千頭森林鉄道 沢間駅〜大間駅 (レポート編1-1) 

公開日 2010. 5.29
探索日 2010. 4.19


[千頭営林署林道系統図] …千頭営林署資料 (昭和30年代初頭のものと思われる) 本稿紹介区間を黄着色


本稿が取り上げるのは、千頭森林鉄道本線全長41kmのうち、その最も起点側の約10kmだ。
林鉄起点「0kmポスト」が置かれていた沢間集落から、現状では沿線最奥集落であり、南アルプス登山基地ともなっている大間集落(寸又峡温泉)までを紹介する。

この区間の大部分は、昭和44年の森林鉄道廃止と前後して車道林道化の工事が進められ、昭和43〜45年の3カ年で全長11,316mの「寸又右岸林道」に置き換えられている。
ただし、例によって林道と軌道跡とは一部異なっている箇所があるので、探索はそれを主に拾っていく感じになるだろう。
長大林鉄探索の始めは、まず手頃な車道化区間といった感じなのだが、ここさえも従来はあまり「軌道跡」として探索されたことが無かったのが、予想以上の成果があった。


なお、当区間の開設に関わる歴史は「歴史解説編<2>」で取り上げているので、ここでは簡単に復習するに留める。

本区間(沢間〜大間)は、千頭森林鉄道として昭和13年12月に発足した当初区間の一部で、昭和5年から8年にかけて第二富士電力株式会社が、自社の計画する千頭堰堤や大間発電所などの電源施設を建設する目的で建設した、工事用軌道「寸又川専用軌道」であった。
この専用軌道は、昭和13年に富士電力株式会社より帝室林野局に無償譲渡され、これが「千頭森林鉄道」となったものである。
なお無償譲渡は予め規定されていたもので、当初から森林鉄道一級線の規格で建設されていた。

以後、昭和44年の千頭森林鉄道全面廃止までの30年間、千頭山一帯から伐り出されてくる膨大な木材を、千頭駅併設の貯木場(通称「千頭土場」)へと輸送する最重要路線として運用されたが、最末期は自動車道化の工事が進められ、前述の通り昭和45年に「寸又右岸林道」として生まれ変わっている。

なおこの区間では、昭和26年から38年までのあいだ、地元観光協会の主催による千頭〜寸又峡間の客車専用列車(すまた号)の運行が試みられていたという情報がある。
ダイヤや運賃設定の有無など詳細は不明だが、森林鉄道としては極めて特異なケースといえよう。(詳細が分かり次第報告する)





それではさらに対象に迫っていこう。
まずは探索開始の地点である沢間駅についてだ。
千頭に較べれば遙かに狭い土地しかなく、交通も不便に見えるこの沢間の地が、巨大な森林鉄道網の「起点」となった背景について探ってみたい。

現在の大井川鐵道井川線の沢間駅は旅客専用の小さな無人駅だが、その起源は昭和6年に大間まで開通した寸又川専用軌道の起点である。
当初の鉄路はここで行き止まりで、千頭方面との物資のやり取りは、奥沢間〜地名(ぢな)〜藤枝(滝沢)を当時結んでいた川根電力索道が請け負っていた。
この索道は元より電源工事の資材運搬収入を当て込んで民間事業者が建設したものであったが、この存在と、帝室林野局に対して補償する必要があった水利権の範囲が寸又川限りであったことが、その合流地点のすぐ下流の沢間を起点とした大きな理由であったろう。

だが、昭和8年(9年や10年説あり)には大井川電力株式会社によって、大井川鐵道千頭駅とこの沢間駅を結ぶ大井川専用軌道(3km)が開通したために、索道の利用は中止され(後に廃止)、寸又川専用軌道の物資は積み替え無しで千頭方面へ運ばれるようになった。
さらに、この大井川専用軌道は昭和10年に奥泉堰堤(現在の大井川ダム)まで延伸されたために、沢間は2つの電力会社専用軌道の分岐駅となった。
そして前者は後に千頭森林鉄道となり、後者は中部電力専用鉄道を経て、現在まで大井川鐵道井川線として存続している。



「RM LIBRARY 96 大井川鐵道井川線」より、
沢間駅にあった千頭森林鉄道0kmポスト
少しややこしいが、上記がこの沢間駅の起源に関わる話である。
これを踏まえると、沢間駅こそ大井川鐵道井川線で最も古い駅(千頭駅開業は昭和6年12月、沢間駅開業?は昭和6年10月である)といえないこともない。

なお、千頭森林鉄道の0kmポストは沢間駅に置かれていたものの、実際の運材列車は全て千頭土場まで中部電力線(井川線)上を直通していたから、外見的には単なる分岐駅に近かったものと思われる。
沢間〜千頭間が、1067mmと762mmの2つの期間が路盤を共有する三線軌条区間であったことはよく知られている。

昭和37年に当地を旅行した記事によれば、沢間駅構内には左写真に示す立派な0kmポストが存在していたという。
これは昭和28年に「森林鉄道保安規定」として林野庁が各営林局に対して告示した規格に則っているように見え、流石は模範的経営を要求された「東京営林局」の、しかも“花形”森林鉄道の起点であったと思わされる。





大井川鐵道井川線 沢間駅


2010/4/19 6:41 《現在地》【路線図】【全体図】 

いよいよやって参りました、千頭森林鉄道41kmの長い長い道中の起点である沢間駅。
今は近くに車を停めて、自転車を降ろし駅へ近付いている。

大井川右岸のさほど広くない緩斜面に点在する沢間集落の下手にあるこの駅への進入路は、川根本町の名も知れぬ町道一本だけである。
そして、この緩やかに下っていく進入路の正体は、千頭森林鉄道そのものだ。
1車線ながら待避スペースもある道幅は、軌道時代から拡幅を受けているだろうが、右の茶畑と画する低い玉石練積の石垣などは林鉄跡らしい感じがする。

朝日に斜めから照らされ、柔らかな陰影を見せるピンク色の駅舎が、私を誘っていた。




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駅前に商店も駐車場も無ければ、バス停も自動販売機も公衆電話も、何もない。
ただレールと駅舎があるようにしか見えないが、実は恐ろしく背丈の低いホームもあったりする。
いかにも「井川線」らしい姿の駅である。

しかも、普通の駅とは「線路」と「進入路」と「駅舎」の位置関係が明らかに異なっている。
普通は進入路と線路の間に、両者を隔てるように駅舎があるが、ここでは駅舎と線路の間に進入路がある。
そのために、車でも何でもまったく邪魔されることなく、そのまま駅の敷地内(ぶっちゃけ線路内にまで)進入できちゃう。
この異常な配置は言うまでもなく、進入路自体がかつて線路であった名残だろう。

なお、林鉄は公式には旅客扱いをしなかったし、この駅舎も林鉄時代からのものであるかは分からないが、ちゃんと軌道跡を避けるように建っている。




うっかりこのアングルで写真を撮るのを忘れてしまったが、沢間駅の構内に立って千頭方を見ると、駅の構外にまで複線の線路敷きが続いていて、その川側に井川線の単線のレールが敷かれている事が分かる。

この【路線図】を見ていただければお分かりの通り、実は井川線と林鉄の分岐地点は沢間駅構内ではなく、そこから300mほど千頭側に寄った所(図中の「沢間分岐点」)であった。

私が駅で見た空き地は、かつての複線(正式には別の鉄道が並行している状態なので「平行単線区間」)の跡なのだった。
そして、この空き地をまるで砂利道のように自転車で走っていくと…。



キター!

というわけで、こんな仰々しい施設が現れた!

洞門のようであるが、この正体は明らかに「ホッパー」である。
鉱山関係の駅やセメント工場の引き込み線などに、かつてよく見られた施設であるが、これらが重貨物が鉄道輸送されることが減った今日、ほとんど残っていない施設でもある。
それがこの沢間分岐点に、廃墟として残っていたのである。

見ての通り、林鉄側のみホッパー内を通行するようになっている。
もっとも、林鉄の建築限界よりもこのホッパーは狭い感じもするし、手前に渡り線を作ることは容易であろうから、林鉄列車が常時ホッパーを通行してわけではないと思う。




数百トンの重量物を蓄積するホッパーだけに、コンクリートの作りは堅牢そのものであり、金属製の「口」の所以外はほとんど壊れていない。

それにしても、予想外の遭遇であったこのこのホッパーの由来が、大変気になる。
「本川根町史」には特に触れられていなかったと思うが、もしこのホッパーが「寸又川専用軌道」のコンクリート材料輸送のためのものだったとしたら、まさに千頭林鉄の起源を象徴する重要な遺構と言えるはずだ。

ホッパー上部にはかなり急傾斜の山林があるだけで、車道は100m以上も離れているが、現役時代には索道などが通じていて、随時材料の補給が行われていたはずなのである。
前説で触れた「川根電気索道」の奥沢間駅(所在地不明)との関連性も気になる所である。




ホッパーを出ると、即座に線路敷きは単線分に狭まってしまう。
振り返ると、カーブの向こうの沢間駅はほとんど見えず、彼我の距離は300mほどと見えた。
やはりこのあたりが「沢間分岐点」と見て間違いないであろう。

なおこれは細かい話だが、先の路線図などを見る限り、この沢間分岐点から沢間駅までの区間については、林鉄側の線路も含めて「大井川専用軌道(中部電力→井川線)」側の所有物だったようである。
そう考えると、あながち「複線」という表現は間違っていなかったのかも知れない。



末端部分から千頭方面を望遠で覗くと、200mほど先に短い落石覆いが見えた。
残念ながら、三線軌条の痕跡は何も残っていないようだ。
この先、千頭駅までの2.7kmの井川線は全国的にも珍しい、林鉄として(も)使われていた線路が現役で活躍している区間と言うことになる。
そこには現在4本の隧道と4本の橋が存在しているようだが、それらが林鉄や大井川専用軌道時代からのものなのか、一部路線の変更があったりするのか、並行する道路が少ないために残念ながら未調査である。
おそらく旧線は無いと思うが…、車窓に気になるものを見付けた人がいたら教えて欲しい。





千頭側から沢間分岐点の分岐方向を望む。

ここからアノ震えるほどに熱いッ!林鉄行脚が始まったのだった。


それにしてもこのホッパー、“あたり”なんだろうか…。




先ほどは敢えて素通りした沢間駅の構内を、改めて「林鉄を辿る」視線から通行してみる。

そこには複線どころか、複々々線くらいの広々とした空間が広がっており、かつてそれなりに栄えただろう分岐駅の姿を空想させるに十分だ。
しかも現在はそこに単線の線路と、遠目には見えないほどに小さく低いホームが置かれているだけであり、当然のように人影もない。

このギャップが面白く、たちまち沢間駅が好きになった。




現在駅のホームが置かれている位置よりも50mほど千頭側に、停車場構内の端を示すと思われる「停車場区域表」と書かれた白地の標柱が立っていた。
そこから続く広い直線部分も駅の構内なのだ。

なお、構内には様々な標柱が林立していたが、残念ながら「前説」で紹介した「0kmポスト」は見あたらなかった。
撤去されてしまったのか、或いは私が見つけなかっただけなのか。
実を言うと探索時点では、そのようなものがかつてここにあったことも知らなかったので、特別に「探した」というわけではなかった。
もし沢間駅に行く人がいたら、改めて探してもらえないだろうか。





改めて沢間駅のホーム。

よく見るとホームは二本あり、川側のものは使われていない。

かつては交換駅だったのだろうが、井川線も業務が縮小しているようである。






分岐する林鉄の線路の分だけ、ホームとの間が離れている沢間駅舎。

いかにも小さなローカル駅らしい外見の木造建築で、待合室はとても綺麗に保たれていた。
高校生が好きそうなコミックも多数。
また、かつては有人業務を行っていたらしく、封鎖された乗車券売り場があった。
一応、改札も。

味わい深い駅だなぁ。




こんな感じで、のんびりと起点の確認は終了。


次回はここから大間へ向けて、軌道跡の探索を開始するであります!