松野隧道 磐越西線旧線 その2

公開日 2006.07.21


廃止隧道の結末

人知れず棲む者たち

 膝まで達するような泥の海は奥に進むにつれ堅さを増し、やっと地上が現れた。
しかし、そこにはかつて鉄道が通ったような整った路盤はなく、一面の土の地面である。
それに、どこからこれだけの膨大な土砂が流入したのか…考えられるのは一つだが……。

 水が流れて深い溝になっている部分を避け、台地上になった土の上を選んで奥へ進むと、ますます「ザー」という滝の音は大きく響き始めるのだが、洞内に水が滴っているかと言えばそうでもなく、違和感を覚える。
また、やがて数匹のコウモリが頭上にぶら下がるのを認めたが、それを皮切りにして、コウモリの数は想像を超えて増えていった。



   さして煤煙に汚れるでもなく赤みを残す天井を見上げてみれば、そこにはおびただしい数のコウモリたちが突然の闖入者にざわめき始めていた。
まるであん団子のような黒い小さな塊が、相当に密集してぶら下がっている。
しかも、夕暮れを前に彼らの活動時間が始まっているらしく、普段日中に出会うコウモリたちとはどこか違う息づかいが感じられる。
これ以上奥へと足を踏み入れれば、おそらく蜂の巣をつついたような騒ぎになろう事が、経験上、予感された。
だが、だからといって足を止めることは出来ない。
静かにしていてくれと心の中で祈りながら、黙々と前進した。
 



 洞床にはもはや本来の姿は見る影もなく、泥と土と、コウモリの大量の糞が支配する、不愉快係数が極めて高い光景であった。
崩壊が進む隧道でさえ気に留めず探索する人であっても、この類の隧道には二の足を踏むかも知れない。
私は鼻の利く方ではないが、それでも独特の土臭さと家畜臭がない交ぜになったような匂いが鼻につく。
洞床に大量に散乱している白い小片がなんなのか。(写真右)
一瞬、もしかして虫の類かと震えたが、どうもそうではないらしい。だが、近付いてみる勇気は出せなかった。
この斑点状の白片は、コウモリがいる直下の至る所に見られた。



 これまでの所、洞床以外に目立った異変は見られない。
だが、内壁のアーチ部の下端に横一直線の隙間が生じており、確実に劣化は進んでいるのだと思わされた。
 廃線跡の煉瓦製隧道は数多かれども、明治・大正期に廃止されて現存するものは貴重である。
比較的近年になって経年劣化などを理由に廃止された隧道では、隧道内に鉄道の通っていた証を色々と残しているものが多い。
バラストが敷かれていたり、通信線の跡があったり、保線道具(梯子など)が残されていたりと言ったことだ。
だが、流石にこの隧道や、例の赤岩の一連の廃隧道などでは、当時の痕跡と言えるものはあくまでも隧道そのもの、それ以外に見られないという状況だ。


 そして、案の定、祭りは始まった!
一部のコウモリたちが飛び回り始めると、あとはもう収拾がつかず、舞い散る火の粉のように大群が飛乱を開始!
このような体験は久々で、廃隧道の中でこれほどのコウモリに揉みくちゃにされたのは、かれこれ3年ぶり、いまの秋田県横手市にある旧横荘鉄道の閉塞隧道(二井山隧道)の以来だ。
首筋、頬、耳元など、至る所にその小さな羽根がまき起こす風がぶつかってくる。ときおり、体にぶつかってくるおっちょこちょいもいる。
砂浜の引き潮がたてるようなさんざめきが、内耳に充満する。

 あっ、思い出した。
最初から聞こえていた滝のような音は、彼らの出す交信音なのだった。
よく超音波で意思の疎通を図っていることは知られているが、コウモリがたくさんいる場所だと、交雑で超音波になりきれなかった音(?)が、滝の音かテレビの"砂嵐"みたいな騒音を起こすことを、私はかつて二井山隧道で知ったのだった。
久々なので忘れていたよ。



 そして、坑口から100mほどであろうか。
蟻塚のようにこんもりと盛り上がった黒い山……それは全てコウモリの糞である…の向こうに、血肉のような赤い山が現れた。
そして、それはそのまま天井の高さまで盛り上がって行く。
想像以上の光景だ。
どうやら、この隧道を78年前に見舞った変状の結末は、最も壊滅的なものだったらしい。
変状が、杞憂で終わらず、本当に隧道の崩壊に繋がったのである。
廃止後何年目にこのような状況となったのかを知るよしはないが……。



 そして、崩落地点の周囲には、奇妙な煉瓦の欠損箇所が2箇所見られた。
それぞれ、側壁と天井にある1m四方程度の大きな穴で、5層巻の煉瓦を全て貫通し、その向こうの壁が露出している。
失われた煉瓦塊が何所へ消えたのかは不明だが、自然の崩壊によるものでないことは明らかで、いずこかへ持ち出されたものと思われる。
想像だが、おそらく変状当初に色々と検査するため、このような試掘が行われたのではないか。(右の写真は側壁)



 これは天井の方の穴。
自然の崩壊とは思えない切り口の状況。
また意外なのが、地山の様子である。
見る限り、コンクリートで薄く巻かれている?
となると、地山と煉瓦巻の間にコンクリを充填していた?
隧道が建築された明治末期には、確かにコンクリートの実用化は始まっていたが、不思議な光景である。
或いは大正7年ごろの変状に伴い検査のために煉瓦を切り出したおり、代わりにコンクリートで地山を塞いだのか?



 それは、想像を遙かに超える終着地の姿だった。
隧道変状の結末である……。
人為的に土砂を運び込んだものではなく、崩れた天井から吹き出た土砂が、止めどなく隧道内に流入した光景である。
天井の煉瓦が相当量剥離し、第三層くらいまで崩壊している。この辺りの壁に相当の偏圧が掛かった事を示す。



 背後にコウモリのばたつきを感じながら、匍匐前進でなお進む。
土砂は柔らかく、土が多い。
だが、煉瓦も多く含まれており、崩壊の激しさを物語る。
何よりも恐ろしいのが、まるでマグマを見せる地の裂け目の如く、天井に一直線の地割れが生じていることだ。
進める限界地点のさらに10mほど先で、天井を突き破って土砂が隧道内へ落ちている現場が見える。
いままでたくさんの崩壊現場を見てきたが、これほどに柔らかく大きく流れた土砂閉塞は初めてだ。
いまになって振り返れば、坑口部まで届くあの泥の海も、隧道内を埋め尽くす土砂は全て、この崩壊が原因なのである。
実際に崩壊が起きる前に廃止にしていて、本当に良かったと思う。



 閉塞部分から坑口を振り返る。
一つの崩壊によって、完全に隧道の息の根は止まっている。
外見からは想像できないほどに、恐ろしく、そして、アツイ現場だ。
こんな場所が、埋め戻されるでもなく、人里と近くに口をあけていたなんて……。

 たまりませんな。



崩壊の正体見たり!


 車に戻った私の下半身は、大変なことになっていた。
ねっとりとまとわりついた泥はもう落ちる見込みもなく、まるで塑像のようになっている。
車の中が汚れることに余り抵抗はないが、流石にこのままでは運転できない。
近くの草むらでだいぶぬぐってから、やっと出発した。

 ここまで私を誘った砂利道は、松野隧道の真上を通って、次の慶徳隧道付近に達している。
反対側の坑口を捜索すべく、車を動かした。



 ちょうど松野隧道の真上付近に差し掛かったとき、私は不思議な光景を目の当たりにした。
あたりは湿地帯のようで、森が開け代わりに一面のススキ原となっているのだが、その一角に深い窪地があった。
底の方には水が溜まっているのだが、それほど深くはないようだ。
濁った水の底には、隧道内で見たのとよく似たチョコレート色の泥が見える。



 近付いてみると、ますますこの池が不自然なものに思えた。
周囲は一様に平らなススキ原なのに、なぜここだけこのように、陥没したようになっているのか。
しかも、立ち枯れした木が水底から生えており、元々は地上であったことを匂わせる。

 もう言うまでもないだろう。
この地形こそが、松野隧道を崩壊させた陥没ではなかろうか。
変状の原因は不明だが、いまの松野隧道に流入している膨大な土砂の正体が、この窪地にあることは、位置的にほぼ間違いがないのではないか。



 さらに憶測を確信に変えた発見があった。
湿地帯の中にある窪地は一箇所だけではなかった。
幾つもの大小の窪地があり、それらは、間違いなく一本の直線上に存在しているのだ。
隧道の直線上である。

 松野隧道の崩壊の真実が、(ほぼ)判明した。
ほんの200m程度の隧道であったが、その地被りの浅さが命取りになったのか、はたまた泥地での十分な排水処置が成されていなかったのか。
完成後僅か8年で廃止された隧道には、何か決定的な施工上のミスがあったのかも知れない。



 現れた坑口


 砂利道を進んでいくと、再び下りに転じ、松野沢という小さな沢に面したところで広場になっている。
まだ道は続いているようだが、この先に用事はない。
松野隧道の新潟側坑口は、もう少し下流の方に過ぎてきてしまったはずだ。
車道からはそれらしい場所が見つけられなかったので、旧線も橋で渡っていたはずのこの沢を、引き続き捜索することにした。



 この場所ではごく最近まで治水工事が行われていたようで、人工的な地形が目立つ。
写真は下流方向を向いて撮っており、奥の林になっている辺りを、左から右に旧線が渡っていた筈である。
だが、橋の痕跡は見えない。
松野隧道の坑口も見えない。
 さらに奥の青々と茂る森のあたりで、現在線がやはり沢を跨いでいるはずだが、そちらも見ることは出来なかった。
嫌な予感がする。



 旧線の橋が架かっていたと思われる辺りまで、真新しい護岸の築堤を歩いて来た。
そして、松野隧道坑口を探したが……。

 だめだ。無い。
地形的にも坑口へ繋がる掘り割りなどが現存する様子はなく、坑口ごと圧壊したものか、埋め戻されたものか、どちらにしても、松野隧道の新潟側坑口の発見には至らなかった。(森の浅い時期にならば、或いは何らかの痕跡を発見できる可能性はある)



 だが、この場所が旧線跡だったことは間違いないと断言できる。
なんといっても、足元の沢に辛うじてだが、煉瓦製の橋台の一部を発見したのだから。
この延長線上、すなわち上の写真の緑の底に、かつて隧道があったはずである。

 と同時に、いま私が立っているこの築堤も、これが築かれる前には慶徳隧道に繋がる掘り割りだった筈である。



 慶徳隧道……。


 そう、慶徳隧道である。

 慶徳隧道は現役の隧道であるが、なんとその郡山側坑口は、旧線時代のものが現存していたのだ。
それこそ真新しい築堤の底という、よく取り壊されなかったと思われる奇跡的な立地の元に!
慶徳隧道は、内部で新旧線が分岐する、これまたレアな隧道なのであった。



 次回、最終回!!

    慶徳隧道旧坑口の内部に迫る!

      そして、衝撃の結末が!!!