2010/4/21 10:47 《現在地》
現在地は、千頭堰堤から2.7km地点。
地形図上には特に地名はないが、昔この寸又川左岸の一帯を「東側」と呼んでいた。古い地形図にはその名がある。
そして、これまではずっと手の届かない山上にあった日向林道が近付いてきた。
わずかな間だが、林道と軌道跡が寸又川を挟んで並行する。
しばらくは楽な水際を歩いていた私も、軌道跡が再び水面との高低差を増やしはじめたのを見て、路盤に戻ることにした。
今回は再び軌道跡歩きだ。
地形図には描かれていない吊橋だが、近付いてみると現役で、しかも新しかった。
アンカーなどは古びているが、最近になって桁を全て架け替えたらしい。
これは予想外の展開。もう延々廃道だけだと思っていたので、嬉しい。
なお、この橋を渡って対岸の斜面を30mほど登ると日向林道に出る。
ここで初めて確実なエスケープルートをゲットした。
次回からは、ここを起点に探索できるという事を知っただけでも、たいへん大きな収穫だ。
これは吊橋から上流をみたところ。
すぐ先に、“大瀑布”と呼びたくなるような豪快な滝が落ちている。
しかしそれは自然の岩盤ではなく、砂防ダムのようなコンクリートの壁を割って流れ出ている。というか、迸(ほとばし)っている。
吊り橋の上にまで飛沫混じりの冷たい風が吹き上がってくるほどで、改めて寸又川の水量に畏怖を覚えた。(そりゃ流されかけるわけだ)
それにしても、この人工的な滝は一体何なのだろう。
単に決壊した砂防ダムというわけではないだろう。
そういえば、手前の方に何かスロープ状に水を導こうとした痕跡がある。
この遺構から思いつくのは、この堰が実は取水堰の跡で、スロープ状の部分は、取水路か或いは魚道だったのではないかという推論だ。
軌道路盤上から堰堤を見下ろす。
落ち口の凄まじい迫力に、吸い込まれそうな錯覚を覚える。
堰の10mほど先の路盤上に、おそらくは現役の水位観測所らしき施設があった。
もちろん無人だが、この施設があるために先ほどの吊橋も維持されてきたのだろう。
また、傍らの木柱には、中部電力という名称と共に、「湯山(発)土砂留堰堤敷」と書かれていた。
どうやらこの堰の正体は、下流にある千頭堰堤への土砂の流入量を少しでも減らすための砂防ダムだったようだ。
もはやこれ以上土砂を留める力は無さそうだが。
しかし、取り壊されたスロープ状部分の存在など、この堰には腑に落ちない所があるのも事実。
それと関わりがあるのかは不明ながら、机上調査をしていてこういうのを見つけた。
左上にこう書いている。
「昭和十年初秋 寸又森林軌道沿線名所図絵」
まずはこのような名称図絵が作られるほどに、当時の寸又峡における電源開発や森林鉄道の存在が、都人士の興味をひいていたという事実に驚かされる。
昭和10年といえば、第二富士電力の寸又川軌道が千頭堰堤上流2.6km地点までの本線と、支線である大間川線の2路線だけで稼働していた時代であり、各種発電関連工事の最中である。発電所が完成して帝室林野局に譲渡されるのは昭和13年末だから、まだ正式には森林鉄道ではなかったはずだが、ここには「寸又森林軌道」と書かれている。
そして、絵図の内容についても大いに興味をそそられる。
残念ながら引用の都合で左側が切れてしまっているが、この切れる寸前の所に「東側堰堤」が、さらに下流の山腹に「東側発電所」の表記がある。
そして、これらはいずれも、現実には供用されなかった施設である。
だが、東側堰堤の描かれている位置は、現在の土砂留堰堤と一致しているように思われる。
なお前記したことと被るが、この絵図は実際には千頭堰堤付近までしか軌道が開通していなかった時代に、将来を見越して描いたものである。
林鉄の隧道の数も、千頭堰堤より下流では比較的正確なのに、上流は無闇に多く描かれている。
もし東側堰堤が実現していたら、軌道は高度を稼ぐためにより高い位置を通行し、今よりも多くの隧道を建設する計画だったのだろうか。
この絵図は色々な想像が出来てとても楽しい。
10:55
瀑音をあとに、再び未知の領域への前進を再開しよう。
土留堰堤のおかげでまた5mほど河床が近付いたので、路盤もどことなく平和な感じ。
千頭堰堤を過ぎて歩き出した最初の辺りに雰囲気が似ている。
踏み跡も少し鮮明だ。
ほんと色々な意味で、東側の土留堰堤は、今回の探索を“リセット”させてくれた。
私の気持ちも、路盤のヘルスも、再訪へのアプローチも、全て良い意味でリセット。
…直前までの状況が、いろいろ悪すぎたわけで。
11:01 《現在地》
土留堰堤から300mほどで、川の蛇行が作った岬の突端に辿り着いた。
そしてそこには、まるで絵に描いたような堀割が待っていた。
30分前に泣きそうになりながら這い蹲っていたのと、同じ道とは思えない風景。
林道と繋がっている吊橋“さまさま”である。
あとはこの平穏がどこまで保たれるかと言うことであるが、既に現行地形図上には描かれていない道であり、先の展開は予想しがたい。
とりあえず、今回の目的地である大樽沢まで行ければ、良しとしたいが。
そういえば先ほどサラリと流してしまったが、第二富士電力時代に開設された軌道は、「千頭堰堤より2.6km地点」までだった。
具体的にその終点に何があったのかということについては特に記録がなかったのだが、今回分かったことがある。
それは、ちょうど先ほどの土留堰堤が、千頭堰堤より2.6kmの地点であったということだ。
第二富士電力がなぜ、千頭堰堤より2.6kmも上流まで軌道を敷設したのか不思議だったが、先ほどの絵図で分かった気がする。
そして今歩いているこの路盤は、帝室林野局に引き継がれた翌年の昭和14年、林鉄が大根沢まで延伸された際の建設だ。
大根沢は【路線図】によると千頭堰堤の10km先、今向かっている大樽沢からは6km先だ。
路肩を豪快に固めている、コンクリートウォール。
先ほどまでは見られなかった工法で、これも建設時期や施工者の違いによるのかも知れない。
たわわな “おっぱい” をくぐっていく。
11:05 《現在地》
土留堰堤から約600m。
前方に、“なにか”見えてきた。
旧版地形図によると、そろそろ千頭堰堤以来最初の本流架橋があるはず。
なお、600mにかかった時間はわずか8分ほど。
舗装路を歩くのとさほど違わないペースで進めたことになる。
順調すぎて、きもち悪い。(が、嬉しい)
デレッ!
さっきまであんなにツンツンしていたのに、コロッと デレたッ!
こんなに容易く橋を見せるなんてッ!
素直に嬉しい。
現れたのは、3径間の橋。
第1径間はコンクリート桁橋で、残る2径間が立派なプレートガーダーである。
第1第2径間間は、20度近くも屈曲している。
現在は桁の上に枕木が敷かれ、さらにその上に踏み板と、片側だけ木製の手摺りが設けられている。
人道橋に転用されているわけだが、手摺りや踏み板はだいぶ老朽化が進んでいる。
このまま放置されば、10年以内にまた廃橋に逆戻りだろう。
黄金セット!
デレ〜ッ! と出て来たのは、
橋だけじゃなかった!
橋を渡るとそのまま隧道というという、至極のシチュエーションが待っていた!
しあわせ〜だにゅ〜。
←
必要十分な板敷きがされ、何の不安もなく渡ることが出来る。
枕木のように敷かれているのも、当時のものではないと思う。
間隔が広すぎる。
→
橋上から、上流方向を俯瞰。
かつて何らかの計画変更により、辛うじてダムへの水没を免れた渓谷であるが、それを感じさせない悠久の風景だ。
寸又川をこの軌道が渡るのは千頭堰堤以来はじめてで、全線を通して2度目である。
うっふふふ。
次は隧道なんだぜ。
でも、その前に、右の空き地が俺を呼んでるんだぜ。
そこには大量の枕木が山積みされていた。
おそらく廃線後に撤去されここに集められたのだろうが、再利用されず放置されている。
そして、半ば土に還っている。
だが、私はこの大量の廃材のなかで、同じ色をしながら全く異質なものの存在を、見逃さなかった。
こっ、こいつは?!
しかも、お土産まで!
(って、持ち帰ってないけどね…笑)
ここには色々なものが捨てられていて、林鉄撤去工事の拠点だったのかもしれない。
レールとレールを繋ぐためのタイプレート。
レールを枕木と固定するための犬釘(未使用かと思うくらい綺麗!)。
タイプレートとレールを串刺しにして固定するためのボルト(たぶん)。
用途不明の巨大なボルト?
…そういったものが色々と。
ヒルが怖くて漁らなかったが、落葉を掻き分けたら他にも色々出て来そうだった。
スポンサーリンク |
ちょっとだけ!ヨッキれんの宣伝。
|
さあ、すばらしき橋梁に
別れのキスを…。
そんな気持ちで橋を振り返った私は、うっかり大切なものを見逃しかかっていたことに気付いた。
第3径間(手前)の側面に取り付けられた、橋梁銘板だ。
あぶないあぶない。至急橋の上に戻って、銘板チェックに。
つうか、この橋…
かわいいなぁ。
右が中央の第2径間で、左が右岸側の第3径間。
左右の桁の大きさの違いを、橋脚上面に掘られた段差が吸収している。
なお、第2径間はプレートガーダー(鈑桁)であるが、第3径間は似て非なる「 I ビーム桁」のようだ。
銘板が取り付けられているのは、I ビームのほうである。
銘板。しかしこのままでは読みにくい。
私自身の確認を兼ね、ここで外見的に似ている プレートガーダーと I ビーム桁の違いを書いておく。
前者は、溶接やリベットなどで鋼材を組み合わせて桁としたもので、後者は鋼鉄を機械で圧延して一気に桁の形に成型したものである。
いずれもわが国では、明治以来の鉄道用桁として、長い歴史を持っている。
銘板が近くで見たくて、橋から橋脚の上へ降りてみた。
自殺したいわけじゃないのに、橋から身を乗り出す行為は、微妙な背徳感を伴うなぁ。
そして銘板を見るずが、現在は使われていない橋脚が第3径間の真下に建っているのを見つけてしまった。
これは、同位置に架けられていた旧橋の名残ではないだろうか。
高さが低いが、この上に木製橋脚を立てたのかもしれない。
ようやく2人きりになれた、銘板ちゃん。
ここに最初に林鉄が敷かれたのは昭和14年であるから、やはりこの第3径間は架け替えであることが分かる。
逆に第1第2径間は銘板が見あたらないので、当初からのものであったかもしれない。
内容的に疑問符が付きそうなのは、「FRS−5」だと思うが、これは…
昭和28年に林野庁長官より全国営林局に通達された「森林鉄道建設規定」は、従来各営林局ごとに独自の規定を設けて建設していた森林鉄道の規格統一を規定した。
森林鉄道1級線2級線それぞれの路盤規格、建築限界などが規定されており、活荷重については右図のとおりであった。
つまり、「FRS−5」とは、2級線のなかでは上等の規格と言うことである。
詳しい数字は図を見て欲しい。
(なお1級線と2級線の違いは、蒸気機関車が入線できるものが1級、そうでないものが2級というのが原則で、戦後はほとんど1級線の新設はされなかった。)
次回は、この隧道をくぐって大樽沢へ。
まったく想定しない光景が、私を待っていた。
お読みいただきありがとうございます。 | |
当サイトは、皆様からの情報提供、資料提供をお待ちしております。 →情報・資料提供窓口 | |
このレポートの最終回ないし最新回の 【トップページに戻る】 |
|