【白湯山林道の全体図】
前回は、白湯山林道に3本あったという隧道のうち、一番下流側にある短い隧道を紹介した。
今回はいったん2号隧道を飛ばして、上流側の3号隧道を紹介したい。(2号隧道は次回以降に紹介する予定)
この3号隧道は、“あのパターン”の隧道だ。
今までも、いくつかの廃隧道で目撃してきた、あれだよ。
あれ。
――湖底への隧道。
白湯山林道の軌道は昭和18年に廃止され、自動車道化された。
そして深山ダムは、その30年後の昭和48年に完成した。
3号隧道もダムが出来るまでは使われていたと思われるが、その東口は完全に水没域にかかっている。
そのため林道の付け替えが行われ、ダム堤体を渡って深山湖の左岸を通るルートになった。(この道が県道369号に昇格したのは平成8年)
一方、昭和8年の地形図(右図)を見る限り、この3号隧道の西口は地上に残ったはずである。
今回はこの坑口を探してみたい。
なおスタート地点は、2号隧道と3号隧道の中間地点である、矢沢を渡る橋だ。
昭和8年地形図では、この橋より北側にのみ軌道が描かれている。
これは、起点側4kmが牛馬道で終点側8kmが軌道であったという「黒磯市史」の記述を証明するようにも思われるが、細かい距離は地形図と符合しない。
矢沢の橋は、起点とされる谷地田原から約4kmだが、終点とされる地点からも5kmしか離れていないのである。
おそらく市史にある起点か終点の位置、或いは距離のどれかが、正確ではないのだと思う。
…話が少し脱線した。それでは、隧道探しをはじめよう。
2007/12/7 15:30 《現在地》
矢沢に架かる橋に銘板は無く、名前は分からない。
しかし特に変わったところのない、県道369号の平凡な橋である。
軌道時代は、もう少し下流に橋が架かっていたようだ。
本橋の対岸には、下流へと続く崩れかけた路盤の跡が残っている。
橋の上から、その先へと目を向ける…
100mほど下流の谷中に、石組みと思われる立派な橋脚が立っていた。
橋脚は1本だけだが、両岸には石を積んだ橋台が、半ば崩れつつも残っているようである。
両岸に見える路盤よりも橋脚は低いので、橋はおそらく木橋で、石の橋脚の上にさらに木の橋脚が立っていたと考えられる。
なお右岸側は、矢印の先で現在の県道とすぐに合流している。
この辺りで牛馬道と軌道が接続していた可能性は高いが、積み替えのための大きな敷地や施設は、なかったのだろうか。
15:33 《現在地》
矢沢の橋から700mほど進むと、県道はダム堤へ続く九十九折りの急坂に切り替わる。
旧道(軌道)はそちらには行かず、ここを直進して進んでいた。
入口には古ぼけた「進入禁止」の標識がぽつんと立っていたが、特にその理由や、或いはゲートのようなものは見あたらなかった。
直進してみると、予想していたよりも遙かに立派な道がそこにあった。
舗装こそないものの、道幅はこれまでと同じか、むしろ更に広く思えるくらいである。
法面もびっしりとコンクリートで固められており、この幅が必要だという積極性のようなものを感じる。
これで。軌道が廃止された後に自動車道として使われていたことが確定したと思ったが、この直後に現れたのは、さらに予想外の光景だった。
先の分岐から進むこと約350m。
目指していたものは、呆気なく現れた。
口を開けた、坑門の姿。
3号隧道であろう。
だが、少しどころか、かなり様子がおかしい。
1号隧道とは、また別の様子のおかしさである。
車が脇に一台停まっているのも気になる。
ドキドキしながら近付いていくと、その異常さはよりはっきりした。
15:36 《現在地》
軌道跡であり旧林道でもある道は、十分な道幅を保ったまま、隧道へ達した。
しかし近付いてみると、その坑門は道と直接繋がってはいなかった。
しかもそれは想像していたような廃隧道では全くなく、道路や軌道用のものでさえない。
ここから見ても分かる丸い断面は、その何よりの証しである。
そして、ここまでの道幅が普通の林道よりも広く、かつ整備もされていたのは、
終点にあるこの構造物が、現役の“何か”であることを意味していた。
これはなんだ→
ちょっと大きさが分かり辛いと思うが、手前の車の大きさと比較しても、小さなものではない。
こんな丸い断面でなければ、トラックが通行できるくらいの大きさはあるだろう。
異様な光景に気圧されつつも、改めて周囲を見回してみた。
しかし、昭和8年の地形図にある隧道は、やはりこの位置に口を開けていたとしか考えられない。
本来であれば、洞内で完璧な水密閉塞を施され、行き先のない廃坑口となるべきものが、今もこうして、健在の設備として口を開けている。
その正体として考えられることは、あまりない。
どうやら手前に停まっていた車は、この現役の施設で何らかの作業を行う人のものらしく、どこからかは分からないが、近くで人の気配があった。
そのため、私は長居する気持にはなれなかった。
そそくさと自転車を乗り捨てると、急いでこの円形の坑門を覗いてみたのである。
そこにあったのは、ごっつい扉!
もの凄くゴツイ鉄の扉が、閉ざされていた。
それはもう完全に、水路の出口にしか見えなかった。
これは、湖底への隧道すぎる!といったところか。
工事誌などの詳しい資料が手許にないので、ここからは想像に過ぎないが、おそらくこの施設は、ダムの排水路トンネルの出口だろう。
普通なら湖底に繋がる廃隧道など封鎖して終わりのところを、上手く排水路として転用したと考えられる。
また普段から使ってはいないかもしれないが、坑口上部には管理施設らしい建屋も付属しており、現役施設なのは確かだろう。
いずれ、この隧道が湖底へと繋がる水路だとすれば、一般人が入れることは絶対にないだろう。
全く隧道に入れなかったのは残念だったが、というか、そもそもこれは3号隧道を発見したと言えるのか微妙だが、ここは大人しく引き下がることにする。
この場所に3号隧道があったのは、間違いない。
2009/10/30 午後 《現在地》
ここから先は、また別の機会に撮影したもを使ってレポートする。
前述したとおり、3号隧道の東口は深山ダムの湖底に入ってしまっているのだが、ここはその県営深山ダムの堤上路で、今は県道369号の一部となっている。右がダム湖だ。
このダムは、あまり例のないアスファルトフェイシング・フィルという形式のダムで、築堤の表面に張ったアスファルトで遮水を行っている。堤高は75.5mあって、この形式では国内一の規模だという。
発電、灌漑、上水などの多目的ダムで、「ダムマニア(深山ダム)」には、(引用)「ダム湖下流の川には水が流れてなく、発電用の別水路を通り下流に流されているらしい。」
と記述されている。この別水路というのが先ほど見た排水口と関係あるかは不明だ。
地形図などから勘案すると、おそらく矢印のあたりに3号隧道の東口はあったと思われる。
そして、おそらく現在は改造のうえ、排水口になっているのではないだろうか。
予想される深度も大きく、ダムが撤去でもされない限りは、地上に現れることは無いかも知れない。
こうして地上から見ている限りにおいて、まったく水中の様子は窺い知れない。
そして同位置から上流方向を見る。
古地形図によれば、3号隧道を出た軌道は1kmほどで那珂川を橋で渡り、
現道と同じ左岸を上流へと向かっていたようである。
しかしこの日の水位は低くなく、
湖畔において、いかなる軌道跡や林道跡の遺構も見ることは出来なかった。
《現在地》
ダムサイトから3.5kmほど上流の地点。既に湖の上端よりも上流だ。
この手前で軌道跡と現道はひとつになっていると思われるが、残念ながら地形の改変が著しく、明瞭な痕跡を確認し得なかった。
そしてこの県道369号(旧大川林道)と白湯山林道の分岐地点は、「黒磯市史」が軌道の終点としている「湯川と大川の合流地点」である。
この辺りでも特に軌道の跡と思われるものを見付けられなかったが、じっくりと探したわけではないのと、前述した距離の不一致から、実際は更に上流へ続いていた可能性も捨てきれないのであり、将来的に再探索を行うかも知れない。
以上の通り、ダムは軌道跡やその後を継いだ林道の風景を一変させてしまった。
民間の敷設というやや珍しい経緯を持つ路線であるから、そこには何か特異な構造物があったかも知れない。残念である。
その中でも3号隧道は、軌道用→車道用→水路用という、個人的には初めて見る変遷をたどっているようで、遺構的なものが何も無いのはやはり残念だが、特筆に値する特殊事例だと思われる。
最後に「黒磯市史」からこの3号隧道の掘削に関する記述を引用して、往時の風景を想像する助けとしたい。
第二号(※)隧道(375m)は、俗にいう“目のない岩石”のためダイナマイト効果が低く、一昼夜に30cm程度の掘削に止まることもあり、浸透水の排水作業も加わり、工事は困難をきわめた。
(市史は、本編の第1号隧道を「小隧道」と評価し、2号隧道を「第一号隧道」、3号隧道を「第二号隧道」と表現している)
このような難工事のため、当初工事を請け負っていた業者は、昭和3年に契約を解除してしまった。そのため翌年に地元の推進者は深山土木森林組合を結成して工事を続行、昭和6年には栃木県の補助金(市史には3530円とあるが、時代を考えてもあまりに低額で、誤りではないかと思う)を交付されている。
長さ375mの3号隧道に加え、次回紹介する2号隧道は、420mの長さがあった。
林鉄の隧道としてはどちらも長大な部類で、特に民間敷設の路線としては、例を見ないほどのものである。
県が補助を与えたことからも分かるように、それだけこの地域の森林開発には大きな期待があったのだろう。
しかし工費の借入がかさみすぎたため、せっかく開通した軌道を発起人たちがほとんど活用できないままに終わってしまった。
民間による大規模な土木事業の難しさを、物語っているようである。