このレポートは、山行が史上(2005年7月末時点)稀に見る
危険な踏破レポートである。
踏破に参加したのは、山行が合調隊から三名。
私と、パタリン氏、そして、くじ氏である。
踏破対象は、藤琴森林軌道粕毛線(以下「粕毛林鉄」と略)の素波里ダムによる水没を免れた上流部分である。
これまでも、粕毛林鉄については数回に分けて探索してきた(「藤琴の林鉄隧道群」「藤琴粕毛内川林鉄」)が、素波里ダムより上流の本線については、町の中心部から20km、最寄りの鉄道駅からは30km近くも離れていることから、容易に接近することが出来なかった。
また、単独で探索するには余りにも山深い場所であり、そこに長大な林鉄跡が存在するであろう事は分かっていても、接近しがたい秘所であったのだ。
詳細な踏査計画範囲は、右の地図を見ていただこう。
この粕毛林鉄は、『JTB刊 全国森林鉄道』によれば、大正6年開通、全長は18.6kmとある。
この全長を元に、起点である藤琴から終点の位置を予想する事が出来る。
想定される終点は、右の地図の「A区間」の北の端。すなわち、東又沢と粕毛川の出会い付近である。
ここは、林鉄が廃止された後に代替新設された林道の終点にも近く、大変納得できる位置と言える。
また、地形図にもこの「A区間」は歩道として描かれており、実在した林鉄跡とほぼ断定できる。
だが、歴代のどの地形図にも載らず、記録されている全長をも上回る、幻の延伸区間についても、かねてから噂があった。
私が、「山行が」を通じて得たとある山釣り師の情報によれば、東又沢合流点のさら上流の本流にも、軌道跡らしき痕跡があるというのだ。
ただ、その情報は古く、具体的に軌道跡であった確証もないとのこと。
地図中に「B区間」として仮定したのが、未知の延伸部分である。
果たして、人跡稀な粕毛川最上流部に踏み込む、森林軌道跡は実在したのか。
いま、山行がが挑む!
清流の軌道跡 2005.5.29 7:50
1−1 面倒な事前準備
05:53
探索とは思えぬ軽装で車外をうろつくくじ氏。
これは、よく合調隊で目撃される一シーンである。
この探索では、実際の踏査に入る前に、面倒な事前準備があった。
それは、探索の起点と終点それぞれの近くに、予め車をスタンバイさせておくことである。
確実に軌道跡があると思われる(前図のA区間)のは5.5kmほどの区間であるが、これに加えて、未知の部分があることも想定される(B区間)。
故に、日帰りの我々の場合には、時間を節約する為の事前準備が不可欠であったのだ。
(写真は、一取沢林道と粕毛林道の分岐地点)
一帯は有名な白神山地の、秋田県側核心地域にも近い。
元々あった森林軌道は粕毛川沿いを通っていたが、記録的大雨による林鉄壊滅(昭和33年)や、林鉄廃止(昭和38年)、素波里ダム完成(昭和45年)などを経て、一帯の道路事情はまるっきり変化してしまった。
つまり、沢沿いの林鉄から、尾根上の林道への変化である。
そして現在、林鉄跡へのアプローチには、粕毛林道から伸びるいくつかの支線を利用することになる。
我々は、下流から上流へ向けて粕毛川沿いを遡る計画を立てたが、その為には下流側のアプローチである一取沢林道終点付近と、上流側の一の又沢林道の両方に車を置く必要があった。
そして、この日の早朝からパタ氏とくじ氏それぞれの車を、所定の位置にスタンバイさせたのである。
各林道の状況であるが、まず粕毛林道本体は、元々が狭い林道でありアップダウンが激しく初心者向けではないが、路面状況はまずまず。
一取沢林道は所々荒れており、乗用車でも通行できるが車高の低い車はアウト。
一の又沢林道については、分岐から50mほどで倒木により封鎖されており、その先も廃道化が進んでいるために車輌は進入できず、粕毛林道との分岐点に車を置いた。
これらの作業には2時間近くを要し、最終的に一取沢林道終点にパタ氏の車で全員が到着したのは、午前7時30分過ぎだった。
07:42
一取沢林道は、尾根上にある粕毛林道から別れ、粕毛川谷底まで駆け下る全線片勾配の荒れた林道。
終点までの距離は3km弱だった。
この途中には、解体された林鉄用と思われるガーダー橋の残骸(どこで使われていたものかは不明ながら、おそらく崖下の湖底に沈んだ区間のものだろう)が路傍に置かれていたり、ミニレポートとして紹介した「
十文字吊橋」が、終点間際に存在する。
写真は、林道終点の広場。
下流を振り返ると、そこがちょうど湖の端であり、湖上には十文字吊橋が見える。
水量が少ない夏期には、おそらく湖は大幅に後退していることだろうから、その景色も全然異なるだろう。
1−2 踏破開始
07:45
林道の終点の広場に車を停め、装備を調える。
今回の踏査の大部分が沢伝いである事が予想され、沢歩きを主体に考えた装備で臨む。
すなわち、ネオプレーンのタイツに靴下、沢靴などである。
この日の天気予報は晴れ、朝から気温も上がっており、暑い一日になりそうである。
この事が、後ほどあるメンバーの異変につながっていくのだが、まだこの段階では、知る由もなかった。
路傍には、早くも林鉄の落し物、錆付いたレールが散見される。
果たして、どんな軌道跡の景色が、我々を待ち受けているのだろう。
期待に、胸が躍った。
午前7時50分、入山開始。
07:52
林道の終点は河原に突き当たり、その先に道は見られない。
軌道跡も、猛烈な河原の草原に覆い隠され、これまた判別は不可能。
仕方なく、我々はせせらぎを歩くことにした。
世界遺産に登録されている広大なブナの森だけが源流となる粕毛川は、これ以上なく澄み切っている。
キラリと輝く魚影が、釣り好きのパタ氏の目をときめかせた。
何とも気持ちのよい、最高の入山となった。
07:55
穏やかで幅広の河原はナベッコ遠足にも最適だが、少し遡るとすぐに、両側の山並みが迫ってきて、河原をブッシュにかえてしまった。
大きな石がごろごろしているブッシュは歩きづらく、早くも通気性の悪い下半身が蒸され、全身に汗が滲んできた。
と同時に、朝露をたわわに実らせた草木が、冷たい滴で我々をぐっしょりと湿らせた。
軌道跡は、山際の斜面に沿っていたようだが、山肌に続く造林作業道から落とされた土のせいで、殆ど埋没している。
この造林作業道はすぐに行き止まりだったようで、間もなく軌道跡も鮮明さを取り戻す。
1−3 奥素波里峡のはじまり
08:00
歩き出しから500m、おおよそ10分で、軌道跡に鮮明な踏み跡が現れる。
この山渓にも、釣り人などが入っており、彼らの貴重な通路となっていることが想像できる。
軌道跡は河床から5mほどの位置だが、その路肩の石垣が至るところで崩れ、道幅の大半を失っている箇所が多い。
また時折、水面から折れ曲がった古レールが突き出しているのを目撃した。
08:13
早速にして、難所が現れる。
小さな支沢を跨ぐ木橋が、橋脚と橋台の一部を残し、消失していた。
苔生した石積みの橋台を上り下りして、これを突破する。
緑多い軌道跡は手懸かりに困ることもなく、慎重さを欠かなければ、少しハードなハイキングロードと言った面持ちである。
むしろ、失われた鉄路を歩いているという充実感は、体を動かして難所を突破する度に、強くなるようである。
清涼な朝の空気と、新緑をとおして降り注ぐ淡い日差しが、たまらない。
08:14
思いがけず、人工物に遭遇した。
川岸の狭い軌道跡に築かれた、無人の雨量測候所である。
これを過ぎると、軌道跡の踏み跡は、やや鮮明さを失った。
08:15
秘境、奥素波里峡のはじまりは、スリリングなオーバーハングだった。
岩肌はゴツゴツしているが、所々には小さな緑が芽吹いており、風景に良く馴染んでいる。
かつて、レールや枕木があった路盤は、薄く土が堆積し、日陰を好む植物が育っている。
カーブを曲がればそこにレールが現れるのではないかと思えるほど、軌道跡のムードは満点。
私は、しばし歩みをとめて、大正時代に人力で掘削されただろう岩肌に、魅入ってしまった。
この先しばし、地元では奥素波里峡と呼ばれる景勝地だが、今我々が歩いている軌道跡以外に訪れる手だてはない。
地図にも、ここを名所として紹介しているものはない。
しかし、1959年当時の地元の観光案内「ふじさと」には、「翁隠の渕」の名がある。
奥素波里峡 2005.4.27 8:23
2−1 絶好の探険コース
08:23
良い感じにアドベンチャーしています。
えっ?
煽りが足りない?!
もっと、大げさに難易度高し!! とかやった方が、燃えるって?
まぁまぁ、そう熱くなりなさんな、この程度の難所など、難所でも何でもないことを、いずれ思い知るのだから。
08:36
事前に、県立図書館にて古い地形図を確かめていたのだが、途中二つばかり隧道が描かれていた。
どちらも、ぱっと見たときには気がつかなかったほどに小さく、隧道の記号と言うよりも、軌道上に描かれた小さな「×」の記号にしか見えなかったが、地形図の誤記でないならば、小さくとも隧道があったはずだ。
歩き始めから40分を経過しており、距離的には2kmほどすすめただろうか。
そろそろ、一つめが現れても良いはずだが…。
「次のカーブの先に、現れるかも。」という期待を常に抱きながら、美しい渓流を3人は歩いた。
08:39
近隣に一切の車道も登山道もない、純朴たる原生林の峡谷を、失われた森の鉄道の痕跡が、いまだ見失わざる痕跡となって我々を誘った。
レールは取り外され、枕木も、バラストさえも、残されてはいない。
しかし、山に暮らす人々にとって、何よりも大切な財産だった林鉄路盤は、頑丈な石垣に未だ守られ、蒼い淵にその足を落としている。
かつての保線は、おもに女性や子供達の仕事であったという。
今は荒れ果てたるこの道にも、かつて若いエネルギーが溢れ、黒光りするレールや目の揃った真っ白いバラストがあったはず。
人が築き、情熱を傾けた鉄路は、廃止から40年を経ていま、自然の一部となりつつある。
しかし、そこに我々は、言いしれぬ感動を覚えるのだ。
人の営為と、自然と所作との偉大なる合作、廃道という その景色に。
濡れた岩肌が静かに地下水を零し、路盤の痩せた土に潤いと栄養を与える。
いつしか路盤にも草が育ち、草が土を育み、森へと戻る。
同時に、谷川は足元から路盤を削ぎ落とし、元の斜面へと還そうとする。
そして、ついに軌道跡は、森の記憶となる。
今、粕毛林鉄はその消滅への旅路の、ちょうど真ん中あたりにいるようだ。
様々な遺構が現存するが、そのどれもが、森や川に飲み込まれそうになっている。
もう40年後、おそらくこの場所に鉄道があった痕跡は、すっかり無くなっているかもしれない。
08:44
この軌道跡では、レールの発見量がかなり多い。
まるで、森吉林鉄粒様線の上流部のようでさえある。
残念ながら、ここでは路盤上に敷かれたままの物には巡り会えなかったが、河床には相当量の廃レールが残されている。
このことが何を意味しているのか?
秋田県内の林鉄ではその殆どの路線で、廃止時にレールや枕木・バラストなど、再利用できそうな資材は、システマチックに回収されていた。
しかし、この粕毛林鉄をはじめ、支線である内川線なども、レールが多く河床に落ちたままとなっている。
これは、長大だった軌道を廃止まで追い込んだ、昭和33年の集中豪雨の傷跡なのかも知れない。
実際、当時の災害記録写真には、レールが粕毛川に流出してしまった物なども見受けられる。
08:47
どこが、景勝「翁隠の渕」なのかは分からないが、原色の渓流が緩やかに蛇行を繰り返しつつ、続いている。
軌道跡はこの左岸の、手を伸ばせば水面に届きそうなギリギリを通っていた。
そして、探索開始から約1時間、3kmほどの地点だろうか。
前方に、“怪しげ”な突起が現れた。
怪しいというのはもちろん、隧道の、疑惑である。
2−2 一号隧道への接近と邂逅
08:48
タキコゾウ ガ 1タイ アラワレタ
ドウスル?
アミーーゴ!!
やはり、そこには隧道が潜んでいた!
それは、地図にも点のようにしか描かれていない、小さな隧道。
名前など無いと思われるので、便宜上「一号隧道」と称する。
短いはずだが、カーブしており出口は見えない。
写真で見ると、なんかメンバー達は坦々と隧道へ歩みを進めているように見えるかも知れないが、実際には、かなりの興奮度である。
そのことは、パタ氏のほくそ笑みからも感じ取れるだろう。
大迫力の岩面掘りの坑口である。
僅か30mほどの長さしかない隧道であるが、見るべきところは多い。
まず、一番目を惹くのが、この荒削りな坑口。
見た目の割に、安定しているようで、崩落は殆ど見られない。
坑口に続く岩肌も、隧道を含めた全体が成す緩やかなカーブに合わせ、曲率を持って切り取られている。
粕毛川は、向かって左側を流れているのだが、むしろ川側の岩盤が険しく、張り出している。
次に、洞内に引かれた2本の電線に気がつく。
これは、反対側の坑口からも引き出されており、単線の林鉄では交換連絡のために不可欠だった、電話線と電線だろうと思われる。
さらに、内部にも特色があり、天井が思いのほかに高いことと、中央付近から出口までの僅かであるがコンクリートによって内壁が施工されていることなど。
08:50
洞内には、なぜか数条のレールが残されていた。
しかも、ひしゃげており、まるで外部から流れてきたかのような有様である。
枕木や路盤はすっかり消失しており、なぜ曲がったレールが水流もない隧道内に存在するのか、謎である。
洞床は、濡れた土と小さな岩塊が目立ち、出入り口付近は落ち葉が積もっている。
壁はやや湿り気を帯びているが、水滴が滴るほどではない。
光が通じているので、開放的な印象がある。
沢の音が届いており、それほど静かではない。
実用性を重視した無骨な隧道は、林鉄らしさに満ち溢れており、好感触である。
下流側とは対称的な、上流側の坑口の姿。
こちらは日陰になることが多いのか、より苔生している印象がある。
また、一応コンクリート製の坑門があるが、まさに猫の額ほどと言うに相応しい出来映え。
扁額を設置するスペースすらない。
申し訳程度にコンクリで覆ったという感じだ。
08:51
ここまで、誰一人と出会うこともなく、軌道跡にも最近歩かれたような痕跡はない。
足跡が鮮明にあったのは、ごく初めのうちだけであった。
現在の地形図にも、大概の道路地図にも、この軌道跡は記載されているが、廃道と言うより他はない道である。
そして、当初の予定を上回る好ペースで、我々は北上していた。
快調そのもののメンバーの誰にも、まだ、その 前兆 はなかった。
我々を待ち受けていた試練は、かつてなく大きなものだったが、
このあと まだしばらくは、快適な冒険が続くのだった。
以下、次回。
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