2019/1/29 12:39
久渡沢に軌道跡の隧道があるとの情報提供を受けたのが2014年5月だったから、探索を決行するまでにずいぶん時間がかかってしまった。
この間に私は都内から秋田へUターンしたために、山梨が頻繁に来られる場所でなくなってしまったせいもあるが、そもそも情報の少なさに二の足を踏んでいたせいでもある。
が、やって来たからには、遅ればせながら、件の隧道にケリをつけたいと思う。
「道の駅みとみ」を自転車で出発し、目の前の国道140号を右折すると、すぐに新久渡の沢橋で久渡沢を渡る。
渡り終えたところが「現在地」である。
今回探索する軌道は、前説で述べた通り、探索時点では正体不明にほぼ等しい存在だった。使用されていた期間や開設者はもちろん、軌道跡の位置や現状に至るまで、分からないこと尽くしであったのだが、前説で紹介した昭和4年の地形図に描かれていた軌道を頼りに、その後の地形図の変化も考慮して、最新の地理院地図上に予め軌道跡の位置をイメージしてきた。
上の地図こ描いたピンクのラインが、その一部である。
ここに描いたように、久渡沢の下流部では、平成10年に現国道が開通するまでの旧国道が、軌道跡を継承しているものと想定した。
なのでいまから旧国道へアクセスし、久渡沢の上流を目指すことにする。
これが「現在地」(海抜1090m)の景色だ。
右の道が国道140号(塩山・甲府方向)で、この左へ登っていくゲートで閉ざされた廃道っぽい道が旧国道……ではなく来歴不明の道(林道?)であるが、これを行くと現国道の上部に並走する旧国道が近いので、近道として利用する。もちろん初めて通る。私はまだ雁坂峠へも行ったことがない。(なのに“雁峠”はずいぶん昔に自転車で到達済だったりする)
入口から200mほど直線の急坂を登ると、旧国道とクロスする交差点へぶつかった。(海抜1110m)
この左右の道が旧国道である。
右へ行けば広瀬集落へ下るが、私は左折して雁坂峠方向へ向かう。
ちなみに、この旧国道にも広瀬から入ってすぐの場所にゲートがあるので一般車両は通れない。
これが久渡沢軌道(仮称)の跡(擬定地)だ〜〜!!
って大書きしても、括弧の中の注釈が自信なさげな主張をしすぎて、ピリッとしないな(苦笑)。
まあ、たぶん本当にここが軌道跡なんだとは思うけど、廃止から時間が経過しているだけでなく、その後(曲がりなりにも)国道になり、近年には工事用道路としても使われたようだから、大昔の痕跡を見出すのは難しいかな。
軌道跡しては少し強めの勾配で、スギ林の中を登っていっている。
12:48 《現在地》
旧国道に入って200mほど進んだところで、久渡沢と笛吹川本流の出合を見下ろす尾根のカーブを回った。
ここからは路傍の樹林越しにではあるものの、左は道の駅を眼下に西沢渓谷の背後に聳える甲武信ヶ岳を見、右は久渡沢を窓として背後の雁坂峠および雁坂嶺を見ることができる。いずれも2000mを優に超す奥秩父の主脈である。
写真は目指す久渡沢方向の眺めである。
前方、巨大な道路橋がこの谷を大跨ぎにしているが、現国道は鶏冠山大橋の雄姿である。
旧道は、当面この橋の下を目指す感じで久渡沢を遙か下に見ながら進んでいくが、勾配がかなり増してきた。6〜8%はありそうだ。
“普通”であれば、軌道としては急すぎる感じだが、今回の軌道は“普通”の(お行儀が良い)国有林軌道ではなく、得体の知れない民有林軌道らしいから、簡単に普段の常識を当てはめるのは止しておこう。体の良い常識にはさんざん殺されて来たからね、私も。
12:52
鶏冠山大橋が間近に迫ってきた。
道は支流の小さな谷を回り込むように少し右へ膨らんでいるが、この周囲は陽当たりがよい西向きの斜面になっていて、道沿いに少しだけ平地もある。
この場所が、秩父往還の最も雁坂峠寄りの人家であった、赤い志と書いて赤志(しゃくし)の小集落があった場所だ。(海抜1140m)
何やら意味深な地名で、古い地形図や登山ガイドではお馴染みだったが、昭和40年代以前に集落が消え、やがて地名も消え去ってしまった。
「現在地」を、新旧の地形図で確認。
位置合わせは適当(フィーリング重視)だが、両者に描かれている道の形(曲がり方の特徴)から、やはりここまでの旧国道が軌道跡ということで良さそうだ。
……問題は、この先なんだよなぁ……。
この先、支流の棚沢や料金所がある辺りから先は、新旧地形図で地形表現が大幅に異なっており、どうやっても道のラインは合致しない。
基本的には、軌道が徐々に久渡沢の谷底へ近寄っていく感じだと思うので、それを踏まえて軌道跡を探していこうと思う。
鶏冠山大橋(赤志集落跡)から300mほど進んだところ(海抜1170m)に、地理院地図に描かれている分岐があった。
入口をバリケードで塞がれている左の道は緩やかに谷へ下っており、開いている右の道は急坂で登っている。
緩い下りと、急な登り、正直どちらも軌道跡っぽくなくて、たいへん悩ましい分岐だ。
が、
昭和48年の地形図を見ると、当時の国道は、この辺りから久渡沢沿いへ下りていた。(昭和4年の軌道も同様)
当時は右の道はなく、これは雁坂トンネル工事の関連から整備された道であるようだ。
下り坂であるのは少し解せないが、旧国道「=」軌道跡ではなく「≒」くらいの関係だとすれば、やはりここは左の道の方が軌道跡に近い可能性が高いだろう。
情報提供者も、谷底を辿って隧道を見つけているわけで、ここは早めに谷へ近づいておくのが吉だと判断。
旧国道というのにも惹かれるしね。(あと、入口が封鎖されていることにもね。)
13:00 左の道をチョイス!
ただし、自転車はここへ置いていこう。なんとなく、そうしたほうが良い予感がする。
13:02
塞がれた分岐を左折して下り坂を歩いて行くと、100mも行かないうちに道幅の9割が失われた大きな欠壊があった。
これが原因で封鎖されたのか、役目を終えて封鎖された後の崩壊かは分からないが、ここで始めて久渡沢との距離感と高度感を正確に認識した。30mくらいの高さがある。まだ谷底へは降りられないだろう。
欠壊を越えると道は水平に近くなり、久渡沢の支流である棚沢(地形図には名前がない)に絡んで進むようになる。
見ての通りの廃道だが、舗装があり、法面の化粧されたコンクリートブロック共々、さほど昔のものではなさそうだ。
旧国道であるものの、雁坂トンネル建設の前後に再整備された経緯がありそう。
また、ガードレールの代わりに【擬木コンクリートの支柱】が所々にあることも、旧国道の実態が登山道であったことを想像させる。
さらに、路上には【チューリップ】と英字で書かれた謎のスチール缶や、私も子供時代に愛飲した懐かしの【ファンタの350缶】などがぽつぽつと落ちていた。これらも登山者の置土産だろう。最近の空き缶は全くなかった。
13:10 《現在地》
分岐から約250mで、棚沢を渡る狭いコンクリート橋が現れた。(銘板など素性を報せるものは全くない)
これも旧国道時代の橋ではないだろう。この先の棚沢は大規模に埋め立てられ、そこに雁坂トンネル有料道路の料金所や管理施設、駐車場、休憩施設などが整備されている。旧国道もこの地形の改変にすっかり呑まれていた。
橋を渡ると正面は巨大な盛土で左折を余儀なくされるが、その先に、“本物っぽい旧国道”が待っていた。
13:12
これこれ! このガードロープがあるカーブは、本物の旧国道っぽい!
これが本当に雁坂トンネル工事が行われる前の旧国道時代からの遺物であるのかは正直分からないが、ここだけ擬木コンクリートじゃなくてガードロープなのが、ガチっぽいんだよね。
残念ながら、国道を物語るような遺物(山梨県のデリニエータとか、もちろん“ヘキサ”とか)は特に見たらないんだけど。
って、
なんかいつの間にか軌道跡じゃなく旧国道が主役になっているけれど、実際のところ、ここの旧国道には道路ファン、国(酷)道ファンとして、軌道とは別の興味がある。
雁坂峠はいわゆる“登山道国道”である非車道区間の方が遙かに有名だと思うけど、この辺りまでのかつて車道であった国道の末端の方が、私にとっては興味深かったりする。
雁坂トンネル工事が始まるまでは、この辺りまで車で来ることが出来たんだろうか。当時を知る人がいたらぜひ教えて欲しい。
13:14 《現在地》
だが、痕跡を見せたと思った矢先、旧国道の車道は久渡沢へ突き当たる形で唐突に終わってしまった。
対岸に道が行っていないのは間違いないが、此岸は雁坂トンネル工事で大規模に改変されていて、川べりの崖際まで料金所の盛土が来ているから、旧国道の行方はようとして知れなくなった。もちろん、軌道跡も、である。
以前の地形図だと、国道である「軽車道」が、まだまだ川沿いに描かれていたが……。
この写真右の平場が旧国道だったのだろうか。
これまでと比べて、あまりにもお粗末だが……。
そのすぐ上は現国道の管理施設である。
う〜〜〜〜〜ん……
わからんねぇ…… こりゃあ困った。
地形的に選択肢がなく、上流へ行くためには管理施設裏の道らしからぬ所へ連れ込まれたが、全く発展性を感じない。
軌道はおろか、旧国道、登山道、あらゆる道の形跡がない。
しかし原因ははっきりしている。
現道の巨大な敷地が全部悪い。
ただ、現道はこの辺りから歩行者・自転車・小型特殊自動車の規制区間だから、私がひょろひょろ立ち入ったらニュースになってしまう。
些事に拘り本筋を見失う私の探索中の悪癖が出て、聊か時間をロスしてしまったが……
13:20
結局は久渡沢の谷底へ下りることを選択した。
分岐まで戻ることも考えたが、情報提供者の足跡を辿るのが“隧道”への近道だろうということと、彼がどこから谷へ下りたかは分らないので遅いよりは早いほうが良かろうということで、想定よりも早かったが、谷底へ針路を切った。
目の前の橋は、現道(雁坂トンネル有料道路)の石楠花(しゃくなげ)橋で、久渡沢を渡るように見せて実は渡らず左岸と左岸を結んでいる。そして、橋の先はそのまま県境越えの雁坂トンネル(6625m)坑口だ。
うっとうしい現国道(この探索中だけの感想だから許して)に邪魔されることは、これから上流へ進む限り、もう二度とない。
あとは心置きなく、この谷で軌道跡(と旧国道)を探すだけなのだが……。
13:29 《現在地》
なんか先行きが(物理的に)暗いよ。
相当険しい峡谷なんじゃないのこれ……。
大丈夫かなぁ…。
(軌道跡だけでなく、指針とすべきあらゆる道を見失い、真冬の谷へ下りてしまったヨッキの運命や、いかに…)
2019/1/29 13:27
雁坂トンネル有料道路の料金所付近から久渡沢へ入渓し、上流を目指し始めた。
写真は振り返って撮影したもので、中央に見えるのは雁坂トンネルの坑口である。これ以降、山梨県側の地表に国道が再び現れることはない。
一方、チェンジ後の画像は進行方向の谷の様子だ。
これまで以上に両岸とも険しく切り立っていて、いわゆるV字谷になっている。そしてとても薄暗い。
ただ、幸いなことに水量は非常に少ないようで、水量に対して広い河原を歩行して進むことが出来そうだ。
しかし、完全に道の一切を喪失してしまった。
情報提供者も、わざわざこんな変則的な場所から入渓したとは思えないが、彼が軌道跡の隧道である“穴”を見たのは、この久渡沢の谷底で間違いない。進んでいくことでいずれ遭遇すると信じて進もう。
なお、「現在地」はこの辺りだ。
始めて久渡沢の谷底へ降りたが、それでも海抜は1200mに迫っており、出発地点の道の駅からは100m以上高い。
地図上に描いた緑色の線は、分岐地点以降に私が歩いた部分である。
それまでのピンク色の線と区別したのは、分岐以来全く軌道跡と判断できるものを見ていないからである。
ここまで来て今さらだが、軌道跡は右の道だったのかも知れない。
ただ、チェンジ後の画像の昭和48年版地形図(や昭和60年の地形図)では、「軽車道」である国道140号が、かなり谷底に近い左岸に描かれている。
これが軌道跡なのだとすれば、私はいまそのすぐ近くにいることになるのだが……。
13:30
こうして現地の地形を見る限り、とてもこの谷底の近くに旧国道(や軌道)があったようには思えなかった。
両岸とも極めて鋭く切り立っていて、左岸にしても、見上げることが出来る30mくらいの高さまでには全く道の気配はなかった。
それでもこの谷底の近くに道があったとしたら、それは私によう河原を通ったか、全てが桟橋であったか、そんな選択肢しかないと思う。
恐らく実態としては、昭和48年の地形図にある国道の位置が正しくないか、位置は正しいが軽車道として描くべき規模のものではなかったか、どちらかだと思う。
しかし、このように険阻で人跡未踏といわれても信じられそうな谷底であっても、確かに開発が及んでいた痕跡は残っていた。(↓)
これ、遠目に見たときに一瞬「廃レールだ!」って飛び上がりそうになったのだが、近づいて見たら違っていた。
谷と並行する向きに墜落したケーブルであった。
太さ的にも、集材機や索道などに用いられた山林作業の遺物とみられる。
件の軌道が廃止された後には、谷の上空を利用した索道運材が行われたのかも知れない。
このようなケーブルは、ここだけでなくこの後も何度も見つけた。
それにしても、今日は本当に気温が低い。
とくにこの谷底は日がほどんど射し込まないせいで、私が思っていた以上に“凍てついて”いた。
その証拠に……(↓)
久渡沢の流れそのものが凍結し、ぶ厚い氷の底に流れる水を透かし見るような場面が、所々に出来上がっていたのである。
私のふるさとの秋田の方がもっと寒いだろうが、秋田の冬の谷は当然雪の下であり、凍っていてもそれを目にすることはない。
凍った谷が雪のないところにある。そんなことを無邪気に不思議がったわけだが、冷静に考えれば、このように凍てついた谷が私の命を危険に晒さないことを願うべきだった。
13:37
ザックの中に常備している簡易アイゼンを靴に装着して、所々氷結した谷底を慎重に登っていった。
谷底が広いのと水量が少ないこと、そして滝のような大きな障害物がないお陰で、進んでいくことが出来ている。
少し進む度に両岸の崖の上を見上げて道を探しているが、今のところ成果はない。
全く道を見失ったまま、何百メートルも進んでいる。
13:44 《現在地》
逃げ場の全くない回廊状の峡谷がようやく緩んできたのは、谷底を歩き始めたところから約400m進んだ海抜1230m附近、地形図にある左岸からの小さな谷の出合を越えた所であった。
まず先に左岸の傾斜が緩み、容易に登って行けそうな部分が現れた。その少し先では右岸も同様に緩んでいるようだ。
とりあえず、やっと一息が付けそうだ。
ん!
この左岸の緩斜面、明らかに人工の手が加わっている!
それもかなり広範で大規模な痕跡だ!
川沿いの一番低い平場(ここは自然地形かも知れないが)の上に、少なくとも3段の人造の平場があり、かつそれらを結ぶ通路のようなスロープも見える。夏だったらこうはいかなかっただろう。もの凄く見通しが良い!冬最高!
そして肝心なこととして、これだけ平場があるのなら、そのどれかは軌道跡かもしれない!!
谷から上がって、平場を一つずつ点検しよう。
一番下の川べりの平場から、一段上の平場を撮影しているが、さっそく見つけてしまった!!
赤矢印の所……(↓)
かなり立派な“炭焼き窯”の跡だった!
見たところ近くの窯跡はこれ一つのようだが、かなり規模が大きい本格的なもので原型を留めていた。
何段もある平場の全てが、この一つの炭焼き窯のための作業所とは考えにくいから、炭焼きを含む林業活動の拠点であったと考えるのが妥当か。
いずれにしても、炭を焼いたら当然出荷しなければならない。そのための手段は何を用いていたのだろう。
いよいよ、目指していた軌道跡が迫っているのではないか……?!
期待を胸に、さらに上方に控えるあと2段の平場を見上げる。
軌道跡として怪しいのは、一番上の平場だ。
一番上の平場はちょっと離れた高さにあって、ほかの平場よりも狭そうに見える。
そして、あまり低い位置では、いま辿ってきた峡谷地帯の岩壁を越えられないはずだ。
だから、一番上の平場が、一番怪しい!
このあと滅茶苦茶攀じ登った!
13:52
そして、やはり何もないただの平場(ゴミの一つも落ちていなかった)であった3段目を軽くスルーし、おおよそ谷底から30mの高所に控える、最上段の平場へ到達した。
写真はそこから見下ろした登ってきた斜面と谷底で、赤矢印の位置に炭焼き窯があった。
平場にも普通に樹木が生えている状況であり、この一連の平場群の利用は数十年以上昔に終結しているようだ。まあ、炭焼き窯が使われていた時代までということじゃないだろうか。
で、肝心な一番上の平場の正体だが、
めっちゃ軌道跡っぽくない?!!
この感じ……、林鉄探索プロフェッショナル(自称)の目は炯炯と輝くのである。
枕木もレールも、見当らないけれど。
また、路上の樹木がとても太いし、なんの道の跡であるにせよ、廃止されてからは時間は経っている。
こちらは反対の下流方向。
やはり道の跡がほぼ水平に斜面についている。
とても、軌道跡っぽく見える。
すぐ先で少し崩れているが、その奥にも続いているのが分る。
高さ的にも、先ほどまでいた回廊峡谷の崖よりも上に来ているようだ。
地図上での「現在地」はここ。
このピンク色のラインが、いま見つけた軌道跡っぽい平場だ。谷底から30mほどの高さにある。
上流と下流、どちらにも進めるが、最終的には上流を目指したいので、荷物を一旦ここに置いて、先に下流側を点検しようと思う。
擬・軌道跡、探索開始!!
13:55
平場を下流方向へ歩き出すと、50mほど進んだところで、道が二手に分れていた。
明らかにこれまでの水平ラインを継承した直進と、全くそれを無視して上っていく左の道。
軌道跡があるとしたら直進以外あり得ないので直進すると……
(チェンジ後の画像)分かれ道の20mくらい先、小さな尾根の直前に大きな欠壊個所があった。
下は先ほど歩いた峡谷まで真っ逆さまで、油断は出来ない。
ただ、山側に辛うじて踏み跡(獣道っぽいが)があるので、越えることはできそうだった。
……という書き方をしたように、一旦ここで戻ることにした。
というのも、地図を見る限り、この先は「道路」にぶつかるはずだ。
「道路」と書いたのは正式名が分らないからだが、雁坂峠への登山ルートとして歩かれている地理院地図上の実線である道のことだ(平成生まれの新しい車道である)。
恐らくこの探索の最後は、あの「道路」を下山することになるので、その時に「道路」側から軌道跡との合流地点を確かめることにしよう。
まだ日は短い時期である。そろそろ午後2時であるし、奥へ進むための時間を最大限確保しておきたいのである。
一旦撤収し、ザックの場所(約70m戻る)へ。
13:57
再びザックを背負って、上流方向へ軌道跡とみられる道を行く。
すぐに道は斜面に呑まれて不明瞭となっていたが、終わりでは無さそうだから慎重に進む。
先ほどまで眼下にあった緩斜面は既になく、切り立った崖が谷底まで落ちているから、全く油断はならない。
あの西沢渓谷のちかくということで予感はしていたが、案の定の地形の“悪さ”に、高揚と恐怖を同時に感じながら進んでいくと……
13:58
道が突然左を向いて久渡沢の谷に正対したかと思うと、やや大きな平場を残して、消えてしまった。
この状況から連想されるのは当然ながら、対岸への架橋である。
昭和4年の地形図の軌道や、それを継承したとみられる昭和48年地形図の国道も、共に道は途中で1回だけ久渡沢を渡って右岸へ移っていた。
情報提供者が谷底から隧道を見つけたのも、右岸の崖の上という。
したがって、いまいる道がまさしく軌道跡なのだとすれば、久渡沢を渡るのは理に適っている。
そして、対岸の同じ高さに目を凝らすと(チェンジ後の画像)、平場とそこから上流へ延びる道形がある!
おそらくここが架橋地点だ!!
最新の地理院地図と、昭和48年地形図(チェンジ後の画像)を比較すると、確かにこの辺りで国道が対岸へ渡っている。
ってか、現場を見ていよいよ驚きが隠せないのだが、本当にこれが国道140号だったのかよ!!
軌道跡としても、酷道としても、これは相当にヤバいぞ……。
そして、こんな昭和48年地形図にあったような軽車道は絶対にウソだろ。当時そんな道があった気がしない。
だって……(↓)
架橋地点これだからね!
両岸ともほとんど垂直の崖が谷底まで30mは落ちており、対岸までの谷幅は50mもあるが、こちら岸にも対岸にも、橋台のような明確な橋の痕跡は全く残っていない!
ただはっきりしているのは、両岸共にこの場所を終点とする道形があり、かつ地形図がここに橋を描いていることだ。
とてもじゃないが、一昔前に車道の橋があったようには思えない。
同様に、軌道の橋の実在性にも疑問符はつくが…。
正直、この地点に架かる橋としては、これは常識的に考えて、人道規模の細々とした吊橋以外には考えにくいように思う。
それほどの、恐るべき架橋地点である。
この写真は地形の確認のため、最寄りの斜面を少し攀じ登った所から見下ろして撮影したものだ。
もの凄い橋が架かっていたのである。
にもかかわらず、何の遺構も残していない。
いやほんとここ、すげー。
大正時代の軌道が、こんな谷を渡って延びていたのか…。そしてこの先には隧道まであると……。
これ以上左岸を進めないのは明らかなので(昭和60年地形図の国道はこのまま左岸を進んでいるが、歩道でも無理っぽい地形だ)、先ほどの段々の場所までもどってから、沢を渡って対岸を目指す!(ピンクのライン)
GO TO NEXT STAGE!!!
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