神岡軌道 第二次探索 (杉山編 第3回)

公開日 2009.5.15
探索日 2009.4.27

廃線の旧線に隧道が…


    2009/4/27 13:53 《現在地》

幸せすぎて、
困っちゃう?!

茂住駅跡から歩くこと約45分。
予想外の幸福シーンが私を待っていた。

← 旧隧道?
新隧道? →




なんとそこには、おそらく新旧の関係にあろう2本の隧道が少しだけ離れて並んでいた。

反対側の明かりが見通せるコンクリートの隧道(新?)と、奥行きは不明ながら地形的に考えればかなり短かろう素堀の隧道(旧?)。
当然のように旧の方は荒れていて、貫通しているのかどうかも分からない。

どちらから先に探索するかと問われれば、まず進路を確保して安心するためにも、好物は後にとっておく私の癖からしても、答えは1つだった。

神岡軌道標準と思われる形状を有する、コンクリートの隧道へ。




緩いカーブの先に待つ光は出口…

 …じゃないし。

2本目だし!


どこまで私を舞い上がらせれば気が済むのか。
「新」隧道の方は、ワインカーヴのようなロックシェッドでそれぞれ30mほどの2本の隧道を連続させていた!

去年「何も無さそうだ」と素通りした場所にこれだけの遺構が眠っていたなんて、我ながら恥ずかしいッ!
オブローダー失格ジャネーカ!




何となく目を引いた壁の穴。

水の出た痕跡はないが、まず疎水坑であろう。
5cm四方ほどで、木枠によって形作られている。




連結された2本の隧道。
あるいはこれで1本の扱いかも知れないが、少なくとも「旧」隧道との関連はここでリセットされているはず。

おそらく、黄色い矢印のように旧線のラインは合流してきていると思う。
それを確かめるべく、一旦坑口へと引き返す。




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そして、
旧隧道の前へ。


素堀隧道にありがちな、坑口の上位遷移崩壊が発生している。

ようは、坑口上の岩が崩れ、そのぶん坑口が上方に移動してしまうこと。
当然このような隧道の内部を確かめたり、潜り込むためには、崩れて山になった瓦礫(崖錐)を登らなければならない。
それ自体は大概難しくないのだが、私はこの一瞬の緊張感が大好物だ。

貫通か、閉塞か。

その答えを求めるための数歩である。

今回は別に迂回路を確保している状況だけにまず気楽だったが、本来の廃道では進退を結するかもしれない、とても緊張する場面である。




うむ。


予想通り、開口部は相当に狭まっている。


まるで、巨大な人体模型の咽頭へ潜り込んでいくような、独特の気持ち悪さがあった。

…風もない。




これはきつい感じ。
まず、閉塞と見て間違いないだろう。

それにしても、酷い崩れ方だ。
これでは、早々に廃止せざるを得なかったのも納得である。

崩れた切片は非常に尖っており、見るからに節理が発達している。
しかも風化が進んでいる。
相当に脆く崩れやすくなっていると思う。





あまり気は進まなかったが、内部を確かめたい欲求には勝てず、胴の太さの3倍くらいしかない隙間から入洞。

内部は、本来の壁や天井がどこなのかも定かではないほどの崩壊振りで、足元の最も低い位置でさえ本来の洞床から1〜2mは高いと思われる。
それくらい瓦礫の山なのだ。

で、そんな瓦礫の山のはずなのに、なぜか大量の金属棒が落ちている…。

いまだ銀光を失っていない金属片は、瓦礫の上に置かれていることからも明白なように、“隧道がこうなってから”持ち込まれたものに違いない。
そして、この場所にこんな金属片を持ち込む可能性があるのは…。

ぶっちゃけ、国道の法面工事の人たちしかいないような…。
或いは捨てたのではなく保存しているのだとしたら、間もなく回収不能になりまっせ…。




出口側の壁。

残念ながら外へは通じていない、完全閉塞だ。

本来の坑口はもっと下の方にあるはずだが、大量の瓦礫が詰まっていて下を指向することは不可能。
掘り下げることも出来そうにない。




いずれにしても、地形の外観から考えてこの素堀隧道の長さは10m程度だ。
また、立地的にこれを旧隧道と考えない理由はなく、大正生まれの神岡軌道当初の隧道と見て間違いないと思う。

まだドキドキしながら外へと戻る。

そのドキドキの理由は、旧隧道へ入る前に、もう一つ新しい発見をしていたからだった。




右が、いま潜った旧隧道。

じゃあ、左はなんだ?


旧隧道にさえ入らず、さらに岩尾根を巻こうと突端まで延びる平場があるように見えるのだ。

セオリー通りなら「旧旧線」ということになるのだろうが、鉄道の廃線で旧線のみならず旧旧線までもがこれだけ密にまとまっているなんて、見たこと無いぞ…。
超例外的発見か?!
それとも、これは廃線跡ではない何か別のものなのか…。




旧旧線らしき平場を進むと、間もなくこの掘り割りに通じていた。

かなり鋭角にカーブしているが、神岡軌道の旧線レベルでは珍しいカーブではない。
そもそも、これだけ幅広の掘り割りがあるという時点で、単なる歩道や電線路の類ではないと思われた。

やはりこれは、廃線跡だと考えられる。




掘り割りの先はそのまま先ほど引き返した新隧道のロックシェッド部分に繋がっていたようだ。

この間、路盤が抜け落ちているが、元は橋を架けていたのかも知れない。
歩く分には通り抜けは可能である。

そして、問題の「旧隧道北口」であるが…。




跡地は明瞭な凹みとして残っていた。

こうして見ると新隧道とはあまりにも近く、新隧道の工事をすれば旧隧道は自然と崩壊しそうな感じも受けるがどうだろう。

もしかしたら、旧旧線と思っていた掘り割りの方が旧隧道よりも新しいなどの変則的な状況があるかも知れない。
旧隧道が崩壊したために迂回路として掘り割りが使われたとか。
ほとんど原形を留めない旧隧道の状況は、色々と想像させる。

しかし、その判断を直ちに下すことは出来ない。大正3年といわれる竣功当時、果たしてどちらのルートを線路は通じていたのか。気になるところである。




一旦はロックシェッドに呑み込まれるが、北側にはさらにもう一本の隧道が続いている。
そして、そこにも旧線や或いは旧隧道を疑って良い雰囲気がある。


ネクストステージへゴーだ!





新線(廃止されて50年も経とうという隧道をこう呼ぶのも不自然な感じはするが…笑)にある北側の隧道。
見ての通りロックシェッドと一体化していて坑門はない。
隧道自体も非常に整っており、今でも通路として使われているのではないか…なんて錯覚を憶えるくらいだ。

そして、最後の横窓から外へ出ると…。




これは…。

あると言えばあるし、
無いと言えば無いような…。

全体的に谷側へ傾斜した危うい落ち葉斜面を、さらに慎重に進んでいくと…。




在るなぁ…。

これは在るぞ。

おそらくここにも旧線があった。
今度は隧道も掘り割りも無いけれど、確かに平場の存在した痕跡が残っている。

そして、この岩場には今も人の手が加わっていた。




まるでお土産のミカンのようにネッティングされた岩場。
鋼線は今も銀光りしており、最近に設置されたものと見られる。
ここの真下には国道41号のロックシェッドが続いており、そこに岩を落とさないための「舞台裏」である。

また、写真内でハイライトした小さな石垣は、軌道のレベルより10m以上も上に見られたもので、古い鉄塔の土台である。
鉄塔自体は撤去されているが、軌道周辺ではこれと同様のものをときおり見ることがある。





が、

これはどうしたことだ。

岩尾根の突端を折り返した先には、ストンと落ちた崖があるだけで、道らしき道がない。
ネットはそれでも張られているのであるが、俄に道があったとは信じがたい状態だ。




しかし、なまじ直前まで道が見えていたものだから、私は勢いでそこへ入り込んでしまった。

足元が宙に浮いている感覚から我に返り、冷静になるのに時間はかからなかったが、その間にこれだけ(右写真)の距離を進んでしまっていた。
まるで、ワイヤーにぶら下がるようにして。

はらはらと後悔。
何を浮かれとるんだ私は。 調子に乗りすぎ。
余計な写真を撮っている場合ではないほどヤバイ場所に私はいた。
あと3mほど進めれば木の生えた斜面もあったが、そこまでしても依然道の跡は無いわけで、限りなく無謀。

おどおどと引き返すことになった。




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荒田沢橋梁跡 ふたたび


14:00

新線の隧道をくぐって北へ抜ける。

何の不安もなく進めることで、廃止されているとはいえ隧道のありがたみ…特に覆工された隧道の尊さを感じるのであった。




隧道が全て通り抜けできるおかげで、この区間の廃線としての魅力は倍加している。
難があるとすれば、南口が鉱山の私有地内であることや、北側への現国道からのアプローチが分かりにくくて面倒だということだが、その辺をクリアできれば景色は凄く良いし、路盤自体も比較的安定しているので、遊歩道だったら人気が出そうな感じはする。
まあ、あり得ないことだが。




坑口を振り返る。

さきほど断念した“外の道”だが、私が道だと思ったのも、或いは気の迷いだったのかも知れない。

こちら側からだと、比較的安定していそうな木の生えた山腹にも、道の跡らしき平場や緩斜面は見られない。
全て桟橋だったとしたら考えられるが、ちょっとここに鉄道を敷くのは難しいと思う。

そんなわけで、2連続隧道のうち北側は、新旧ともに同じ隧道だったと考えたい。




2連隧道からこの区間の北端である荒田沢橋梁跡までは目と鼻の先だ。

これまで眼下の国道と並行していた軌道跡が、ほぼ直角に右へ曲がると、荒田沢筋へ進路を移した合図となる。
あとは、前回探索により遺失が確定している橋梁跡への虚しいカウントダウンだ。




木々の隙間から望遠で覗く国道の荒田沢橋。
私が車を停めているのは、あの橋の左岸。こことの高低差は40m近い。

この高低差も、私が反時計回りのルートで探索を行った理由である。
この斜面を下るのは良いけど、登るのは大変そうでしょ。




荒田沢沿いの区間は杉の植林地になっていて、路盤は安定している。
そして、なぜか広くなっている箇所があり、そこには山側に大きな石垣も残っていた。
乱積みのいかにも古そうな石垣である。




14:06 《現在地》

そして再び軌道が左に曲がるとき、それは覚悟を決めたときである。

ゴーゴーと滝の音が轟く谷へ、先のない路盤が続いていた。




【反対側】から見たときも思ったことだが、これは本当に大きな橋。
立派な橋だったはずだ。

現存している遺構は、両岸の橋台と右岸(対岸)の橋脚一本のみだが、そのいずれも頑丈なコンクリート製で、巨橋の幻影を背負っている。

神岡軌道というと、【神通川を渡る橋】があまりにも大きく有名であるために、他の橋や構造物に光が当たることは少なかったわけだが、この荒田沢橋梁はそれに次ぐ規模の橋だったと見られる。




望遠で撮影した対岸(←)と、さらに倍率を上げたもの(→)。

橋台や橋脚の配置、形状などから、この橋が上路のトラスであったことが分かる。
トラスは鋼鉄の塊で、廃止後もいろいろと転用の可用性があるので残されなかったのだろう。

この荒田沢はV字に切れ落ちていて、谷幅の割に非常に深い。
目測される橋の規模は、全長40m、高さ30mほどである。そのうちの主径間は、20mを越えるロングスパンである。


また前回レポートしたとおり、橋は隧道に続いている。




(←)
左岸の橋台も当然コンクリート製。
上路トラスを確定させる形状をしている。

そして、この写真を撮るために私が立っている場所は、この荒田沢橋梁に対応する旧線の路盤。旧路盤である。

(→)
旧路盤は、新橋の20mほど上流まで辿々しく続いているが、そこで谷に削られるようにして終わっていた。
対岸から見た記憶だと、この路肩には石垣が存在していたと思うが、上からだと確認は出来ない。
この旧橋でさえ、長さ20mは下らない大きな橋であったはずだ。




14:16

荒田沢橋梁跡を確認したことで踏査目標は果たされ、その後国道へ下った。
植林地なので微かな踏み跡はあるが、かなりの急斜面なうえ倒木も多く意外に苦労した。

しかも、出発時には私の車しかなかった駐車スペースにギチギチと車が詰まっている。
何事かと下っていくと、湧き水(不動尊)を囲んで僧侶が読経をあげており、その周りには年配の人たち10人以上が跪いているではないか。

落石防止ネットのせいで、どうしても僧侶の肩先を通らないと下山できない状況(笑)。
かなり気まずい気持ちになり、私はいそいそと静粛な現場を離れたのであった。