上信電鉄旧線 (上野鉄道) 隧道捜索編 (前)

公開日 2014.4.5
探索日 2014.4.2
所在地 群馬県下仁田町



終点の下仁田駅に居並ぶ上信電鉄の車両たち。
同社はかつて、背後にそびえる上信国境を越えて、長野県への延伸を計画していた。
現社名も、その事にちなんでいる。

【周辺地図(マピオン)】

上信電鉄といえば、その前身を含めれば全国屈指の長い歴史を誇る私鉄として、また奇抜な列車のデザインなどにおいても、鉄道ファンには知られた存在である。

その営業路線は上信電鉄上信線といい、群馬県の高崎駅(信越本線)から鏑(かぶら)川に沿って西進、吉井や富岡などの古い商都を経て、上信国境内山峠の入口にあたる下仁田へ達する、全長33.7kmである。

冒頭に「全国屈指の長い歴史を誇る」としたが、同社の前身である上野(こうずけ)鉄道は明治26年の設立にかかり、明治29年には高崎〜下仁田間21哩(マイル)の鉄道建設に着手。同30年に早くも全線を開業させている。以来、社名などは変化しているが、同社の鉄道事業は高崎と下仁田を結ぶ一本だけという状況で、地道に経営を続けている点に特色がある。

全長33.7kmの路線を地図の上で眺めると、起点から終点ひとつ手前の千平(せんだいら)駅まではずっと平野であるが、そこから終点下仁田駅までの区間だけは、鏑川の不通(とおらず)峡と呼ばれる峡谷を通過しており、山がちである。
そして、この険阻な区間には、上信電鉄の前身である上野鉄道時代の遺物が、秘かに眠っていたのである。



今回紹介する旧隧道は、複数の旧地形図を比較する「ネタ探し」の中で、偶然その存在を疑う事態となったものである。

左の地形図は昭和26年応急修正版で、当時は上信電気鉄道と呼ばれていた鉄道が描かれている。左下に終点の下仁田駅、右上にそのひとつ手前の千平駅が見えるはずだ。
そして同じ地図にカーソルを合わせると明治40年測図版に切り替わる。(切り替えが上手く行かない場合は、こちら
上野鉄道の開業は既に述べた通り明治30年のことで、上信電気鉄道への社名変更は大正10年(昭和39年に上信電鉄へさらに変更)であるから、ここに描かれているのは上野鉄道時代の線路である。

何度か画像を切り替えて貰えば、一見同じ場所を通っているように見える線路に生じている、微妙な変化にお気づきいただけると思う。

答え合わせ。
この2枚の地形図から読み取れる線路の変化は大きくふたつあり、ひとつは千平駅が出現している事(明治40年版には描かれていない)で、もうひとつは、鏑川左岸の岩場にあった隧道が消えている事である。

「廃隧道があるのでは!!」と、興奮したのはもちろんだが、冷静に考えると正直、旧隧道が原形を留めている期待は小さそうな立地条件であった。
2枚の地形図で、線路そのものの位置が変わっているように見えない。つまり、単に隧道が開削されて切り通しに変わっただけということが、疑われた。



最近の地形図(→)でも確認してみたが、やはり明治40年の地形図にあった隧道は、描かれていない。

また、この場所(擬定地)へ辿り着くためのルートも検討してみた。
すぐ近くに道路はあるものの、線路とは少し高低差があるようだった。
或いは上信電鉄の車窓から旧隧道の有無を確認する事も考えたが、走る列車の中からの一瞬の車窓に、極めて重要な遺構の有無という判断を頼るのが怖かったし、仮に車窓から見えなかったとしても、どうせ一度は現地を確かめないと気が済まないだろうという予感がしたので、結局ぶっつけ本番で、いきなり現地へと乗り込む事にした。


なお、上野鉄道や上信電鉄の歴史について詳しく知りたい方は、wikipediaの上信電鉄上信線の項のほか、上野鉄道時代の貴重なナマの資料として、明治44年刊行『鉄道業の現状』が国会図書館近代デジタルライブラリーにて閲覧出来るので、オススメしたい。


それでは、小さな期待を胸に、明治廃隧道探しへと出発しよう!




明治廃隧道を求め、線路端の捜索へ



2014/4/2 12:01 《現在地》

下仁田IC近くの国道254号沿いにある「道の駅」で車から自転車を降ろした私は、それに跨がって下仁田駅方面へと移動を開始。
馬山地区の石淵という集落で、脇道へ入る。
写真はその道の入口で、道は鏑川対岸の白山地区(集落)へと続いている。

道はまず、急な下り坂で始まっていた。
これから川を渡るための下りである。




すぐに鏑川を見晴らせる場所に出た。

道はぐねぐねとカーブしながら下って、正面の大きな橋へ続いている。
橋の下には、鏑(かぶら)川。
そこを流れる水は碧がかった色をしており、川原の白い砂利や、両岸の赤い岩場とのコントラストが印象的だった。

鏑川が関東山地や関東平野に作り出した平野や河谷は、古来、上州と信州を結ぶ通路として、中山道の脇往還である富岡街道の通路となったのであり、明治以降はそれが上野鉄道(上信電鉄)となり、国道254号ともなったのである。

…なんて事を考えながら、対岸の険しい山腹に真一文字に結ばれた線路の影に、違和感を探し求めた。
ちょうど「矢印」の辺りに古地形図の隧道は描かれていたのであるが、さすがにこんな遠くから“遺構”を発見できるわけはなかった。



本編とは直接関係ないが、鏑川に架かる「赤津橋」という橋には、旧橋の痕跡が残されていた。
現在の橋は、銘板によると平成15年竣功とのことなので、旧橋はその頃に役目を終えて撤去されたのだろうか。
どんな橋だったのか気になるが、残念ながら詳細は不明である。

なお、これらの橋の右奥に続いている鏑川の渓谷は、「不通峡」と呼ばれている。





赤津橋の上に被さるようにそそり立つ、巨大な岩峰が目を引いた。

500mほど西に山頂を持つ浅間山という山の尾根が、鏑川まで突き出た地形である。
これだけ風雅な姿ならば、何かしら名前が付いていると思うが、私はそれを知る事が出来なかった。

ともかく重要な事は、この岩峰の中腹を現に上信電鉄が横切っており、明治40年の地形図では、そこに1本の隧道が描かれていたということである。

すぐにでもよじ登って見に行きたかったが、さすがにそれはノープラン過ぎる。
もう少し平穏なルートを求めて、先へ進む。


道は線路と同じ川の左岸に移ったが、まだ高低差が大きく、地図を見ていなければ、近くに現役の線路があることを知り得ないだろう。
もちろん、鉄道が頻繁運転ではないこともその理由である。

そのまま赤津橋から300mばかり道なりに坂を登ると、急に平坦な場所に出た。
そこは国道があるのと同じくらいの高さで、川の両岸に顕著な河岸段丘が発達している事を実感した。

そして、畑の中に数軒の民家が並ぶ平坦地の山際に、ようやくお目当てのものが!




12:05 《現在地》

線路発見だぜ!!


……って、これは何の珍しさもない現役線路。

探索としては、ようやく入口に立ったまでだ。




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さて、GPSで現在地を確認すると、

目的の隧道擬定地は、ここから線路を150mばかり下仁田側へ行った場所だ。

線路沿いに道路はないので、これは……

……線路を…歩いて…………




ローカル線とはいえ、営業時間内に線路を歩くのはNGなので、線路端の林地を歩いていった。
厳密にはここも鉄道用地かもしれないが、線路敷きではないから、大目に見て貰えるだろう。

そうして可及的速やかに擬定地へ近付くと、いよいよ「そろそろ」といったところで、

線路が、掘り割りの気配を見せ始めた………。

……あ〜あ…。




あ!!!!

やりやがーった!!


しっか〜〜も!!!




明治の証人、煉瓦廃隧道!

めっちゃ車窓から見えそうな場所ではあったが(笑、全然秘密のネタっぽくはない)、

それでも、事前情報無しで明治廃隧道に遭遇した事実は、線路端を歩いてきた背徳の苦みと相俟って、

私の心を著しく昂ぶらせた!! これはマジで明治鉄道遺産の端くれではないか!

見るのが心苦しいほど、酷い姿に落ちぶれてはいるが――。




このような姿となりながら、よくぞ撤去されずに、残っていたものである。
見ての通り、現在線はすぐ真横を切り通しで通過していた。
両者は10mも離れていない。

現在線の切り通しを開削した段階で、坑門付近の地山は坑門ごと削り取られたようで、その左上の角は歪に破壊されていた。
撤去を免れた坑門や坑道は、その後著しい偏圧を受け続けたためであろう。
端正であったはずの煉瓦アーチは、今やアーチを保っているのが不思議なほど歪んでいた。

こうした破壊の状は凄まじかったが、その事以上に強い第一印象を私に与えたことがある。
それは、普通鉄道らしからぬ、隧道の断面の小ささであった。
そして、この事こそ、本隧道が上野鉄道時代の遺物であることを物語る、最大の特徴であったのだ!




これは探索後に知ったことだが、本邦有数の古私鉄会社である上野鉄道は、明治28年に当時の「私設鉄道法」による鉄道免許を受けた後、軌間762mmという、日本では一般的に森林鉄道などで利用されているようなナローゲージの軽便鉄道として敷設されていたのであった。

当時は、イギリスやドイツ製から輸入された小型の蒸気機関車が、マッチ箱のような客車(26人乗り)や貨車の混合列車を牽引していたといい、下仁田〜高崎間33.7kmの運転に2時間30分もかかっていたそうである(現在の電車は同区間を50分ほどで結んでいる)。

そのためか、当初は営業成績も極めて悪く、株式の無配当状態が何年も続いたらしい。
会社では、抜本的な運行の効率化を図るべく、大正10年に社名を上信電気鉄道へ変更。
そして大正13年には社名をなぞって全線を電化し、同時に1067mmへ改軌するという一大勝負に打って出たのである。(新社名には、下仁田から長野県の小海線羽黒下駅への延伸計画も含まれていたが、こちらは実現せず)

この林鉄隧道と見紛うばかりの小型煉瓦隧道は、明らかにナロゲージ用のサイズである。
となれば、その廃止は大正13年の改軌&電化によるものと見て間違いないであろう。
明治生まれであるばかりか、なんと大正時代には廃止されていたという、歴史的煉瓦隧道だったのである!!

これまで私が探索してきた鉄道廃隧道の中でも、竣工年もさることながら、廃止時期の早さにおいても、かなり上位に入るだろう。私鉄としては一番古いと思われる。

予想以上の、お宝だぜ。