今回は、中国山地にある森林鉄道の一つを攻略しようとした記録である。
近畿地方と中国地方の国有林を管轄した大阪営林局(現:近畿中国森林管理局)の管内にも、他の管内ほどではないが、中国山地や紀伊山地の林業を支えた多数の森林鉄道が存在した。
このうち兵庫県の北西部、日本海と鳥取県に面した美方郡新温泉町(しんおんせんちょう。平成17年までは温泉町)にあったのが、畑ヶ平(はたがなる)森林鉄道である。
それは右図の四角で囲った範囲にあった。
海抜1310mの県境の山、扇ノ山(おうぎのせん)の北側から日本海に流れ出る、岸田川という川の源流域が舞台だ。
また、上に掲載した図は、林野庁が古い林道台帳などを集計して作成・公開している国有林森林鉄道路線一覧表から、畑ヶ平森林鉄道の本線と支線を全てピックアップしたものだ。
全長8481mの本線(畑ヶ平林道)に3本の支線があったことが分かる。本線と支線を合わせた総延長は18kmほどで、中堅規模といったところか。
今回紹介するのは、このうち最も短い霧ヶ滝線という支線で、全長は2000mしかない。
しかしこれが、一筋縄では行かない路線だった。
……っていうか、死ぬかと思ったわ!
@ 昭和28(1953)年 | |
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A 昭和43(1968)年 | |
B 地理院地図(現在) |
……気を取り直して、この路線についての事前説明を続ける。
わざわざ兵庫県まで出向いて、たった2kmの林鉄を探索しようと思ったのには訳があるので、それを説明したい。
右図は、昭和28(1953)年、昭和43(1968)年、そして最新の地理院地図という3枚の地形図を比較したものだ。
図の中央左寄りの谷に「霧ヶ滝」の注記があり、この滝に向かっていく谷沿いが霧ヶ滝線の在処としては相応しいと考えられるが、昭和28年版にはそれらしい軌道の記号は描かれていない。(先ほど紹介した路線一覧表に、霧ヶ滝線は昭和25年竣功とあったので、描かれていて良い時期なのだが)
そればかりか、霧ヶ滝線と接続していたはずの本線(昭和11年竣功)や、他の支線である第二上部軌道(同年竣功)や第二上部軌道(昭和28年竣功)も、この地図には全く描かれておらず、畑ヶ平森林鉄道の存在自体が読み取れない。
昭和43年版はどうだろう。
この時期には既に第二上部軌道を除く路線は廃止済だったはずで、やはり軌道は描かれていない。
結局、この畑ヶ平森林鉄道は、本線も支線も含め、一度も地形図には描かれなかった路線なのである。
だが、よく見るとこの図には霧ヶ滝へ通じる1本の徒歩道(点線)が描かれている。
結論から言うと、これこそが霧ヶ滝線の軌道跡を描いたものだった。
私はここを歩こうとしたのである。
そしてこの徒歩道は、最新の地理院地図にも引続き描かれている。
この霧ヶ滝線の軌道跡だが、霧ヶ滝がある谷底ではなく、畑ヶ平と呼ばれている海抜900m以上の高原地帯の縁に沿うように描かれている。
谷底に位置する菅原集落が海抜約500mなので、かなり大きな高低差に隔てられた山上に、他の車道からは隔絶された形で存在している。
そしてこの隔絶こそ、私をたった2kmの林鉄の探索へ惹きつけた一番大きな要素であった。
どんな状況なのか気になるでしょう? みんなも!
『林鉄の軌跡』より引用のうえ、一部著者加工
事前に得ていた情報について、さらに紹介していこう。
歴代地形図に描かれたことがなく、全国的にも知名度の低い畑ヶ平林鉄の全貌やその廃線跡の現況を調査した資料としては、平成8(1996)年に伊藤誠一氏がまとめ、ないねん出版が発行した、『林鉄の軌跡 大阪営林局管内の森林鉄道と機関車調査報告書』という文献が、ほとんど唯一のものである。
以下、同書の記述から、路線網の全貌と、霧ヶ滝線に関わる内容を中心に紹介しよう。
まず、右図をご覧いただきたい。
これは同書に掲載されていた畑ヶ平林鉄の全体像を描いたものである。
この路線は、想像以上に複雑な路線網を有していた。
本線は岸田川の谷底にあり、起点の青下(あおげ)土場から、岸田川最上流の集落である菅原に至る。この菅原を拠点に、インクラインや索道を介して、高所に敷設された3本の支線が接続していた。
同書では霧ヶ滝線と、個別の名称を持たない上部軌道が2本あったとされているが、これらの正式名称が「一覧表」にあった第一・第二上部軌道だろう。
『林鉄の軌跡』は、“現地の方から得た証言”をもとに、本線及び各支線の消長を概ね次のように解説しており、その内容は「一覧表」とは一部合致しないところもあるが、ここではどちらが正しかったという言及はしない(できない)。
昭和8(1933)年、青下土場を起点とする畑ヶ平林道(林鉄のこと)・インクライン・上部軌道を起工(総延長8481m)。
昭和11(1936)年、軌道竣功。
昭和18(1943)年、単材索道及び上部軌道竣功。同時にインクライン側が下火になったようだが、しばらくは共存したらしい。どちらも上部軌道は馬力運材。
昭和25(1950)年、霧ヶ滝林道(906m)敷設。トロ込索道(500m)敷設。同時にインクライン・単材索道は廃止され、全事業が霧ヶ滝側へ移る。霧ヶ滝林道はほぼ全線9キロレール。古い畑ヶ平林道よりも状態は良かったようだ。畑ヶ平はこの時点で4180m。
昭和27(1952)年、霧ヶ滝林道1085m延長。奥地延長のため霧ヶ滝にも機関車が入線(本線は既に機関車運材を実施)。霧ヶ滝には機関庫がないので、冬場は索道に機関車を吊し、青下へ下ろして保管した。
昭和31(1956)年、畑ヶ平での直営生産事業が廃止され、実際の伐木・運材を旭木材が引き継ぐ。
昭和32(1957)年、畑ヶ平林道でオート三輪を用いた運材を開始。翌年に畑ヶ平林道の軌条を撤去。
昭和35(1960)年、オート三輪運材・トロ込索道・霧ヶ滝林道廃止。連送式索道開設。
昭和39(1964)年、霧ヶ滝林道・トロ込索道撤去完了。どのくらいのペースで撤去されたのはかわからないが、一応この年で完了したようだ。
昭和43(1968)年、連送式索道廃止。畑ヶ平国有林全生産事業が終了する。青下の水中貯木場も役目を追え、水が抜かれ、その周辺もサラ地になった。
まとめると、霧ヶ滝線の建設は、昭和25年に906m、昭和27年に1085mが行われ、全長は1991m。本線との接続は、全長500mのトロ込索道(運材台車ごと運べる大型の索道)で行われた。 昭和27年からは機関車も入ったが、昭和35年に索道とともに廃止され、39年までに軌条や索道を撤去されたという。
『林鉄の軌跡』より引用のうえ、一部著者加工
この段階で、おそらくレールが残っていないことが分かってしまったのは残念であるが、それでも探索したいと思える魅力があった。
右の図も『林鉄の軌跡』からの引用で、菅原周辺の詳細図である。
この図には、霧ヶ滝林道の線に沿って、「踏査不能」という刺激的すぎる4文字が付されている。
また、現状を紹介する本文中にも、このような言及があった。
畑ヶ平林道は全線舗装道路で、トロ込索道着点場への変更線は踏査不能。
霧ヶ滝林道も踏査不能である。菅原から上がる道は廃道になって久しい。木橋等はそのままらしいが、レールは無いという。
行ってみたくなるっしょ、これは!
で、死にかけたんだけどね。
また、本文中での言及は無いが、霧ヶ滝線の終点から先には、谷沿いに木馬道があったようだ。
これらを含めて探索してみたいと考えたのである。
最後に、今回の探索計画を紹介する。
出発地点は、畑ヶ平森林鉄道の起点だった青下土場跡地(右図の範囲外)とする。
そこから県道103号若桜湯村温泉線になったと考えられる軌道跡を自転車で約3.2km走行し、菅原集落へ向かう。
菅原集落に自転車を置き、トロ込索道の上部盤台があった霧ヶ滝線の起点へ向けて、地理院地図に描かれている徒歩道をひたすら登る。『林鉄の軌跡』によれば、この歩道は廃道だという。
軌道跡までの落差はおおよそ280mで、距離は700mくらいだろうか。この登行には最低1時間を要するだろう。
上部盤台到達以降が探索の本題で、全長約2kmと記録されている霧ヶ滝線を終点まで歩く。
ただ、地理院地図の軌道跡らしき道は1.6kmくらいしかないので、少し距離が合わないのは注意点だ。
首尾良く終点(どんな場所かは分からない)に到達出来たら、そのまま『林鉄の軌跡』の地図に「木馬道」と書かれていた徒歩道を辿って、この地図の南西端に近い畑ヶ平(海抜970m付近)まで溯上する。
あとは、地図に車道として描かれている町道畑ヶ平線を通って、菅原まで基本的には車道歩きとなる。
以上の周回コースは、霧ヶ滝線を単に往復するのと比べてかなり遠回りになるが、町道畑ヶ平線が上部軌道やインクラインの跡をなぞっているので、その探索を兼ねようという思惑があった。
ただしもちろん、終点まで踏破できない状況や、途中で残り時間が足りなくなるなどの状況も考えられるので、適宜、往復コースへの計画縮小を判断しながら進むことにしたい。
以上のような、自転車を一部活用しつつも徒歩メインとなる林鉄探索計画を建てた。全行程を1日で行う必要がある。
また、中国山地の気象、特に雪の量がよく分からなかったので、ネット上の登山記録なども考慮しつつ、決行日は2021年4月24日とした。
それでは――
魔の霧ヶ滝線へ、出発。 生きて帰って来いよ。