されている部分は供用中、非着色の破線部分は未供用、全く何も書かれていない部分は道路区域さえ決定されていないということだ。

このような認識で本図を見ると、槍ヶ岳上高地線らしき部分に破線が描かれており、そのルートは、槍ヶ岳の山頂から槍沢を直ちに下り、梓川の左岸に沿って上高地の河童橋、県道24号上高地公園線の終点を目指すルートであったようだ。松本槍ヶ岳線は、一ノ俣から東天井岳へ登るルートだったが、変更されたようである。

一方で、県道326号槍ヶ岳線の起点付近は道路区域の決定が行われていないようで、同県道は七倉温泉以南にいかなる表記も持っていない。未供用区間がないのである。これが認定当初からであるかは不明だが、「全然槍ヶ岳と関係ないじゃん」という路線名へのツッコミは現状、甘んじて受けねばなるまい。

面白いのは、県道327号槍ヶ岳矢村線と、県道495号豊科大天井岳線である。
これらの路線には長大な未供用区間があるのだが、両県道の未供用区間が、大天井岳で出会っている。
路線名からすると、槍ヶ岳矢村線には槍ヶ岳と大天井岳を結ぶ区間もあるはずだが、ここは道路区域未決定であるようで、全く書かれていない。


1車線幅なのに2車線の三郷スカイライン開通済区間

この大天井岳をピークとする2本の未供用県道には、昭和40年代に長野県が検討したことがある「雷鳥スカイライン」という観光有料道路との関係性を感じるが証拠はない。

また、豊科大天井岳線は、同年代に三郷村と上高地の連絡を目指して建設が進められた「三郷スカイライン」の一部にもなっており、常念山脈上に認定されたこれらの県道には、単なる登山道県道ではなく、将来の観光スカイラインを実現したいという遠大な野望があったのではないかと私は考えている。(三郷スカイラインについては、拙書『廃道探索 山さ行がねが (じっぴコンパクト文庫) 』に詳解している)




『山渓カラー名鑑 日本の山』より、常念山脈燕岳より見る槍ヶ岳(奥)。


はじめ氏presents “県道だった登山道”のカラー写真集 2021/10/12追記

以前共に千頭林鉄奥地攻略を行ったはじめ氏が、2012年に槍ヶ岳へ喜作新道側から登った時の写真を送って下さった。
彼はこれまで何度も登っており、そういえば千頭へ行ったときにも北アルプスを縦走登山したときの話をしていたのを覚えているぞ。
写真提供、ありがとうございました!コメントは私が作成した。登山経験者の方から見て誤りがあれば、ご指摘下さい。


喜作新道上から進行方向の東鎌尾根を臨む。正面奥が槍ヶ岳、左は槍沢。県道はこの尾根を縦走していた。


東鎌尾根の途中にある水俣乗越付近。尾根上にはこのようなハシゴ場が続く。ここも、県道、だった。


槍ヶ岳山頂を目指す登山道。随所に登山者の姿も見える。県道が厳密にどこを通っていたかは分からないが、ともかく終点はこのてっぺん。


山頂直下から見上げる槍の象徴。供用こそされていないものの、この山頂は現在も県道槍ヶ岳上高地線の起点になっている。




いかがでしたか?

槍ヶ岳を目指した旧道路法時代の県道たちと、槍ヶ岳から下山しようとしているような現在の県道たちのふしぎな変遷を、感じでいただけただろうか。

現在、富士山の山頂を4本の県道が目指しているが、それを上回る5本の県道が山頂を目指していた戦前の槍ヶ岳に思いを馳せてみるのは、なかなか楽しい。

山に登らなくても、道路マニアは登山を楽しめるのである(笑)。


完結


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