2019/1/29 14:06 《現在地》
紆余曲折はあったものの、道の駅みとみを出発して約1時間後、久渡沢左岸の海抜1250m附近で軌道跡とみられる道形を発見した。
しかし、辿り始めて間もなく道は久渡沢を渡るそぶりを見せ、しかし橋が現存しないため、先へ進むためには対岸へ、それも河床から30mはある対岸の高所へと移動しなければならなくなった。
幸いにも、架橋跡地から100mも離れていない下流側に、軌道跡から谷底まで続く緩斜面(炭焼き窯の跡が残る段々の斜面)があるので、これを利用して約20分ぶりに久渡沢の谷底へ戻ってきたのが、この写真の場面だ。
谷の規模の割に水量も少ないので、徒渉することは容易かった。
そしてこれは徒渉地点から撮影した、すぐ上流の“架橋地点の現状”である。
“矢印”の位置に、はっきり(さっき歩いた)と左岸の軌道跡が見えており、架橋地点はそのすぐ先だった。
地形から推定できる橋の規模は、高さ30m、長さ50mにも及ぶものである。
これだけの大型橋でありながら、痕跡といえるようなものは何も見当らない(橋台さえ見当らないのは正直不思議だ)。
チェンジ後の画像に推定される橋面のラインを描いたが、これを具体化させる橋の構造は、現時点で情報がないため描くことが出来なかった。
地形的には吊橋か、木製方杖橋か。しかしレールが敷かた軌道なら、後者の可能性の方が高いだろう。
この規模となると、広い林鉄世界の中でもなかなかのものだが、その痕跡の薄さは一級品で、まさに“幻の橋”である。
徒渉後は、ピンクのラインのように対岸を攀じ登り、軌道の続きを目指す。
14:08
滅茶苦茶攀じ登り中!
左岸には山仕事の作業場だろう段々の平場が残っていたが、右岸は傾斜がキツく特に開発の形跡はない。
それでも岩場ではないので徒手空拳で攀じ登れる。ここも架橋地点のように切り立っていたらヤバかった。
なお、情報提供者はこうして軌道跡を辿ったわけではないと思う。
(入渓地点ははっきりしないが)引続き谷底を歩いて進み、やがて「右岸上方の崖に洞窟のようなものが見
」たのである。
「現在地」は、事前調査で見た昭和14年の地形図における軌道の終点「ナメラ沢出合」まで残り1000mを切るところまで進んでおり、隧道を発見したという現場はそれよりも手前だと思うので、もう遠くないはず。もしかしたら、すぐそこかも知れない。
期待を胸に、ガシガシ登った!
14:10 《現在地》
この辺りだと思う。右岸の軌道跡の続きの始まり。
対岸の終点を正面に見る位置まで登ってきたが、橋台などの明確な痕跡がないせいで、この右岸の軌道跡の厳密なスタートはよく分からない。対岸よりも地形が緩やかなので、逆に分りづらいのである。
ただ、チェンジ後の画像に実線で示した位置には、浅い掘り込みの坂道が見えている。あれが道の続きだろう。
右岸側から見た、先ほどまでいた左岸の道の末端部。
全く遺構が残っていないが、この氷結せる峡谷を、いかなる橋が一跨ぎにしていたのだろう。
ただ、“私の命”的には、中途半端に残っていなくて助かったのかも知れない。明らかに“定義の大木橋”に匹敵する規模の橋である。変に遺構があったら、命を散らした恐れがある。
それでは改めて、右岸へ移った道の続きを辿っていこう!
14:12
浅い掘り込みの先にも、薄らとではあるが、道の痕跡が残っていた。
チェンジ後の画像に示した位置に、緩やかに蛇行していく道が見えると思う。
(イタズラ心で「国道140号」のヘキサも表示してみた。昭和42年版と同48年版では、ここに国道となっている)
しかし、この道が軌道跡だと言われたら、何か感じることがないだろうか?
ずばり、勾配が急なのである!
歩いた感覚でも、明らかに“通常”の軌道跡で体験するような勾配の限度を越えて感じられたが、あとで地図上でも検証してみたところ、おおよそ500m進む間に50〜60mの高度を稼ぎ出していた。すなわち、平均勾配10%(100‰)を越える勾配があると分った。
10%の坂道くらいその辺にいくらでもあると思われるかも知れないが、それは普通の道路の話だ。
普通の軌道(鉄道も含む)には、まずみられない勾配である。(比較として、普通鉄道ではないアプト式鉄道の大井川鐵道井川線でも最大9%だ)
とはいえ、索道にするほど急ではないし、カーブしているのも解せない。
だから結局、これはこういう勾配の軌道だったということなのだと思う(笑)。
これでは投げやりな評価と思われるかも知れないが……。
というのは、ここが普通じゃない急坂であるは確かとしても、そのお相手は(お行儀の良い)国有林森林鉄道ではなく、(かなりはっちゃけた部分があった)山梨県営森林軌道ですらない、全く得体が知れない(大正生まれとの情報もある)民有林軌道らしいのだ。
レールが敷かれてトロッコが走りさえすれば、そこが軌道なのは確かであり、これで機関車運材と言われたら「ありえない」と断定できるが、手押しの軌道だろうから、ぶっちゃけ、(人命を考えなければ)何でもありだろう。(実際こういう勾配の軌道も経験がないわけではない…)
軌道跡らしからぬ急坂の道ではあったが、逆にこの勾配に相応しいと思えるのは、木馬道である。
前説で取り上げたように、昭和30年代のこの道には木馬が敷かれていたとの目撃情報が複数ある。
地形的にこれらが全く別々の場所にあったとは思えないから、軌道の廃止後にそこが木馬道となり、さらに登山道になった(そして国道になった?)という経過なのだろう。
木馬はその仕組み上、ある程度の勾配があった方が能率的に運用できるから、木馬道としては“良い勾配”かもしれない。
(というか、最初から軌道ではなく木馬道だったのではという疑いも、探索時点では拭い去れないものがあった)
写真は、道の端の部分に並べられた“石”の様子を撮影した。
カーブ外側の路肩を補強するために敷設したものかと思うが、ここまで石垣一つ見られなかったこの道で目にした最初の(あまりにも素朴な)“構造物”であった。
軌道時代の遺物なのかは正直分らないが。
14:14
谷に感じた険しさから一転して、道がつけられている右岸上には平穏な疎林の森が続いていた。
軌道が真っ向から登って行くには急勾配な地形だが、危険を感じる要素の全くない和みの森だ。
かつて伐採されたのかもしれないが、いまでは切り株はひとつなく、(私には)手付かずの森との区別が付かない。
架橋地点から既に150mくらいは進んだが、まだこの穏やかさに終わりは見えない。
チェンジ後の画像は、道から谷の方を向いて撮影した。
谷との距離感はいまこんな感じである。
道がある場所は緩やかだが、谷は深く切れ込んだ所を流れていて、全く穏やかではなかった。
次の写真は、敢えて谷の縁に寄って、谷底を覗き込んで撮影したものとなる(↓)。
氷結の峡谷、マジヤベえッス!
氷の上や下を縦横に水が迸っており、滝らしきものもある。
私から見れば、完全に異界だ。
この穏やかな道を通らず、敢えてあの谷底を通って雁坂峠を目指した情報提供者はマ●なのかと思ったが、まあ、登山をする人なんて多かれ少なかれしなくていい苦労をしに来ている変態だから仕方がないね(暴言)。
跡とはいえ、道を辿っている私の方がよほど素直だと思った。
14:19
さらに5分ほど進み、架橋地点から300m以上前進している。
相変わらず軌道としては異様な急坂(10%を越えている)が続いているが、ここ以外に道形がないのも事実である。
木馬だったらちょうど良さそうだが、ここに敷いたレールに木材を乗せたトロッコを走らせてブレーキ操作だけで制動ができるものなのか…。やったことはないけど、生半可じゃないぞ…。
(マジで最初から木馬道だったってことはない? 軌道が敷かれていたのは本当か……?)
14:20 《現在地》
架橋地点から350mほど進んだところで、左の山から水の流れていないガリーのような小谷が落ちていた。(海抜1280m)
道は相変わらずの急坂のまま無造作にこれを跨いでおり、やはり橋の痕跡は皆無であった。
そして谷の前方、100mくらい先から、地形の変化がありそうだ。
久々に急な地形になっている気配がある。
これは小谷の横断地点から見下ろした本流の風景だ。
久々に谷底と軌道跡の行き来が出来そうな場所だ。
まあ、いまの私がそれをする理由はないが。
(対岸から水が沁みだしているのか、それが氷柱となってもの凄い氷の宮殿を形成していたが見には行かなかった)
小谷を過ぎて、前方を望遠で撮影。
やはりこの先、間違いなく険しい。
切り立った岩場が見えてきている。
……
…………
……道の状況が、とても心配だ。
!!!
穴だ!
これは隧道だ!!!
間違いなく!
やった…
やったけども
14:25
難しすぎる…。
2019/1/29 14:23
果たして久渡沢の隧道は実在した!
その位置は上の地図の通りで、架橋跡地より約500m遡った右岸だ。
最新の地理院地図には道自体が描かれていないものの、周辺の等高線が際立って密に表現されているので、隧道を知ってから見ると妙な納得感があった。とはいえ事前に予想していたわけではなく、また仮に位置を予想できたとしても、その姿の強烈さは常人の理解を遙かに超えるものであったから、まさしく衝撃の遭遇であった。
なお、チェンジ後の画像は昭和4年版地形図で、終点(ナメラ沢出合)の位置を基準に地理院地図と重ね合わせてみた。
確かに隧道の位置を軌道が通過しているが、隧道が描かれていないだけでなく、等高線の表現も全く違っていて、隧道がありそうな場所には見えない。前回越えた架橋地点も実際とは大幅にずれている(地形表現自体もだいぶ違う)。
とはいえ、昭和42年版で更新されるまで長きにわたって“最新版”であったこの地形図は、不正確ながらも、近隣の頂を目指す多数の登山者の道しるべとなった。(そして、時には悲劇の引き金に…)
さて、眼前の衝撃的な隧道に話を戻す。
第一印象というか、全体がよく見えるようになった瞬間に確信した。
「こりゃ無理だ」
坑口前は、おそらく桟橋が架かっていたんだと思うが、それが失われてしまっている。
坑口へと辿り着く通路は、完全に消滅しているのである。
幸い、隧道の貫通が見通せるので、まだ反対側から到達出来る希望はあるが、こちら側は無理だ。
それはもう、この写真を撮影した時点では100%確信していた。
14:25
坑口に到達出来ないことが分っている状況で、どこまでこの足元にある先細りで行き止まりの決死路を進むべきかは、大いに悩ましい問題であった。
到達出来ないと分った時点で、君子危うきに近寄らずの態度をとるのも、一番大事な命を守るためには重要な臆病さであると思う。
だがこの場面での私は、文字の中の存在でしかなかった隧道を直に発見した興奮と、その姿の神々しいほどに峻烈な様に強くあてられ、限界まで前進したいというエクストリームな欲求から逃れられなかった。
眼下は目も眩む大絶壁(河床まで20mは落ちている)で、撫で肩の路肩からうっかり滑り落ちたら生還は覚束ないと分ったが……
ザックを置いて、身軽&細身になって、そのあと 限界まで行く!
14:26
身体を崖にすりすりしながら、落葉の下に隠された砂っぽい斜面に慎重にステップを刻んで、これだけ(ザックの場所から、ほんとうに“これだけ”だ…苦笑)進んで来た。
この時点で既に本来あるべき軌道の道幅からは大幅に縮小しているが、最後まで先細っていく一方である。
そして遂に最後には……
こんな岩の突角になってしまう。
さすがにここまで来れば、私の肝もよくよく冷えて、冷静さを取り戻すというか、愕然たる恐怖が興奮を上回ってくる。
進めないことへの諦めが付くのである。
で、ここまで頑張った肝心要。末端より撮影した写真が、これだ。(↓)
はい無理。解散!
これを進めるのはクライマーだけだろう。私には無理だから、大人しく、反対側からの攻略に望みを託そう…。
しかし、ここまで頑張って前進した成果があったぞ。
なんと!!
洞内に建ったままの支保工がある!!!
少なくとも2セットは存在しているのがシルエットも含めて見えた。
いわゆる“三つ枠”という型式の(坑道などで用いられる原始的な)木製支保で、しかもかなり太く、樹皮をつけたままの丸木をそのまま用いているようにも見える。
これは、率直に言って驚きだ!!
情報提供者によれば、この隧道の出自は、大正初期に整備された軌道用であるという。
廃止時期は定かではないが、遅くとも昭和30年代には軌道は廃止されており、代わりに木馬道として利用されていた可能性が極めて高い。
その後も登山道としては暫く利用されていたのかもしれないが、だとしたら、この支保工はいったいいつものなのだろう。
木材の耐久性を考えれば、さすがに大正初期からずっと建っているとは考えにくいとは思うが…。
となると、木馬道として利用された時期に、隧道の補強のために整備したものなのか。
そうだとしても、既に余裕で60年は経過しているはず。それでこれだけ形を留めているのは驚きだ。
いやはや、ますます洞内を直に見たくなってきたが……、
なんとも口惜しい“お預け”である。
14:28
諦めが悪すぎて、前の写真を撮影していた“突角”から、さらに一歩前進してしまった。
この前進のために、度胸試しの空中跨ぎを演じている。
そこまでする価値は正直ない。これは馬鹿であり、やり過ぎである。
チェンジ後の画像は、この“馬鹿の一歩”で撮影した写真だが、隧道の軸線を外れたので中を見通せないし、ただただヤバイ坑口の立地と絶壁の高さが強調されたアングルになっている。
情報提供者は、この眼下の谷底を歩いていてこの穴を見つけているのであるが、これから私も真似をしたいと思う。
そのためには、いまいる決死路から無事に撤退し、100m弱手前の【枝谷】附近まで戻る。あそこなら苦労せずに谷底まで降りられそうだ。
下流側坑口目前より撤退!
14:31
思っていたよりも少しだけ早く(上流寄りに)下降可能な斜面を見つけたので、さっそく下りていく。
時刻は午後2時半となり、この後は加速度的に谷底より日陰の領域が増えていく。
既に凍結はしているので、いまからそれを心配する次元ではないが、あのただでさえ鬼気迫る隧道の周辺が薄暗くなってしまうと、いよいよ心を折られそうだから、一刻も早く隧道の上流側に回り込み、決着をつけたいと思う。
もちろん、到達が出来ないという決着だとしても、それは仕方がない。
いまと同じような地形がもう1発来たら、さすがに諦めるしかない。
谷底へ、下降完了。
―― 2分後 ――
14:33 《現在地》
これが、oostmaas氏の見た景色だろう。
お分かりいただけたよね?
“穴”が見えている。敢えて矢印などは出さないが。 見えている……!
坑口周辺を望遠にて撮影した。
私が辿り着いた限界は、黄色いラインの端だ。
そこから先の赤破線の部分は、桟橋だったのだろう。
驚愕のあまり、とても平凡な感想しか出てこない……。
ほんと、よくもまあ ……すごい……。
隧道に貫かれている右岸大絶壁の全貌。
軌道および隧道は、河床から20mほどの高さを概ね水平に通過している。
隧道の長さは30mくらいと見え、出口の先の地形も見えているが、
果たして辿り着けるものかどうか……。
とりあえず、近づけるだけ近づいて見ようとは思う。
上の地図は、最新の地理院地図と(チェンジ後の画像)昭和48年地形図を重ねている。
こうして比較すると、今回の隧道が発見された地点を、昭和48年版では国道140号が通過していることが分る。
隧道だけでなく、架橋地点からここまでずっと、「軌道跡=国道140号」として描かれているのである。
となると、この隧道は、国道140号だったことがあるのだろうか?
もしそうだとすると、わが国の国道史上においても稀に見る、凶悪にエクストリーミングな国道トンネルだったと思われる。
加えて、もし国道のトンネルとして道路管理者に認知されたことがあるのなら、不明であるトンネル名や竣功年を知る手掛かりを、道路側の資料より得られるという希望があった。
この点に非常な興味を感じた私は、地形図以外の資料から真相を探ってみることにした。
国道140号の変遷については、山梨県道路公社が平成10(1998)年に刊行した『雁坂トンネルと秩父往還 蘇る古道 明日を拓く二十一世紀の新往還』が詳細かつグラフィカルで読んで楽しい。
だが、国道のルートの変遷を詳細に述べた記述はなく、久渡沢沿いを国道が通過していたことについても言及はなかった。昭和28年に二級国道甲府熊谷線として国道140号が初めて指定されて以来、平成10年の雁坂トンネル有料道路開通まで、雁坂峠の前後に車の通れる道はなく、代わりに峠越えの登山道が国道に指定されていたことが述べられているだけである。
そこでとりあえず、国道140号にトンネルがあったかどうかだけでも知ろうと、歴代の道路統計年報を探ってみたのである。
手元のものでは一番古い昭和36年版から令和の最新版まで、任意の5年分について、国道140号に関するいくつかのデータをまとめたのが次の表だ。
この表により、各時期の国道140号の総延長とそのうちの未供用延長、実延長とそのうちの自動車交通不能区間延長、そしてトンネルの箇所数と合計延長を県別に知ることが出来る。
注目して欲しいのは、昭和35年、41年、49年の版では、いずれも山梨県内のトンネル箇所数がゼロであることだ。
その後は、道路の整備の進捗によってトンネルが増えてくるが、昭和49年3月31日以前の国道140号の山梨県内には1本もトンネルがなかったことが分かる。
また、道路法が観念する道路の状況には「未供用」というものがあり、未供用の場合は総延長には含まれるものの実延長には(重複延長と共に)含まれないし、トンネルの箇所数やその延長にも計上されない。
もし雁坂峠の周辺に未供用区間があった場合は、この表の未供用延長に計上されたはずだが、やはり山梨県内に未供用区間はなかったことが分かる。
その代わり、自動車交通不能区間は常に存在し続けている。
これは供用済みの区間のうち4t以上の普通貨物自動車が通れない未改良区間の長さであり、徐々に短くなっているが、雁坂トンネル有料道路が開通している現在でもなお20kmを越す長い自動車交通不能区間が計上され続けている。これは、同有料道路が歩行者や自転車などの通行を規制しているために、今なお旧道も国道の指定を解除されていないためとみられる。
ただ現在、地理院地図を含むあらゆる地図が、この事実を隠すかのように、雁坂峠の旧道を国道の色には塗らなくなっている。
(また、最近の国道140号の総延長や実延長が大幅に長くなっているのは、西関東連絡道路などの国道バイパスが現道と並行して整備されているせいだ)
少し話が脱線したが、このように道路統計年報に実延長が計上されている以上、雁坂峠を越える国道がずっと供用され続けてきたことは明らかだ。そしてそこにトンネルがなかったこともまた明らかになったのである。
したがって、今回発見した隧道が国道のトンネルだったことはないと分かる。
これは、昭和42年3月31日現在の全国の国道および都道府県道のトンネルを網羅した、お馴染み『道路トンネル大鑑』巻末トンネルリストに、当該のトンネルが見当らないことからも裏付けられる。
それではなぜ、この隧道は国道のトンネルとして計上されなかったのだろう。
この疑問の答えは、古い道路台帳を確認し、当時の国道の詳細なルートを見れば一発で判明するだろうが、残念ながら見たことがない。
なのでこれは私の予想となるが、実際に国道140号として指定されていたルート(道路法の手続きとして道路区域に指定され、かつ供用の手続きを受けて実延長に計上されていた道)は、昭和42年や48年や60年の地形図が国道として描いていた久渡沢沿いの道ではなく、明治の地形図にのみ描かれていた古の秩父往還の位置にあったのではないかと考えている。
ようするに、地形図は国道として描くべき道を、ずっと誤り続けていたのではないか。
昭和28年に国道140号が始めて指定されたとき、道路管理者はおそらく、その当時利用されていた久渡沢沿いの(民有林内の私有地であろう)軌道跡由来の登山道ではなく、明治以前から存在した公道である秩父往還の跡を、実際の道路状況を無視して、国道に指定したものと考えている。
だがその後、昭和40年代に地形図を更新しようとした際に、旧来の秩父往還のうち久渡沢沿いの部分は既に実態としての道がなかったからか、地形図上に道としては描けなかったので、表現上妥協して、並行して存在する久渡沢沿いの登山道を国道として表現したのではなかったか。
これと同じような地形図表現の(たぶん意図的な)誤りが判明したケースを私は知っている。
前掲の『雁坂トンネルと秩父往還』にも、国道指定当時の状況について、「(山梨県と埼玉県の)両知事は語らい、ともかくも秩父往還を国道にしてもらおうということになった
」とする短い一文がある。
ただ繰り返しになるが、上記は私の仮説である。真相の解明のためには道路台帳を見る必要があるだろう。出来れば当時の台帳が良いが、最新の台帳でも、前述の通り、雁坂峠旧道の国道指定は現在も解除されていないようだから、代用できる可能性が高い。どなたか山梨県峡東建設事務所を訪れて調べられた方がいたら、結果を教えて欲しいのである。
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