羽山第一トンネルの内部に存在する、「べんぞう」と書かれた扉によって塞がれていた横穴の正体は、水路だ。
この水路を通すために横穴を作り、その先に島木川を横断する水路橋を架けて、羽山不動滝の上部より取水していた。
そこまでは「分かった」が、疑問は、なんのために取水しているのかだ。
今回400mくらいこの水路に沿って歩いたが、途中で見つけた文字情報は冒頭の「べんぞう」だけで、なんのための水路かを知る手掛かりが極めて乏しい。
実は、右の地形図に正体に繋がると推定される重要なものが描かれているのだが、推定を確信に変える決定的な情報が欲しかったのである。
情報を求めて、机上調査を行った。
まずは、古い地形図を調べてみた。
右のチェンジ後の画像は、昭和7(1932)年の地形図だ。
羽山第一・第二トンネルは、大正8年竣工という記録があるくらいだから、この昭和初期には既に県道としてしっかりと描かれている。
現在は中国地方有数の“険道”とされる県道宇治下原線だが、この地方ではかなり初期に整備された車道の生き残りである。
しかし、今回私が目にしたような一連のものは、全く書かれていない。
書かれていないから無かったとは即断できないが、まずは小手調べだ。
次は国会図書館デジタルコレクションで読める古文献の捜索。
見つけたのは、大正9(1920)年に川上郡教育会が刊行した『川上郡史』の復刻版(昭和47年/名著出版)だ。
当時この一帯は川上郡に所属していたので、その地誌に有用な情報を求めたのである。
『川上郡誌』より
今回探索した内容と確実に関係している内容をさっそく見つけた。
まるで洞窟のような暗闇の谷底に存在する不気味な滝、不動滝に関する記述だ。大正時代には既に景勝地として知られていたらしく、“名勝”の項目に立項されていた。さらに巻頭グラビアにも右の写真が掲載されていた。
不 動 瀧
中村大字小泉にあり、梶谷川下流の対岸、羽根との間、山脉相迫りて渓水数十丈の絶壁より迸り落ち、雨後水量多き時は、渓谷に響き、泡沫飛散して心気自ら寒し、瀧壺の水溢れて巉巌の間を流れ宇治川に合す、此の辺両岸の岩石屹として屏風を立てたるが如く、澗水清冽、湛えては淵となり、激しては奔流となり、奇岩怪石其の間に点在し、或は蛟龍の玉を争ふが如く、或は猛虎の風に嘯が如し。岳麓に不動尊を安置せり、数百年前の勧請にして、弘化の頃小泉の人、土谷文覚一小宇を建立せるに創ると云ふ
滝の様子についてかなり子細に述べているが、今回目にした吊橋や水路についての言及はない。もし当時既に存在したなら触れていそうな気がする。
また、現在の地形図には河川名の注記がない滝のある川の名前が梶谷川と呼ばれていたことや、現在は島木川とされている川が宇治川と呼ばれていたことも分かった。
後半に、滝名の由来になったと思しき不動尊の存在が言及されているが、現存しているようだ。(グーグルマップ)
『川上郡誌』には、他にもうひとつ気になる記述を見つけた。
それは、発電に関する内容だ。
基本的に、山中で目にする水路の正体というのは、発電所の導水路か、農業用の灌漑用水路のどちらかであることがほとんどである。
後者の方が、小規模のものを含めて圧倒的に多いと思うが、『川上郡誌』には、羽山の地に当時水力発電所が存在したことが述べられていた。
羽 山 水 力 発 電 所
羽山水力発電所は上房郡松田村北備電気株式会社(大正元年設立資本金6万円)の経営に係り、成羽町大字羽山にあり、本社を去ること8哩余にして施設電話によりて其連絡を保てり、大正3年8月15日起工同4年3月9日竣工す、其工費2万5千円(但送電線工事費を除く)にして設備の梗概左の如し。
水路取入口を成羽町大字羽山字向山に設け、同所島木川より許可使用水量毎秒6方尺を取入れ、水路延長3885尺6寸あり、全部コンクリートよりなり其巾1尺6寸側高1尺1寸、頂部に半径8寸のアーチ形覆蓋を設け2個の小隧道と1個の堅固なる木製掛樋を通過して水槽に至り、更に鉄管により165尺2寸の落差を以て発電所に入る、発電所の(中略)瓦葺平家建にして字下り95番地の石垣上に在り、島木川を隔てて従業員社宅と相対し私設の土橋を以て交通の便を図り、終夜電燈相映発して渓間に美観を呈す(以下略)
現在の高梁市の中心市街地に、明治45(1912)年に中小電力企業の北備電気株式会社が誕生した。
同社は大正3(1914)年に出力60kWの小規模な導水路式発電所羽山水力発電所を成羽町大字羽山字下り95番地に完成させた。
同所の取水口は羽山字向山の島木川沿いにあり、そこから全長約1.2kmの導水路(途中小隧道2箇所あり)と落差50mの落水路を使って発電所のタービンを回していた。
しかし、北備電気は大正12年に備中電気に統合され、さらに中国水力電気に統合され、大正15年に中国合同電気へ統合されるなどして、複雑な電力会社統廃合に揉みくちゃにされて、この小さな発電所の結末は不明である。少なくとも現存はしていない。番地まで分かっている発電所の位置や、小字まで分かっている取水口の位置も、導水路の位置も、いずれも判明していない。昭和7年の地形図にもこれらのものは全く描かれていないのである。
所在地不明である羽山水力発電所の導水路と、今回探索した水路に関係があったかと問われれば、おそらく無関係だと思う。
にもかかわらずこの話題を紹介したのは、羽山水力発電所と名前がよく似た現役の水力発電所が、今回探索した水路の真の正体だと思うからだ。
あと、話題を提起することで、皆様からの情報提供に期待しています。
ズバリ、
水路の正体は、羽山発電所の導水路じゃないかな?
現在の地形図(→)には、羽山集落の下流の島木川沿い、県道対岸の位置に、発電所の記号が描かれている。
そしてその発電所に水を導く約3kmの導水路が、県道よりかなり高い山腹にいくつものトンネルを連ねて描かれているが、取水口は今回の探索のスタート地点である羽山第一トンネル西口の天龍橋直下にある。
地形図に発電所名の注記がなかったので調べてみると、この発電所は羽山発電所といい、出力495kW、有効落差157mの現役の導水路式発電所であることが分かった。(大正時代の羽山水力発電所とは出力も有効落差も大きく異なっているので、同じ発電所ではない)
変っているのは、この発電所の経営者だ。一般的によく見る電力会社や都道府県営ではなく、びほく農業協同組合という、この地方のいわゆる農協が経営している発電所だった。
そして発電開始の時期は昭和39年9月だということも分かった。
この発電所のメインの導水路が、地形図にも描かれている島木川上流天龍橋直下取水のものであるのは明らかだが、メインを補強するサブとして梶谷川からの取水も行われていて、このサブの導水路として今回探索した水路があるのではないという推測だ。
右図は、取水口付近の拡大図だ。
メインの導水路は、取水口からすぐにトンネルになっていて、次に地上に現われるのはこの辺りということになっているが、現地にはそれらしい水路は見当らない。だから、この地形図にある水路の表記は完全には正しくないのかもしれない。
それでも天龍橋の下に取水口があることは確かで、私は探したことがないが、水力ドットコムで付近の様子を見ることが出来る。(→リンク)
そして今回探索した水路は、羽山第一トンネル付近の地中か、取水口付近で、このメインの導水路と合流しているのではないかというのが私の推測だ。
ただ、メインとサブの水路には合流地点付近でも10m程度の落差があるはずだから、右図のような単純な合流ではないのかも知れない。
地下を透視できないので断定的なことは言えないものの、位置的に合流は不自然ではないと思う。
一般に水路式発電で最も重要なのは安定した水量の確保である。しかし、単一の河川からの取水では水量の安定供給の面で不安があるほか、水利権との兼ね合いであまり大量には取水できない場合がある。
それで周辺のさまざまな支流からの取水が、しばしば行われる。
今回の梶谷川からの取水も、そのような理由からではないかと推測している。
ところで、なぜ農協が発電所を経営しているのだろうか。
調べてみると、農山漁村電気導入促進法という、昭和27年に施行されたマイナーな法律に行き着いた。
この法律は第一条(目的)にあるとおり、「電気が供給されていないか若しくは十分に供給されていない農山漁村又は発電水力が未開発のまま存する農山漁村につき電気の導入をして、当該農山漁村における農林漁業の生産力の増大と農山漁家の生活文化の向上を図ることを目的
」としており、非点灯や電力不足に苦しむ農山漁村への電力供給のために、農協などが中小水力発電所を設置することに対して助成を行われたのである。
その結果、昭和30〜40年代の最盛期には全国で300箇所を超える中小水力発電所が誕生し、現在もそのうち60箇所程度が稼動しているという。
したがって農協の発電所というのは全国的には特別に珍しいわけではないようだが、いずれも配電範囲が小規模であるからあまり知られていないのである。
漂流乳業にある成羽牛乳の記事によると、びほく農業協同組合の前身である成羽町農業協同組合が、昭和39年に農山漁村電気導入促進法の助成を受けて、羽山発電所の建設を行ったという。
発電所といえば、国家規模の大掛りな施設を想像する人が多いと思うが、かつては近隣の集落を点灯させる程度のささやかな目的で建設されたものが、全国にはたくさんあった。
暮らしの電気を安定して確保するために、千尋の谷に橋を架けたり、県道のトンネルに横穴をぶち抜いたりと、地元の地形を上手く使って工夫を凝らしていたことが、いじましく思える。
歴代の航空写真を調べると、昭和46(1971)年版に、右図のように今回探索した吊橋が写っていた。(昭和39年版は影になっていて有無を判断できず)
このような時期の一致も、羽山発電所に関連して吊橋が架けられたと考える大きな根拠になっている。
とりあえず現時点で分かっているのはここまでだ。
びほく農協に直接問い合わせてみればはっきりとしたことが分かりそうだが、レポートの内容が内容だけにちょっと気後れする。答えをご存知の方がいたら、こっそり教えてくれると嬉しい。
また後日、今回辿り着けなかった梶谷川の取水口を調べれば、正体に関し新たな根拠が得られるかも知れない。追記をお待ち頂きたい。
でも、「べんぞう」ってなんだったんだ……?