ミニレポ第270回 岡山県道300号宇治下原線 羽山第一トンネル 後編

所在地 岡山県高梁市
探索日 2022.02.21
公開日 2022.12.20

「べんぞう」の奥は、羽山渓の上空に通じていた


2022/2/21 17:00 << 現在地はGPSの測位待ち >>

橋を渡って先へ進むべきか、率直に言って、躊躇している。
現役の県道トンネルの内部にある横穴の結末としては、想像を遙かに超えて愉快な美味しい展開に興奮はしているが、恐怖心は興奮に勝っていた。万が一にも、得体の知れない橋ごと谷へ落ちて命を失うのはゴメンだ。現実に、朽ちた吊橋から転落したなんて事故のニュースは、あまり聞いたことがないけれど…。

強がりや軽口を言って気を紛らわせることができない孤独な私が、夕暮れの岩壁に文字通り突き出されている。
鋭く尖った死の牙が、首筋に当てられているのを感じる。
いまは背にした黒口だけが私の知る世界であって、馴染みであって、残りの三方は美しい景色の姿を借りた死の恐怖そのものだった。

悩みつつ足を止めていた数瞬で、一つ物事が進展した。
洞穴から地上へ出たことでGPSが機能し、現在地が判明したのである。



現在地は、ここだった!(→)

私はここにいた!

これは面白い。県道トンネルの横穴が、わざわざ、岬のような岩壁の突端まで伸びていた。
普通こんな地形の場所に用事を持つ人はいないはずだが、ここから対岸へ渡る吊橋の先に、何かの目的地があるのだろう。

では、吊橋はどこへ通じているのだろうか。
地形図を見ると、渡った先には島木川の支流である小さな谷があるようだ。
そしてその谷には、ほんの少し遡ったところに滝の記号が描かれている。
これか! この滝が目的地か?!

仮に滝の記号がなくても、対岸の小谷は島木川に出合うところで40m分もの等高線が一瞬で下っており、滝の存在はほぼ自明である。
地形図にはこの河川名の注記はないし、滝にも名前の注記がない。
……実はこの滝にはちゃんと名前があり、行き方が別にあるのだが、特に事前情報等調べずに走っている私には分からないことだった。




しかし、現在地が判明するとともに、対岸に目的地らしきものの存在を捕捉したことで、少し勇気が湧いた。
無謀な渡橋は絶対にしないが、少しだけ踏み込んで橋の感触を確かめてみよう。

さくっ さくっ さくっ

ぎっ ぎっ ぎっ


ふむふむ……


どうやら、大丈夫そうだ。

雪で隠されていた踏み板の状態が、非常に薄いこともあって心配だったのだが、
まともな人道用吊橋としての性能を保持している感じがする。
ヤバイ踏み板特有のペコペコした感触や、ペキペキと亀裂が走るような音もしない。

ただ、やはりこの橋は右側にわずかに傾いている。少しだけ右の主索の緊張が緩いようだ。
とはいえ、手摺りのワイヤはまだ錆びていないし、隣の水路管ともども、現役の人道橋と判断したい。







めっちゃ高いんだもの…。

(←)上流側、
谷が深すぎてもう夜の暗さになってしまっているが、50mくらい下をさらさらと透き通った水が流れている。両岸とも、樹木があることがむしろ意外に思えるほど急な斜面だ。ほとんどの部分は崖だと思う。

(→)下流側も険しさは負けていない。
滝があるとみられる支流と出合う部分では少しだけ谷が広くなっているが、それでも両岸の険しさは凄まじく、特に真っ正面に見える右岸の崖は高さ30mはあろうかという石灰岩の垂直な大露頭だ。
とてもじゃないが、橋の周辺から谷底に近づくことはできそうにない。

次の画像は、今回のハイライトだ。




全天球画像の私は、まるで、空中の牢獄に囚われているみたい。

橋というのは、本質的には解放的な構造物だと思うが、この橋の印象は全く違っている。

これは空中にある“隧道”だ。一歩もそこを逸れることができないのでは、地中と何も変らないではないか。


それにしても、【あの地味な横穴】がこんな場所に出るとは、想像を絶している。

何かの必要に迫られて作ったのだろうが、トンネルの途中で分岐し、そのまま目印がない地中を進んで、
崖の中腹に突き出して、そこから対岸へ橋を架けてというのは、なんとも極まった冒険的ルートである。
これをよく上手く測量して繋げたものだと感心する。いつ作られた道なのか、ぜひ知りたいところ。
なお、この橋が初代かは分からないが、いまある吊橋はそんなに古いものではない気がする。




17:01 《現在地》

渡りきった!

(←)
橋の長さは25mあるかどうかだが、谷底からの高さはその倍ではきかない。そして、名前も竣工年も分からない。

(→)
右岸の道の始まりは、こんな風景。隧道ではなく道がある。しかし周りは崖であり、引続き一本道が極まっている。
それに、地下のために経年変化をあまり感じさせなかった横坑部分や、同じく空中にあって孤高に徹していた吊橋部分と異なり、今回初めての“地上区間”は、植物のせいで通行量の少なさが如実に出ている。これがどこへ通じているにしても、日常的に通行している人がいないのは間違いない。

また、こんな道だが、“舗装”はされている。
というのも、横坑と吊橋をともに歩んできた例の水路が、この先は道路の側溝サイズのコンクリート箱型水路になっていて、その密閉された蓋がそのまま幅40cmの通路になっている。
しかし、道としてみるには幅が狭すぎだなぁ…。



橋の袂より島木川の上流方向を撮影した。

凄い垂壁。

クライマーたちには知られているんだろうか。
この道がもし遊歩道だったら、それなりに売り出せそうな凄い景観だと思うが、
現状では完全に眠れる美観だ。まるで観光化されておらず死蔵状態である。
まるで、「べんぞう」の隠し財宝のような眺めだな……。


では、先へ進むか。時間が押しているしな。もう午後5時で暗くなってきた。



せっまい…。

道は直ちに島木川を離れ、例の滝があるらしき支流の上部へ取り付いたのだが、
完全に水路の蓋の幅だけしかない道だ。しっかりしたコンクリートの蓋なのはいいのだけど、
濡れた落葉が凍っていて、滑りそうで凄く怖い。

もし滑っても、手に掴めるようなものは何もなさそうな崖道であり、ちょっとシャレにならない…。





17:02

マジ狭い!

本当に、よくこんなところに水路を敷設してあるものだ。
この道幅的に、道に後から水路を敷設した感じではないと思う。
最初から水路を作る目的で、最初の横坑も、橋も、この道も、
作設されたものなんだと思う。使っていない遊歩道とかではないな、これは。



次のカーブまで行くと、少しだけ道幅に余裕が出来たが、
道と谷をまとめてサンドイッチしている両側の石灰岩の垂壁が、
このまま鍾乳洞になってしまうんじゃないかと思えるほど狭まってきた。

だが、ここで本当に凄いのは、眼下の谷の姿だった。

これは本当に一見の価値ありだと思うので、覚悟して見てくれ(↓)。



谷底は、ほとんど闇の底!

これでもし上が完全に閉じていたら、水の流れる鍾乳洞そのものだ。
もしかしたらこの谷が形成される途中の段階では、そういう時代があったかもしれない。
「べんぞう」の誘いに乗った結果は、思いがけない大自然の神秘に触れまくっている。
有名な「第二トンネル」の鍾乳洞にも負けない、「第一トンネル」の凄い隠しステージだぞこれは。



肉眼ではとてもここまで見えなかったが、カメラを崖へ突き出して無理矢理に
谷底を撮影したのがこの写真だ。画像の明度も思いっきり上げて見えるようにした。

ほぼ闇に包まれている谷底は、ポットホールのような滝壺の連続する連瀑になっている。
この連瀑こそが、地形図に描かれている滝の上部なのであった。
なにせ、まだ吊橋からは50mも進んでいないが、吊橋では50m以上あった谷底との比高が、
ここではもう10mくらいにまで減っている。この高低差は滝によって回収されている。



ただし残念ながら、道から滝を見ることは出来ない。
道から一歩も外れられないので、見下ろせる場所がない。
水量があまり多くないせいか、瀑音もさほどは聞こえなかった。

この写真は、滝の落口の辺りを振り返って撮影した。
この右の暗がりに落差30m以上の巨大な滝が落ちている。
対岸の壁まで5mくらいしかないが、谷底の深さはおそらく30mもある。



これは、滝の真上辺りの対岸の岩壁の様子。

ここに見えるような小さな穴が、岩壁の方々にいくつも空いていた。
まだ誰も探検したことがない鍾乳洞は、きっとあるだろう。
遙か太古のある時期はこの谷が鍾乳洞だった説、本当にあると思います。




17:03 

滝を超えると、谷の底は手が届きそうな高さになり、谷は“普通”になった。
行く手には、これまでは全く感じられなかった夕日の明るさが、仄かに灯っていた。

水路がこの道の本体だから当然といえるが、ほぼ水平の道はまだ続く。
だからこそ、この先の展開はほぼ読めたようなものだった。
きっともう少し進めば谷には小さな堰が現れるだろう。
そして、私の足元にある水路へ、少しばかり水を分け与えているはずだ。

これがなんのための水路であるかは、後ほど考えるとして、
この先の展開への予想は、まず覆るまい。



そして、唐突で申し上げにくいんですが、ここで引き返します!

進めないような難所が現われたわけではなく、このときの判断としては、1分1秒を惜しんででも、暗くなるまえに「第二トンネル」に辿り着きたかった。
既にこの道が水路の添え物であるということは分かったし、先の展開もまあ、ほぼ読めたと思った。
そのうえ奇抜だった谷が普通の姿に変ったことで、ここで後悔を溜め込んででも、未来の探索により多くの時間を残したいという苦渋の決断をした。

ああ、もちろん後悔しているさ。
結果的には、そこまで急ぐ必要もなかったからね。
だから、これがミニレポになってしまった理由の一つでもあるが、この先の結末を私はまだ見ていない。
下手したら、次のカーブの先にちゃんとした終わりがあった気もするが、このときは本当に急ぎたかったんだな。

とはいえ、後悔していると言うくらいだから、次回このエリアでの探索をするときには必ず再訪して結末を見届けようと思っている。その時に追記もしよう。

引き返した地点の先については、右の地形図も見て欲しい。
谷はもう200mも行かないうちに、水田がある小さな盆地へ突き当たるはずだ。


右の画像は、グーグルストリートビューで見る、“盆地”の様子だ。

盆地の周りには民家もあって、羽根という名の集落になっている。
まるで漏斗のような地形で、小盆地の周囲の水はこの細い谷へ集まり、最後は滝となって島木川の本流に落ちている。
盆地から島木川の距離は500mもないので、ほんともの凄い強烈な変化だ。というか、のんびりとした起伏の中で島木川の周辺だけが際立って険しいというのが正しいのか。石灰岩地形は河川による浸食を極度に受けやすいため、谷だけが異常に深く刻まれたような地形になっている。

ともかく、盆地には右のような舗装された道路があって、谷の上流を跨いでいるから、ここから谷を下れれば恐ろしい吊橋を超えなくても道というか水路の起点に辿り着ける可能性は高いだろう。

しかし、この小さな谷から、小さな水路分のわずかな量の水を得るために、あの闇の滝の上に水路を通し、島木川を渡る橋を架けて、さらに100mくらいも横穴を掘って――という大仕事がなされている。ほんと何がそこまでさせたんだろうかと思うが、これらはいまも現役の施設っぽい。ここまでの施設の状況を見る限り、たぶん現役なんだと思う。本当の廃だったら、あの薄っぺらな吊橋なんて、もう渡れる状況にはなかっただろうからな。



帰り道は動画を撮影しながら歩いたので、奇絶なる景観をお楽しみ頂きたい。

ほんとどこの山奥かと思う眺めだが、500m圏内には民家もあるんだよな(笑)。

県道だって凄く近いのに、それは穴の中なんで全然見えないし。

まさしく、日常に隣する非日常の凄さがある。



17:09 《現在地》

帰りもしっかりしゃがみ歩きで疲れさせられ腰に痛みを感じながらも、なんとか最速ペースで自転車が待つ「べんぞう」扉へと戻った。
17分ぶりの本坑復帰だ。

対岸の滝の上から島木川を渡って導かれた水路の水は、ここで道路トンネルの路面の下へ消えている。
舗装された路面の下の様子は窺い知れないが、いったいどこへこの水は行くのだろうか。
当然、現在地よりも低いところに利用地があるのだろうが…。

これについては回答を机上調査へ委ねたい。




17:10 

それから1分もかからずに、この「羽山第一トンネル」を通過し終えるときが来た。
わずか73mのトンネルの西口に入ってから、東口へ辿り着くまで、おおよそ18分がかかった。
たぶんこのトンネルの自転車での最“遅”通過記録じゃないかな…。(笑)




トンネル東口の様子。
やはりトンネル名を知る手掛かりはない。
また、坑口前がほとんど直角のカーブになっていて、とても見通しが悪い。

あの横穴や、その先で目にした刺激的な風景の数々は、全てが幻だった。
なんてことはもちろんないが、横穴から道路の下へ消えていった水路の姿はここにはなく、行方不明になってしまった。幻みたいだ。

チェンジ後の画像は、坑口前から進行方向を撮影。
次なる目的地である第二トンネルは、約900m先にある。何とか明るいうちに辿り着けそう。



17:12 《現在地》

東口から50mほど進んだところに案内板があり、その傍に遊歩道のような雰囲気の石階段が下って行くのを見つけた。
歩道の入口には行先が表示されていないが、この道から島木川の谷底に下りることが出来ることを、帰宅後に知った。
さらに島木川を渡って、先ほど私が直上より見下ろしたあの【闇の滝】の滝壺にも行くことができるとのこと。

詳しくは、「ちゃぴお滝へ行く」の巻ブログ羽山不動滝のエントリをご覧いただきたい。
きっと皆様が想像する以上の凄まじい景色なので、見た方が良い。あの狭い闇の谷底に、こんな巨大な空洞があったのかと改めて驚いた。
私も今度行ったときはぜひ見にいきたいと思う。
滝壺からはおそらく今回歩いた道は見えないのだと思うが、途中で吊橋が見える場所はありそうなので楽しみである。




第二トンネルへ向かう最中、何度か振り返って“吊橋”が見える場所がないか探ったが、見えなかったな。

この写真の左奥に切れている島木川のV字谷、あの少し奥が橋の在処だった。



 ミニ机上調査編  〜謎の水路の正体は、農協絡み?〜


羽山第一トンネルの内部に存在する、「べんぞう」と書かれた扉によって塞がれていた横穴の正体は、水路だ。
この水路を通すために横穴を作り、その先に島木川を横断する水路橋を架けて、羽山不動滝の上部より取水していた。

そこまでは「分かった」が、疑問は、なんのために取水しているのかだ。
今回400mくらいこの水路に沿って歩いたが、途中で見つけた文字情報は冒頭の「べんぞう」だけで、なんのための水路かを知る手掛かりが極めて乏しい。

実は、右の地形図に正体に繋がると推定される重要なものが描かれているのだが、推定を確信に変える決定的な情報が欲しかったのである。
情報を求めて、机上調査を行った。


まずは、古い地形図を調べてみた。
右のチェンジ後の画像は、昭和7(1932)年の地形図だ。
羽山第一・第二トンネルは、大正8年竣工という記録があるくらいだから、この昭和初期には既に県道としてしっかりと描かれている。
現在は中国地方有数の“険道”とされる県道宇治下原線だが、この地方ではかなり初期に整備された車道の生き残りである。

しかし、今回私が目にしたような一連のものは、全く書かれていない。
書かれていないから無かったとは即断できないが、まずは小手調べだ。



次は国会図書館デジタルコレクションで読める古文献の捜索。
見つけたのは、大正9(1920)年に川上郡教育会が刊行した『川上郡史』の復刻版(昭和47年/名著出版)だ。
当時この一帯は川上郡に所属していたので、その地誌に有用な情報を求めたのである。


『川上郡誌』より

今回探索した内容と確実に関係している内容をさっそく見つけた。
まるで洞窟のような暗闇の谷底に存在する不気味な滝、不動滝に関する記述だ。大正時代には既に景勝地として知られていたらしく、“名勝”の項目に立項されていた。さらに巻頭グラビアにも右の写真が掲載されていた。

 不 動 瀧
中村大字小泉にあり、梶谷川下流の対岸、羽根との間、山みゃく相迫りて渓水数十丈の絶壁よりほとばしり落ち、雨後水量多き時は、渓谷に響き、泡沫飛散して心気自ら寒し、瀧壺の水溢れて巉巌ざんがんの間を流れ宇治川に合す、此の辺両岸の岩石きつとして屏風を立てたるが如く、澗水清冽かんすいせいれつ、湛えては淵となり、激しては奔流となり、奇岩怪石其の間に点在し、或は蛟龍こうりゅうの玉を争ふが如く、或は猛虎の風にうそぶが如し。岳麓に不動尊を安置せり、数百年前の勧請にして、弘化の頃小泉の人、土谷文覚一小宇しょううを建立せるに創ると云ふ

『川上郡誌』より

滝の様子についてかなり子細に述べているが、今回目にした吊橋や水路についての言及はない。もし当時既に存在したなら触れていそうな気がする。
また、現在の地形図には河川名の注記がない滝のある川の名前が梶谷川と呼ばれていたことや、現在は島木川とされている川が宇治川と呼ばれていたことも分かった。
後半に、滝名の由来になったと思しき不動尊の存在が言及されているが、現存しているようだ。(グーグルマップ



『川上郡誌』には、他にもうひとつ気になる記述を見つけた。
それは、発電に関する内容だ。
基本的に、山中で目にする水路の正体というのは、発電所の導水路か、農業用の灌漑用水路のどちらかであることがほとんどである。
後者の方が、小規模のものを含めて圧倒的に多いと思うが、『川上郡誌』には、羽山の地に当時水力発電所が存在したことが述べられていた。

 羽 山 水 力 発 電 所 
羽山水力発電所は上房郡松田村北備電気株式会社(大正元年設立資本金6万円)の経営に係り、成羽町大字羽山にあり、本社を去ること8マイル余にして施設電話によりて其連絡を保てり、大正3年8月15日起工同4年3月9日竣工す、其工費2万5千円(ただし送電線工事費を除く)にして設備の梗概こうがい左の如し。
水路取入口を成羽町大字羽山字向山に設け、同所島木川より許可使用水量毎秒6方尺を取入れ、水路延長3885尺6寸あり、全部コンクリートよりなり其巾1尺6寸側高1尺1寸、頂部に半径8寸のアーチ形覆蓋を設け2個の小隧道と1個の堅固なる木製掛樋かけひを通過して水槽に至り、更に鉄管により165尺2寸の落差を以て発電所に入る、発電所の(中略)瓦葺平家建にして字下り95番地の石垣上に在り、島木川を隔てて従業員社宅と相対し私設の土橋を以て交通の便を図り、終夜電燈相映発して渓間に美観を呈す(以下略)

『川上郡誌』より

現在の高梁市の中心市街地に、明治45(1912)年に中小電力企業の北備電気株式会社が誕生した。
同社は大正3(1914)年に出力60kWの小規模な導水路式発電所羽山水力発電所を成羽町大字羽山字下り95番地に完成させた。
同所の取水口は羽山字向山の島木川沿いにあり、そこから全長約1.2kmの導水路(途中小隧道2箇所あり)と落差50mの落水路を使って発電所のタービンを回していた。

しかし、北備電気は大正12年に備中電気に統合され、さらに中国水力電気に統合され、大正15年に中国合同電気へ統合されるなどして、複雑な電力会社統廃合に揉みくちゃにされて、この小さな発電所の結末は不明である。少なくとも現存はしていない。番地まで分かっている発電所の位置や、小字まで分かっている取水口の位置も、導水路の位置も、いずれも判明していない。昭和7年の地形図にもこれらのものは全く描かれていないのである。

所在地不明である羽山水力発電所の導水路と、今回探索した水路に関係があったかと問われれば、おそらく無関係だと思う。
にもかかわらずこの話題を紹介したのは、羽山水力発電所と名前がよく似た現役の水力発電所が、今回探索した水路の真の正体だと思うからだ。
あと、話題を提起することで、皆様からの情報提供に期待しています。


ズバリ、

水路の正体は、羽山発電所の導水路じゃないかな?


現在の地形図(→)には、羽山集落の下流の島木川沿い、県道対岸の位置に、発電所の記号が描かれている。
そしてその発電所に水を導く約3kmの導水路が、県道よりかなり高い山腹にいくつものトンネルを連ねて描かれているが、取水口は今回の探索のスタート地点である羽山第一トンネル西口の天龍橋直下にある。

地形図に発電所名の注記がなかったので調べてみると、この発電所は羽山発電所といい、出力495kW、有効落差157mの現役の導水路式発電所であることが分かった。(大正時代の羽山水力発電所とは出力も有効落差も大きく異なっているので、同じ発電所ではない)

変っているのは、この発電所の経営者だ。一般的によく見る電力会社や都道府県営ではなく、びほく農業協同組合という、この地方のいわゆる農協が経営している発電所だった。
そして発電開始の時期は昭和39年9月だということも分かった。

この発電所のメインの導水路が、地形図にも描かれている島木川上流天龍橋直下取水のものであるのは明らかだが、メインを補強するサブとして梶谷川からの取水も行われていて、このサブの導水路として今回探索した水路があるのではないという推測だ。


右図は、取水口付近の拡大図だ。

メインの導水路は、取水口からすぐにトンネルになっていて、次に地上に現われるのはこの辺りということになっているが、現地にはそれらしい水路は見当らない。だから、この地形図にある水路の表記は完全には正しくないのかもしれない。

それでも天龍橋の下に取水口があることは確かで、私は探したことがないが、水力ドットコムで付近の様子を見ることが出来る。(→リンク
そして今回探索した水路は、羽山第一トンネル付近の地中か、取水口付近で、このメインの導水路と合流しているのではないかというのが私の推測だ。

ただ、メインとサブの水路には合流地点付近でも10m程度の落差があるはずだから、右図のような単純な合流ではないのかも知れない。
地下を透視できないので断定的なことは言えないものの、位置的に合流は不自然ではないと思う。

一般に水路式発電で最も重要なのは安定した水量の確保である。しかし、単一の河川からの取水では水量の安定供給の面で不安があるほか、水利権との兼ね合いであまり大量には取水できない場合がある。
それで周辺のさまざまな支流からの取水が、しばしば行われる。
今回の梶谷川からの取水も、そのような理由からではないかと推測している。


ところで、なぜ農協が発電所を経営しているのだろうか。

調べてみると、農山漁村電気導入促進法という、昭和27年に施行されたマイナーな法律に行き着いた。
この法律は第一条(目的)にあるとおり、「電気が供給されていないか若しくは十分に供給されていない農山漁村又は発電水力が未開発のまま存する農山漁村につき電気の導入をして、当該農山漁村における農林漁業の生産力の増大と農山漁家の生活文化の向上を図ることを目的」としており、非点灯や電力不足に苦しむ農山漁村への電力供給のために、農協などが中小水力発電所を設置することに対して助成を行われたのである。

その結果、昭和30〜40年代の最盛期には全国で300箇所を超える中小水力発電所が誕生し、現在もそのうち60箇所程度が稼動しているという。
したがって農協の発電所というのは全国的には特別に珍しいわけではないようだが、いずれも配電範囲が小規模であるからあまり知られていないのである。

漂流乳業にある成羽牛乳の記事によると、びほく農業協同組合の前身である成羽町農業協同組合が、昭和39年に農山漁村電気導入促進法の助成を受けて、羽山発電所の建設を行ったという。

発電所といえば、国家規模の大掛りな施設を想像する人が多いと思うが、かつては近隣の集落を点灯させる程度のささやかな目的で建設されたものが、全国にはたくさんあった。
暮らしの電気を安定して確保するために、千尋の谷に橋を架けたり、県道のトンネルに横穴をぶち抜いたりと、地元の地形を上手く使って工夫を凝らしていたことが、いじましく思える。

歴代の航空写真を調べると、昭和46(1971)年版に、右図のように今回探索した吊橋が写っていた。(昭和39年版は影になっていて有無を判断できず)
このような時期の一致も、羽山発電所に関連して吊橋が架けられたと考える大きな根拠になっている。

とりあえず現時点で分かっているのはここまでだ。
びほく農協に直接問い合わせてみればはっきりとしたことが分かりそうだが、レポートの内容が内容だけにちょっと気後れする。答えをご存知の方がいたら、こっそり教えてくれると嬉しい。
また後日、今回辿り着けなかった梶谷川の取水口を調べれば、正体に関し新たな根拠が得られるかも知れない。追記をお待ち頂きたい。


でも、「べんぞう」ってなんだったんだ……?




完結


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