2018/6/24 7:41
お目当てだった木製軌道現存を確認できたので、今回の探索のもう一つの目的を、これから果たそうと思う。
それは、私が“地獄釜の硫黄鉱山軌道”と仮称しているこの軌道の全貌を確認することである。
いま見たレールは軌道上の起点でも終点でもない途中のどこかだと思われるから、改めて起点と終点の場所を探し出すか、せめて推理の材料を集めたいと思う。
発見したレールの延長線上には、この小さな火口湖がある。
地形図には描かれていないが、13年前も同じくらいの水位があったので、年中水を湛えているのかもしれない。ちなみに手を浸けても温かいような感じは全くしない。
多くの火山が連なる奥羽山脈には多数の火口湖が存在しており、これより大規模かつ著名な物がいくつもあるからここは目立たないが、すばらしい景観ではある。
湖の縁を回り込んで、レールがある溝の出口を対岸に撮影した。
この湖には流入河川も流出河川も存在しないが、雪解けや大雨のときには溝が流入河川になるのだろう。
溝には浸食の力が集中する以上、その周囲は優先的に削られ、地中に埋もれているレールを次第に発掘しながら破壊していくことが考えられるが、流出河川が存在しないため、そうした浸食のペースは緩やかだろう。
発見されたレールの延長線上にこの湖があるので、現役時代に軌道がどうやってここを越えていたのかは問題だが、明治頃は今よりも地熱や噴気が強かったという情報もあり、おそらく湖自体が存在しなかったのだと思う。
湖底の泥の下に枕木やレールの一部が今も埋もれている可能性が高い。
湖に背を向けて再びレールの延長線に目を向けると、今度は一転して上り坂である。
50mくらい先まで扇状地状の緩やかな堆積地形が広がっているが、その先は一気に急峻な火口壁が立ち上がっている。
足元が堆積地形ということからも察せられると思うが、湖底に引き続いて、ここでもレールの発見は絶望的であった。
もし埋もれているとしても、どのくらいの深さかにあるかの想像も付かない。
こうなると植生だけでなく、今後の探索の不毛も意識せざるえないが、採掘場の中心地と思われる火口壁まで、めげずに進んでみよう。
地面にはいくらか粒の大きい火山礫のような石が大量に堆積しているが、その中には明らかに黄色みを帯びているものが混ざり込んでいた。
おそらくこれが硫黄分を含む岩であり、こういうものを採掘していたのだと思う。
そんなわけで地面を観察しながらさらに進んでいくと、「うわーお!」と思わず歓声を上げたくなるような、宝石じみた輝きを見せる硫黄の結晶が落ちていた。
年代により価値の乱高下があったが、それでも昭和30年代まで各地の硫黄鉱山から産出される天然硫黄は、わが国が外貨を獲得できる数少ない鉱産物であると同時に、日常的にも広い需要があった。特に朝鮮戦争が起きた頃には価格が高騰し、「黄色いダイヤ」と呼ばれるほどの価値を有していたそうだ。しかし、昭和40年前後に石油精製時に硫黄を製造する技術が確立すると、それから10年もしないうちに国内の全ての硫黄鉱山はことごとく閉山に追いやられたという。
ゆえに、もうこの石には鉱産資源としての価値は、おそらくほとんどない。ただの少しばかり美しい黄色い石なのである。
7:48 《現在地》
登山道をはずれた時からおおよそ1時間後……レールと戯れたりしなければほんの10分で到達できただろうが……、我々の足は地獄釜の南東側の火口壁にぶつかった。
近づいてみると、遠目で見た印象よりも遙かに壁は高く感じられ、特に上部は到底直登できそうな傾斜ではなかった。
もともとこれより先まで進むつもりもなかったが、ここで前進は終了である。
肝心の軌道跡についても、なんら痕跡を見つけることはできなかった。
それでも、あたりの岩場はこれまで見たどこよりも黄色味が濃く、硫黄成分を濃く帯びていることが見て取れた。このあたりが採掘現場だったのは間違いないと思う。
よく観察すると、そんな黄色い斜面の一角に、木材が散らばっていた。
どことなく、小さな掘っ立て小屋か、それこそ鉱山じみた木組みの坑口のようなものが、土砂に押しつぶされた跡のようにも見えたが、正体の手掛かりは見つけられなかった。
また、【茶色いガラス製の薬品瓶のようなもの】も見つけたが、やはり正体不明。
我々の最終到達地点より来た道を振り返ってみると、絵に描いたような山岳美が一望のもとにあった。
大勢の登山者で賑わう著名の山の一角であるが、登山ルートから少し外れたこの“地獄”の名を冠する窪地にはまるで人気がなく、そればかりか眼前に開豁と展開する隣県秋田の山並みの全部においても、一切の人工物が目に付かなかった。ここがどれほどの深山かを改めて実感する。
この景色の原始性は、1000年前や100年前とも変わらぬように思えた。むしろ100年前の方が遙かに賑やかで、目の前を汗する男たちが行き交っていたかもしれない。
今回発見された木製レールは、火口湖に通じる低地にたまたま雨水の通る溝ができたことで、地中にあったもののごく一部が晒される機会を得たらしい。
それも緩やかに風化作用が進行している過程の一部であろうが、今いる火口壁側の崩壊と、それによる火口湖の埋没が、先んじて進行しているように見えた。
したがって火口湖よりこちら側のレールは、早い段階でより深く土砂に埋もれ、もう永久に地上に現わる機会はないだろうと感じた。
もと来た方へと、転進開始。
木製レール発見現場付近で撮影した13年前の写真と今回の写真の比較してみると、13年前にはやはり溝はほとんど存在しなかったことが分かる。
また、向って右側の斜面の緑化がだいぶ進んでいるようにも見えた。
レールに最後の別れを告げて、一度通った踏み跡の道を“煉瓦の丘”目指して進む。
軌道はこちら側へもまっすぐに伸びていたと思うが、釜の底から離れるにつれ緑が濃くなり、そうでなくても野ざらしの木製軌道が今日まで原形を留める期待は薄いと見え、より目の肥えた状態で捜索した復路にあっても、痕跡を見出すことは一切できなかった。
チェンジ後の画像は、“煉瓦の丘”付近である。
相変わらず軌道跡は分明できないが、おそらく丘のてっぺんを乗り越えていたわけではなく、左側に見えるやや低い灌木地を通っていたのではなかろうか。
その方が軌道として自然だし、この先の展開的にも都合が良い。
「この先の展開的にも都合が良い」とはどういうことか。
ここから先は、今日の探索が進む中で初めて考えた内容である。
軌道の起点は地獄釜の底にあった採掘場で、終点は鉱山施設の残骸らしきものが散乱している現在地“煉瓦の丘”だと、さっきまでの私は考えていた。
だがいまの私は、軌道はここで終わらず、往路で目にした【登山道沿いの大きな石垣】へ続いていたという可能性を疑っていた。
あの石垣は13年前にも目にしていたが、当時は軌道の存在自体を全く想定しておらず、それゆえ単なる鉱山跡の地割りくらいにしか考えなかった。
だが、もしも石垣が軌道跡だったなら、その西側にも未探索の軌道跡を想定しうる。
それは「なかなか」どころでない、とても魅力的な推測だ。
なにせ、石垣の西側といえばもう秋田県である。だから木製レール発見という“お宝事件”が、もしかしたら秋田県内で再現される可能性がある。
故郷秋田にも花を持たせてあげたい……というのは半分冗談としても、木製レールと再度まみえる機会があるなら、是非とも追求したい。
いささか希望的観測に引きずられているうえ、もしも想定が当りなら、木製軌道が苦手とするカーブの存在を想定する必要も出てくるが、せっかくの機会だから調べてみよう。
“煉瓦の丘”付近から東を向いて撮影。
数十メートル先を、来る時に通った登山道が横切っており、その向こうに次なる目的地である“石垣”が見えている。ちょうど赤い矢印のところだ。
チェンジ後の画像は、石垣部分を望遠したものだ。
果たしてあれは、地獄釜の底から続く木製軌道の路盤なのだろうか。
ここから見た限り、レールが敷かれている様子はないが、進行方向への奥行きが感じられることや、現在地に近い高さにあることは、プラスの判断材料だ。
石垣自体にも大きな特徴があることが分かる。
8:05 《現在地》
1時間15分ぶりに登山道へ戻ってきた。
さっきはここを左折して地獄釜へ向ったが、今回は右折して石垣の下へ向う。
道は特に用意されていないが、どこでも歩けそうな地形なので問題はない。
今回初めて間近に観察したが、特徴的な石垣だ。
一つ一つの石材のサイズが大きく、かつ形も大きさも不揃いである。
石材と石材の隙間に充填物のない空積みで、積み方は乱れ積み。とても野趣に溢れている。
道路や鉄道の石垣というよりは、庭園にありそうな雰囲気がある。
大きな石材は1mくらいもあり、重機を用いたのでなければ、作設には大人数の共同作業を必要としただろう。これが古いものだという前提が誤りでなければ、大規模土木工事を感じさせる代物だ。登山道とも無関係の位置にあり、硫黄鉱山時代の遺物なのだと思う。
石垣のほぼ全景を撮影した。
長さは30mくらいあり、左の奥は登山道とぶつかる前に途切れて灌木の森に消えている。
ほぼ垂直の石垣なので、よじ登るのは大変そうだったが、崩れて低くなっている場所があったので、そこから登った。
8:06 《現在地》
石垣のうえは幅3〜5mほどの平場であり、道路か軌道の跡という可能性は十分にありそう。
しかし事前に遠望で見た通り、レールや枕木は見当たらない。
それさえ見つけられたら、一発なんだけどなぁ。
まあ、そう都合良くは行かないか。
今度は東向き、進行方向の眺め。
20mほど先にある石垣の終わりには、もしかしたら石垣の石材を削り出した現場かもしれない、背の低い岩場があった。
そして、地図が正確ならば、ちょうどあの岩場のあたりを県境線が横切っている。向こう側は秋田県だ。
平場は、岩場に突き当たったところで、左へ曲がっているようだ。
その先は、まだ見えない。
軌道跡かどうかはともかく、どこまで続いているんだろう。
9:08 《現在地》
石垣の終わりまでやってくると、足元には地獄釜を一回りスケールダウンしたような白茶けた谷が口を開けていた。
かつての火山活動によるものなのか、鉱業活動の爪痕なのか、はたまたその両方なのか。
石垣から続く平場はここで90度くらいも左へカーブして、白茶けた谷の縁を進んでいく。
今回、普段の探索よりも「カーブ」を気にしているのは、木製軌道はカーブが苦手という特徴があるからだ。
木製レールは、金属のレールのようにしなやかにカーブさせることは困難だった、だからカーブは好まれなかった。
画像に付した「★」は、次に私が足を止めた場所の目印だ。
「★」の地点で私が足元の地面から何気なくつまみ上げたのは、小さな赤茶けた小塊だった。
手触りや重さからして、錆びきった金属片ということはすぐに分かったが、その形状は、なんだかとても……犬釘に似ていた。
犬釘だったら、6kgレールを固定するのがお似合いのサイズ感である。
もしもこれが犬釘であれば、ここまで軌道が伸びていたことを肯定する重要な発見といえるが、先に地獄釜で見た木製軌道は犬釘を用いていなかった点が引っかかる。
もの凄く犬釘っぽい形をしていても、全く偶然の“他人のそら似”の可能性もある。個人的な印象としては、犬釘ではないような気がするが、正体は分からぬままだ。
「それだけかよ」というような声が聞こえてきそうだが、ここではさらなる発見があった。
左の写真では全くピントの合っていない“背景”に、木の棒のようなものが見えるでしょう?
これ、最初は視界に入っていても特になんとも感じない、ただの「落ちている木片」だったのだが……。
木製レールでは?!
倒木にしては妙にひょろ長い形状の木材が、森の中でもない場所に1本だけ、半ば土に埋もれたような形で落ちていた。不自然だ。
そのうえ、すぐ近くの地面の下には、少し太い木材が枕木のような配置で2本ばかり横たわっているのが見つかった。(これは最初ほとんど露出していなかったが、何かと思った私が弄ったために、写真では掘り返されたようになっている。弄る前に写真を撮るのは忘れてしまった。)
加えて、これら木材の周辺には、腐食が進んでザクザクになった金属片も埋もれていることが確認された。(最初に見つけた犬釘っぽい金属片は、このザクザク金属片の欠片かもしれない。)
ここにも地獄釜の底で見たのと同じような、鉄板レールの軌道が敷かれていたのではないだろうか。
改めて周囲を確認すると、平場が谷に削られつつあるあたりの斜面からは、枕木よりもさらに太い木材が、何本も頭角を見せていることに気がついた。
しかし見ての通り極めて風化が進んでおり、これらの木材が形作っていたものの再現は、想像に頼るよりない。
探索者として、断定できないことには強いもどかしさを感じるが、ここには木製軌道を支える木製桟橋が存在したのだという希望的説を提示したい。
少し離れたところから、より広い範囲を撮影したのが、右の写真だ。
方々に木材が散乱していることが分かると思う。
ただ、散乱というと風で散ったようなイメージがあると思うが、これは埋もれているものが多い。だから掘り返さないと動かない感じがある。
これはもはや、廃道や廃線の跡というよりも遺跡という表現が相応しいような感じもする、なんとも掴み所のない光景だった。
しかしともかく、今回の現地探索における私の結論としては、僅かなレールおよび枕木とみられる半埋没物の存在を根拠に、秋田県側にも木製軌道は存在していた……としたい。
8:12 《現在地》
そして、私がこのたくさんの埋もれた木材を見つけた場所は、平場の終わりでもあった。
あとは白茶けた斜面が、遠くの緑の森までストンと落ちているばかりで、道はなかった。
恐ろしく見晴らしの良い場所だったが、これは逆に言えば、何もかもが吹きさらしであったということ。
この地に軌道の終点があったと私は考えているが、その証拠は既に風化してしまったのだと思う。
右図は、今回探索した軌道の全体像として私が想像したものである。
全長約400mという規模であるが、そのほとんどが紫色の線で描いた「推定線」であり、間違いなく軌道があったと分かるのは、木製レールが残っていた赤線の場所だけだ。
いろいろと断定的なことを述べるには頼りない情報量だが、それでも鉱石の採掘から出荷までの一連の運搬径路の想定が可能だ。
地獄釜の底で採掘された硫黄原鉱は、手押しのトロッコに揺られて緩やかな斜面を登って、“煉瓦の丘”付近にまず運ばれたと思う。
そこで一旦集積と何らかの加工が行われ、それから再びトロッコに乗せられて、今度は等高線に沿って伸びる軌道上を秋田県側のこの場所まで運ばれた。
そして、最後は索道で秋田県方向へ運び出していたのではないかと想像している。
交通不便な山奥に孤立している鉱山の場合、山元への輸送には架空索道が絡むことが大半であった。
それに、最後に辿り着いたこの場所は、秋田県側の見晴らしが抜群で、索道の起点として申し分ないようにも思われた。
周囲に散乱している木材のうちのいくつかは、索道施設の一部(盤台や支柱)であったのかも知れない。
最後に、秋田県側に続いていた軌道の想像図だ。
たった数百メートルの軌道なのに、「起点:岩手県一関市、終点:秋田県東成瀬村」と書くと、
奥羽山脈を横断している大規模な路線として詐称できそうである(笑)。
上記の文字列を見て、まさか県境の山のてっぺんにだけにあるとは思わないでしょ?
そうだそうだ。もう一つ、紹介したいものがあったんだった!
何度も書いているとおり、私がこの硫黄鉱山跡を訪れたのは今回が初めてではない。13年前の2005年6月にも来ていた。
そのときに見つけたものがあったんだ。
ずばり、レール。
13年前の探索でも、私はこの近くでレールを見つけていた。
いまからそれを紹介しよう。たぶん、まだ残っているはず。
ここから13年前のレール発見現場へ行くには、木製軌道の終点と思われる現在地から少し引き返して、まずは県境(写真の矢印の地点)まで戻る。
8:17
軌道跡が県境を跨ぐあたりから北西の方向に目を向けると、白茶けた緩やかな斜面が広がっているが、その一角に黄色いテープで囲まれた場所が見える。
まるで事件現場に警察が張る規制線のようだが、あの場所にレールがあったはず。
白茶けた斜面を最短距離で下って行くが、そこにも何やら人工物の痕跡あり。
平成17(2005)年当時は、こんな風に列状に木柱が並んでいたりした。
今回も痕跡はあったが、だいぶ数が減っていたように思う。
これが何のためにあるのか、古いものなのかどうか、黄色いテープに囲まれた地点と関係があるのかなど、謎は色々とあるが一切答えは分からない。
森林限界よりも高い位置にある太い木材構造物ということで、これまた古い鉱山遺構である可能性は高いと思っているが。
8:18 《現在地》
特に労することなく黄色いテープの場所へやってきた。
テープに囲まれた内側は3畳ほどの広さがあるが、そのど真ん中に直径3mくらいもある円形の縦穴が空いている。
黄色いテープは、穴に気付かず転落することがないよう、安全のため張られているようだ。
ちなみに13年前は目立つ黄色いテープも紅白の支柱もなく、テンションを失ったロープがだらしなく周囲を取り囲んでいるだけだった。だから、縦穴を偶然見つけた私が危険を感じた記憶がある。その後、土地の管理者も危険性を把握し、目立つようにしたのだろう。
レールは、ここにある。
地獄釜の近くに口を開ける、縦穴。
13年前の探索で、私は危険を侵して穴を覗き込んでいる。
穴の周囲はすり鉢状になっており、足元が安定せず非常に危険である。
万が一転落すると、自力では上がって来られないだろうし、携帯の電波も通じないから助けも呼べず
野垂れ死ぬことになると思うので、真似をするのはオススメしない。私も今回の探索では自重した。
しかし、なぜこんなところに縦穴が口を開けているのか。 この穴の正体は?
火山地帯であることを考えれば、天然の噴気孔跡か? それはこんなに大きくなるのか。
いろいろなはてなマークが脳内に去来する穴の正体を明かすべく、13年前の私はもう一歩踏み出した。
地獄の底へ通じていたら、どうしよう。
限界まで縁に近づいた位置から精一杯伸ばした手の先のカメラが捉えた、“穴の底”。
深さ10mでは足りなさそうな穴の底は2畳ほどの四角い小部屋で、木材が散乱していた。
また、途中の壁に引っかかっているような廃材も見えた。
横坑らしいものは見当たらないが、ぶっちゃけ薄暗くてよく分からない。
ともかく、大量の廃材は昇降用通路の残骸だと思う。ゆえに、これは人工的に掘られた坑道かもしれない。
硫黄の採掘用? 探鉱目的? はっきり言えるのは、これがとても怖い穴だということだけ。
もしも、“縦穴”の底から横坑が伸びていたとすると、西側にある谷に出口があったりするだろうか?
13年前の私は、その可能性を考えた。
そして、実際に西の谷の底に降りて調べてみた。
縦穴の近くから谷を覗いてみると、地形図に水線は書かれていないが、豊富に水の流れている谷がある。東成瀬村を貫流する赤川の源流のひとつである。
そして、その岸辺の平らな草地に建物の基礎のようなものが見えた。
左の写真は今回の探索で撮影したものだが、13年前にそこを訪れている。
2005/6/26 16:43 《現在地》
谷底にあったのは、やはりコンクリート製の建物基礎で、間取りまではっきり分かる保存状態だった。
なぜか近くにベンチがあったりもしたが、遊歩道になっているようでもないし、地形図にもここへ至る道は描かれていない。これまた謎の遺構だった。
いちおう正体を推測しておくと、硫黄鉱山があった山から流れ出てくる沢の畔という立地から、鉱毒処理用施設の可能性が高そうだ。
なお、縦穴から続く横穴の出口が近くにあるのではないかという疑いについては、それらしい坑口は見つからなかったという灰色の決着に終わった。
今回の探索でも再捜索はしていない。
レールである、レール!
肝心の話が後回しになってしまった。
13年前にここで見つけたレールは、穴の底ではなく、穴の周囲にあった。
図中に水色の○で囲った位置だ。
ほい、レール!→
がっかりさせてしまっただろうか。
ここで見つけたレールは敷かれているわけではなく、地面に柵の支柱代わりとして突き立てられていた。
しかも、今回の探索の主役である木製レールではなく、見慣れた金属製のレールだ。
特に変わった形というわけでもないし、6kgレールだと思う。
かつては穴の周囲をぐるりと囲むように、もっと多くのレールが立っていたようで、上の写真の黄色の○印のところにも、その残骸と思われる金属の棒が落ちていた。
酸性の強い土にむしばまれているせいか、立っているレールに比べると風化の度合いが凄まじく、果たして同じ時代に生まれたレールか疑わしいところもあるのだが、まあ多分そうなのだろう。明治の初期に製造された特殊な“双頭レール”のように見えたのも、劣化の結果に過ぎないと思う。もし本当にそうだったら木製レール以上の事件なんだけどな。
これらが、今回の探索で出会った最後のレールである。
13年前にこれらを見つけたときに、それでも鉱山軌道の存在をあまり意識しなかったのは、土地柄によるといえる。
栗駒山周辺には同じような軽レールを用いた森林鉄道がかつて多く存在しており、そのため山中で支柱や土留めといった雑用に廃レールを用いている光景は珍しくない。
また実際のところ、この金属レールが当地にあった鉱山軌道に由来するものであるかどうかは不明である。
以上、纏まりのない内容になってしまったが、この地で見つけた一通りをやっと紹介し終えた。
廃線跡探索というよりは、よく分からない鉱山の廃墟を彷徨った記録に近い気もするが、木製レールの実在確認という成果に免じて、今回は許して欲しいナン!
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