先日、『上信電鉄三十年史』(上信電気鉄道・昭和30年発行)(以下『三十年史』とする)と、『上信電鉄百年史』(上信電鉄(株)総務部・平成7年発行)を図書館で借りてきたところ、隧道が撤去される当時の写真が掲載されているのを発見し、思わず小躍りした。
ついでに、隧道の正式名称や、撤去の詳細も判明し、大収穫であった。
早速、問題の写真をご覧いただこう。
『上信電鉄三十年史』(上信電気鉄道・昭和30年発行)より転載。
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この風景、紛れもなく高崎方坑口の過去の場面である。
そして、出典元の画像キャプションは、以下の通り。
(第一号隧道 これは廃棄された)
以上により、隧道の正式名までが判明したのであった。
何とも味気ない、しかし鉄道には相応しくもある、「第一号隧道」。それだけが、この短命なる隧道の名だった。
さて、写真をよく見てみよう。
見覚えがある1号隧道の坑門には、既にかなりの経年が感じられ、アーチ上部は煤煙による黒い汚れがこびり付いている。また、路盤にはレールが敷設されているが、明らかにナローゲージと分かる華奢さだ。
そして隧道を尻目に、その隣では現在線が通っている掘り割りが開削の真っ最中である。
そこにもレールが敷設され、人を乗せた数台の箱トロッコが、二人一組の作業員らしい男たちに後押しされている場面だ。
工事現場へお偉方が視察している風景を連想するが、正確にどのような場面なのかは記録が無く分からない。
『三十年史』の本文によれば、この写真が撮影されたのは、大正13年に行われた上信電気鉄道の改軌&電化の大改修工事(本文でも既述の通り、明治30年に開業した上野鉄道は、輸送力増強と収支改善を目的に、上信電気鉄道に社名変更後の大正12〜13年にかけ、全線33.7kmの電化と軌間762mmから1067mmへの改軌を同時に行った)の最中である。
なお、この工事は全線を4工区に分けて行われ、「2呎6吋の蒸気鉄道として営業しつつあるものを、運転休止することなく施工せねばならないので相当の苦心を重ねた
」とあることから、活線工事であった事が新たに判明した。(そのため、一時的に路盤はこんな凄まじい事にもなっていた。←ミリンダ細田氏の大好物だ!)
また、「線路の変更された部分は、極めて少く概略既設線路に基き曲線緩和、勾配の緩和、迂遠なる踏切道を付換へた程度に止めたのである。
」ともあって、大規模な路線変更は行われなかったようだが、本項で述べる「第一号隧道」の撤去と、その近くにあった「鬼ヶ沢橋梁」の架け替え(「鬼ヶ沢編」を執筆予定)は、主要な工事であった。
さて、話しを第一号隧道に戻すが、現地の探索では不明のままに終わった隧道撤去の理由も、次の本文により判明した。(本文でも述べたが、この隧道は27年間しか使われずに廃止されている)
第一號隧道 (千平―下仁田間)
これは営業運転中の隧道であったが、隧道内でカーブしてゐる上、急勾配をもつ悪条件を持ってゐた。従って、これを捲替(まきかえ)して改良することは、地質軟弱で、作業中崩壊し、運行中の列車に危害を及ぼす心配も考えられたから、写真の様に(←前掲の写真を指す)迂廻新線を作った。
廃止後90年を経た現在において、洞内は滅茶苦茶に崩壊している第一号隧道の地質の悪さは、現役当時から既に心配されていた事が分かる。
それに、隧道内のカーブや急勾配という悪条件もあるので、いっそのこと明かり区間に置き換えてしまおうという事になったようだ。
上野鉄道の黒歴史…といったら、さすがに気の毒であろうが…。
最後にここまでは敢えて無視してきたが、上野鉄道時代には「第一号隧道」と対をなす存在として、同じ区間のさらに下仁田寄り(地図)に「第二号隧道」が存在していた事に触れておきたい。
そしてこの隧道は、現在も上信電鉄線“唯一の隧道”、「白山隧道」として健在である。
締めくくりとして、『三十年史』から第二号隧道(白山隧道)の改良中の写真も転載し、現在の姿と見較べてみよう。
『上信電鉄三十年史』(上信電気鉄道・昭和30年発行)より転載。
第二號隧道 (千平―下仁田間)
これも営業中の隧道であったが、地質が岩盤である為、工事にあたって第一号隧道の様な心配がなかった。捲換作業を施工、従来の煉瓦巻「コンクリート」巻立を取替えた。
後半の文章が分かりづらいが、当時の写真をよく見ると、内壁の向かって左側には撤去途中の煉瓦の巻き立てが見えるので、従来の煉瓦巻き立てを撤去してから、拡幅し、現在のコンクリートへと巻き替えたようだ。
これを全て活線工事(しかも当時としては手作業であったろう)で行ったのは、なかなか大変であったろうと思う。
写真はまさにこの活線での拡幅の場面であり、右上方向に新たな断面が掘進されつつある。
対して、現在の写真に写っているのは平凡なコンクリートの坑口で、どれほど古いものであるかの想像が難しい姿だが、これが記述通りに大正13年の竣功であるならば、(コンクリートブロック施工ではない)場所打ちコンクリート隧道としては、かなりの黎明期に建設された記念すべき構造物といえる。
上信電鉄、改めて侮り難しといったところか。