廃線レポート 朝熊登山鉄道 鋼索線  第1回

公開日 2015.9.6
探索日 2014.2.1
所在地 三重県伊勢市


今回はちょっとばかりスリリングな廃線跡を紹介しよう。

皆さまは、日本一

いや、

東洋一

とさえといわれた、そんなケーブルカーをご存知であろうか。




大正14(1925)年から昭和19(1944)年までの19年を生きた登山鉄道である。
その名は朝熊登山鉄道といい、全長4.2kmの「平坦線」と、全長1.1kmの「鋼索線」からなっていた。
今回紹介するのはこのうちの鋼索線で、これが所謂ケーブルカーである。
そしてこの鋼索線は、廃止されるまで“ある日本記録”を保持していた。

右図は、この短命に終わった朝熊登山鉄道の姿を描いた数少ない5万分の1地形図である、昭和24(1949)年応急修正版「鳥羽」だ。
平坦線、鋼索線とも昭和19(1944)年には既に休止されていたので、良く見るとこの地形図には、「朝熊登山線」「鋼索鉄道」などの路線名や、「ひらいわ」「あさまたけ」などの駅名、さらに駅の記号上に「×印」が付されている。
本来の地形図の図式にはない表現だが、戦後間もない応急修正版ということで無理やりに修正されている。

朝熊登山鉄道の鋼索線は、その短命さや(実質的な)廃止時期の古さもさることながら、鋼索線の途中に隧道が1本描かれていることが私の興味をそそった。
そこで、「鉄道廃線跡を歩くVII」で最低限の知識を得て、あとは行き当たりばったりの現地探索を行ったのが今回のレポートである。
(個人的にケーブルカーの廃線跡が好きで、日光、箱根、赤城、榛名、あとは愛宕山など色々と探索しているが、「山行が」でレポートするのははじめてかも?)


以下は、本路線の経歴と朝熊山についての簡単な解説である。

朝熊ヶ岳(あさまがたけ)(朝熊山、朝熊岳ともいう)は、伊勢市の東部にある標高555mの山で、南北に延びる山嶺は古来から伊勢・志摩両国の境であった。
山頂近くにある金剛證寺(こんごうしょうじ)は、伊勢神宮の鬼門(北東)を守るの奥の院とされ、近世に成立した伊勢音頭に「お伊勢参らば朝熊をかけよ、朝熊かけねば片参り」と歌われるほどに多くの参詣者があった。
明治期の廃仏毀釈により一時期衰退するが、伊勢・鳥羽に連なる風光明媚の山岳地としても早くから有望視され、観光開発が進められた。
その初期の開発の中核を担ったのが、朝熊登山鉄道である。

朝熊登山鉄道は、大正8(1919)年、金剛證寺の門前で霊薬「萬金丹」を代々商う野間萬金丹の野間圀彦らが発起人となり、度会(わたらい)郡四郷(しごう)村楠部から同村朝熊に至る全長5.3km(平坦線4.2km + 鋼索線1.1km)の鉄道免許を取得。翌年に朝熊登山鉄道(株)を設立した。大正12(1923)年に工事を開始し、大正14(1925)年8月26日に全線の営業を開始している。
昭和3(1928)年に会社は宇治山田市(現伊勢市)一帯で路面電車を経営していた三重合同電気(株)に吸収され、登山鉄道は同社の朝熊線となる。
その後も会社の改称や合併を経て、昭和14(1939)年からは神都交通朝熊線となるが、戦時下の不要不急線とみなされ、昭和19(1944)年1月11日に営業を休止、レールなどを供出した。
戦後になっても運行は再開されず(休止中に社名は神都交通から三重交通になっている)、昭和37(1962)年7月15日をもって正式に廃止されている。



それでは、東洋一の廃線跡へ出発進行!


鋼索線の起点、平岩駅跡へ


2014/2/1 6:47 《現在地》

伊勢市朝熊町に車を駐め、自転車に乗り換えて出発する。
まだ日が山の端に昇る前なので薄暗いが、ただでさえ日が短く時間不足になりがちなこの季節の探索は、暗さを気にしていられない。

写真は、出発直後に出会った近鉄鳥羽線の高架橋である。
開業したのは昭和45(1970)年で、朝熊町の区域内に朝熊駅を設置した。
この鉄道の開業は、朝熊町にとって昭和19(1944)年の朝熊登山鉄道(神都交通朝熊線)休止以来の久々の鉄道であったが、高架橋を多用する複線の近鉄鳥羽線と、かつての単線の朝熊登山鉄道とは、ルートが並行するものの重なっていない。

現在も朝熊登山鉄道時代の朝熊町駅跡に変電所施設の建物が残っているらしいが、今回の私のターゲットは鋼索線なので、寄り道せずにこのまま高架橋を潜って先へ進むことにする。



県道37号から右折して脇道へ入る。
この1車線の市道は、朝熊登山鉄道の廃線跡である。
見たところ線形は鉄道時代と変わっていない様子で、ゆったりとした上り坂が平坦線の終点であった平岩駅跡へ続いている。

前方の朝陽を背負う山影こそが、霊山や観光地として何百年も人々を誘引し続けてきた朝熊山である。
大して標高のある山ではないが、名古屋から伊勢湾沿いに延々と連なる低平な海岸線に終わりを告げる山であるだけに、遠方より人目を惹くこと夥しい。




かつて、マッチ箱のような70人乗りの電動客車が専ら単行で往復していた線路跡も、次第に勾配が増してきて、いよいよ平坦線から鋼索線へのバトンタッチが近いことを予感する。

登山鉄道の開業は、それまで伊勢神宮より片道5kmの登山をもってなされていた朝熊参りの労力を劇的に減少させ、より多くの参拝者を誘引した。
その結果、一時は朝熊山の新たな表玄関の地位を確立しつつあった当地だが、戦争という思いがけない出来事は、そんな繁栄をあえなく打ち砕いた。
現在は再び静かな谷間の地に戻っている。
なお、朝熊岳道と呼ばれる朝熊町を起点とする登山ルートがあり、現在もハイカーや登山者が頻繁に利用しているが、そのルートもここを通ってはいない。



6:58 《現在地》

出発から自転車で約10分で、かつての一駅分である1.3kmを走破し、廃線跡の市道が行き止まりとなる地点までやって来た。

ここがかつて平坦線の終点だった平岩駅跡だが、駅跡に大きな民家が建っているほか、土地にも手が加えられており、明確な遺構は残っていないようだった。




!!

前述の通り、平坦線の平岩駅跡にはこれと言った遺構は無いが、そこから小さな川を挟んだ対岸には、ものの見事にケーブルカーのプラットホームが残されている!!
ここまでは事前情報通りではあるのだが、実際に目にするとインパクトがあった。

ちなみに駅名に区別は無く、こちらも同じ平岩駅といった。
鋼索線はここから1078mのスロープ長で415mの標高を駆け上がり、終点の朝熊岳(あさまたけ)駅に達していたものである。
次図は、「カシミール3D」を使って再現した鋼索線の立体図である。



まさに力技。ケーブルカーにのみ許された、直登の線形である。

この中に冒頭でも述べた“ある東洋一”が潜んでいるのだが、もう分かっちゃったかもな(笑)。




平岩駅跡に残るプラットホームとコンクリート橋


6:59 《現在地》

自転車を現地に残し、小川を渡って鋼索線のプラットホーム跡へ近付いた。
今回は訪れた時期が良く、藪が浅い。
お陰で、プラットホームやその先に続くコンクリート敷きの路盤がよく見える。
奥の方はさすがに視界が届かないが、登り始めとしては十分だ。

なお、往路で撮影した写真は暗かったので、ここから数枚は帰路に撮影した写真を使っている。

プラットホームの作りは、傾斜に合わせて緩やかな階段が刻まれているという、ケーブルカー用の良く見るそれだ。
鋼鉄製であった屋根部分は、支柱ごと供出されたようで、失われている。
かつてはこのコの字型のプラットホームに60人乗りの客車が収まっていた。
ちなみに、朝熊線の開業当初は平坦線に5両、鋼索線に2両の電動客車が配備されていたようだが、昭和19(1944)年の休止時にこれらの車両も軌条と共に供出されてしまったらしく、おそらく現存しない。



プラットホームから振り返ると、小川に架かる古ぼけたコンクリート橋がある。

これは平坦線と鋼索線の駅を結ぶ連絡通路であったという。

自動車も余裕で通行できる幅があるが、歩行者専用のものであったらしいから、往時の繁栄を感じさせるに十分な規模である。
銘板などはっきりした記録は無いが、大正14(1925)年当時からの橋であろう。


橋の四隅に建つ親柱は欄干にマッチした角形のもので、随所に刻まれた精緻な凹凸は、大正時代の名建築物に通じるものを感じる。
表面の仕上げは洗い出しで、こちらも手が込んでいる。
朝熊山の表玄関に相応しい厳かさと、上品な華やかさを兼ね備えた、小さな名橋だ。

なお、この写真にある北西隅の親柱のみ、微かに銘板部分の文字の凹凸が残っているようにも見えたが、読み取る事が出来なかった。→【原寸写真】



驚いたことに、本橋の装飾は橋上に止まらず、側面にも凝ったものが施されていた。

通常、橋桁の側面は装飾とは無縁だが、大勢の人が立ち止まるプラットホームに面して架かっていることから、外観に配慮したのであろう。
また、神社にしばしば見られる、境内の内外を境界する「神橋」にも通じる、ある種の権威付けの意味もありそうだった。

思うに、この橋が鋼鉄であったら既に供出されて消えていただろう。
また、木橋ならばとうに朽ちて消えていたに違いない。
コンクリートを素材に選んだことで、90年の時間を架かり続けることが出来た。
このうち本来の目的に使われていた時間が20年足らずというのは、気の毒だが…。

ここからはまた往路の写真を使う。




ケーブルカー路盤の登攀を開始


7:00 《現在地》

まだ少し薄暗いが、この登攀には結構時間がかかるだろうから、出発することにする。
現在時刻は午前7時ちょうど。高低差415m、全長1078mを完走するのに要する時間は、最低1時間といったところか。
(ちなみに、「お伊勢参り 農事電化十周年記念」(昭和11年刊)に、ケーブルカーは昇り15分下り10分が所用時間だったとあるが、昇りと下りで時間が違う理由は不明)

なお、ケーブルカー跡の探索は、他の種類の廃線・廃道探索とスケジューリングが大きく異なる。
それは概ね登山に近いと思われるが、登山とも違う部分があるので、おいおい説明していこう。

苔色に朽ちたプラットフォームを背に、朝熊登山鉄道鋼索線の登攀が、いま始まる。



最序盤は、まずは足慣らしと、路盤の状況確認である。

見たところ、廃線の路盤に沿って現役の電線が架設されているようだ。
この場合、電線の管理用通路として路盤が利用されている可能性が高くなるので、踏破のうえではプラスの材料である。
ただ、その割に草刈りが最近行われた形跡はなく、路盤上には昨年の雑草が腰丈まで茂っている。
おそらく夏場に訪れると路盤が見えず、傾斜した草原に見えるのではないだろうか。

もっとも、靴の下にある感触は堅く、路盤の全体にコンクリートが敷かれていることが分かる。
また、単線の路盤の左側には、路盤に沿って階段が刻まれている。
保線用の人道通路であり、ケーブルカー跡の探索で基本的に歩くべき部分になるのだが、今のところは傾斜がまだ緩やかで階段は冗長なので、普通に路盤の傾斜したスロープを歩いていく。




7:03 (登り始めから3分経過)

これは序盤にしては結構な急勾配である。
今まで色々なケーブルカーを探索してきたが、序盤はもっと緩やかな路線も多い。

ケーブルカーの路盤の傾斜は、大抵が高低差のある2点間の空中にぶらさげられた紐のような幾何的な勾配の変化を見せる。

したがって、経験上、序盤の勾配がきついと、中盤から終盤にかけては、さらにきつい勾配に挑まねばならない。
最終的に登るべき高さや長さは分かっているのだから、傾斜の変化など、さほど労力に影響が無いと思うかも知れないが、危険度には大きな影響を与えるので、重要なチェックポイントである。



下草が無くなり、かなり遠くまで路盤を見通せるようになったために、先へ行くほど傾斜がきつくなっているのがよく分かる。

だが、まだ階段に頼るほどではない。
段の高さも、段と段の間隔も、我々が日常的に利用している階段に較べれば遙かに緩やかなので歩きづらいし、余り使われていないからだろうが、路盤よりも階段の方が荒れている。

また、ここで予想外の遺構に出会った。
金属製の架線柱である。
これまで金属製の遺構はことごとく失われていた(供出のためだろう)ので、架線柱も同様と思われたのだが、ここではじめて残存しているものに出会った。
もともと余り上等な質でなかったのか、根元が朽ちて転倒しかけていた。


7:12 (12分経過) 《現在地》

再び下草が厚くなってきたので見通しが効かないが、相変わらず勾配は次第に増しており、そのことは階段の部分を比較してもらえば分かると思う。
藪が浅いところを選ぶと、自然に階段以外の場所を歩く事になっているのだが、脛の裏側の筋肉に緊張感が出て来た。
階段を上れば疲れるのは太腿だが、傾斜した斜面を登っていると、まずは脛の裏側に疲れが出てくる。

GPSを確かめると、登り始めから直線距離で200mくらい進んでいたので、スロープ長に換算すると250m、全体の4分の1くらいは進んだかと思われる。
一方、標高の上ではまだ50mくらいしか増えておらず、高低差ベースでは8分の1しかクリアしていないんだなぁ…。(……ちょっとゾクッとした)

なお、路盤に刻まれた凹凸は、枕木を埋め込むためのものである。
ケーブルカーの路盤はバラストが使えないので、枕木が路盤に固定されたスラブ軌道に近いものとなる。



ぬぬぬ。

ちょっと様相が怪しくなってきたか。

「鉄道廃線跡を歩くVII」に、「雑草が茂り直登が難しくなっている」と書いてあったので、慎重を期して冬場に訪れたわけだが、下草はともかく灌木は相変わらず脅威である。
しかも、トゲの生えたツタのような灌木が蔓延っており、真夏の探索は相当に苦難であろう。

今は登りなので、出来るだけ姿勢を低くして、藪の浅いコンクリートの路盤近くを、潜るようにして進んだ。

なお、先程来の路盤はずっと斜面に設けられた築堤である。
ケーブルカーは多くの路線が直線で、かつ勾配の変化にも硬直的(勾配の逆変化に弱い)なので、築堤や切割、隧道や橋梁などの土木構造物が多く用いられる。
必然的に探索は冗長になりづらく、これは私がケーブルカー廃線を愛する理由のひとつである。



このあと少しの間は藪との格闘となり、路盤の変化に注目できる状況でなかったのであるが。


それが明けたとき――



凄い勾配になっていた…。

これはいまどのくらいの勾配なんだろう。調べるための道具を持ってこなかったが…。



このくらいの勾配になると、これはもう完全に階段を使った方が歩きやすい。本来は。

だが、階段の部分は藪が深く、立ち入る事が無駄に大変だ。

これはもうこのままスロープを歩くしかないのだが、落ち葉を踏まないよう最大限注意しなければならない。

こんな堅くて急な斜面を歩くと、ふくらはぎの疲労蓄積はマッハだ…。適宜に休憩を入れないと筋を痛めかねない。



これだよこれ! これがケーブルカー探索の醍醐味なんだよな!

このように、見わたす限りに階段や斜面が続いているなんて状況は、おおよそケーブルカーかインクラインでしか見られないものだ。
というか、ケーブルカーとインクラインは構造的によく似ているので、風景が似るのも当たり前だが。

人間が登るための登山道とかは、幾ら急でも途中に一息を入れられるような休み場があったり、人間として共感できる部分がある。
それに対し、電車という機械の専用通路であるケーブルカーの路盤なんてものには、人対人の優しさが介在する余地が無い。
ひたすらにどこまでもスパルタである。機械が無感情であって良かったと思う。そうでなければ彼らは絶望か、叛乱を試みるはず。

人の身でありながら機械の領域に足を踏み入れ、そしてそれを征服する。これこそがケーブルカー跡探索の醍醐味だと思う。


――この苦痛も、やがては快楽となる…。




7:26 (26分経過) 《現在地》

おおおっ!

見上げた先に、本で見覚えのある橋が出て来たっ!

これは地形図にも破線で描かれている朝熊岳道という登山道で、ケーブルカーより遙かに古い由緒を持つようだ。また、現在では朝熊ヶ岳の最もメジャーな登山道になっているらしい。(もっとも、今は山頂近くまで伊勢志摩スカイラインが通じているので、登山者自体が昔に較べれば激減しているわけだが)

この登山道の跨線橋は、朝熊登山鉄道の貴重な置き土産である。
当時の絵葉書にも描かれているので、間違いない。

形式はアーチ橋で、主要な部材には加工された軌条が用いられている。
この点も昔の鉄道跨道橋らしい。

この橋自体も嬉しい遺構だが、なにより苦闘を演じる登攀者にとって、この橋から先は後半戦となる意義がある。
厳密にはもう少しだけ先が中間地点だが、ここが分かり易いはずだ。
出発から26分でここまで来た。直線距離はもう余り意味がないだろうからスロープ長だけ書くが、ここまで約500mである。
しかし、不安なのは標高で、平岩駅からプラス150m弱である。
短時間でよく登ったとは思うが、今なお残りの高低差が250m強もあるのだ。

すなわち…

今後、これまで以上に急な場面が現れることが、ほぼ確定している状況。