廃線レポート 藤琴森林軌道 粕毛支線 第一次探索  <第 3 回>
公開日 2005.8.9

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 林鉄跡の不思議な景色たち
 2005.5.29 8:53

3−1 レールを利用した廃橋達


 我々は、下流側から粕毛川に沿う林鉄跡を歩いている。
一号隧道(現在地点)は、一取沢林道終点(スタート地点)から約3kmの場所にある。
終点と考えられる一の又沢林道との接点までの残りの距離は、あと2kmほどだ。
一の又沢林道は荒廃のため車で出迎えられなかったので、帰りには林道を1kmほど追加で歩かねばならないが、それを含めても、全体の半分ほどの行程を来たことになる。

まだ歩きはじめて1時間ほどしか経過しておらず、ここまで極めて順調だ。



08:54

 待望の隧道を後にして、さらに北上を再開する。

1分ほど歩くと、今度はこんな景色が現れた。

失われた林鉄の木橋の代わりに、そこに敷かれていただろうレールが数本集められ、人が歩けるような一本橋がこしらえられている。
案の定、歩くと金属特有の撓みが感じられて、不思議な感触。
しかし、この橋のお陰で、足を濡らす心配なく小さな沢を跨ぐことが出来た。
林鉄が廃止された後にも、草の根的に軌道跡の保全を図った人たちがいたのだろうか?
いまは、その人達はもう、この沢には訪れていないのだろうか?
寂しく佇むレール橋を、渡る。
 
09:01

 新芽の森を、掻き分けるようにして前進する一同。

余談だが、この日の私のポジションが常に最後尾であることに、注意深い読者は気がついているかも知れない。
これは、単に現在使用中のデジカメの起動が遅く、撮影の度に長く立ち止まる必要があるために、自然と皆に追い抜かれてしまっただけである。
このあたり、やはり以前使っていた「FinePixF401」は快適だった。
現在のメインカメラとなっている「COOLPix2001」は、値段も安く扱いも簡単なので重宝しているが、起動のもたつきだけは頂けない。
そんなわけで、最近の合調では、自然とポジションが下がってきている。
撮影された写真にも、メンバーの姿が入ることになり、サイズ感は測りやすくなったと思うが、如何だろうか?



09:02

 次々に新しい景色が現れて、我々を退屈させない。

なんと、一本の橋が健在だった。

この橋の変わっている点は、橋の端にレールが敷かれ、転落防止の役目を果たしている点だ。
いままで、このような橋を見たことはない。
一瞬、敷かれたままのレールかと色めきだったが、どう見ても、林鉄のゲージではない。
この橋もまた、廃止後に歩行の便を考え改良されたものなのだろうか?
 

 橋の下を覗き込むパタリン氏。
何を見ているのかと言えば、この橋にはもう一つ変わったところがあるのだ。

橋の歩く部分と、梁である太い丸太の間の隙間にも、何本もの廃レールが敷かれているのだ。
これは、強度を高めるための策であると想像できるが、初めて見る物だ。
この幾条ものレールによる補強のお陰で、この橋だけが、いまだ完璧に健在なのでは無かろうか?

 まるで、遊歩道のような木製の橋の、廃墟。
かつて、奥素波里峡を遊覧するための歩道として、軌道跡を整備した時期があったのかも知れない。

 

3−2 謎の設備と、キター!

09:08

 どうやら、我々は峡谷を抜けたようだ。
川幅が広くなり、河原と氾濫原が軌道敷きと川の間に現れる。
そして、我々はこの緑の原野に、何か人工的な物体が、巻き取られていることを、発見した。

 一見すると、単なる激藪のようだが…。
なんか金属製のポールが突き出しているし、木々の向こうには、さらに大規模な何かが見え隠れしている。



 その正体を確かめるべく接近を試みるものの、日当たりの良い平地は、物凄いブッシュになっており、なかなか思うように前進できない。
軌道敷きすら見失って悪戦苦闘していると、足元にトタンの屋根がすっぽり埋もれているのを発見。
三角の屋根のてっぺんだけが、辛うじて原形を留めているものの、その下にあったはずの空間は、押しつぶされまるっきり消滅している。
だが、3畳ほどの広さを持つ、建物がこの場所にあったことは間違いないだろう。

 そして、この廃屋と、さきほどから森の向こうに見え隠れしている“なにか”とは、関連性があるはずだ。
イバラに気をつけながら、なんとか藪を突破する。


09:09

 こっ!これは?!

 そこに在ったのは、巨大な金属製の櫓であった。
コンクリート製の重厚な土台の上に設置された櫓には、幾つもの滑車やローラーが据え付けられている。



09:09

 この姿を見て、ピンと来るものがあった。

この巨大なローラーや歯車、そして、あたりには太いワイヤの残骸が散らばっている。

間違いない。

 これは、索鉄の駅である。
索鉄というのは、空中架線に荷物を載せたゴンドラを移動させて、谷を跨いだり、大きな高度差を克服したりする用途に用いられる。
秋田県内では林鉄と索鉄が複合的に利用されていた箇所が多く、通常は周辺の集材が終わり次第、索鉄設備は解体され、他の場所で再利用される。
そして、土台だけが残されることになる。
 しかし、なぜかここには、索鉄の下部の駅がそっくりそのまま廃墟となって残っている。
これもまた、軌道が災害により不通となり、解体しても運び出せない状況になってしまった為かも知れない。

 これは、県下におそらく類を見ない、非常に貴重な遺構であると思う。
数百トンはあろうかという鋼鉄製の巨体は、森に還ることも許されず、半永久的にここに在り続けるのだろう。



 さらに、この場所から対岸へ続く吊り橋の跡があったが、これはもはや渡りようもない。
対岸も緑しか見えず、この奥へ行くことはしなかった。
おそらくは、対岸にも何らかの関連施設があったのだと思われる。




 拙い図で恐縮だが、おそらくこんな設備があっただろうという想像図だ。


 
 


09:14

 あれ、くじさん、

こんなところで、ウェイトリフティングですか?!

あなたも、私を置いて一人マッチョ街道まっしぐらの予定ですね。最近特に。

まったく、わざわざ落ちていた滑車を拾ってまで……



 あ!




 車輪?!
 それって、まさか車輪でないの?!

 トロッコの、車輪でないのかい?!


私は、廃線跡で初めて、車輪を見た。
なぜ、車輪二つとそれを繋ぐ車軸一本だけがここに残されているのかは分からないが、明らかに片輪の縁が変形しており、何らかの事故や故障のために、交換されたものであろうか。

 やったぜ! 車輪ハケーン!



3−3  複線疑惑

09:16

 白神山地の奥深くだと言えば、なんか神々しい森をイメージしがちであるが、実際にはこのような普通の森である。
雑木林が目立つ、普通の森。
ただ、近年はこんな自然な森が減っているのは、周知の通り。
身の回りの山々を見れば、殆どあらゆる場所に、黒々とした杉の林が栽培されている。
白神山地には、いまや国によって立ち入りを制限される場所すらあるのだが、この山々はかつて、里の生活と密接と結びついてきた。
 自然の山は、材木を産するのみでなく、エネルギー(薪)も、食料も、人が必要とするものの大半を、提供してくれた。
白神山地の西の果ては西津軽海岸として日本海に落ち込んでいるが、その海域はハタハタの大漁場である。
この海の恵みまでもが、実は、白神山地から流れ込む水が影響するのだと、今日では考えられている。


09:20

 おそらくは、交換所だったのだろう。
軌道敷きの幅が、山側に少し拡幅され、その分、山際に石垣が設けられている。
石垣は忍耐強く斜面にへばり付いているが、その背中を苔が分け隔て無く覆い隠し、さらに落ち葉が足元から埋めつつある。
石垣と風化の我慢比べだ。


09:21

 珍しく、枕木がまだ埋まっていた。
林鉄では、主に杉を防腐加工したものを枕木に使用していたが、カーブや橋梁上、或いは幹線など並以上の強度が必要とされる部分では、国鉄と同様の高級な栗材が使われていた。
地面の湿り気にも大きく左右されるが、通常は3年に一度は交換せねばならなかった。

 それを踏まえると、廃止後40年も経過した廃線跡で枕木が程度良く残っているのは、珍しいとことが分かる。
地味な枕木とはいえ、そこに鉄道が在った事実を、レールと同様、最も正直に語る証人なのだ。



09:22

 またも激藪地帯に遭遇。

歩行ペースは幾分鈍ったが、地形的には難しい場所は少なく、なお余裕を持って進行している。

この藪には、軌道を横切る小川が流れており、小さな木橋が残っていた。
いまにも踏み抜きそうだったが、慎重にこれもクリア。


09:27

 このあたりから、不思議な状況に気がつく。

右の写真を見ていただきたいのだが、いまパタ氏の歩いている部分が軌道跡だ。
崖も人為的に削られており、枕木が時折覗くそこが、軌道跡であることは疑う余地がない。

 しかし、写真の左端にも、平坦な部分がある。
そして、まるでそこにも軌道が存在したかのような痕跡が、この先100mほどにわたり存在したのだ。



09:28

 上の続き、

崖際には、レール一本分の敷地しか無い。

だが、左の粕毛川の水面や、その斜面からは、朽ちかけた橋脚が何本も、突き出していた。
これは、地上にある軌道敷きの他に、桟橋となって水面上を渡っていた、別の道が存在したことを示唆するが、なぜ敢えてこのような地形的に恵まれていない場所が、複線となっていたのか、謎である。



 これは、川側に設けられた木製橋台の跡。

風化の度合いが、これまで歩いてきた軌道上のあらゆる遺構よりも遙かに進んでおり、残っているものも極めて少ない。

 以下は、私の想像であるが、ここに複線のレールが敷かれていたことはなく、最初に開通した(おそらく大正6年前後)当時には長い桟橋の連続でここを越えていたものが、その後の災害などで桟橋ルートが廃止され、代わりに崖を切り開いて、現在歩ける道が敷かれたのではないだろうか。
あくまでも、根拠の薄い推測でしかないが…。



09:22

 軌道上を横切るように、水が流れて路盤を削った跡があった。
そして、この抉られた部分には、枕木が露出していただけでなく、レールが見えた。

深く埋もれているために掘って確かめることはしなかったが、或いは敷かれたままになっているレールが、埋没しているのかも知れない。








依然快調な我々。

そろそろ、終点も近いと思われたが…、

次回からいよいよ急展開!








      以下、次回。






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