[千頭営林署林道系統図] …千頭営林署資料 (昭和30年代初頭のものと思われる) 本稿紹介区間を黄着色
本稿が取り上げるのは、千頭森林鉄道本線全長41kmのうち、その最も起点側の約10kmだ。
林鉄起点「0kmポスト」が置かれていた沢間集落から、現状では沿線最奥集落であり、南アルプス登山基地ともなっている大間集落(寸又峡温泉)までを紹介する。
この区間の大部分は、昭和44年の森林鉄道廃止と前後して車道林道化の工事が進められ、昭和43〜45年の3カ年で全長11,316mの「寸又右岸林道」に置き換えられている。
ただし、例によって林道と軌道跡とは一部異なっている箇所があるので、探索はそれを主に拾っていく感じになるだろう。
長大林鉄探索の始めは、まず手頃な車道化区間といった感じなのだが、ここさえも従来はあまり「軌道跡」として探索されたことが無かったのが、予想以上の成果があった。
なお、当区間の開設に関わる歴史は「歴史解説編<2>」で取り上げているので、ここでは簡単に復習するに留める。
本区間(沢間〜大間)は、千頭森林鉄道として昭和13年12月に発足した当初区間の一部で、昭和5年から8年にかけて第二富士電力株式会社が、自社の計画する千頭堰堤や大間発電所などの電源施設を建設する目的で建設した、工事用軌道「寸又川専用軌道」であった。
この専用軌道は、昭和13年に富士電力株式会社より帝室林野局に無償譲渡され、これが「千頭森林鉄道」となったものである。
なお無償譲渡は予め規定されていたもので、当初から森林鉄道一級線の規格で建設されていた。
以後、昭和44年の千頭森林鉄道全面廃止までの30年間、千頭山一帯から伐り出されてくる膨大な木材を、千頭駅併設の貯木場(通称「千頭土場」)へと輸送する最重要路線として運用されたが、最末期は自動車道化の工事が進められ、前述の通り昭和45年に「寸又右岸林道」として生まれ変わっている。
なおこの区間では、昭和26年から38年までのあいだ、地元観光協会の主催による千頭〜寸又峡間の客車専用列車(すまた号)の運行が試みられていたという情報がある。
ダイヤや運賃設定の有無など詳細は不明だが、森林鉄道としては極めて特異なケースといえよう。(詳細が分かり次第報告する)
それではさらに対象に迫っていこう。
まずは探索開始の地点である沢間駅についてだ。
千頭に較べれば遙かに狭い土地しかなく、交通も不便に見えるこの沢間の地が、巨大な森林鉄道網の「起点」となった背景について探ってみたい。
現在の大井川鐵道井川線の沢間駅は旅客専用の小さな無人駅だが、その起源は昭和6年に大間まで開通した寸又川専用軌道の起点である。
当初の鉄路はここで行き止まりで、千頭方面との物資のやり取りは、奥沢間〜地名(ぢな)〜藤枝(滝沢)を当時結んでいた川根電力索道が請け負っていた。
この索道は元より電源工事の資材運搬収入を当て込んで民間事業者が建設したものであったが、この存在と、帝室林野局に対して補償する必要があった水利権の範囲が寸又川限りであったことが、その合流地点のすぐ下流の沢間を起点とした大きな理由であったろう。
だが、昭和8年(9年や10年説あり)には大井川電力株式会社によって、大井川鐵道千頭駅とこの沢間駅を結ぶ大井川専用軌道(3km)が開通したために、索道の利用は中止され(後に廃止)、寸又川専用軌道の物資は積み替え無しで千頭方面へ運ばれるようになった。
さらに、この大井川専用軌道は昭和10年に奥泉堰堤(現在の大井川ダム)まで延伸されたために、沢間は2つの電力会社専用軌道の分岐駅となった。
そして前者は後に千頭森林鉄道となり、後者は中部電力専用鉄道を経て、現在まで大井川鐵道井川線として存続している。
これを踏まえると、沢間駅こそ大井川鐵道井川線で最も古い駅(千頭駅開業は昭和6年12月、沢間駅開業?は昭和6年10月である)といえないこともない。
なお、千頭森林鉄道の0kmポストは沢間駅に置かれていたものの、実際の運材列車は全て千頭土場まで中部電力線(井川線)上を直通していたから、外見的には単なる分岐駅に近かったものと思われる。
沢間〜千頭間が、1067mmと762mmの2つの期間が路盤を共有する三線軌条区間であったことはよく知られている。
昭和37年に当地を旅行した記事によれば、沢間駅構内には左写真に示す立派な0kmポストが存在していたという。
これは昭和28年に「森林鉄道保安規定」として林野庁が各営林局に対して告示した規格に則っているように見え、流石は模範的経営を要求された「東京営林局」の、しかも“花形”森林鉄道の起点であったと思わされる。