廃線レポート 朝熊登山鉄道 鋼索線  第2回

公開日 2015.9.7
探索日 2014.2.1
所在地 三重県伊勢市

激登!ケーブルカー跡探索 中間地点通過



「鉄道廃線跡を歩くVII」より転載。

2014/2/1 7:30 (30分経過)《現在地》

現在地は麓の平岩駅から500mほど登った所にある登山道「朝熊岳道」の跨線橋下で、ほぼ中間地点である。
ここで来た道を振り返っても、下草のため路盤の見通しが悪く、麓の駅まで見通すことは出来ないが、現役当時は綺麗に見通せていたであろう。

右の写真は、現役当時の平岩駅で撮影されたものだが、ずっと先の方に小さく跨線橋が写っている。
そこが「現在地」である。

この写真を見ると、私が足で感じてきた勾配の変化がよく分かる。
平岩駅を出てすぐに一段階急になり、それからまた少ししてもう一段急になっている。
客車が写っている辺りから先は、傍目から見てももの凄い急勾配だ。我ながら、こんな所を登っていたのかと驚く風景だ。



5分ほど休憩し息を整えた。そして7:30に再出発した。
おそらく、今過ぎた登山道から路盤に立ち入る人がいるためだろう。
周囲の藪は深いものの、一筋の踏み跡が出来ていて、見通しは悪くない。
急斜面になっている路盤ではなく、その左側に付けられた階段の部分を歩けるだけで、だいぶ楽に感じる。

もっとも、山自体が崩れつつあるのか、路盤は歪んでいて、階段の段差もてんでバラバラになっていた。
歩きづらいが、これでは藪や急斜面よりは遙かにマシである。

なお、ここから少し先までは、本に書いてあったので先が分かる。
これから間もなく“本当の”中間地点である交換所の跡があって、その先には道中最大の遺構ともいえる隧道が待ち受けているはずだ。

楽しみな遺構との遭遇は近い!
というか、もう見えはじめた!


…ああ、なんかそわそわする。

上手く言えないが、首を上向きにした先に隧道を見るというのは不思議な感覚だ。
普通の車道や道路では考えられないような急坂の向こうに隧道を見ることへの違和感だろうか。
それに、隧道が潜っている切り立った尾根が放つ圧迫感。まるで頭上に覆い被さってくるようだ。呼吸を整えたはずなのに、息苦しさを覚える。
だが、終点はあの高く見える尾根よりもさらに高い。半分来たとは言っても、まだ先は長いのだと理解した。




「鉄道廃線跡を歩くVII」より転載。

7:35 《現在地》

全長1078mの鋼索線のちょうど中間である539m地点には、短い復線区間の「交換所」が設けられていた。
これは単線の線路上に2台の車両を交互に走らせる、「単線交走式」と呼ばれるタイプのケーブルカーにとって必須の施設である。本路線をはじめ、国内の大半のケーブルカーが該当する。

単線交走式のケーブルカーでは、2台の車両が山上の原動機を介して1本のケーブル(鋼索)に結ばれており、一方の車両が麓駅にいるとき、他方の車両は必ず山上駅にいる。
原動機によって麓の車両が山上へ巻き上げられると、それと同じ分だけ山上の車両は麓に向かって移動する。井戸の「つるべおとし」と同じ原理で、こうすることで必要なエネルギーを節約すると同時に、輸送力(輸送頻度)を高めている。
ここまで説明すれば、路線のちょうど中間に交換所が必要となる理由がお分かり頂けるだろう。

右の写真は、現役当時の交換所付近を写したものだ。
車両の運転台がよく見えないので進行方向は不明だが、1台は交換所の手前に、もう1台は交換所奥の隧道内に見える。
また、交換所付近で路盤の傾斜が少し緩やかになっている事や(勾配標も見える)、現在は大量の瓦礫が積もっていて分かりにくいが、路盤の両側に側溝があったことなどが分かる。
それと、隧道前の階段を歩いている数人の人影が見えるが、登山者が階段を歩く事が認められていたのだろうか?



交換所のすぐ上に口を空けている隧道。

旧版地形図には隧道は1本しか描かれていないが、実際は2本あったようで、これはそのうちの1本である。
当時の絵葉書などには「第一墜道」と名前が書かれたものがあり、おそらくこれが正式名称と思われる。

見ての通り、坑門は良好な状態で残っている。
築90年を経ようという大正生まれの隧道だが、外形的な破損がみられない。
この坑門の材質は石材で、笠石や帯石を配した意匠は、明治以来の石材隧道の典型である。

坑門の両側に聳える谷積の高い石垣や、坑門上に聳える斜面の急峻さ、そして自ずと見上げざるを得ない立地から、坑門は山上の聖域を下界と隔てる大門のような印象を受けた。




扁額あるじゃん!

これは事前情報になかったので、嬉しい誤算となる発見だった。

しかし、一体なんてかいてあるんだろう。 →【原寸画像】

大きな2文字が見えるのだが、達筆過ぎて解読出来ない。
大正時代の隧道ゆえ、高確率で右書き(右から読む)と思うのだが…。

右の文字は… 「索」??
左の文字は… 「霧」か「霜」か「露(ろ=路)」か? いや、「窟」の方が意味が通じるかも。
う〜〜ん、わからない……。

扁額の解読について、林瑞享氏より、「紫霞」と描かれているのでは無いかという情報が寄せられた。
同氏によると、「紫霞」とは仙人の宮殿の意で、李白が「春日獨酌其二」に詠んだ言葉だそうである。
この時代の扁額には、しばしば漢文からの引用が見られる。そこで朝熊山を仙人の住み処に見立て、その関門となる坑門に、「紫霞」と刻んだ可能性は十分あると思われ、最も有力な説と感じる。
林さま、ありがとうございました。 2015/9/8追記

また、扁額の大きさに対して文字の左側にやや大きなスペースが空いているので、落款のようなものが小さな文字で刻まれている可能性が高い。

読み取りたいが、藪が浅い冬場でこうだから、ちゃんと解読するためには、坑門上に登って刈払いをしないとならないかもしれない。
しかし周囲のツタの茂り方からして、それは重労働になりそうだ。今回は断念する。




第一隧道



…かっこいいな。

傾斜した隧道は、なんだかとても格好良い。

長さは50mくらいであろうか。長いものでは無いが、文字通り仰ぎ見るような迫力がある。

それに、ここでは今までになく路盤の細かな構造を観察する事が出来そうだ。やはり隧道はいい。



こんなに傾斜した坑門を目にする事は普段無いので、細かな意匠も興味深く観察する。

坑門はオール石材だったが、内壁は一転してオール場所打ちのコンクリートで施工されていた。
大正末という時代を考えれば、側壁はともかく、天井のアーチ部分を場所打ちで処理したのは、当時の最先端技術である。
通常の道路や鉄道では考えられない勾配のトンネルだけに、掘削はともかくとして、覆工の施工には普段とは違う困難や工夫があったと見るべきだろう。

ところで、傾斜した隧道の下側の坑門には、平坦な隧道の坑門以上に強烈な偏圧が加わるはずである。
こうして内壁を見ると、坑門付近には亀裂が集中していて、やはり経年を感じさせるものがある。
最後にはこの亀裂から外側が崩れ落ちて、坑門のアーチ環は一瞬で瓦礫の山になってしまうだろう。
いつまで今の美しい姿を保てるのか、どうにもならないことだと思うが、心配である。


交換所の辺りから路盤の勾配は幾らか緩んでおり、隧道内は階段ではなく、斜面になった路盤を歩いても転倒の心配はあまりない。

洞内は、冬の朝のかじかむような冷気で満たされていた。
風はほとんど無く、本当に静かである。
踏み込むたびに、路盤から浮いた細かな瓦礫が蹴飛ばされ、カラカラと乾いた音を立てた。

路盤には、まるで最近にレールを撤去したのでは無いかと思えるような、荒々しい破壊の痕が残っている。
点々と現れるひときわ大きな凹み(矢印の位置)は、ケーブルを誘導するための滑車(プーリー)を収められていた痕であろう。

もしも戦争による休止がなかったとしても、この路線がどれほど生き長らえたのかは分からない。平成を生きていたかは、かなり微妙であろうとも思う。
だがそれでも最低限、大勢に見守られながらの優しい最終日を迎える事だけは出来たであろう。
どうしても戦争に伴う休止…廃止という事実を知っているだけに、廃線跡に悲愴感や無念の情を重ねて見てしまう。




洞内に満ちた悲壮感は、

闇が濃くなるにつれ、ますます深くなったようだ。

周囲の壁の至る所から涙のように滴る水には、

隧道を少しずつ劣化させ、崩れを誘う作用があるが、致命的な崩壊はまだ起きていない。

とうに役目を終えているはずなのに、この世に名残があるのだろうと感じる。




想定外の高さに第二の隧道が見えやがる。



これは何という急さだ!




………


これはもう、隠せない。


この路線の「東洋一」とは、



(下記画像の出典はカーソルオンで表示)
「お伊勢参り 農事電化十周年記念」(昭和11(1936)年刊)より転載 「伊勢参宮読本 国民記念」(昭和12(1937)年刊)より転載

(鉄道事業法による日本の歴代鉄道路線における)
最急勾配となる652‰区間の存在。

文献は、「急勾配のこと東洋一と誇称してゐるもので一尺に六寸の勾配がある」
としているが、これは決して誇称ではない。
652‰とは、水平距離100cmに対して65.2cm上昇する勾配である。(角度に換算すると32°)
水平距離1尺(≒30.3cm)に対して上昇する高さは19.8cmであり、これは6.5寸に相当する。
誇称といえば、大袈裟に言っているみたいなニュアンスがあるが、これは文字通り誇って称した数字とすべき。
むしろ、控えめに言っているくらいなのである。


隧道を抜ければ、真の急勾配区間の始まりだ。