廃線レポート 神之谷“トロ道木馬道” 第1回

公開日 2025.03.06
探索日 2022.04.08
所在地 奈良県吉野郡川上村


奈良県吉野郡川上村は、紀伊半島の脊梁を構成する大台ヶ原の北西山域、吉野川(紀の川)の源流部に立地する広大な山村である。村内には平地が全くといって良いほどないが(吉野川が作る僅かな河谷平野も大滝ダムの底になった)、古くから吉野杉として賞揚される美林の宝庫であることから林業が盛んである。

この地の繁栄した林業は、古くは吉野川を利用した河川交通によって、今日では同川に沿う国道169号によって、近畿圏の大消費地と比較的近距離に結ばれているのである。したがって多くの集落が吉野川の周辺に点在している。

川上村の最高峰である白髭岳(標高1378m)より流れ出る神之谷(こうのたに)川は、大迫(おおさこ)ダムの直下で吉野川へ注ぐ流長5kmほどの小渓流だが、かつてこの谷に沿って運材用のトロ道が存在していた記録があり、また遺構も存在する。

私がこのことを知ったのは、『日本の廃道』平成22(2010)年2月号(第46号)に永冨謙(nagajis)氏が執筆されたレポート「東熊野街道Odyssey異聞 神之谷トロ道木馬道」による。私は公開直後に読んで、その壮大かつ幽玄な廃道の風景に、大いに魅了された。

このパターンは、同じ紀伊半島の軌道絡みで以前紹介した「池郷川口軌道と不動滝隧道」と全く同じである。人の探索を読んで、いつか自分も行ってみたいと思った廃道を、その読んだ記憶が少しだけ薄れたタイミングで探索をすることで、経年変化のスパイスを加えて楽しむという、お手軽で美味しい私好みの“二番煎じ料理”である。

永冨氏と盟友masa氏のコンビが一流の嗅覚で見つけ出した廃道や廃線には、未だ『日本の廃道』以外ではほとんど言及されたことがないものが多くあり、このトロッコ道(軌道)についても同様であると思う。
今回も氏の成果に無賃乗車するようなレポートで恐縮だが、どうかお付き合いいただきたい。




まずは、氏が軌道の存在を知ったきっかけとなった文献の記述を紹介したい。
それは『近畿の山と谷』という戦前の登山ガイド(住友山岳会著)で、初版は昭和11年の発行らしいが、氏が確認したのは昭和16年改訂版とのことで、現在これは国会図書館デジタルコレクションで読むことができる。


『近畿の山と谷 訂補再版』より

柏木から二十分ばかり行くと、対岸に神之谷の出合を見る。左岸にトロ道が通じ小屋がある。ずっと奥まで左岸沿いに道があり、白髪岳まで三時間位で登攀できるそうだ。

『近畿の山と谷 訂補再版』(昭和16(1941)年)より

このとても短い記述が、探索の起点だ。
氏が探索前に得た文献的情報は、これだけだったようだが、なるほど確かに、神之谷川の左岸に“トロ道”があるということが書いてある。

トロ道というのは説明不要だと思うが、トロッコが走る道のことである。
同ページの地図の一部も転載したが、赤く着色したところが、本文が言及しているトロ道だ。地図上では他の登山道と同じ点線の表記である。


なお、この“トロ道”が、「軌道」として、歴代の地形図に描かれたことは、一度もなかった。
もしそういうことがあったら、私や、同じように熱心な他の探索者達も、容易くその存在に気づいたかと思う。

右図は、昭和32(1957)年版5万分の1地形図に見る神之谷川の流域だ。
赤く着色した部分に点線の「小径」が描かれているが、これはあまりにもありきたりな表記であり、軌道であったとは判断できないものである。

一方、チェンジ後の画像は最新の地理院地図だ。
トロ道であったとされる道は、下流部についてはそのまま「徒歩道」の記号で残されており、上流部は車道化している(林道神之谷線という)。
氏が探索を行ったのも、主にこの徒歩道として表記された部分である(清谷神社附近で折り返し)。

このトロ道、すなわち軌道跡については、あらゆる情報が少ない。

いわゆる国有林森林鉄道ではなかったらしく、林野庁の林鉄リストには記載がないので、民有林内の私設の軌道(いわゆる民有林軌道)だと考えられる。

氏は、探索後に把握した本軌道に関する記述を持つ文献として、平成20(2008)年に発行された『川上村民俗調査報告書 上巻』を挙げている。
私もこれを入手して読んでみた。

(神之谷の)集落内では、清谷神社へ行くのに昭和20年ごろまではキンマ道(木馬道)を歩いて行っていたものが、トロッコ道になり、やがて林道になってからは車で行けるようになった。

出材は、キンマ(木馬)やスラ(修羅)で山から材木を出して、筏に組んだ。昭和20年頃まではキンマで出していたのが、トロ(トロッコ)になり、セン(架線)になった。キンマ道(トロ道)は、現在は通れないがミチカタ(道の形)は残っている。神之谷川と吉野川が合流するカラッタニ(地名、大迫ダムの下流300mほどのあたり)まで、神之谷川に沿ってキンマで曳いてきて、吉野川と合流するところでマクッテ(転がして)、筏に絡んだ。

キンマやトロを使っていたころは、カラッタニへ木を出し、センを使うようになってからは、舞場垣内の下へ出すようになった。

『川上村民俗調査報告書 上巻』より

以上のようなことが書かれていた。
神之谷川からの出材方法は、木馬→(昭和20年頃から)トロッコ→架線や林道という風に変遷したものであるらしい。

なるほど、この地で軌道運材が営まれた時期があったことは理解したが、残念ながら路線名や経営者名、廃止の時期などは明確でない。
氏がレポートの表題として名付けた「神之谷トロ道木馬道」というのも、このような変遷と正式名の明らかでないことからのものであろう。本稿もこれを追従している。

そして、探索も後追いとなった私には、後追いなりに一つの“野望”があった。
それは、「軌道が存在していた何がしかの物的証拠を見つけたい」というものだ。

正直、土地鑑的にも人脈的にも、土地に明るい彼が見つけなかった新たな文献や証言を私が入手できる見込みは薄い(実際それは現状で果たされていない)ので、せめて現地の探索で氏のレポートに登場しなかった何かしらの軌道の遺物……レールであれば最良だが、せめて枕木、ないしは犬釘、もしくはペーシ、モール、なんでもいいよ……を見つけ出したいという野望だ。


果たして、野望は実現したか、否か。

でも一番の本題はそこではなくて、氏のレポートによって見せつけられた強烈なる廃道の風景を、私も味わってみたいということだったんだけどね。

そこについてはバッチリなんで、ぜひみんなも私と一緒に味わってくれ!! 

探索開始だ!



 大迫ダム直下、カラッタニへのアプローチ


2022/4/8 15:21 《現在地》

吉野川に沿う国道169号「東熊野街道」を川上村柏木の集落から1kmほど遡ると、この写真の分岐地点が現れる。
地名としては川上村大迫に入っている。
ここは、約750m先で吉野川を堰き止めている大迫ダムの建設に伴って付け替えられた新旧の国道の分岐地点である。
言うまでもなく左の狭い道が旧道で、右の現国道はここから一気にダムの高さを稼ぐ登りとなり、そのまま8km先の伯母峰(おばみね)越えへ雪崩れ込む。

私は、ここで左の道を行く。



この旧国道は、ダム直下にある大迫発電所へのアクセスルートとして機能している。
間もなく前方に開けた広い谷の奥に、「ダムだ!」としか言い様がない見事なダムが現れた。
通常この道はダムに突き当たって終わりと見なされるが、今回はダム直下に見えている“赤い橋”を渡って、対岸へ行くことが探索の前提となっている。だから、行き止まらない。

そして、この時点で既に目的地である神之谷川の入口が見えている。
写真左の広い河原が見えるところが、対岸から注いでいる神之谷川の出合であり、冒頭の解説で引用した『近畿の山と谷』における「柏木から二十分ばかり行くと、対岸に神之谷の出合を見る。左岸にトロ道が通じ」という記述や、『川上村民俗調査報告書』に登場した「カラッタニ」というのは、この場所を指しているのだ。



15:23

眼下に見下ろされるこの広い出合が、カラッタニ。
『川上村民俗調査報告書』によれば、神之谷川の左岸に付いていたトロ道(木馬道)の終点がこの上にあり、運ばれてきた木材をここで河原へ転げ落し、そこで筏に組んで吉野川を流送(筏流)したという。

カラッタニという名前も、広い河原を示すカラ谷という言葉から来ているかと思うが、昔の吉野川には筏を下せるほどの豊富な水量があったのだろう。
この日は徒渉できそうなほどの少ない水に見えたので、上流にダムが出来たせいだろうと条件反射的に書きそうになったが、実は吉野川の最上流に位置するこの大迫ダムは、洪水調節を行っておらず、基本的に流れ込んだ水を全量放流しているそうだ(ただし発電を行い、また渇水期に水量を安定させる調整機能を有する)。だから単純に探索時は渇水だったのだろう。

こうして遠くから見渡しただけだが、カラッタニの河原に人工物らしいものは見当らない。
また、神之谷川の左岸にも道形らしいものは見えない。
道は低い位置ではないようだから、森に隠れているのだろう。



周辺を新旧地形図で比較してみると、現在の地理院地図ではダムの直下に対岸へ渡る橋が描かれているが、(チェンジ後の画像)昭和32年地形図だと、「現在地」からほど近いところに小さな橋が描かれている。
だが、現地にそのような橋のあった形跡はみられない。
また、旧国道は水面に対して10mは優に高い所を通っているので、この路面の高さで対岸に渡るとなると、かなり長大な橋を要するであろう。
橋の痕跡の乏しさや地形を見る限り、ここにあったのは人道用の吊橋であったと想像する。

また、これはやや余談というか、おそらく神之谷のトロ道とは関係がない話であるが、旧版地形図だと「現在地」の辺りで「国道」と「県道」が二手に分れている。
しかし、現地にそれらしい分岐が見当らない。
どうしてなのかと考えてみると、つい止まらなくなったので……、話はちょっと脱線するが、次の囲みを見て欲しい。



 大迫ダム建設にに伴う周辺道路の変遷について

@
昭和51(1976)年
A
昭和42(1967)年
B
昭和23(1948)年

@昭和51(1976)年の航空写真は、既に現在とほぼ変わらない風景である。昭和48年に竣功したばかりの大迫ダムがあり、「現在地」附近には新旧の国道が上下に並走している。附近に分岐は見られない。

A昭和42(1967)年版は、大迫ダムの建設真っ盛りである。現国道も建設中だ。この時点で既に分岐は見当らない。

B昭和23(1948)年版になると、「現在地」の200mくらい先にとても鋭角な分岐がある。これが昭和32年地形図に(位置は少し不正確だが)描かれていた国道と県道の分岐であろう。ただ昭和23年当時はどちらも県道であった。この後の昭和28年に「県道上市木之本線」(熊野東街道)は二級国道169号へ昇格し、分岐して入之波へ伸びていた「県道上市大台線」はAで一旦消滅するが、Bダム完成後に堤上路へ付け替えられている(現在の県道224号大台大迫線)。

ちなみに@AB全ての版で、神之谷川沿いのトロ道のラインが見える。中でもBが一番鮮明だ。
特に「カラッタニ」に面して樹木が全くない白い斜面が見えるが、これが運ばれてきた材木を河原へ「マクッテ」(転げ落して)いた場所だと思う。
確かに現在も【この辺り】の植生は他とは異なって見える。

と、最後は本題へ立ち戻ったところで、本編を再開。




カラッタニを少し上流側から振り返って見下ろしている。
川の水が白くせせらいでいるところが、神之谷の出合である。
この日は水量が少ないために少し想像しづらいが、かつては大勢の筏乗りたちが生活のための命がけのラフティングに繰り出していったのだろう。

吉野川の流域では、この筏流の便宜のために江戸時代から盛んに浚渫や障害物の除去が行われ、明治の初期には相当上流部である当地附近から筏を組んで流せるようになっていたそうだ。(より上流は木材をバラで流す管流しだった)



ダムまで残り200mくらいに迫った。
巨大な壁がいよいよ立ちはだかってきて、のっぴきならない所へ来ている感じがする。
現地では何気なく撮影していた、しかしどことなく不自然な感じを受けるこの広場のシーンだが、上述した“囲み記事”の内容を踏まえれば、ここがBの航空写真に写っていた分岐地点の跡かもしれない。他にそれらしい場所は見当らなかった。



カウントダウンでダムが近づく、残り100m附近。
対岸の発電所の建物の下から、常時放水が行われている。
吉野川の全水量があそこで“爆発”している。
水量が少ないなんて書いたが、あんな風に小さな穴からジェット噴射するとなれば話は別。物凄い迫力と轟音だ。ここにいても微かに水煙を浴びている。

チェンジ後の画像は、これから向かおうとしている対岸の風景だ。
ソメイヨシノが見頃を迎えた小公園のような感じだが、人影は見えない。
先行者があそこからトロ道へ進んでいるのを知っているので、悩ましさはない。



15:27 《現在地》

ドーン!と大迫ダム最接近!

堤高70.5mのアーチ式ダムである。
アーチダムの例に漏れず、下から眺めた風景は満員のコンサート会場みたいだ。
誰もが主役になれる風景が、ここにある。

しかし、洪水調節をしないという話を聞いてから眺めると、それをしてくれる他のダムよりも冷酷な存在に見えてくるのが面白かった。
もちろん、他の部分で尊く役に立っているので、批判される筋合いのものではないが、実際にかつて緊急時に下流で人死にを出す放水を行ったこともあるなんて聞けば、ね…。



ブシャー!

ってしてるすぐ上を無名の橋で渡って、初めて右岸へ。
橋へ踏み込んだところで旧国道とはさようなら。
いよいよトロ道への進路を採る。

自転車は、発電所入口でお役御免。ここから徒歩で前進。(無人の発電所の入口ゲートが閉じていたからね…)



無人の発電所構内を通り抜け、綺麗に刈り払われた桜の広場へ。

そこにはひっそりと定礎石が安置されていた。
これまたトロ道の来歴と直接の関係はないが、大迫ダムの建設が昭和32年から48年までの長期間に及んだこと、その過程で二転三転した構造や利用計画のことなど、ひとことで言って“難しかった”ダムの諸々が、最後は様々な妥協と妥結でこの小さな記念物へと治まったのだと想像した。



定礎石を過ぎると広場の道は鋪装がなくなり、道というか、ただの広場の地面と変わらなくなった。
桜が植わっているが、そもそも対岸から見られることを念頭に置いたような植えられ方をしている。
轍も踏み跡もないところを細長い広場の形に従って下流へ向かっていくと、やがて道形らしきスロープが見えてきた。

スロープを上る。



15:32 《現在地》

キタ!

両開きの門扉によって入口を鎖された、林道然とした道。

これが、目当てとするトロ道の始まりだと聞いている。

読んで憧れた、壮大で幽玄なるトロ道との逢瀬が、間もなく始まる!




 神之谷トロ道、現る!!


この道の正体であるとか、塞がれている理由であるとか、一切の説明がないまま、発電所構内の裏口ともいうべき位置に、その入口はあった。
ここへ辿り着くまでに私は既に一度ワルニャンをしているが、それをしたくない人が吉野川を徒渉して直接ここへ来ることも地形的には可能だろう。
二度目のゲートをワルって、突入する。



突入した先は、幅4m前後の荒れた林道然とした道だった。
車の轍は全くないし、人が歩いている形跡もほとんど見られない。
入って間もなく、錆び付いた害獣トラップ檻が路上に放置されていた。



吉野川右岸の断崖絶壁に近い急な山肌を削って、自動車が通れる幅の荒れた道が伸びている。
法面も、路肩も、石垣などはなく、削りっぱなしの荒い露岩である。
ここも廃道といえば廃道だろうが、トロ道という雰囲気ではない。廃林道に見える。

トロ道は既に、この乱暴な車道(林道?)によって上書きされてしまっている。

そのように思われたかもしれないが、実態は違うと思う。
先ほども引用した昭和32年の地形図(ダム建設が始まる以前の地形図)だと、今歩いている区間に道は描かれていない。
おそらく、現役当時のトロ道は、ここまでは来ていなかった。
ここは後年(ダム建設と同じ時期)にトロ道への連絡のために整備された自動車道と思われる。



15:36 《現在地》《現在地(昭和32年地形図)》

2度目のゲートから200mほど進むと、明るい尾根に突き当たり、そこにはちょうど車を転回できそうな広場があった。
広場の奥側は、神之谷川である。

この場所が、トロ道の本当の終点(あるいは起点)と考えられる。

その証拠に――




来た道とは反対側の広場の一端に

確信的に軌道跡っぽい道がある!

あまりにも「それっぽく」て、逆に嘘っぽく見えてしまいやしないだろうか(苦笑)。

幅といい、勾配といい、カーブといい、石垣といい、軌道跡が過ぎるのである(笑)。

永冨氏の探索からは12年の月日が流れていたので、そうはいかないかと恐れる部分もあったが、どうやら未だ健在のようだ、魅惑の軌道跡!



これが、トロ道側から振り返って撮影した広場の様子だ。

木馬道時代から後のトロ道時代を通じて、神之谷川の出材路は、ここが終点であった。
この広場が当時から同じ広さであったかは分からないが、大量の材木を集積しておく余裕のある広さではない。
ここへ運ばれてきた材木は、車(木馬やトロッコ)から降ろされ、直ちに正面の崖から転げ落とされたのだろう。



木材が転げ落とされたとみられる斜面を覗き込んで撮影。

直下の白く見えるところが、吉野川と神之谷川出合の広河原“カラッタニ”である。
当然、ここから行き来する通路が近くにあったと思うが、それらしい道形は見られない。
樹木もこんなには生えていなかったことだろう。
軌道が廃止された時期を明らかにする証言も記録もないが、斜面に生えている樹木の年齢は、それを知る手掛りになり得そうだ。



15:38 カラッタニを後に、トロ道へ突入する。

今回も随分と午後の遅い時間からスタートしてしまったが、これは永冨氏の一行も同じだった。
神之谷川はそこまで奥行きのある谷ではないし、なにより軌道跡が軌道跡として残されている区間の長さは最大でもここから2kmほどに過ぎないはず。
今回は事前情報を得てからの探索であり、これでも十分に探索を遣り果せると考えたうえでのスケジュールだった。

そのうえで、冒頭でも述べた“今回の私の野望”に注意していきたい。
すなわち、レール、枕木、犬釘、ペーシ、モール、どれでもいいから、せんろが敷かれていた物的証拠を一つでも見出したい。
そもそもなければそれまでだが、あるのに見逃しがちになっているものを見つけられれば、本望だ。



広場までの幅4m前後はあった廃林道然とした道から一転、いかにも軌道跡らしい幅1.8〜2mの道となった。
山側には低い空積みの石垣が続いている。
勾配が緩やかであることも、いかにも軌道跡と思える要素だが、木馬道としては緩やかすぎるのではないかと心配になるくらい緩やかだ。

周囲は杉の人工林で、手入れはされているように見える。
この周辺の林地へアクセスすることが、大迫発電所とカラッタニを結ぶ前述の車道を後年に整備した目的だったかもしれない。
ただ、いずれ伐採すべき時期が来たとしても、現在の発電所構内の折れ曲がった狭い通路を運材のトラックが通行できるとは思えない。
伐出には再び架線集材が活用されることだろう。



おおお〜〜〜!

ちょっと悔しいけれど、見覚えある景色。

神之谷川へ落ち込む傾斜が急激に強くなり、道の谷側に目を瞠るほど高い空積みの石垣が設えられている。

またその高層石垣のすぐ先は、岩山を削り出した明るい片洞門へ続いているのが見える。

早くも、序盤のハイライトへ突入する気配だ。



高い!

捻りのないコメントで恐縮だが、確かに驚くべき高さだ。
しかも、石と石を接着するために目地にセメントを用いた練積みではなく、石同士の摩擦力と重力だけで保持された空積みである。
しかもしかも、その石は予め積み上げやすい形に整えられたもの(谷積み)ではなく、ランダムな砕石をパズルよろしく積み上げる乱積みだ。
まとめると、空積みの乱積みという、石垣作りにおいてはもっとも現場主義的というか原始的手法によって積まれていた。
一言で石垣が高いといっても、これは最も驚くべき種類の(=高く積み上げることや長寿命であることが難しい)高層石垣であると思った。

しかもしかもしかもである!
当たり前だが、これは安定した地面にサアどうぞといって積み上げられたものではない。
仕事現場は断崖絶壁の真っただ中。足場作りからして命がけの岩場に、一つ一つの石材を持ち上げて、積み上げた、その仕事の手練れと労働の重さは、実に感嘆すべきもの。

だから驚いた。


足元に驚いた、そのお口あんぐりが閉じないうちに、続けざま、今度は頭上に驚きが――




ぴょこん!

と出ている部分は、片洞門?

それとも、岩の自然な出っ張りだった?

人造の片洞門にしては、ちょっと高すぎる気がするが、真下を道が通っているのがなんとも愉快。
出っ張っている所のずっと上まで岩場は垂直に高く切り立っているのに、ちょうど道がある高さに地面があるのは出来過ぎな気がする。
道を通すために削ったのだろうか。本当に上手い具合に道が通じている。



片洞門みたいな岩の庇、オーバーハングを、真下から見上げて撮影した。
ロッククライマーが泣いて喜びそうなハングである。
下流側から見た印象と、この真下から見上げた印象は、厳つく尖った魔女の鼻のようだと思った。

が、この奇妙な岩には別の顔もあった。



上流側から振り返ると、一転してそれは、マリオの団子っ鼻だった。つうか、巨大なサルノコシカケ…。

見る方向によって岩の形が違って見えることに不思議はないが、このアングルだと一層、人工的に削られた片洞門の天井っぽい。
現在の路面から見て天井が高すぎるとは思うが、実は木馬道からトロ道へと改造されたときに勾配が修正され、結果として、この部分の天井が高くなったのだと仮定すれば納得は出来る。
全ては一つの仮説でしかないが…、あり得るような気はする。



こんどは橋!

それも“架かって”いる?!







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