錦秋湖畔に残るのは、旧国道の廃橋ばかりではない。
国鉄横黒線(現JR北上線)の廃線跡も、渇水期にはその姿を汀線ぎりぎりに現すのだ。
今回は、いよいよこの廃線跡へ。
徐々に改良が進む湖畔の橋の中で、未だに未改良のままある大石橋は、昭和35年の竣工である。 まさにダム工事による付け替え道路工事にあわせて建設された物だ。 そして、この大石橋の上からは、今までで最も良く原形をとどめる旧橋の姿を見ることができる。 | |
大石沢に架かる旧橋は、両端こそ緑に飲まれているものの、非常に良く原形をとどめている。 まるで模型のような小さなアーチ橋は、見ていると自然と笑顔になれるような、やさしい魅力を感じる。 これはぜひ、行ってみたい! | |
ほぼ直上から見下ろした旧橋の姿。 なんともいえない構図にもう、クラクラである。 しかし、先述したとおり、現橋といえど大変に狭隘である上に、昼夜を問わず通行量のある国道である。 大型車などが通行すると大変に揺れるという状況では、長居も無用だろう。 ここに立ち止まっていては、通行の妨げになりかねない。 |
大石橋の北上方袂のすぐ傍からは、ゆだ錦秋湖駅や南本内林道方面に向かう県道133号線が分岐している。 この分岐点にはご覧の駐車スペースがあり、私の旧橋へのアプローチはここを起点とした。 もっとも、これといったルートのめぼしもなく、またも無理やり山肌を下るつもりだが(←懲りてない…) | |
それなりに苦労しつつも、速やかに段丘の旧道上に下り立った。 渇水期といえば夏だが、夏は繁茂の季節である。 そう考えると、水没遺構の探索というのは、廃道探索で最も難しいジャンルかもしれないな、などと考えてみたり。 背丈ほどもある植物(時折トゲのあるやつが含まれていて痛い!)をかき分け、旧橋を目指す。 | |
深いブッシュの向こうに、現橋の姿が見えてきた。 旧橋までは、まだ結構距離がある。 慎重に進む。 | |
そしてこれが、この大石橋のベストショットだ。 新旧の橋が立体的な配置で並んでおり、旧橋のコンパクトさが際立っている。 このタイプのアーチ橋は、この一帯の旧道には一般的に見られるものである。 | |
草むらをかき分けてたどり着いた橋の上は、まだコンクリの地肌も見えている部分もあるなど、状況が良い。 車一台がちょうど通れるだけの幅しかないが、これでも秋田と岩手を結ぶ平和(平鹿地方と和賀地方を結ぶ)街道として1880年頃に整備された由緒正しい道筋であったのだ。 その後、国道昇格とほぼ同時に湖底へ沈んだことは既に述べたとおりである。 本橋の架設がいつ頃なのかは明確ではないが(銘板等はやはり全て遺失)、ダムより僅か下流の仙人地区に残る仙人橋の旧橋が昭和7年に竣工していることから、その前後と見て間違いないだろう。 | |
今度は、旧橋から現橋を見上げてみた。 道好きにはたまらない空間をたっぷり満喫させてもらった。 | |
橋上から、北上方向を眺める。 先ほどかき分けてきたブッシュの凄まじさがお分かりいただけよう。 ダム湖による過剰な洪積作用によって、廃止後40年とは思えぬほど道は消えてしまっている。 水没遺構の探索の難しさを感じる情景である。 奥に見える立派な橋が、このあと渡ることになる県道133号線の天ヶ瀬大橋である。 | |
長閑な廃アーチの昼下がりである。 橋台の両脇には石垣が認められる。 これは、本橋の翼壁なのだろうか、或いはもっと古い街道時代の遺構なのだろうか? まだまだ湖底に沈んだロマンは、深そうである。 | |
さて、戻りだが、来た道を戻るのもダルイので、手っ取り早く上の写真にも奥のほうに写っている断崖を、フリークライムで突破することにした。 チャリが無くなって、なんかハッスルしすぎ?! だって、この日のチャリ…。 パンクばっかりでむかつくんだもん! 真昼岳林道では6箇所もパンクしやがって…。 …と、意外と根に持つ私であった。 |
やっと国道に戻ったら、今度はいよいよ今回の最大探索地である国鉄横黒線の廃線へ向け、錦秋湖を長大な天ヶ瀬大橋
で越え、対岸へ。 写真は、大橋から北上側の眺め。 眼前に広がる広大な平地には、雄大なカーブを描く築堤の姿が見えている。 これも、横黒線の痕跡である。 しかし、これ以外にはただただ草原が広がるばかりであり、やや時間も押していることもあり、ここへの降下は見送った。 |
北上線の陸中大石駅は現在ゆだ錦秋湖と名を変えているが、湖畔で唯一存続している大石集落にて県道は終点となる。 しかし道をそのまま進むと、秋田自動車道の巨大な道が帯のように立ちはだかる。 これをくぐり、秋田県東成瀬村へと続く南本内林道との分岐を左に曲がって約1km。 錦秋湖SAと併設された峠山パークランドの建物が見えてくる。 ここは高速道と一般道の両方から利用できる温泉施設であり、ちょうどお盆の帰省に当ったこの日は、高速の敷地外にある公園にまで多数の家族連れが繰り出していた。(もちろん高速の利用者たちだ) どうもチャリの私には居心地が悪い気がする。 そそくさとその最中を通り過ぎると、間も無く本来の静けさが沿道に戻る。 道は湖畔に付かず離れずで峠山へ踏み込む。 | |
間も無く砂利道となり、林道の様相を呈す。 SAから1.5kmほどで、かつては賑わいを見せていた峠山スキー場の跡を通る。 草ぼうぼうのゲレンデにはリフトも何も無く、路傍には朽ちて土台だけになった展望台が無残な姿を晒している。 林道は、さらに奥へと続いている。 |
ほぼ丸一年ぶりに「錦秋湖 謎のトンネル」へと再来した。 ここについては、今回も簡単に写真撮りを行ったが、特に新しい発見は無かった。 詳細については、こちらをご覧いただきたい。 なお、ここからさらに湖畔に沿って進む道は、北上線の保線や湖の護岸工事用に利用されている形跡があるが、今回は入り口で通行止めとなっていた。 どうやら、護岸工事のためらしい。 わたしは、いよいよ横黒線の廃線を探索すべく、手始めに現在の線路(=北上線)へと小道を伝って降りた。 なお、チャリはここにおいて探索することとした。 | |
線路へはすぐに合流した。 ちょうど行き止まりとなっているここが、旧大荒沢信号所となる。 ここで、横黒線と北上線の路線変更の経緯についてのおさらいを兼ねて、この地にあった駅の話をしよう。 国鉄横黒線が、横手市と黒沢尻町(現:北上市)の両方から延伸に次ぐ延伸で一本の線路となったのは、大正13年11月のこと。 この開通に先駆け、約20日間の短期ではあるが、この付近に存在した大荒沢駅が横黒東線の終着駅だった時期もあった。 その後しばらくは、背後の鉱山からの積み出しも盛んで、駅も大荒沢集落も栄えたが、“日本のTGV”と持てはやされた北上水系の治水事業に関わる湯田ダムの建設に伴って、岩沢から和賀仙人、大荒沢、陸中大石、陸中川尻までの15.4kmもの長大な区間が付け替えとなる運びとなった。 この新線工事の着工が昭和32年、竣工は同37年のことである。 これにより、和賀仙人と陸中大石(現ゆだ錦秋湖)の二駅が移転し、あろうことか大荒沢駅に至っては廃止、信号所への格下げとなってしまった。(昭和40年には路線名が北上線に改称されている。) | |
さらに昭和45年には、この大荒沢信号所まで運行列車の減少に伴い廃止されるに至り、大荒沢の歴史は完全に幕を閉じたのである。 現在では、信号所の小さなホームが叢に僅かに覗くのみである。 |
この先の探索のルートはわかり易い。 北上側は深く水没し、一方の川尻側に行くほど標高を上げている旧線路が、湖の水位に応じていずれかの湖畔から姿を陸上に現す。 ようは、湖畔を川尻方面へ歩いてゆけば、嫌でもいつかは旧線とぶつかるはずなのだ。 この考えに基づいて湖岸へ降りることを最優先としたのだが、現在の線路より湖側のブッシュは湖面が隠れるほどに深く高い。 流石にどこを突破すればよいものかと、ここで暫し逡巡してしまった。 しかし、結局は大きく迂回することは試さず、またしても強引な突破となった。 急な藪を、蔦や葉を引き千切りつつ、体重をかけて無理やり突き破ったのだ。 | |
数分の格闘の後、湖畔に迫った。 汀線に近付くほどに草は低く、柔らかくなっている。 また、一見自然のままの岸だが、実は河川の堤防のようにコンクリートが敷き詰められている。 しかしここまでくれば、あとは普通に歩いて水際に行ける。 | |
ここがまさに大荒沢駅が沈んだ地点である。 しかし、小石が漣に洗われるばかりの茫漠たる景色となっている。 疎らに転がる色あせた漂着物には、人の住んでいた気配など微塵も感じられない。 廃線跡など、どこにもない。 どうやら、水位が高すぎるようだ。 焦りを感じつつも、計画通り川尻方向へ湖畔を歩き始めた。 |
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