廃線レポート 定義森林軌道 その1
2004.11.11


 その衝撃を、私は『鉄廃ショック』と呼んでいる。

さる10月27日の20時頃のことである。
相互リンク先サイトの「鉄の廃路」(管理人:けな氏)の掲示板に速報的にアップされた画像は、何気なく見た私の脳天を貫通して、なお股間から出た。
失禁したのである。

これまで、そんなことは一度たりとも無かった。
流石に、27歳にもなってお漏らしをしたとなれば、問題である。

だが、これはやむを得ないことであった。
なぜならば、けな氏がその日の午前中に発見したという、
その写真の「」が、あまりに衝撃的であったのだから!


私は、すぐ行くしかないと思った。
あの橋は、もう待ってくれないかも知れない。
写真を見る限り、いつ崩れ落ちるかわからない、その姿を留めていることが、不思議で仕方がないような橋である。
間もなく訪れる、廃止後45回目の冬を乗り越えられるか分からないのだ。
ただですら、日本列島は今年多くの台風に見舞われていた。
ダメージが蓄積していることは想像に難くない。

しかし、私が現地に行くための障害もあった。
最大の物は、その距離である。
距離は、時間的な制約を生む。
また、地の利がないこと、事前情報の少なさも、頭を悩ませる要因だった。

そこで私は、やはりあの写真を見て衝撃を受けていないはずがないと確信できる、そんな仲間達に打診した。
そして、共に旅する仲間と、現地への足を同時に手に入れた私だった。
首尾良く1週間後の11月3日を決行日と定め、待ちきれない気持ちで悶々と6晩を過ごしたのである。


 私たちが挑もうとしているのは、私の住む秋田市からは隣県だが遠い宮城県の仙台市。
東北の盟主たる仙台市中心部のごく近郊20kmの位置に、驚くべき橋梁は、今日まで息を潜めていたのである。

探索当日までに私が行うべきことは、今まで一度も踏み込んだことのない山域で、飛び入りの探索になるハンデを少しでも埋めることであった。
確かな踏査を行うには、軌道の姿が描かれた地図が最も確かだが、それを手に入れる時間はなかった。
また、けな氏は実際に踏査の前に地元の図書館を調べたそうだが、やはり林鉄の資料というのは少なく、我々が挑もうとする部分までを描いた地図はなかったとのことである。
そうなると、次に頼りになるのが、航空写真である。
幸いにして、これは全国の大部分について、家に居ながらにしてみることが出来る。
そして、この航空写真により、幾つかの重要なヒントを得ることが出来た。

私が事前調査で得られたのは、この航空写真に見える微かな痕跡と、バイブル「全国森林鉄道(JTB刊)」巻末の一覧に示された僅かな数字(竣工年・廃止年・延長)、そして、偉大なる先人けな氏の記した「鉄廃」のレポートである。


名称、定義(じょうげ)林道。
区分、2級(森林軌道)。
竣工、昭和13年。 廃止、昭和35年。
延長、113000m。


 私を一目惚れさせた決死の橋梁。
 そして、その奥に広がる未知の世界。



仙台市青葉区定義 大倉ダム湖畔
2004.11.3 7:00


 前夜1時過ぎに秋田を発った私と、細田氏。
細田氏は、山行がではお馴染みの探険隊メンバーの一人である。
私は彼の車に便乗し徹走の末、当日午前5時頃には、目指す軌道の起点にほど近い大倉ダムに着いた。
関山峠で宮城県に入った途端に強まった雨は、ここにきてなお弱まるどころか、しとどに降り続いた。
不安を感じながらも、ここで僅かな仮眠を取ることにした。

そして、夜が明けてやや雨脚が弱まった午前7時過ぎ、もう一人の同志であるくじ氏が、やはり徹夜の末に現れた。
相変わらず空の見えない天候に苦笑いしながらも、ここに3人が集うたことでいよいよ実感が湧いてきた。

あの衝撃の橋梁は、もう間近なのだ。
相まみえたとき、私はどのような行動を取るのだろうか…。
すこし、怖さもあった。

だが、とにかく早く会いたい。
もう、恋い焦がれる気持ちそのものだった。

7時10分頃、2台の車は3人を乗せて、定義地区最奥の集落である十里平へと走り出した。



 大倉川に面した十里平は、仙台市青葉区内の一集落であるが、典型的な酪農村の様相を呈しており、仙台市街へと通勤するのだろう小綺麗な乗用車と多く違うことを抜きにすれば、どこの山奥かという景色。
そして、ここは約5km下流の定義地区中心部が起点であった森林軌道と、現在の車道とが交わる最終地点である。
今回の我々の探索のスタート地点は、この十里平である。
そして、探索の目的は、この上流に残された推定6kmの軌道跡を解明することである。

なお、定義〜十里平の踏査は、すでにけな氏によって成されており、詳細なレポが纏められている。
皆様も是非ご覧下さい。

 >>鉄の廃路


 車道の終点に車を置き、各自装備を整える。
路傍の牧草地はすっかり秋枯れ色となり、背後の紅葉は錦の鮮やかさ。
紅葉狩りには最高の頃合いだろう。
だが、その美しい山肌をヴェールのような薄雲が覆い隠している。
前途の至難を暗喩するには充分すぎる、異様な雲行きである。

だが、気の知れ合った3人なればこそ、迷わず結構のゴーサインを出すことも出来た。
装備品は、ほぼ粒様沢と同様である。
沢歩きがどの程度必要となるのか、不透明ではあったが。

また、この日はけな氏達による、定義の2度目の踏査活動も予定されていた。
どうやら、我々が先に入山することになるようである。
無惨な撤退を晒したくないという、邪な気持ちがなかったと言えば嘘になる。
山行がが動いたからには、何かを持って帰りたいという焦りは、確かにあった…。

え? そう言うことはレポに書かなくても良い??



 7時47分、予定時刻より17分遅れで、いざ入山開始。

この先に、机上調査により想定される軌道延長は、おおよそ6km。
往復の探索となるので、この時期の夕暮れの早さを考えると、遅くとも13時には終点に辿り着き、帰途に就きたい。
可能な限り、ペースを上げて、まずは軌道全体の程度が把握できる程度まで、奥地へと歩みを進めたいと思った。
そうしないと、タイムテーブルを作りにくい。

車道終点から、大倉川の軌道跡に向かって、車道の跡らしき荒れ道が50mほど続いている。
この終点が、軌道との出合いとなる、写真の地点だ。
我々の軌道探索は、正式にここから始まる。
向かって右は、藪だが、痕跡はありそうだった。しかし、今回はパス。
左が目指す上流方向であり、しっかりとした踏み跡が続いている。



 この段階で、雨は時折落ちる程度となっていたが、空模様としては相変わらず雲一色。
前夜から雨が降り続いていたらしい仙台地方の土壌は、保水能力の限界を超えつつあり、軌道跡の歩道も至る所が泥濘である。
軌道敷きを歩き始めてすぐに現れるのが、この写真の封鎖ゲート。

ここまでは、2分とかからない。
ゲートは脇が甘く、全く問題なく突破できるが、かつては車輌交通を想定する道だったことが伺える造りだ。
軌道らしき痕跡は、枕木・バラスト共に現存せず。
現段階では、廃車道そのものである。


 ゲートを過ぎると、そこから先は大倉川の切り立ったV字峡谷の右岸にへばり付くような、かなり際どい道となる。
もともとはもう少し狭かっただろう軌道敷きを無理矢理拡幅したのか、奥地では過剰なほどに見られる石垣なども、殆ど残っていない。
路面の一部には二条の轍が刻まれたままであり、軌道廃止後車道として転用されたことは、決定的だ。

我々のこの天候についての最大の懸念は、なんといっても沢の水量だ。
よほどの豪雨にでもならなければ、森の中を歩くことの困難は晴天とさして変わらない。(もっとも、濡れや冷え、視界不良は恐いが。)
しかし、けな氏のレポートを見る限り、これまでに判明しているこの先1500mの区間において、少なくとも1度は本流を渡河せねばならない可能性が極めて高い。
言うまでもなく、それは、例の橋梁なのであるが…。
とにかく、本流が渡河できないほどの水量となれば、行けても帰られなくなる最悪のケースも考えられ、探索続行不可能と言う決断を下さねばならなくなる。

現状では、幸いにして大倉川の広い河床には、幾ばくの余地が残っているようだ。
この水位ならば、渡渉は場所を選べば可能だろう。
先へと進む。


 愛の成願
7:57


 軌道らしいのは、崖を削った道が、殆ど高低差無く進むという点だ。
河床は広く平坦な砂利地になっているが、そこまでの比高はおおよそ30m。
道幅の半分以上は山側から崩落してきた土砂に埋もれた上に、路肩も斜めに傾斜しており、早くも油断ならない道となった。

紅葉はやや終わりかけだが、台風の塩害で悉く破壊された秋田沿岸の紅葉しか見ていなかった私には、十二分に美しく見えた。
また対岸も、此岸同様に稜線まで一直線の懸崖となっており、そこには幾筋かの俄滝が白く尾を引いていた。
これら美しい滝の姿は、くじ氏がカメラを構えるに足るものであった。
彼の滝好きはかなりで、滝業界でもその名を顕しつつあるようだ…。
これら滝などの出水によって、これからさらに水位が上昇することが予感された。
雨が今後やまないのであれば、本当に山中取り残されのリスクを背負うことになる。
デジカメもまた沈黙するだろうし、…そうしたら、最悪だなー。




 山チャリストとして見慣れた、廃林道の姿そのものである。

上部は雲、その下は靄や霧によって隠された対岸の紅葉。

生気を失い変色した葉っぱ達が、雨の滴で最後の輝きを取り戻そうとするかのように、瑞々しく見えた。
雨の紅葉も、なかなかだ。



 8時00分。
景色の変化は唐突に現れた。

この景色は、1週間前にモニタ越しに見たものとそっくりである。
歩き始めから、おおよそ700mほどだろうか。
思いがけず早く辿り着いたので、まだ現れないだろうと油断していた私は、ややカウンター気味にこの景色を見た。

軌道敷きを転用した車道は、恐らくここで終点だったと思われる。
目の前には道は無く、切り立った崖の下には灌木や雑草の原が、砂利の川原に続いている。
さらに奥には大きな砂防ダムが、ひっきりなしに轟音を轟かせている。

こここそが、私がやって来た最大の目的地なのだ。
そのことは、やや遅れて確信に変わった。
この地に立ったその時から、チラチラと視界の隅に見え隠れする、なにかがあった。
私は、もう逃れられないその対面を、どんな風にするか、多少戸惑った。

馬鹿げているかも知れないが、会いたくて仕方がなかった恋人との、初めての逢瀬なのである。
そのくらいの慎ましさがあっても、いいのである。
マジな話、私は敢えて、近づくまで、それを、視界の中心に持ってくることを避けた。

そして、その袂に立った時。
感激に、叫びを上げた。
3人ともだ。







 我々の叫びは、てんで可笑しかった。
なにせ、大の大人3名が、ただ、すげーを連呼するばかりだったのだから。

今時、小学生でもこんなに素直に驚くまい。
スゲーの連呼は、それこそ、砂防ダムの轟きをも掻き消すほど、山中に谺した。
だって、本当にすごいんだもの。


  すげーすげー、すげー  



 ここまで書いていて、あの興奮が蘇って参りました。

 次回、ここで起きた全てを、お伝えできるでしょう。

 闘いは、絶叫と共に、始まったのでした。





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