廃線レポート 池郷川口軌道と不動滝隧道 第3回

公開日 2023.04.01
探索日 2023.03.16
所在地 奈良県下北山村

 行き止まりの池郷川 絶叫せよ!!!!!!!!!


2023/3/16 15:42 《現在地》

トチノキダイラを上流側に突き抜けると、それまで軌道跡があった右岸に、その姿はもう見られない。
しかし、川岸の浸食によって失われたのだと言われれば、そうも信じられる地形である。
必然、古老の証言を得るまで、この先にも軌道が延びていて、やがては事前情報にあった“不動滝の隧道”に通じているのだと、偉大な先行探索者は考えた。

既に終点を過ぎた軌道跡はもう二度と現れないが、引き続き右岸には道が存在する。
それは、トチノキダイラの入口で【分岐した歩道】の続きだ。




岸に立って見上げれば、ご覧の通り、20mくらいも上にはっきりとした道のラインが見える。
この歩道は、分岐にあったプラスチックステップ階段を上っていった先の道であり、古いイメージは全くなかったのだが、ここから見上げた姿は苔生す石垣を有する古色蒼然のものであり、意表を突かれた。

ともすればあれが軌道跡の続きではないかと考えたくなる姿だが、実際に歩けば分かる通り(後で歩くのでその時レポートする)、明らかに軌道跡ではない道だ。ただ、遊歩道として近年整備された“だけ”の由来ではないことは、この石垣が物語っていると思う。



まだ歩道には上らず、永冨氏が辿った川べりを進む。

この先で川は大きく右に曲がっていて、滞留した流れが天然の大プールを作っている。
青というよりは碧(みどり)に近い深淵の左右どちらかを回り込んで進む必要がある。
近道は右回りだ。そのためには直前で川を渡る必要があるが、水量が少ないので飛石を見つけて容易く渡ることができた。

大プールの左側、川の蛇行の外側にあたる斜面には、大規模なガレ谷が発達していた。
あるラインよりも低い水際には、苔以外の一木一草も育っていない。まるで人造湖の岸辺のような風景だと思った。これは激流となる溢水時と、今日のような減水時で、狭い峡谷を満たす水位の変動が極めて大きいことを物語っていた。猛る谷の姿を想像して興奮した。

ガレ谷は山の中腹を横切る歩道を確実に寸断していた。ガレ谷の端に途絶えた歩道の続きが見えた。
歩道はずっと上り続けているようで、見える最後の場面では谷底との比高が30mを越えていそう。

歩道の遙か上部には、林道のガードレールや法面が見える。あちらは谷底から100mも高い所を通っている。
今回の私の探索とは関わらない存在だが、永冨氏たちは一連の探索を切り上げる時に、もと来た軌道跡を引き返すのではなく、林道へ上り詰めて脱出している。それが想像していたよりも遙かに大変で苦しかったことを切々とレポートしていた。  ……そりゃ大変だろうよ。この高さだもん。


(→)
さらに少し進むとガレ谷を正面に見る位置となり、歩道が切断されている状況がよく見えた。
これだけ地形が抉れていると、歩道の高さをそのまま横断するのは無理で、大きく下りて迂回するしかなさそうだ。

ここがいつ崩壊したのかの情報はないが、永冨氏の探索時点では既に崩れていた。
一連の歩道が管理放棄された直接のきっかけなのかも知れない。

(チェンジ後の画像)
天然プールを右から回避しようとすると、左岸に張り出した岩脈のような岩が最後に邪魔をした。
これを乗り越えて先へ進む。





左岸の小さな岩場を越えると、曲がっている川の先が初めて見える。

両岸が、これまでよりもさらに険しい傾斜を見せるようになり、典型的なV字谷を思わせる姿となった。

谷底だけはまだ広いが、ここから数十メートル進むと、目を疑うような風景が現れる。




永冨氏がこの場面を表現した文章が、とても印象的だ。


軌道は一体どこへ行ったんだろうとキョロキョロしながら歩いたが、それが見つかる前に、川が終わってしまった。
川が終わった? んなわけないだろう。地形図の表記はもっともっと奥から始まっている。我々はまだ序の口にいる。
それはわかっている。しかし、目の前の谷は塞がっているようにしか見えない。左手には垂直の崖の連なり。右は山。
正面にはその間を埋めるようにして白い川原が広がっている。軌道の行き先はおろか、
水がどこから来ているのかさえわからない。

『日本の廃道 vol.78』より


↓↓谷の行く先を拡大撮影↓↓



本当に彼の言うとおりだな。

(↑)こんなコメントしか出来ないのが悔しいぜ。先を知ってしまっているのが残念だ。

でも、彼のレポートがなければ、私がここを知ることは決してなかっただろう。

「川が終わってしまった。水がどこから来ているのか分からない」 本当にそう見える。




永冨氏も言及している「地形図の表記」は、このようになっている。

この先で池郷川はSの字に蛇行していて、その先に堰堤の記号がある。
それだけである。この蛇行の部分に不動滝と呼ばれる滝が存在するが、
滝の記号は描かれていないし、谷幅も広いままである。
ここから、実際の風景の劇的すぎる変化を、予見しうるものだろうか。

(でもよく観察すると、この先で川が等高線を5本も一気に跨いでいるのが分かる)



このまま谷底の川原を進んでいくと、

行き止まりに見えた谷の“真実”が、次第に見えてくる。



谷を通せんぼするように正面に立ち塞がる大岩壁の直下には、

先ほどの天然プールよりさらに大きく色も濃い水面が、待ち受けていた。

ここまでほとんど音を立てなかった川が初めて、土砂降りの雨くらいのノイズを聞かせはじめた。



ここまで来くれば、やっと川の行先、水の出所が、分かる。

それは正面ではなく、地形図の通り、左から来ていた。

見通せない左側の岩の隙間が、川の唯一の通り道だった。




川の行く手を見通せる位置へ進む。



15:55 《現在地》

不動滝。

巨大な滝壺の奥に見える滝の高さは3mくらい。

たったこれだけと思うのは早急だ。先ほどの地形図の等高線は、誤りではない。

ここから見える滝は、不動滝の前衛と言うべき副滝である。




この奥で谷は左折し、その先にメインとなる2段の滝があるそうだ。

その本体は、安全圏から決して見えない。音だけがくぐもって聞こえる。

この不動滝と前後のゴルジュこそは、屈強な沢やたちを魅了して止まない池郷川の門戸である。

元来、技量未熟の者の入渓を許さぬ天然の敷居となって立ち塞がっていた。



最初にこの渓流の魅力をアルピニストたちの目に留まり易い場所で発信したのは、
林業技師で、「吉野熊野国立公園」の父とも言われる岸田日出男氏であり、
昭和7(1932)年のことだそうである(昭和32(1957)年発行『大峯の山と谷』による)。

だが、永冨氏たちが探索し、私がその後を追っている“隧道”は、
おそらくアルピニストに池郷川が知られるよりも前から存在していて、
この渓谷を満たす水を運材手段として利用する林業が、営々と行われていたのだ。
隧道は、そのために作られた装置であった。

古老の証言によれば、不動滝にそのまま木を流すと途中で詰まってしまうから、
最初は「ハコドイ」というものを作って、滝を迂回して流材を行っていた。
次に、「ハコドイ」を置き換える形で、滝を迂回する隧道が作られたのだという。

隧道がいつ作られたかを古老は覚えておられなかったが、永冨氏は
さまざまな根拠を挙げたうえで、昭和4年頃ではないかと推測している。



いよいよ本題だ。

その隧道は、どこにあるのか。

滝の神秘も、滝登りの興奮も脇目に振って、黙々と山の仕事に従事した、

世にも珍しき流材カリカワ用隧道の在処は――




(↑)ココダ!

こうして地形図に描いてみると、滝を迂回する隧道という位置関係がよく分かるだろう?

そして、ここまで意味深に脇役を演じていた“歩道”が、実は隧道への唯一のアクセスルートだったという

出来すぎた伏線も明らかになった。私のはデキレースだが、永冨氏の驚きは本物だった。



もちろん、地図だけじゃなくてリアルの姿も見たいよね。

お見せしましょう!!

場面は少しだけ下流へ戻って、【左岸の岩場】を越えた直後へ。



前方150mに曲折する不動滝を遠望するこの場面。

前方50mほど先の右岸、桃色の枠で囲った部分に注目して欲しい。



おわかりいただけただろうか。




あの絶壁の穴から、木を水と一緒に流したという。



ぶっ飛んでいる。


流された木も、林業家のアイデアも。




 不動滝を迂回するための冴えた“運材路”


2023/3/16 16:10 《現在地》

これが私の見たかった隧道だ!

固有の名前があるのか不明だが、おそらくないと思う。
だって、名前によって他と区別する必要なんてなかっただろう。こんな極まって卓抜した隧道は。たぶん現役時代には、穴、隧道、まんぼ、トンネル、どれかは分からないけど、いずれ固有名詞と呼べないような呼ばれ方をしていたんじゃないかと思う。
なので本稿では不動滝隧道、あるいは、不動滝流材隧道と呼ぼうと思う。また、単に隧道と書いたら、これのことだと思ってくれ。

大正4(1915)年生まれの古老が、隧道は滝を迂回する流材路として建設されたことを、永冨氏に証言している。
今のところ、この隧道の利用方法に言及した唯一の文献は、この古老の証言を受けた永冨氏のレポート(『日本の廃道 vol.78「池郷川口軌道」』)であり、氏も参照している『下北山村史』をはじめ、私が把握している他の文献でも、関係する記述は未発見だ。隧道の存在に言及している資料でさえ稀である。

以下の文章は、永冨氏によってまとめられた証言の内容だ。

隧道に水を導き入れ、一緒に材木を流した、いわば水路隧道だったのだ。隧道を通った丸太は勢いよく飛んで、崖下の淵へドボンと落ちた。それを製材所で引き上げて製板し、トロッコで東熊野街道まで運び出していた。

『日本の廃道 vol.78』より

古老は、この隧道が作られた時期を覚えておられなかったのだが、彼が子供のころにこっそり乗って遊んだ経験を証言している、トチノキダイラの製材所と池郷川口の土場を結んだトロッコ(池郷川口軌道)が稼動していた同じ時代に、隧道は使われていた。

このことから、大正の後半から昭和10年頃の期間のどこかに、隧道が利用された時期が含まれていると考えられる。 ただし、この期間が全てであるとは限らない。証言者は太平洋戦争中に出征しており、そのまま長く地元を離れたことで、トロッコや隧道の“その後の経過”については証言されていないのである。
したがって、これらの運材施設の全てや一部分が、戦時中から戦後にかけても長く使われていた可能性も、明確には否定されていないようである。



永冨氏が最初にこの穴を発見した時点では、彼はこれを池郷川口軌道の隧道(masa氏がかつて沢登りで通行した隧道)だと考えた。
軌道が不動滝を回避して上流へ到達するために、先端に滝を持つ尾根をショートカットするものであると判断した。探索者としての自然な解釈である。

実は軌道の終点は下流のトチノキダイラで、隧道は流材のために掘られたという証言を得るまで、隧道の軌道由来説を決定的に否定する探索の材料はなかった。
無理矢理にあの坑口まで軌道を延ばすことが出来ないと誰が言えよう。彼ほどの探索者なら、これまで何度も常識に囚われない衝撃的な軌道跡を目にしてきているのだ。

だが、改めて隧道が流材用だとなると、そこには極めて説得力を持つ景色との符号があることに気付く。
それは、坑口から直下の谷底に至る斜面が、水の涸れた滝を思わせる、露出した岩盤になっていることだ。

単純に、険しい崖であるために岩盤が露出していると考えても矛盾のない地形だが、あの穴に池郷川の上流から水が導かれ、一緒に木材を流し落としていたと言われれば、この“涸れ滝めいた風景”に対する、最良の説得力を持った説明になる。合点がいく。

隧道の入口は見えるが、反対の出口の位置は今のところ明確ではないために、おそらくそうだろうという推測の話なのだが、あの見える坑口と谷底の落差は、先ほど入口しか見えなかった不動滝の本当の高さに相当するものなのだと思う。
これは、不動滝を迂回するために作られた、流材のための人工の穴、そして、人工の滝だった。これらが一連の“運材路”になっていた。

“路”という言葉を入れるのがちょっと憚られるくらい、衝撃的な運材の路だった。
小さめに見積もっても落差30mはある滝を落下させることを、運材と呼ぶ土地があることを、私は知らなかった。

だが、驚くべきことに、下北山村にはここと近い運材方法が用いた谷が他にもあったらしい。

前鬼谷は天下に聞こえた悪場である。(中略)
大滝(不動七重ノ滝)は材木が滝つぼに落ちるまでに、いろは四十八文字が唱えられるほど高い滝である。こんな所でも、浦向の田室敏美さんなどダシの名人たちは材木を出した。仕事はおもに冬だった。前鬼谷はよく霧がふくので、天気でもみの笠を着け、ロクロバで火を焚いて一時間交替で濡れそぼった体をあたためた。こんなえらい仕事だったが、七間ものハラセを作って滑らせ、空中を飛ばせて下の滝つぼへ落ちてゆくのは壮観であった。こんなあぶない仕事だから、一ノ谷にかかるという時は前鬼の行者さんを頼んで護摩を焚いて貰い、また途中の滝で仕事中に小便をするときは絶対に岩や木にはしないで、自分の足の甲にひりかけるくらいに気をつかった。

『下北山村史』より


今の話聞いた?

あっはっはっはっは。

下北山の杣人には、超人としかいいようがない者たちがいたようだ(笑)。

池郷川の北の山向こうを流れ落ちる、前鬼(ぜんき)川の「不動七重ノ滝」は、「日本の滝百選」にも選ばれている奈良県屈指の名瀑だ。
奇しくも、この地の滝と同じ不動の名を冠する落差160mもある7段の連瀑を舞台に、かつて流材が行われていたというのである。

そこでは、滝にそのまま材木を流すと岩場にあたって傷むので、落口から空中に飛び出すように、7間(約12.6m)もの長さの滑り台のようなものを作っておき、そこから虚空へ放り出された材木は、一気に滝つぼまで落ちたという。材が落ちるまでにいろは歌を終えられるほど高かったというのは、もはや伝説めいている。

この村史に採録されている前鬼谷の流材は、特異なケースであったからこそ記録されたのではあろうが、唯一無二でもなかったようである。
少なくともこの池郷谷では、自然の滝を落とす方法から一歩進んで、別に人工の水路と人工の滝を作って落としていたのである。
もしかしたら、滑り台のようなもの(ハラセ)を、ここでも利用していた可能性もある。

……とにかく、凄い、凄すぎ……!


さて右の画像は、人工滝の滝壺へ迫って撮影した。

辛うじて滝壺に水はあるが、池郷川のどこよりも淀んだ溜まり水だった。かつてはきっと30mの自由落下を受け止められるだけの深さを持っていたのだろうが、水流の消えた滝壺は埋め立て完了寸前だった。
もう二度と、この滝を池郷川の水が落ちることはないのかもしれない。
なぜなら、この上に口を開けた隧道は、トンデモナイ状況で閉塞しているはずだから……。
永冨氏が「のわーっ!!!」ってなったのを、私は画面で見ている……。




滝壺より見上げたる、怪なる坑口。

次はいよいよ、あそこを目指す。

滝の斜面は垂直ではないものの、徒手空拳で挑める限度を遙かに超えた傾斜がある。

ここから最短でよじ登るのは、どう考えても無理なので、最小限度に迂回する。

高度を上げよ。危険を背負え。お前が欲する答えは、その先にしかない!