千頭森林鉄道 沢間駅〜大間駅 (レポート編1-3) 

公開日 2010. 6. 1
探索日 2010. 4.19

沢間集落内だけでレポート2回を重ね、まだ500mくらいしか消化できていない。
この調子ではいったいいつになったら「本格的」な廃道歩きが始まるのか…。
今回からは、ペースを上げて進みます。

今回と次回の2回で、【路線図】で「大間駅」のひとつ手前の停留所とされる「大間発電所」まで進みたい。

沢間〜大間発電所間は11.2kmのキロ程である。
基本的にこの区間は「寸又右岸林道」に転用されているので、車道化に漏れた軌道時代の遺構や、当時から著名であったろう地点、風景に絞って紹介したいと思う。

そんなわけで、今回と次回の探索深度はいつもよりも浅いが、本番前の移動中の探索ということでご了承いただきたい。
見過ごしもあろうから、都度ご指摘いただければ幸いである。





井川線との離別 寸又川合流地点


2010/4/19 7:04 《現在地》

ちょうど沢間駅から1kmの地点に来た。
集落からは500m寸又右岸林道を進んだところだ。

ここにある左カーブが、ちょうど寸又川と大井川本流の合流地点に面している。
路肩からは合流地点を見下ろすことが出来、この1kmで15mほど下方に離れた井川線が寸又川の河口部にトラス橋を架け渡している。
対岸の狭い平地には土本駅と土本の小集落が存在している。
遠方に見える別のトラス橋は車道のもので、この先で寸又右岸林道と土本を結んでいる。




この井川線の古風な曲弦トラス橋は「寸又川橋梁」といい、井川線の前身である中部電力専用鉄道が、昭和27年から29年にかけて、それまでの終点だった奥泉堰堤から井川(堂平)まで延伸された際に、路盤改良の一環としてトラス化されたものだ。

それ以前の大井川専用軌道時代に使われていた橋台の痕跡が見えるが、旧橋はいかなる形式の橋だったのだろうか。




寸又右岸林道(現在の名称は「林道寸又線」)は、林業や発電所関連施設への道路と言うだけでなく、化活道路としても使われており、全線にわたって軌道時代からは大幅な改良が施されている。
特に南側(起点側)の2kmほどについては、土本や池の谷(いけのや)集落へ行く唯一の車道であり、1.5車線幅の快適な舗装路である。
それゆえこの区間は、法面、路肩、橋や隧道に至るまで、林鉄時代そのままと思えるものは発見できなかった。
緩やかな勾配とカーブの連続に雰囲気を感じるのみである。




そんな平凡な道になってしまった軌道跡だが、どこかのんびりした営林署の仕事ぶりを今に伝えているのが、ご覧の手製標識の数々である。

全国的に、林道にある標識の中には、微妙にデザインが一般道と異なるものが分布しているが、千頭営林署ではさほど「似せる」事へのこだわりは無かったと見える。
左右どちらの標識も、言わんとしていることは十分に分かるが、“落石”が大きすぎたり多すぎたりと、ちょっと不吉ではある。





横澤橋梁&横澤隧道


7:09 《現在地》

起点から1.2km地点から、本格的な山岳路線の様相を呈しはじめる。
ここにあるのは、寸又川支流の横沢を渡る「横澤橋」と、それに繋がる「横沢隧道」。
いずれも軌道時代の姿ではないが、橋と隧道が直線的に接続しているクリティカルな風景は、これまた鉄道らしいものである。

横沢橋は、その銘板によると、「昭和四十五年参月竣工」であり、寸又右岸林道と同時に竣工したらしい事が分かる。

軌道時代の橋は、昭和6年の寸又川専用軌道時代からの由緒あるトラス橋で「横澤橋梁」といった。
その写真が今も残っている。





「RM LIBRARY 96 大井川鐵道井川線」より

写真は寸又川専用軌道時代に撮影されたと思われる工事列車で、
大ぶりなナベトロや機関車、武骨なトラスブリッジなど、アメリカナイズな風景だ。

これは大間側から撮影したものらしく、対岸の橋台下にあるのは、車道の旧道である(現存せず)。
また、説明文中には「現在も道路橋として…」とあるが、現在の横澤橋は鋼PC混合橋である。




架け替えられてしまった横澤橋だが、旧漢字を用いた銘板や、苔生した親柱など、シンプルながらも、橋の規模に適した装備を与えられている。
特に銘板は黒御影を用いた重厚なプレートで、4枚のうち、後述する理由で行き場の無くなった1枚“よこさわばし”が、千頭側の親柱の脇に“疎開”していた。




その理由というのは、橋の大間側の分岐に関わる線形改良のため、親柱が一本失われたことである。
この分岐を右に行くと、土本集落へ通じている。
軌道跡は直進して、次の「横澤隧道」に進入する。




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横澤橋同様、立派な銘板が備え付けられた横澤隧道。
「昭和四十六年六月竣工」と書かれているから、これまた林鉄の車道化に伴って大規模に改築されたらしい。

おそらく坑門もその際に新築されているのだろうが、上部の笠石や、左右の翼壁の部分は、明らかに年季の入り方が違っている。
もしかしたらこれらの部分は軌道時代のままかも知れない。




おおよそ100mの長さを持つ横澤隧道は、全面をコンクリートで巻き立てられており、照明もあることから、平凡な姿となっている。
道幅は1.5車線と心許ないので、クルマでの通行では離合困難である。




表裏で言えば明らかに裏の表情をしている、同隧道の大間側坑口。

ジメジメとしているせいか、こちらは坑門上各パーツに年季の違いは感じられない。




同地点からは、寸又川の大井川にも劣らぬ悠々たる蛇行を見渡すことが出来た。
流れる水は一見浅そうだが、実際にはとても徒渉など考えられないくらいの水量と勢いがある。
この上流には1000人も住んでいないと思うが、渓相は大河のまだ中流の姿だ。

…川狩りと、電源開発、そして軌道の誕生へ。
千頭を巡る林業史前半のあらゆる場面と、濃厚な関わりをもってきた川だけに、その眺めは感慨深いものがあった。





軌道の痕跡乏しき 閑蔵〜吉木


7:15 《現在地》

起点から2km地点で右に別れる舗装路がある。
それは寸又川対岸の池の谷(いけのや)集落へ続く唯一の道で、同集落には「池の谷ファミリーキャンプ場」がある。
ここは地形図上でも鮮明な河跡地形にある集落で、分岐の200mほど先の林道上から見下ろす景色(右写真)は、隠れ里的な山村であった。
右下には寸又川を渡る「池の谷橋」が写っている。

そして、池の谷分岐の650m先には閑蔵(かんぞう)集落への道がやはり右に別れる。
閑蔵はさらに小さな集落であるが、軌道時代の路線図には、付近(おそらく分岐地点)に「閑蔵停留所」があった。
特に痕跡は見あたらなかったが…。




上記の閑蔵分岐地点の少し手前、対岸谷底の池の谷と、前方山腹にへばり付く閑蔵集落を見晴らす事が出来る尾根上のカーブ外側に、未だ現役の佇まいを見せる立派な半鐘が備えられていた。

何人が鳴らすことも妨げ無しな風体だが、そんなことをしたらたいそう怒られそうだ。
今でも火事があれば、…そういうときだけ鳴らされるものだろうから。

激しく打ち鳴らしたい衝動を、ネコの顔を思い出すことでどうにか抑えて、先へ進んだ。




路線図によると、閑蔵から600m先に吉木停留場が存在した。

現在の地形図ではこの集落へ行く道は描かれておらず、林道から見ても二軒ほどの廃屋が山腹に見えるだけだが、昭和20年代の地形図(右図)では数本の道がや茶畑の記号があり、まだ集落としての体裁を保っている。

そして、この吉木を最後に寸又川筋の集落は大間まで長く途絶え、一層深くなった谷は「寸又峡」と呼ばれる景勝地となる。
もっとも、一般に知られている寸又峡というのは、交通に便利な大間集落周辺だけを指しているようだが。

残念ながら、吉木停留所も痕跡はない。
舗装路盤の下に掻き消されてしまったものらしい。





遂に現れた軌道時代の遺物 ウムシ隧道


7:26 《現在地》

沢間起点よりおおよそ4.5km、吉木停留場から1kmの地点で、道は突如二手に分かれる。

道なりに直進するのが寸又右岸林道で、左へ直角に折れるのが…軌道跡だ。

もう、こんな場所で左に折れると言うことは、…避けがたい。
どうやっても、隧道を避けられない。

これが千頭林鉄関連では最初に現れた、明瞭な軌道の遺構である。
いかにも草臥れた坑門の一部が、カーブの影に見えている。





その名も…


ウムシトンネル!


もう、名前からして怪しさ全開…。
何でこんな名前になったのか?

ちなみに標柱は、寸又右岸林道に埋設されているケーブルが隧道にも埋設されているらしく、その借地標なのだが、堂々と期限切れしているのも気になる。





[ウムシ]という特徴的な言葉の意味だが、これは静岡の方言で「屋根の棟」を指すとのことである。
(参考「指弾、史談 第41号」(←pdf))
したがって地形としての「ウムシ」も、尖った長い尾根を指すのだろう。
はじめ氏 情報提供

次回は、この「ウムシトンネル」の内部から、大間発電所付近まで…






行くよ〜!