ここに、数奇な運命を辿ったひとつの終着駅がある。
その駅は、橋場駅という。
国鉄橋場線の終着駅である。
だが、この駅が機能を停止して、既に60年以上の時間が過ぎている。
橋場駅は、鉄道省の橋場軽便線(軌間1067mm)の終着駅として、大正11年6月25日、地元の熱烈な歓迎の中に開業の日を迎えた。
県都盛岡から西へ約24km延びた鉄路がたどり着いた橋場地区は、当時人口1000人ほどであった岩手郡御明神村(現在の雫石町の西部)にあり、その沿線には小岩井農場などの牧畜で有名な雫石村があったが、いずれにしても、単独で採算性があるような路線ではなかった。
やがては橋場駅の西に奥羽山脈を貫通する大隧道を穿ち、隣県秋田の生保内(旧:田沢湖町・現:仙北市)から大曲(大仙市)へ至るという、壮大な「盛大横断鉄道」(または盛曲線)を構想した上での、その第1段階としての開通であった。
そのためか、開通翌年の大正12年には軽便鉄道から普通鉄道に格上げされ、橋場線へと改称された。
同じ使命を帯びた秋田県側の生保内線が、大曲から生保内まで開業したのは大正13年のことで、橋場線と生保内線という2つの盲腸線が、奥羽山脈の約20kmほどの距離を隔て向き合う形となった。
その後、政局のうねりや太平洋戦争による工事の中止など、次々に難局に見舞われ、奥羽山脈の貫通という終局の目的は容易に達成されなかったが、計画自体は死滅せず、昭和41年になって、鉄建公団の手でようやく国鉄生橋線が開通。
生橋線は橋場線および生保内線と併合されて、全線開業と同時に国鉄田沢湖線が誕生した。
橋場線の開通から、実に45年もの歳月が流れていた。
その後もローカル線でしかなかった田沢湖線が、軌間1435mmへ改軌されたうえ「秋田新幹線」の線路として生まれ変わったのは、JR化後の平成9年のことである。
だが、この秋田岩手両県民の百年の大計の影で、ひっそりと放棄され、既に忘却の彼方へと消えてしまったかのような、橋場線の休止区間が存在する。
それが表題の橋場駅と、橋場駅に隣接する約1kmの休止線である。
橋場駅の休止は、太平洋戦争が激烈を極めた昭和19年に行われた。
政府は不足しつつあった鉄材の補給のため、軍事上重要でないと判断された鉄道のレールを剥がして転用するという、世に言う「不要不急路線」のレール供出を強制した。
その巻き添えを食ったのである。
当時、仙岩峠越えの延伸工事は、生保内側から営々と続けられていたのだが、橋場線の中でも末端で輸送量が少なかった雫石〜橋場間の7.7km(当時は途中駅の赤渕は存在せず)は不要不急の鉄道と見なされ、延伸の希望から一転、無惨にレールを奪われた同区間は、当然休止となった。もちろん、生保内線の延伸工事も休止されている。
このとき橋場線から剥がされたレールは、当時建設中で軍事的にもより重要とされた釜石線にまわされたと伝えられている。
終戦後も雫石〜橋場間のレールは撤去されたまま放置されていたが、地元の熱心な再開運動が功を奏して、昭和39年にようやく再開される運びとなった。
また、この頃には念願の県境区間である生橋線の建設も決定していた。
だが、ここが橋場駅にとっては、真に命運を分けた場面である。
当初は当然のように、雫石から橋場までの全区間のレールが再敷設されるかと思われたが、現実には橋場駅の雫石側約1.5kmの地点に赤渕駅が新設され、ここが橋場線の新たな終着駅となったのである。
赤渕〜橋場間については、戦前の休止のまま、レールは再び敷かれることがなかった。
続いて岩手側でも始められた生橋線の建設は、赤渕を起点に行われた。
戦前までの計画(生保内〜橋場を結ぶ盛曲線)は、いつの間にか生保内〜赤渕を結ぶ生橋線へと変更されていたのである。
この路線変更の理由や経緯はつまびらかではないが、トンネル技術の向上により、より短絡的な路線が建設可能になったことや、詳細な地質調査の結果が作用したものと思われる。
路線変更によって影響を受ける住民も、橋場周辺のわずかな人口であったためか、大きな問題になった形跡はない。
結局、このような複雑な経緯を経て、橋場駅という大正時代の終着駅が、とりのこされた。
国鉄が解体されてJRに財産が引き継がれた際、橋場駅が引き継がれた形跡もないので、今日に至っては、改めて「廃止」処分を下せる主体さえ存在しないように思われる。
2011年現在も、当然この橋場駅は休止のままであって、未来永劫終着駅である。