廃線レポート 畑ヶ平森林鉄道霧ヶ滝線 導入

公開日 2022.04.01
探索日 2021.04.24
所在地 兵庫県新温泉町

《周辺図(マピオン)》

今回は、中国山地にある森林鉄道の一つを攻略しようとした記録である。

近畿地方と中国地方の国有林を管轄した大阪営林局(現:近畿中国森林管理局)の管内にも、他の管内ほどではないが、中国山地や紀伊山地の林業を支えた多数の森林鉄道が存在した。
このうち兵庫県の北西部、日本海と鳥取県に面した美方郡新温泉町(しんおんせんちょう。平成17年までは温泉町)にあったのが、畑ヶ平(はたがなる)森林鉄道である。

それは右図の四角で囲った範囲にあった。
海抜1310mの県境の山、扇ノ山(おうぎのせん)の北側から日本海に流れ出る、岸田川という川の源流域が舞台だ。

また、上に掲載した図は、林野庁が古い林道台帳などを集計して作成・公開している国有林森林鉄道路線一覧表から、畑ヶ平森林鉄道の本線と支線を全てピックアップしたものだ。
全長8481mの本線(畑ヶ平林道)に3本の支線があったことが分かる。本線と支線を合わせた総延長は18kmほどで、中堅規模といったところか。

今回紹介するのは、このうち最も短い霧ヶ滝線という支線で、全長は2000mしかない。

しかしこれが、一筋縄では行かない路線だった。




……っていうか、死ぬかと思ったわ!




@
昭和28(1953)年
A
昭和43(1968)年
B
地理院地図(現在)

……気を取り直して、この路線についての事前説明を続ける。

わざわざ兵庫県まで出向いて、たった2kmの林鉄を探索しようと思ったのには訳があるので、それを説明したい。

右図は、昭和28(1953)年、昭和43(1968)年、そして最新の地理院地図という3枚の地形図を比較したものだ。
図の中央左寄りの谷に「霧ヶ滝」の注記があり、この滝に向かっていく谷沿いが霧ヶ滝線の在処としては相応しいと考えられるが、昭和28年版にはそれらしい軌道の記号は描かれていない。(先ほど紹介した路線一覧表に、霧ヶ滝線は昭和25年竣功とあったので、描かれていて良い時期なのだが)

そればかりか、霧ヶ滝線と接続していたはずの本線(昭和11年竣功)や、他の支線である第二上部軌道(同年竣功)や第二上部軌道(昭和28年竣功)も、この地図には全く描かれておらず、畑ヶ平森林鉄道の存在自体が読み取れない。

昭和43年版はどうだろう。
この時期には既に第二上部軌道を除く路線は廃止済だったはずで、やはり軌道は描かれていない。
結局、この畑ヶ平森林鉄道は、本線も支線も含め、一度も地形図には描かれなかった路線なのである。

だが、よく見るとこの図には霧ヶ滝へ通じる1本の徒歩道(点線)が描かれている。
結論から言うと、これこそが霧ヶ滝線の軌道跡を描いたものだった。
私はここを歩こうとしたのである。
そしてこの徒歩道は、最新の地理院地図にも引続き描かれている。

この霧ヶ滝線の軌道跡だが、霧ヶ滝がある谷底ではなく、畑ヶ平と呼ばれている海抜900m以上の高原地帯の縁に沿うように描かれている。
谷底に位置する菅原集落が海抜約500mなので、かなり大きな高低差に隔てられた山上に、他の車道からは隔絶された形で存在している。
そしてこの隔絶こそ、私をたった2kmの林鉄の探索へ惹きつけた一番大きな要素であった。
どんな状況なのか気になるでしょう? みんなも!




『林鉄の軌跡』より引用のうえ、一部著者加工

事前に得ていた情報について、さらに紹介していこう。

歴代地形図に描かれたことがなく、全国的にも知名度の低い畑ヶ平林鉄の全貌やその廃線跡の現況を調査した資料としては、平成8(1996)年に伊藤誠一氏がまとめ、ないねん出版が発行した、『林鉄の軌跡 大阪営林局管内の森林鉄道と機関車調査報告書』という文献が、ほとんど唯一のものである。

以下、同書の記述から、路線網の全貌と、霧ヶ滝線に関わる内容を中心に紹介しよう。
まず、右図をご覧いただきたい。
これは同書に掲載されていた畑ヶ平林鉄の全体像を描いたものである。

この路線は、想像以上に複雑な路線網を有していた。
本線は岸田川の谷底にあり、起点の青下(あおげ)土場から、岸田川最上流の集落である菅原に至る。この菅原を拠点に、インクラインや索道を介して、高所に敷設された3本の支線が接続していた。
同書では霧ヶ滝線と、個別の名称を持たない上部軌道が2本あったとされているが、これらの正式名称が「一覧表」にあった第一・第二上部軌道だろう。

『林鉄の軌跡』は、“現地の方から得た証言”をもとに、本線及び各支線の消長を概ね次のように解説しており、その内容は「一覧表」とは一部合致しないところもあるが、ここではどちらが正しかったという言及はしない(できない)。

昭和8(1933)年、青下土場を起点とする畑ヶ平林道(林鉄のこと)・インクライン・上部軌道を起工(総延長8481m)。
昭和11(1936)年、軌道竣功。
昭和18(1943)年、単材索道及び上部軌道竣功。同時にインクライン側が下火になったようだが、しばらくは共存したらしい。どちらも上部軌道は馬力運材。
昭和25(1950)年、霧ヶ滝林道(906m)敷設。トロ込索道(500m)敷設。同時にインクライン・単材索道は廃止され、全事業が霧ヶ滝側へ移る。霧ヶ滝林道はほぼ全線9キロレール。古い畑ヶ平林道よりも状態は良かったようだ。畑ヶ平はこの時点で4180m。
昭和27(1952)年、霧ヶ滝林道1085m延長。奥地延長のため霧ヶ滝にも機関車が入線(本線は既に機関車運材を実施)。霧ヶ滝には機関庫がないので、冬場は索道に機関車を吊し、青下へ下ろして保管した。
昭和31(1956)年、畑ヶ平での直営生産事業が廃止され、実際の伐木・運材を旭木材が引き継ぐ。
昭和32(1957)年、畑ヶ平林道でオート三輪を用いた運材を開始。翌年に畑ヶ平林道の軌条を撤去。
昭和35(1960)年、オート三輪運材・トロ込索道・霧ヶ滝林道廃止。連送式索道開設。
昭和39(1964)年、霧ヶ滝林道・トロ込索道撤去完了。どのくらいのペースで撤去されたのはかわからないが、一応この年で完了したようだ。
昭和43(1968)年、連送式索道廃止。畑ヶ平国有林全生産事業が終了する。青下の水中貯木場も役目を追え、水が抜かれ、その周辺もサラ地になった。

『林鉄の軌跡』より抜粋

まとめると、霧ヶ滝線の建設は、昭和25年に906m、昭和27年に1085mが行われ、全長は1991m。本線との接続は、全長500mのトロ込索道(運材台車ごと運べる大型の索道)で行われた。 昭和27年からは機関車も入ったが、昭和35年に索道とともに廃止され、39年までに軌条や索道を撤去されたという。


『林鉄の軌跡』より引用のうえ、一部著者加工

この段階で、おそらくレールが残っていないことが分かってしまったのは残念であるが、それでも探索したいと思える魅力があった。

右の図も『林鉄の軌跡』からの引用で、菅原周辺の詳細図である。
この図には、霧ヶ滝林道の線に沿って、「踏査不能」という刺激的すぎる4文字が付されている。

また、現状を紹介する本文中にも、このような言及があった。

畑ヶ平林道は全線舗装道路で、トロ込索道着点場への変更線は踏査不能。
霧ヶ滝林道も踏査不能である。菅原から上がる道は廃道になって久しい。木橋等はそのままらしいが、レールは無いという。

『林鉄の軌跡』より抜粋

行ってみたくなるっしょ、これは!
で、死にかけたんだけどね。

また、本文中での言及は無いが、霧ヶ滝線の終点から先には、谷沿いに木馬道があったようだ。
これらを含めて探索してみたいと考えたのである。


最後に、今回の探索計画を紹介する。

出発地点は、畑ヶ平森林鉄道の起点だった青下土場跡地(右図の範囲外)とする。
そこから県道103号若桜湯村温泉線になったと考えられる軌道跡を自転車で約3.2km走行し、菅原集落へ向かう。

菅原集落に自転車を置き、トロ込索道の上部盤台があった霧ヶ滝線の起点へ向けて、地理院地図に描かれている徒歩道をひたすら登る。『林鉄の軌跡』によれば、この歩道は廃道だという。
軌道跡までの落差はおおよそ280mで、距離は700mくらいだろうか。この登行には最低1時間を要するだろう。

上部盤台到達以降が探索の本題で、全長約2kmと記録されている霧ヶ滝線を終点まで歩く。
ただ、地理院地図の軌道跡らしき道は1.6kmくらいしかないので、少し距離が合わないのは注意点だ。

首尾良く終点(どんな場所かは分からない)に到達出来たら、そのまま『林鉄の軌跡』の地図に「木馬道」と書かれていた徒歩道を辿って、この地図の南西端に近い畑ヶ平(海抜970m付近)まで溯上する。
あとは、地図に車道として描かれている町道畑ヶ平線を通って、菅原まで基本的には車道歩きとなる。

以上の周回コースは、霧ヶ滝線を単に往復するのと比べてかなり遠回りになるが、町道畑ヶ平線が上部軌道やインクラインの跡をなぞっているので、その探索を兼ねようという思惑があった。
ただしもちろん、終点まで踏破できない状況や、途中で残り時間が足りなくなるなどの状況も考えられるので、適宜、往復コースへの計画縮小を判断しながら進むことにしたい。

以上のような、自転車を一部活用しつつも徒歩メインとなる林鉄探索計画を建てた。全行程を1日で行う必要がある。
また、中国山地の気象、特に雪の量がよく分からなかったので、ネット上の登山記録なども考慮しつつ、決行日は2021年4月24日とした。


それでは――

の霧ヶ滝線へ、出発。   生きて帰って来いよ。



 畑ヶ平森林鉄道(下部軌道)は、探索の余地が少ない


2021/4/24 5:30 《現在地》

国道9号から6.5kmほど岸田川沿いの県道を南下すると、畑ヶ平林鉄の起点であった青下土場の跡に着く。そこは岸田川左岸に開けた小さな平地で、青下集落へ通じる町道との分岐地点にもなっている海抜約340mの地点である。ここから始まる林鉄は、途中でインクラインや索道といった“技”を利用して、鳥取県境に聳える扇ノ山の中腹、海抜800〜1000mの領域まで、路線網を伸ばしていた。

この場所が土場であったことくらいは、『林鉄の軌跡』という素晴らしい情報源を持っていなかったとしても雰囲気的に察せられたかもしれないが、一昔前のここに何が残っていたかについては、同書がなければ全く想像できなかったと思う。
現在ではただ広い更地があるだけで、「ああここが土場だったんだ」というくらいの感想しか持ち得ないが、よく見ると更地の一段上に幅広の平場があり、そこが軌道の起点だったそうだ。




平場に上ってみると、確かにそれらしい雰囲気があった。
残念ながら枕木はおろか、バラストも残ってはいないが、30mほどの長さにわたって三線のヤードになっていたらしく、写真奥に起点側のレール終端があったそうだ。

土場よりも一段高いところにヤードを設置することで、土場への木出しを有利にしていたのだろう。
ここには他にも製材所、事務所、宿舎などの施設もあったそうだが、残っているものはない。
また、林鉄廃止後、旭木材という会社が、ここと南西山上の事業地を結ぶ全長2.5kmオーバーの大規模な連送式索道を整備して使用していたそうだが、その索道の痕跡も無い。



『林鉄の軌跡』より引用


これは『林鉄の軌跡』に掲載されていた写真で、平成6年の調査時には水中貯木場の跡が残っており、バスケットコートとして使われていたそうだ(草が生えているように見えるが…)。
残念ながらこの窪地も埋め戻されてしまって、【ただの更地】になっている。

なお、水中貯木場というのは、主にブナなどの広葉樹を保管するために利用された施設である。
青下土場の貯木施設がほぼ水中貯木場だけであったということから、この地の林鉄が人工造林地ではなく、広葉樹天然林の利用を主体としたものだったことが窺える。



『林鉄の軌跡』より引用


この写真は昭和51(1976)年に青下土場跡で撮影されたもので、奥に天井が雪で押しつぶされた機関車の廃車体が見える。
『林鉄の軌跡』によれば、この機関車は霧ヶ滝線で最後(昭和39年)まで使われていた岩手富士産業(現:イワフジ)製造の軽量機関車で、長らくこの場所で放置されていたらしいが、後に注目され、『林鉄の軌跡』が刊行された当時は、高知県馬路村の魚梁瀬森林鉄道跡地で動態保存運転が行われていたそうだ。(現状は不明)

また、おそらくこの写真に写っているウィンチが、当地で最後まで稼動していた連送式索道の動力装置だったのだろう。当時はこんなものまで残っていたのか。



5:32 青下土場跡を自転車で出発。

青下土場跡に目立った収穫がないのは織り込み済だった。
あくまでも今回の本題は、山上に取り残された霧ヶ滝線の廃線跡である。そこで少しでも多くの時間を使いたい。
まだ朝日は山の端から昇っていないが、明るくなってきたので出発することにした。

青下土場跡から、霧ヶ滝線への取り付きとなる菅原集落までは、畑ヶ平林鉄の軌道跡を転用した県道を約3.2km進む必要がある。
土場跡を出発するとまもなく、ヤードを外れて単線幅に戻った軌道跡が右から合流してきて、それを合図に県道の勾配が軌道跡らしい緩やかなものになる。
この写真の道は軌道跡を吸収した直後の県道だ。道幅は軌道跡時代よりも広いだろうが、位置は重なっているはず。

右に観光客向けの案内板が写っている。




案内板には、この先が「氷ノ山後山那岐山国定公園」の公園地域であることが書かれていて、その一部である扇ノ山周辺の見どころやハイキング・登山コースが、大きなイラストマップでガイドされていた。

私が行こうとしている場所にどんな道が描かれているかを確かめたが、図の中央付近に書かれている「霧ヶ滝」と、その左に書かれている「畑ヶ平高原」の間の“何も書かれていないスペース”が、今回の探索領域である。
描かれていないというのは、使われている道はないという意味だろう。

それでは、イラストマップ上にもわざわざ「サイクリングコース」の注記とともにサイクリストの姿を描いている、菅原までの軌道跡である県道の走行をはじめよう。出発!



転げ落ちたらひとたまりもない高い谷沿いに、ガードレールのない道が続く。
道路の勾配は緩やかだが、地形はかなり険しい。
チェンジ後の画像は、路肩から見下ろした岸田川の渓流を写している。
谷底にはまだ夜の暗さが残っていた。


県道は小さな支流の谷を何度か渡るが、そのうちの1箇所に、古い石造の橋台が残っていた。畑ヶ平森林鉄道の数少ない遺構であろう。

前説で述べたとおり、畑ヶ平林鉄の本線は昭和8年に起工し、11年に菅原のインクラインや上部軌道(第二上部軌道)ともども完成している。
だが、後に建設される霧ヶ滝線などの支線とは直接繋がらず、索道で連絡した。そのせいもあったと思うが、インクライン以下の本線は昭和31年という比較的早い時期に軌道運材を終了し、レールも撤去されている。このように廃止が古いせいで、遺構は全般的に乏しい。



見るべき遺構が見つからなければ、どんどん進む。
やがて道路は岸田川を渡り、右岸を走るようになった。
そこから勾配が増してきて、軌道跡のサイクリングとしては、少しハードワークを感じる。
川に沿って直線的に登っていく部分が多いのも、気持ちが疲れやすい原因だろう。

現役当時、この路線には機関車が入線していて、空の運材トロッコをまとめて引き上げたり、重荷のトロッコを引き連れて下ったりしたはずだが、雨の日に車輪が空転して登れなくなったり、暴走の危険がつきまとったりというリスクを想像させる勾配だった。




5:50 《現在地》

青下土場跡を出発して18分、この間に約1.9km前進し、霧ヶ滝渓谷の入口に辿り着いた。海抜も340mから410mへ上昇。

ここには立派な駐車場があり、渓谷を訪れる観光客を迎えていた。
だが、今日の私の用事は霧ヶ滝線であり、霧ヶ滝渓谷を歩くわけではないので、この場所にはあまり用事はない。
もっとも、探索が計画通り進まなかった場合、エスケープして渓谷歩道に下りる可能性もあったので、一応入口を確かめることにした。

ところで、ここから見える中央奥の稜線(赤矢印の位置)は、霧ヶ滝渓谷の狭い谷間からギリギリ見通せる、畑ヶ平高原の縁である。
そして、霧ヶ滝線は、この高原の縁の少し下の山腹を横断しているはずだ。
さすがに軌道跡らしいラインは見えなかったが、物理的には見えてもよい位置である。

ともかく、今回の探索で克服しなければならない大きな高低差を初めて視覚的に認識したのが、この場面だった。
素直に大変そうだなと思った。



霧ヶ滝渓谷歩道の入口には特に通行規制に関する表示はなく、滝まで歩くことが出来るようだ。
滝までの距離は2400mで、片道1時間半ほどかかるらしい。

案内板には詳細な地図も掲載されていたが、当然のように、私が行こうとしている軌道跡は影も形も描かれていなかった。
まあ、わざわざ通行止とか書いているよりは、マシなのかな。

チェンジ後の画像には、私が今回の計画で歩こうとしている大まかなルートを表示している。
渓谷歩道とは、距離こそ近いが、常に高低差が大きく、簡単にエスケープできそうには思えない。
やはり、最後まで歩き通すか、来た道を素直に戻るか、そのどちらかになりそうな地形だな。




渓谷入口を過ぎると、県道の勾配はさらに増したようだった。
並走する岸田川の渓谷と直接対決で競い合うような直線的登りが強烈で、自転車でもしんどく感じられるほど。
本当に軌道跡かと疑いたくなるが、地形的にも道路の線形的にもここ以外を通って先へ行けそうな感じはしないし、たぶん機関車も砂をレールに撒いたりしながら頑張って上ったのだろう。




渓谷入口から600mくらいが最も勾配のキツい区間で、そこを過ぎると少し緩み、谷底は広くなった。そして小さな耕地も現われだした。
県道はほぼ一本道で、かつ軌道跡を忠実になぞっているらしく、軌道の遺構は非常に乏しい。
それだけに、早く霧ヶ滝線に取り付きたくて気が急くものの、勾配がキツいので、思うようには進まない。息も上がって、少し焦ってしまう。
まだ焦るには早い時間だが、むしろ万全の体制で臨んだ早朝だからこそ、出鼻を挫かれたくない気持ちがあったのだ。




ふむふむ…。

あのへんっぽいな。

見渡す地形と、手元の地図を何度も較べて、進むべきエリアを、イメージした。

おそらく、あの山の山頂に近い“肩”の部分に、霧ヶ滝線の起点であるトロ込索道の上部盤台があったのだと思う。
そして、直下の菅原集落との間にある200m代後半の落差を埋める歩道が、あったはず。

谷底から見上げた山肌には軽やかな新緑が広がっていて、蒼天の高原を背後に窺わせる眺めは爽快なものだった。
危機的な展開を、恐れはしても、予感するところは、まだなかった。



6:06 《現在地》

青下土場跡から約3km、所要時間32分で、再度岸田川を渡る名称不明の橋に辿り着いた。
海抜はちょうど500mで、この橋を渡った所から先が菅原集落だ。
既に赤い屋根の家屋が見えている。

例によってここにも林鉄時代の遺構は見当らず、既に気持ちは、この集落内にあるはずの「霧ヶ滝線へ登る廃歩道」を確実に見つけ出すことに向いていた。
ここで手こずるのは、全く本意ではないからだ。
どうせ手こずるなら、軌道跡に辿り着いてからにしたいのだ。

ただ、平成6年の『林鉄の軌跡』の調査時でさえ、「廃道になって久しい」と断定されたほどの廃歩道だから、土地鑑のない私には入口を見つけるのさえ一筋縄では行かないかも知れない…。




谷底にしては空が広く感じられるのは、それだけ高所に来たからだろう。
岸田川のどん詰まりで平地が乏しく、土木事業者の倉庫とか、山小屋風の民家とか、
不揃いの建物が各々異なる高さで疎らに散らばる、なんとなく生活感が乏しい集落だった。
今よりも遙かに多くの登山者が、この地より登頂を目指した時代があった、そんな雰囲気。

さて、肝心の“廃歩道”は、

どこだー??? どこにある?



ん?




あった…

この看板のおかげで、計らずも容易く目指す歩道の入口が発見された。

が、看板に書かれている内容が……、ちょっと笑えない。

これはもろに私が行こうとしている軌道跡のことを書いていると思うが、
平成3年、平成6年、平成7年と連続して、断崖絶壁からの転落死亡事故が起きたらしい。
……少なくとも3人も亡くなっているのか……、でもどうして3度も事故が起きたんだろう?

私が思うに、こういう死亡事故を引き合いに出しての通行止の警告は、
登山者の進入を思いとどまらせる効果が、あらゆる警告の中で一番大きいと思っている。
自分と同じような立場の誰かが事故に遭ったと聞いて、恐れない人はいないから。

しかも、具体的にどういう行為で死亡事故が起きたかが書かれていないのも、効果的だ。
例えば、単に通過しようとしただけで転落死したというのと、過酷なクライミングなどを行って転落死するのとでは、
“私”にとっての危険度は大きく異なる。だから、詳細な情報が与えられないと、最大限不安になる。



さすがにちょっと心が冷えたが、やることは決まっている。

行けると判断するなら進み、無理なら戻る。それだけだ。