2022/4/8 15:48 《現在地》
吉野川出合の起点(カラッタニ)から150mほど進んだ地点に、最初の橋の跡があった。
ひと目見た瞬間に、見慣れた存在である“林鉄橋らしい姿”だと感じた。
林鉄の物的証拠とまでは言えないだろうが(牛馬道や木馬道にある橋との区別は困難だ)、とても“らしい”橋の跡だった。
実際のところも、そうした由来を持つ橋であったのだろう。
この“トロ道”がいわゆる森林軌道であったことを疑う必要は最初からなかったのかも知れないが、私の中では一応、レールが敷設されていた物的な証拠や写真、あるいは直接的証言を得るまでは、疑いの目を持つつもりであった。(これは永冨氏の探索を疑っているわけではなく、地形図に軌道として表現されたことがない路線に対する私の基本的態度である)
橋台の高さ、橋台間の距離共に4〜5mの小さな橋だが、直前に目撃した高層石垣を彷彿とさせる緻密な石造橋台が印象的だ。
しかも橋台ということで、基礎部分が場所打ちコンクリートで固められていたり、路盤を支える天端にモルタルが充填されているなど、意識的に堅牢な造りになっている。
橋台の前面に桁を乗せるための“切り欠き”があり、その部分の寸法を測れば設置されていた橋桁の厚みや幅を実測できたことだろう。
構造的に単純木桁橋と思われるが、残念ながら当初の桁は喪失している。
いま乗っている桁は、明らかに人道用として後年設置されたものである。
お試しに、桁の上へ半身の体重を乗せてみたが、明らかに強度の不安を感じさせる動揺があったので、渡ることは即座に自重した。
この橋については、12年前に編まれた永冨氏のレポートでも同じ桁があったが、当時でさえ大事を取って渡らない選択をされていたことを、探索後の復習で把握した。
この橋跡の迂回は、山側を回り込むことで簡単に済ませることが可能だ。
橋の下には倒木が散らばっていて、その中に旧橋の残骸が混じっていないか注目したが、どうもなさそうである。
温暖湿潤な紀伊半島の中でも、この山域は特に雨量が多いところであるから、木の生長にはとてもいいが、木橋が長期保存される条件としては良くないはずだ。
もし見つけられれば、廃止時期を知る手掛りになると思ったが、橋桁の残骸がないのは残念だった。
15:50
250m地点付近は、まだ植えられてから比較的時間が経ってなさそうな植林地だった。
そして、この場所を過ぎた途端、道の状態が明らかに悪化した。
林業関係でこの道が利用された最後の機会は、この区域の山林作業であった可能性が高い。
チェンジ後の画像は、眼下の谷底を何気なく撮影したものだ。
神之谷川との高低差は20〜30mあり、崖と呼んで差し支えないくらい切り立った場所が多い。
だが、立ち入りが難しそうに見える急斜面でも果敢に植林や間伐が行われており、伝統的かつ全国的に高名な吉野林業の影響力の大きさを感じることが出来た。
15:52
前述した通り、直前の植林地を過ぎると、道が急に荒れ出した。
路上に倒木や落石が多く散らばっていて、もう長く放置されているように見える。
まだ探索に困難を覚えるような状況ではないものの、明らかに廃道といえる状態の道になった。
それから間もなく、行く手に白っぽい谷が見えてきた。
そして近づくにつれ、白い谷を横断する部分の道が、その谷を構成している白い石を積み上げた大掛りな築堤であることが見えてきた。
日光を反射して白く輝く美しい谷が、道づくりの匠の技の引き立て役を買って出ている幸運に、自然と足は早まった。
15:54 《現在地》
ああ、綺麗だ。
白い岩の谷を、その白い岩を巧みに組み上げたカーブ線形の築堤が横断している。
ただし築堤の中央部分は砂防ダムの越流路のように凹んでおり、そこを小さな木橋で越えていたようである。
砂防ダムと築堤を兼ねたような形状だが、前者の意図があったかは分からない。
そしてこれまた川下側に大変大きな落差を有する高層石垣となっていた。
それにしても、この谷は白い。
苔生しているところを除けば、本当に真っ白ではないかと思う。
これがこんなに白いのは、石灰岩だからだと考える。
思いつきというわけではなくて、ここへ来る途中(レポート開始地点の直前)に不動窟という観光鍾乳洞の前を通過している。
だからこの辺りは石灰岩地帯なんだろうという印象があったが、この谷の風景はさっそくそれを肯定した。
思い返せば、さっきの【片洞門?】も、石灰岩だっのたかも。
そして、この石灰岩地帯という特徴は、やがてこの道の景観を完全に掌握することになる……。
これが本線の2箇所目の橋の跡である。
前述した通り、石造りの砂防ダムの越流部分だけをぴょんと跨ぐだけの小橋だが、前後とも総石作りの築堤であるため使用石量が半端なく、遺跡じみた味がある。凄い手間の入った構造物だ。
水流に面するごく一部にだけコンクリートが使われているのは、後年の補修の成果だったりするのかもしれない。
谷底の部分が石張りになっているのも、まさに堰堤だ。
右手へ迂回して、対岸へ。
無名の支流だが、水はほとんど涸れていた。
そして対岸へ辿り着いて振り返ったところで、再び私は歓喜する。
石垣かっけえ!!
一部崩れているところはあるが、大部分が原形を留めている、長く、高い、石垣。
元の岩肌を上手く活かして、それが足りない所を埋めるように積まれている。
そうして石垣と岩崖を合わせた道下の崖の高さは、垂直20mに近いものとなっている。
この支流の谷を巻く最も険しい部分を、こんな石垣の連打で切り抜けていた。かっこいいじゃねーか!
一般的に、民有林軌道は国有林軌道と比べて小規模であり、そこにある土木構造物についてもあまり見るべきものは多くないという印象があるが、そのような傾向は確かに否めないけれど(そもそも圧倒的に路線の数量が違う)、この路線のように地形図に一度も掲載されず、総延長も5kmに満たない小規模な民有林軌道(路線名すら不明である)でさえ、こんな“力作”を以て運材にあたっていたのだと感心した。
…………まだまだ、序の口だったのにね…………
15:58
起点からあれよの間に20分が経過。400mくらい進んだ。
この間は見どころと呼べる場面の連発で、酸いも甘いもいろいろな林鉄を見てきた私が、これは大盤振る舞い過ぎやしないかと逆に心配するほどの出血大サービスの様相を呈していた。
そしてこのような楽しさと興奮を12年前の永冨氏の筆致に感じ取り、是非に自分もと思ったことを振り返ると、彼の伝える技術と、私の勘の両方が鈍くなかったことに感謝した。
いまようやく、開店出血大サービス区間が終わって、普通の軌道跡がやって来た感じがする。
薄暗い荒れた杉林へ、道はそろりと侵入していく様子であった。
16:00
500m附近。暗い杉林の一角に、再びの、“ぴょこん”があった。
今度のものは、片洞門としてみれば取るに足らない規模であるが、その位置的にも高さ的にも間違いなく、この道が生み出したものだった。
こういう光景があるということはやはり、【さっきの“ぴょこん”】も、元はこの道が生み出したものではなかったか。
規模は違うが、おそらく石灰岩である切り立った露岩を回り込む部分という共通点もある。
古い道には作り手の癖があり、似た場面には似た道が造られるものだろう。
16:02
ふと、違和感に気づく。
なんだか、静かである。
理由はすぐに分かった。
足元の神之谷川に一滴の水も流れていなかったのだ。
さっきまで絶えず聞こえていた沢の音が、全く止んでいるのである。
そんなことある?!
いくら小さな川とはいえ、まだまだ奥行きがあるし、地形図に平然と水線が描かれている川だぞ。
それに、現にこんなにも深い谷を作り出しているではないか。谷底には、その水量を裏付けるような広い河床があるのに、水とそれが流れる音がない。
この“謎”はおそらく、伏流という現象で説明がつくものだと思う。
全ての水が河床の砂利の中を流れていて地表から隠れているか、あるいは(おそらくこの可能性の方が高いと思っているが)、石灰岩の割れ目に吸い込まれて地中を流れ、今まさに鍾乳洞を造り上げている最中か。
神之谷鍾乳洞(仮)が絶賛造成中かもしれない。それが人の潜れる規模の穴として発見される日は、数千年、数万年後かもしれんが。
って、そんなことよりも重要なのは、伏流が常態化していることが神之谷川での運材方法として木馬やトロが必要とされた理由かもしれないということだろうな。これについても文献的な情報はないが…。
16:07 《現在地》
起点から約30分で800m附近まで前進。
しばらく見どころといえるものはないが、大きな障害もないので、とても順調である。
そもそも、これで見どころが…なんていうのは贅沢だろう。あの美しい白い橋台から、まだ400mくらいしか“空いて”いないのだから。
こんなところに小さな広場があった。
列車交換用の複線を作るには長さが足りないが、規模的に列車運材ではなく単車乗り下げ運材であったと思うから(これについても資料的情報はないが)、本当に交換施設だったかもしれない。
あと、ここは大字の境になっていて、これより大字北和田から大字神之谷へ入る。これらが個々の村から、川上村を構成する大字となったのは、明治22年の町村制施行当時であって、随分昔だ。
チェンジ後の画像は、“矢印”の位置に落ちていたグズグズに崩れた一斗缶だ。
こういう場所なら、レール、枕木、犬釘、ペーシ、モール……それらせんろの直接痕跡物が残されている期待を持って地面を探したが、見つけられたのはこれだけだった。
残念。
16:08
ここも少し“ぴょこん”となりかけている、険しい岩崖の場面。
それはともかく、ここは特に谷に面した道幅がくっきり綺麗に残っていて、築造当時のこの道が最低限欲していた道幅がどれほどのものであったかを実測するチャンスだった。
私はここでメジャーを取り出し、近い3箇所で実測を行った結果、その数字はいずれも2.3m前後であった。
つまりこの道は、条件の悪い場面であっても幅2.3mを最低限は保つよう作られていたと考える。
この狭さは自由に操縦できる車馬が行き交うには大いに危険であり、やはりトロなり木馬なりガイドレールの存在を前提とした運材路だったことを示唆していると思う。
16:12
900m附近。
初めて、うわっ と思うレベルの崩壊地に遭遇した。
撤退を心配するような場面ではないけれど、大きな山崩れの現場である。
長伐期施業(植えてから伐採まで100年以上かけることもある)を特徴の一つとする吉野林業に育てられた幹回り1mを越すような巨大な杉が無残にも大量に倒伏し、瓦礫と一緒に道を縦横に塞いで面倒な状況を作っていた。
転倒負傷に注意しつつ、潜ったり跨いだりして越える。
16:14
無事通過して振り返る。
そして前進再開。
この辺りまで来ると、最初の頃とは比べものにならないくらい全体的に道は荒れていた。
16:17
1000m附近。
石垣や切り取りといった直接に道形を構成する遺構は絶えず現れている。
派手な遺構はなくても全体的に絵になる場面が多いと感じ、たくさん写真を撮ったし、またこうして全体的に大きめのサイズで発表したくなっている。
夕方の傾きつつある日差しは既に神之谷川の深い谷底まで届くことを止めており、その薄暗さがもともと幽(くら)い谷の情感を深くした。
相変わらず全く音を立てない谷が、終盤に向けて独り策略を巡らしていることなど、誰が見抜けようか……。
16:20
神之谷“トロ道”の名物
白い崖キターッ!!!
16:19 《現在地》
永冨氏の後追い探索である今回、一番に見たかったものを捉えた。
有るか無いかも分からない“レールが敷かれていた痕跡”などより、本心では、遙かに欲していた遭遇だ。
そういう意味で、無ければ困る代物だったが、起点の“カラッタニ”から約1050mの位置に、それは間違いなくあった。
予期せぬ遭遇ではないことがとても悔しいが、同時に、同じものを見られて嬉しいとも思う。
そういう意味で、いまこのレポートを見てしまった同業者には少し同情する。知らないで見つけたら、間違いなくもっと興奮したのに。
だがそれでも、見たいと思った人で、ここまで来られるならば、来るべきだ。
なぜならこれは、真に珍しい、類型の稀な“道の風景”であろうと思うから。
とはいえ、急ぐ必要もないと思う。
この景色が経年で失われる日が来るとしても、それは人類が消え去るより向こうかもしれない。
そんな風に思われる、動かぬ岩の風景である。
私のように気安くはキターだのウオーだのレポートで叫ばない永冨氏が、叫び声より【驚きに満ちた表現】「異常。常とは異なるもの。常ならぬもの。空恐ろしくなるような非現実感を伴う遭遇。」で表した、無先例の道路(軌道)風景。
彼の驚きと、類例がないという評価を、私もそのまま支持したい。
そして、これも彼のいうとおり、私も、「私の(カメラの)腕でどうにかできる代物ではなかった」と言いたい。
この驚くべき風景の肝は、頭上へ被さる100°にオーバーハングした平滑な岩壁であり、2次元画像のカメラでこの“解放的な圧迫感”(?)を伝えることは難しい……。
…………難しいが、善処はしよう。
(↑)全天球カメラ画像を見よ!
幅2mほどの直線的な崖道の山側にそそり立つ岩の壁が、この場面の主役である。
もし道がこの位置になくて、どこか遠目に観察されるだけの崖であったのなら、珍しい規模ではないのだろう。周囲の山はもっと遙かに巨大である。
だが、道がこの位置に通ることで、非常に特異で前例のない景観という印象を与えることになった。
地の研究者でなく、道の探求者である私にとって、これは特別な風景だった。
法面の位置を占めるこの白い岩壁が人工物ではないことは、垂直を通り越し、完全にオーバーハングしている状況から瞭然といえるが、その表面は人工物……コンクリート……のように平滑で、コンクリートと同じ程度の色合いと相俟って、特に遠目でそう見えた。
しかし、手をつくほど近づいて見れば、確かに自然な岩肌らしい微妙な不陸が存在し、かつ石灰石らしい珊瑚様のざらついた手触りや、水で溶けたような風合も観察される。
これは、本線ここまでの場面でも何度かその存在が印象付けられてきた石灰岩による、路傍には過ぎたる巨大な露岩ということになろう。
この人工物のように直線的で平滑な露岩が自然に生じた理由について、素人なりに受け売りの知識を総動員して想像を巡らせてみたが、これは石灰岩の主成分である方解石という鉱物が持つ劈開(へきかい)(特定の方向に割れやすい)性質によるものかもしれない。方解石は三方向に完全な劈開を持つという。その影響を受ける石灰石も劈開が起りやすいのだと思う。
であるならば、この道は完全に自然なままの岩壁の形状に頼っているのか。
これは、否であろう。
壁の一部であるが、チェンジ後の画像に矢印で示したように、明らかに削岩機のロッドを入れて岩盤を削った形跡がある。
衝撃を与えて劈開を誘発させるという方法かもしれないが、いくらか手を加えているのは明らかだ。
本当にこれは面白い、奇抜な風景だ。
道に対するオーバーハングだが、いわゆる片洞門というのとも違う。
道に覆い被さる上部の岩盤までは、おそらく人の工作は及んでいない。それは自然と覆い被さる向きにそそり立っている岩である。
もしも、ここを通る道が、気難しく「建築限界」を騒ぐ存在であったなら、もっと大幅に岩盤は取り壊され、より平凡に近い片洞門に変わっていたように思う。
ここが気楽な……といったら語弊はあるが、少なくともルール化された建築限界を有する国有林森林鉄道ではない軌道であったこと、そしてなにより、この状態でも運材に差し支えなかったことが、この奇特な道路風景を生んだと思う。
仮にここがもっと道幅の広い道路であったなら、車高のある運材トラックは壁に接触してしまうだろう。
そしてこれが縁の下の力持ち。
“白い崖”を潜る道は前後とも、全て石垣によって支えられた人工的な地盤である。
もしかしたらより古い時代(木馬の時代?)には、桟橋であったかもしれない。
オーバーハングの岩盤には取り付く島がないから、その下をくぐる道を石垣で設えたということだろう。
極めて堅牢で崩れる様子のない石灰岩の大きな庇に守られて、この石垣は、時を経た廃道とは思えないほど整った姿を保っていた。
白い崖、緑の石積み。
天与の地形と、人造の工作が、ちょうど半々に荷う道。
私が奉じる“古き良き交通路”とは、こういう風景なのだと思う。
やっぱり来て良かった!最高!!!
16:26 《現在地》
見たかった“白い崖”を存分に楽しんで後にした。写真は最後にもう一度振り返った“白い崖”だ。
現在地は起点から約1.1kmで、一連の軌道跡のうち林道化を免れた区間の中間地点を少しだけ越えた辺りだ。
このまま軌道跡が林道とぶつかる地点を目指して進むが、最後の林道への脱出は、すんなりとはいかないかも知れない。
なぜなら、永冨氏たちは手こずっていた記憶がある。
が、ともかく最終的に成功はしていたので、私もなんとかなることを期待して前進を継続する。
今から考えると、私はこの先に待ち受ける困難の大きさを、少しだけ過小評価していたかもしれない……。
最大の目標だった“白い崖”は、あくまでも美しさのハイライトであって、探索のハイライトではなかったのだ。
前進再開。
道は、薄暗い杉林の谷を潜行していく。
潜行という表現が相応しいほどに、神之谷川は空を映さぬ谷だった。
ただ、河床を潜行…いや、伏流していた川の流れは再び地表へ戻ってきたのか、水が弾ける音が聞こえ始めた。
道だけでなく、川の様子も、森の様子も、神之谷は、恐るべき終盤へ向けて、変化を見せ始めていた。
16:28
久々の水の音の出所が見えた。
滝がある。
細い滝だが、とても面白い姿をしている。
乗用車どころか大型ダンプくらいありそうな巨石が積み重なって天然の堰堤を作っている。
水はその一番低い所から一本滝となって落ちていた。
増水時にはどんな姿へ変わるのか、凄いことになっていそうな滝だと思った。
低く見えるかも知れないが、随分高い処から見下ろしているからそう見えるのであって、たぶん10mは優に超える滝だ。
間もなくその滝の落口の上部である。
道は再び、激しくそそり立つ岩崖と向き合うようだ。
おそらくなんら予備知識を持たなければ、隧道の出現を意識したと思われる風景だが、さすがにそれを見逃す先行者ではないので、この道は明りに終始するだろう。
だが、隧道などなくても、驚くことは十分に出来るのだった。
……私は驚いた。
途方もなき高崖が、道上にそそり立っていた。
その高さは、前出の“白い崖”が可愛らしく見えるほど。
なんとも対照的な、“黒い崖”だった。(これは私が勝手に名付けたが…)
それにこの色だけでなく、形の複雑なことも対照的。
周囲の杉はみな20mを超えるような高木だが、この崖の高さは完全に圧倒していた。
16:31 《現在地》
“黒い崖”直下、すなわち滝の直上であるが、この崖を横断する路盤は、崩壊して断絶の状態にあった。
具体的な状況は、チェンジ後の画像に示した。
本来の形状としてはおそらく、石垣→短い桟橋→切り通し というコンボでここを通過していたと思われるが、ガミラス帝国が地球へ落した遊星爆弾の雨のように、“黒い崖”より降り注いだ大量の巨岩で、路盤は徹底的に破壊され、あるいは埋没してしまったのが現状であると見る。
もちろん、落ちた巨岩は谷へ積み重なって堰のような滝を作ったのであろう。
本線最初の難所らしい難所だった。
この正面の岩や土をよじ登るしかないのだが、掴み所がないものが多く、悩ましい。
何度か足の置き方や運び方を試行錯誤した後に、やり方を決めて、慎重に乗り越えた。
16:33
よじ登った先も平らではなかったが、そこからさらに数メートル崩土の山なりを乗り越えると、向こうに次の路盤が見えてきた。
が!
想像より圧倒的に険しいッ!
久々に、これはあれだ……
この巨大な崖にへばり付いた頼りない石垣の様子は、アレ………
日原古道のあの伝説的な“死亡遊戯”を思い出したぞ。(あっちも石灰岩地帯だったし)
あそこに比べれば高さは低いかもしれないが、どのみち落ちたら一緒だろ…。
明るい死亡遊戯と、暗い死亡遊戯の違いでしかない。落ちたら一緒。
下はまたしても滝。
恐ろしく黒い滝壺を持つ、滝だ。
さっきの滝と高さは同じくらいだが、様子は全く違っている。
逃げ場のない如雨露の口のような狭い水路から落ちる一本滝である。
そして、滝の形に対して異様に滝壺が広かった。
私がこの風景を見て咄嗟に連想したのは、鍾乳洞の大ホールを落ちる滝の姿だった。
神之谷川が今の姿となるまでの太古からの経過を知らないが、この川はかつて、巨大な鍾乳洞を流れていたことがあるのではないか。
この素人の思いつきを否定する材料があるなら見たい。
谷の成因についてはともかく、神之谷川は本当に屋根のない鍾乳洞のような谷へと変貌していた。あの無明谷のように。
そして、神之谷トロ道は、自らが異形の谷の住人であることを自白した。
“白い崖”で止めておけば危ない目に遭わずに済んだが、“黒”はやはり、危険の色だったらしい。
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