今回の内容は、本編(廃線レポ「飯田線旧線 中部天竜〜大嵐」)の最終回であると同時に、道路レポ「静岡県道288号大嵐佐久間線」の最終回を補足するものである。
廃線と道路、両方を混ぜながら紹介するが、ご了承いただきたい。
今回の内容は、本編(廃線レポ「飯田線旧線 中部天竜〜大嵐」)の最終回であると同時に、道路レポ「静岡県道288号大嵐佐久間線」の最終回を補足するものである。
廃線と道路、両方を混ぜながら紹介するが、ご了承いただきたい。
12:10 《現在地》
昨日、「明るいところでちゃんと見たい」と願った、通行止めのバリケード。
やっと落ち着いた気持ちで眺める事が出来た。
ひとことで言えば、禍々しい。
こんな朽ちたゲートを、どんな意図であれ突破してしまえば、命まで危うくなる。
そういうひとつの経験を積んだのである。
まったくもって、ひどすぎる廃道だった。
ここから先は、県道288号の現役の区間である。
とはいえ、夏焼隧道まではカーブひとつ分の距離しかない。
この路傍には、夏焼の住人が所有しているものなのか、いくつかの廃コンテナや廃車が並んでいる。
現役の道とは言っても、これまでとの違いは単に路面に石が落ちていないというくらいである。
雰囲気自体はそう違わない。
もちろん、誰かと行き交うようなこともない。
そして夏焼隧道前に到着。
この隧道は前にも書いたとおり、飯田線の旧隧道を転用している。
飯田線時代の名称が「夏焼隧道」で、車道に転用後は新たに「夏焼第二隧道」の命名を受けている。
だから、県道のトンネルとして語るならば夏焼第二隧道が正式であるが、ここでは前記に統一する。
坑口前は丁字路になっており、直角に右折するとそのまま全長1200m超の夏焼隧道へ。直進すると夏焼集落へ入ることができる。
ここにはいくつか気になるものがあるので、紹介しよう。
まずは、写真中の「1」の看板…
現在地は佐久間ダムの水位が「異常に上昇」した場合に、冠水して通れなくなることがある という注意書きだ。
この道が通れなくなることは、夏焼集落の住民が(舟でも使わない限り)一歩も外へ出られなくなることを意味する。
これを普通に考えれば、行政サービスとして「なぜもっと安全な場所に道を付け替えないのか」となるが、冠水という事態が滅多にないのと、関係する人口が少なすぎるので、この看板で許されているのだろう。
ちなみにwikipediaの「夏焼第二隧道」の記事に拠ると、昭和35年に実際に異常増水のため、隧道が冠水したことがあるという。
そもそもの話として、ダム建設以前の旧線トンネルを、ダム完成後も使っていることが、こうした異常事態の原因である。それは明らかだ。
しかし、看板を掲げるだけで何も冠水対策をしなかったわけではない。
…この話はちょっと後にして、先に他の看板も見てしまおう。
文字の消えかけた看板と、倒れそうになった幅員制限の規制標識。
まず看板だが、赤い文字で右に大きく何か書かれているのが分かる。
しかし、読めそうで読めない。
私は断念してしまったが、あなたの挑戦を待っている→【原寸画像】
そして幅員制限標識のほうだが、こちらは読めるけれども、良い具合にくたびれている。
本標識は幅2m制限だが、補助標識には「この先1.80mの規制あり」と書かれているのは、この場所は2m制限だけど、先に行くともっと狭いよってことなんだろうか。
あと、そもそもの問題として、この標識は本来どちらへ向いていたのかというのがある。
夏焼隧道側の標識なのか、集落道に対するものなのか、はたまた廃道区間に対するものなのか。
位置的には集落道っぽいが、内容的には廃道区間への規制っぽい気もする。
さっきの画像の「3」の位置で、ガードレールに貼られた県道標識を発見した。
そして、どうやらこれが県道288号の夏焼側で、最も奥にある“ヘキサ”のようだ。
このタイプのステッカーヘキサは、そんなに古いものではないと思う。
これでも一応、県道であることは主張したかったんだろうな…?
普通ならば県道にヘキサがあって何も訝しがることもないだろうが、ちょっと道が道なだけに、ね。
ヘキサのあるガードレールの前に立つと、ちょうど当回のスタート地点が、夏焼沢を挟んだ正面に見える。
前述したとおり、飯田線の旧線路はここを橋以外の方法(築堤だろう)で渡り、対岸で即座に「第三難波隧道」へ入っていた。
しかし、これらの痕跡は一切残っていないので、はっきりしたことは言えない。
なお、右画像にカーソルオンしたときに表示される路盤や隧道の位置が、妙に目線よりも低いと感じなかっただろうか。
実はこのように描いたことには根拠がある。
改めまして、夏焼隧道(現:夏焼第二隧道)。
これまで見てきた飯田線旧線の隧道と、なんら違うところはない…こともない。
これまでの隧道との違いが分かるだろうか。
最大の違いは、扁額を取り付ける凹みがあることだ。
道路用のトンネルならば普通だが、鉄道用ではこの位置に扁額がある坑門はほとんど無い。(ただし、肝心の扁額自体は見あたらないが)
そして、これまでの坑門にはほぼ例外なく存在していた「笠石」もない。
この坑門は鉄道時代のものではない。
ダムの建設にあわせて隧道を新たに車道用に転用する際、湛水位以下になるこの南口を、5mかさ上げしているのである。
当然、作り替えられたのは坑門だけではなく、坑道も一部掘り直されている。
坑口から洞内を覗き込むと、1200m以上も先にある出口の光が見えた。
昨日はすでに暗かったので、こうして光を見通すのは初めてだ。
そして、その出口の光は、随分と天井に近いところに見える気がした。
これが、かさ上げされた痕跡なのである。
この景色は、どこから掘り直されたのかを教えている。
次の写真では、もう少し分かり易くなる。
この写真は、入口から望遠で洞内を撮影したものだが、途中で勾配が変わっていることがよく分かる。
しかもこの勾配の変わり方は、緩和曲線を挟まない鋭角的なもので、鉄道の線路としては致命的である。
この勾配変わり方を見ただけで、鉄道時代のままではないと断定出来る。そのくらい異様な勾配の変わり方なのだ。
ということで、南口から目測100mほどの地点からかさ上げと掘り直しが行われたことが分かる。
こうして5mの高さを稼ぎ出し、“滅多なことでは冠水しない”状態を獲得したのである。
もしこれ以上かさ上げすれば、冠水のリスクはより減らせたに違いないが、掘り直さなければならない距離が膨大となるので断念したのであろうとも考えられる。
ちなみに夏焼隧道南口の標高は263mである。佐久間ダムの常時満水位は標高260mだが、異常事態となればこれを上回ることとなり、冠水するであろう。
ちなみに、『鉄道廃線跡を歩く』シリーズなどによると、右の写真に黄色く示した部分は旧坑門の一部だという。
しかし、5mのかさ上げが事実なら、果たしてこの位置に坑門の上部だけでも残るだろうかという疑問がある。
坑門自体の背丈が大して変わっていないならば、旧坑門はもっと低い(深くに埋もれている)のではないか?
これについては、正面から撮影した写真を紛失してしまったので、今回はスルーしたい。
いずれまた行くことがあると思うので、そのときに確認しよう。
【隧道名や延長の変化についての考察】
なお、夏焼隧道(夏焼第二隧道)の緒元については、下記の通り変遷が認められる。
出典: | 三信鉄道建設概要 (昭和12年) | 道路トンネル大鑑 (昭和42年) | 道路施設現況
調査 (平成16年) |
---|---|---|---|
名称: | 夏焼隧道 | 夏焼第二隧道 | 夏焼第二隧道 |
延長: | 1238m(4062.30呎) | 545m | 1233m |
幅員: | - | 3.2m | 3.7m |
高さ: | - | 3.9m | 4.3m |
竣功: | 昭和11年 | 記載無し | 昭和11年 |
車道転用によって名称が変化したことは前述の通りだが、昭和42年の『道路トンネル大鑑』の全長545mというのは謎である。
新たに掘り直した延長が545mもあったとは思えない。
これは全く想像に過ぎないが、車道転用にあたって掘り直し(約100m)や大規模な手直し(覆工など?)を行った長さが、あわせて545mあったということなのだろうか。
この数字は不可解ながら、近年の『道路施設現況調査』ではほぼ従前の延長を示している。
長さが5mばかり短くなっているのは、掘り直しの結果と考えても良さそうだ。(幅や高さも変化しているが、これは計測方法の違いかも知れない)
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12:22 《現在地》
いよいよ(ようやく)、最後の大物、夏焼隧道を探索する。
全長1238m(鉄道時代)/1233m(車道時代)という数字は、いま見ても決して短いものではない。
これは一連の旧線にあった38隧道中、堂々の第2位の長さであった。
そして何よりも面白いと思えるのは、これだけ長い鉄道トンネルが、ほとんどそのままの姿で車道に転用されているという現状である。
鉄道用トンネルというのは、その土木構造物としての形は車道用トンネルと大差ないが、利用形態は大きく違う。
たとえば今日において、1000mを越える道路用トンネルで、避難坑や火災防備施設、非常通報施設が全て無いというのは、かなりレアだ。
また道路用トンネルには、排気ガスが歩行者や視界に悪影響を与えないよう換気施設が設けられるが、当然この隧道にはそれも無い。
ない、ない、ない。 なにもない。
一部の掘り直しをしたとは言っても、結局この隧道は道路用としてはプア過ぎる、もはや “この場所にあるのでなければ許されない” というレベルの隧道 だとも思う。
そこがいいんだけどね!!
…ちょっと熱くなってしるうちに、私は早くも“勾配変わり点”にさしかかろうとしていた。
次の次の照明があるあたりが、それだろう。
これはこれは、怪しき素堀なり!
勾配変わり点に近付くと、突如側壁の覆工が無くなり、ゴツゴツとした裸岩がそこに現れた。
おそらくは、掘り直しの区間のみ全面コンクリートで巻き立てたのであり、そうでなくなったということは、元の夏焼隧道が現れたと考えて良さそうだ。
三信鉄道として隧道が開通した昭和11年当時は、資材も資金も今より乏しかったであろうし、より不安定なアーチ部分のみ巻き立てを行うようなことが普通に行われていた。
これは他の廃隧道でも見たことがある。
しかしそれにしても、この隧道の覆工の有り無しにはあまり法則性がなく、はっきり言えば施工が雑だという印象を受ける。
12:23 《現在地》
勾配変わり点付近にあった待避坑。
妙に背が低いと思わない?
前回もこんな景色を見ているが、あれは泥に下半分埋もれていたからだった。しかし今度は、舗装路面に同じくらい埋もれている。
ここの側壁は待避坑ごと、鉄道時代のものなのだろう。
よく見ると、スプリングライン(側壁とアーチの接線)付近が歪に不連続となっていることが分かる。
アーチ部分は、掘り直した際に巻き立てなおしたと言うことなのだと思う。
まるで死肉をつなぎ合わせて新たな命を込めた、隧道界のフランケンシュタインだ。
単純転用区間に入ると、それまでほぼ平坦だった勾配が明らかな登り坂に変わる。
南口の海抜263mに対し、北口は290m付近にある。1200mで30m近く登ることになるわけだ。
24‰…一般の鉄道としてはかなりの急勾配である。
しかし、トンネルと勾配が非常に多いことを考慮して、三信鉄道は同時期の私鉄としては珍しく、最初から全線電化を果たしていた。
だから煙害に苦しんだことはなかったし、内壁もそのせいか白っぽい感じがする。
右は先ほどとは別の待避坑。明らかに先ほどの待避坑よりも背が高いことが分かるだろう。
側壁は待避坑の周辺は必ず覆工されていたが、その他も所々覆工されていた。
左右対称ではなく、あくまでも適宜…という感じだ。
← ちょっとこれすごくない?
現役の隧道なのに、こんなに立派に育っちゃった…コンクリート鍾乳石が。
その辺の本物の鍾乳洞よりも立派なくらいだ。
よほど地下水が酸性なのか、コンクリートの配合がおかしいのか、よく分からないが、この隧道のコンクリート鍾乳石は全般的に快調だった。
「右666m」
大嵐に向かって左側の壁にそうペイントされていた。
残りが666mなのか、すでに666m来たのか、どっちだろう。
あ、そうか。別に考えなくて良いのか。
ちょうどここが中間地点なんだな。
中間制覇。
この隧道が…
もし崩壊したりしたら、夏焼の人たちは本当に孤立してしまうな。
しかし、その場合もこの隧道はもう復旧されないかも知れないと思う。
根拠はないけれど…。
天井に走る縦横の亀裂や白化を見ていると、現役の隧道とは思えなくなってくる。
短いならばいざ知らず、こんなのが1200m以上続くんだから、普通じゃあない。
ある意味、8qも10kmもある廃道を一日かけて這いずり回らなくても、夏焼隧道だけでも十分この道を表現している気がする。
もともとこうだったのか、車道化の際に少しコンクリートを増やしたのか。
それは分からないが、相変わらず側壁とアーチとでは、コンクリートの風合いが違う場所がある。
側壁は本当にテキトーに作られているように見える。
こんな風に多少出っ張っている岩なんかもあるが、建築限界に抵触しない限りは気にしなかったらしい。
なお、天井や側壁は絶望的にだらしがないが、洞床だけは文句ないアスファルト舗装だった(最近舗装の手直しをしたみたいだ)。
自転車を押しながら(皆さんはもう忘れていたと思いますが、バリケードからずっと押してきています)進むことしばし、
残りもようようわずかになってきた。
ゴツゴツした側壁にも、もう慣れっこである。
ん? 初めて左側に待避坑か?
そうだ。 横穴があったんだ!
昨日もチラッと見ていたのに、すっかり忘れてたぜ。
危うく素通りするとこだったが
気付いてしまったからには、入るしかない!
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