薄暗い屋内に入ると、そこは埃と木の発酵したような匂いが満ちていた。
あまり経験したことのない、木造廃屋の匂いだ。
同じ“屋根のある廃”としても、廃隧道とは全く別種の匂いである。
玄関を入ると、即座に木敷きの廊下が左右に同じくらい伸びており、正面は下りの階段。靴脱ぎ場はない。
すでにここは地上三階の空中であるわけで、床が抜ければ一大事。
でも、足元はギシギシ軋むけれども、まだ腐っている感じではない。安心して踏み込む。
私はまず、廊下を右に歩き始めた。
こちら側には部屋が一つあり、廊下の行き止まりには掲示板と小さな棚が置かれていた。
先ずはここをチェックする。
掲示板…というか、壁に油性ペンや白チョークで直書きされていた。
この建物の利用者にとっては、継続的に重要な内容であったのだろう。
部外の人間である私には、この文字列が何を示しているのか分からない。
だが、よく見ると“モールス符合のようなもの”と地名の組み合わせのようではある。
例えば、「大根沢」(←路線図)や「大樽」(←現在地?)、「エンテイ」(千頭堰堤のことか?)などは、明らかに地名だ。
信号を送る機械と言えば「電信機」が考えられるが、下の棚にそのような機械は見あたらない。
符合表はもう一枚あった。
カーソルオンで各地名を拡大表示するが、千頭森林鉄道と関係の深そうな地名が並んでいる。
この大樽沢を起点に支線が伸びていた「逆河内」や、千頭貯木場のことと思われる「千頭木材」など。
ここで頭をよぎったのは、林鉄の“閉塞”を電信で行っていた可能性だ。
林鉄の線路沿いに電信線が敷設されているのはよく見る光景で、これが区間区間での電話機を使った閉塞を可能としていた。
「こちら●●沢、いま下り発車」「了解」みたいなやり取りが行われていたのである。
電話で出来るのだから、より簡易な設備で済む電信で行っていたとしても不思議はないと思った。
だがこの可能性は、少し後の別の発見で、ほぼ消えた。
棚には、見たこともない電池が3つ置かれていた。 【大きな画像】
ナショナル製の「HYPER DRY BATTERY」、型番は「FM5」、定格3Vらしいことがパッケージから分かる。
上部には電極が2つ見えており、「ドライバッテリー」という名前の通り乾式の蓄電池らしい。
調べてみるといまでもドライバッテリーは生産されているようだが、家庭の中にあるものではなくなっている。(ここを見ると、現在も生産中?)
側面に書かれた用途には「通信用、電鈴用、電話用、灯火用」などと並んでおり、隣に掲示されたモールス符号表とともに、通信機械の存在を伺わせる。
余談だが、薄暗い廃屋の棚で電池を見つけたときには、こんな“画面”が脳内に再生された(笑)。(有名なTVゲーム「バイオハザード」のアイテム取得画面)
もちろん実際には、液漏れが怖いので電池に手は付けていない。
廊下の行き止まりから左を向くと、部屋がひとつある。
そこには、どうやって入り込んだのか、入口より大きな枯れ枝が置いてある。
誰かが意図的に持ち込んだとしか考えられない。
部屋の二方に大きなガラス窓があり、ガラスもほとんど割れず健在だ。
中でも奥の窓は川に面しており、そこから差し込んだ日射しが、埃の溜まった床に仄かな影を作っていた。
もちろん川の音も聞こえる。
廃屋でありながら、心地よい空間だった。
そしてこの部屋には、止まった時を強く意識させる遺物があった。
ダイヤルもプッシュボタンもない電話機。
その代わり、側面には手回しのハンドルが付いている。
これが話に聞いたことのある
「手回し電話」というやつなのか。
裏返そうとして持ち上げると、あまりの重さに落としそうになった。
そこには、「磁石電話機」の文字と共に、「1961」の表示も。製造年だろうか。メーカーは「沖電気」である。
電話が置かれているのはこの部屋の入口付近だが、受話器が乱暴に散らかっているところを見るに、本来は先の廊下の棚にあったのだと思う。
そして先ほどの符合表の謎も、電話機と組み合わせると解ける気がする。
これは一般回線の電話ではなく、営林署の専用回線を用いた電話だったと思われる。
一般的な磁石式電話(手回し電話)の通話手順は、最初に手回しダイヤルを回して電話交換所を呼び出す。
次に受話器を上げて、交換手(オペレータ)に通話相手の番号を伝えて、繋いで貰った。
しかし営林署の専用回線電話の場合、交換所に何らかの方法で通話先に対応した信号を送ると、無人で繋がるような仕組みがあったのだと想像出来る。
…以上のことは、大いに間違っているかも知れない。
営林署の電話についてご存じの方がおられれば、是非ご教示いただきたい。
磁石式の呼び出し符号は手回しで発信する」ということだから、
川べりの窓から、山水を愉しむ。
この写真だけなら、風流をウリにする温泉旅館一室のワンショットにも見える。
でもここはそんな風流とは本来無縁である、営林署の宿舎(らしい)。
自転車がなければ、半日がかりでようやく辿り着けるような山奥の一軒“廃”宿だ。
居心地が良いこの部屋だが、罠がまるっきり無いわけではない。
なぜか部屋の一角の床板が外され、2階の一室が見下ろせた。
そればかりか、2階の床にも同じ位置に穴があり、1階まで見通せるのである。
不注意に寝返りをうつとまずは2階に転落し、その中でも特に不運な人は1階にまで落ちれるという、ホットな“仕組み” だ。
一体何のために?!
ちなみに、いま居る部屋を外から見ると、ここだ。
間違いなく3階部分だ。
平らな地面が隣にこれだけあるのに、あえてその外に建物を造ったのは、
平場は全て路盤で、収まりきれないくらいの軌道が敷かれていたからだろう。
林鉄の華やかなりし時代を彷彿とする。
電池に電話に、謎の掲示物、美しい一室。
これらの収穫物を得た私は、続いて入口から見て左側の2室を捜索することにした。
階段は素通り(写真の暗くなっているところが階段)だ。
“R.P.G”の基本は、いまいる階を総当たりで探索し、必要なアイテムと情報を全てゲットしてから階を移動する。
そうしないと、ボスはまず倒せない。
廃墟探索に関してはなんらセオリーを持たない私は、このなつかし過ぎる“攻略法”に拠るしかなかった。
“*だれもいない なにもない”
最初の部屋より一回り狭い部屋で、一部に畳が敷かれている。
窓は全て健在なので、吹き込んでいる落葉は、玄関からのものだろう。
押し入れの中を含め、特に何も見あたらなかった。
隣の部屋へ移動する。
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隅の部屋も広さは隣と一緒で、違いは押し入れが片方にしかないことだ。
3つの部屋の中では一番清潔な感じで、窓ガラスも完璧。
風の吹き込みも感じない。
床を箒でひと掃除すれば、住んでもいいと思えるくらいだ。
だが、この部屋には他の部屋にはない、人間のある営み を匂わせる濃厚な遺物があった。
それは…
部屋の至るところに貼られた、大量のポートレート。
全て外人女性の姿であり、ヌードも少なくない。
部屋は、甘酸っぱいアダルトに満ちていた。
部屋の主は、お世辞にも慣れた筆致とは思えない英語のスペルを壁の数箇所に残していた。
「THEROLLINGST〜」「PrintedinJa
Pan」
どちらも、中学校の机の落書きを匂わせる…。
中学校の机…
性のはけ口をまだ知らない、若人のほとばしり…
セミアダルトの幻想は、壁に掲げた大きなセミヌードモデルを習作として、
何か得体の知れないイラスト に結実していた。
豊満な乳房と股間のそれぞれから垂れた汁が、満足げな表情を浮かべる2人の男性の顔面に注ぐ。
私のアダルトとしての理解力が足りないのか、趣旨はよく分からない。
ただひたすら、濃い。
“萌え”に己のファンタジーを仮託する術が開発される以前の、ただただ濃厚なエロスである。
…この部屋は、よごれんさんに捧げたい…。
押し入れの扉にも、沢山のヌードモデールが。
剥がれた跡も多いが、床は綺麗だ。
主は、気分や季節ごとに貼り替えるという手間を惜しまなかったのだろう。
そもそもこの建物の正体だが、資料的な回答は得られていない。
しかし、おそらくは林業従事者が長期間寝泊まりする、宿舎であったと思われる。(当時山奥の事業地で働く人々は、日曜日のみ下山して家族と暮らすのが一般的だった)
山の夜は酒やエロだけが楽しみだったと言うは易いが、私には甘受しがたい。
軟派なムードに支配されたこの部屋も、暗い押し入れの中には山の男が隠れていた。
一升瓶の空き瓶に、この鉄の器具。
間違っても健康器具などではない。
私には持ち上げることも出来ない鉄の器具は、なんだろう?
前にどこかで、或いは何かの資料で見たことがある感じはするのだが、思い出せない。
思い出した!
この器具は、
ジムクローだ!
だいぶ昔に「管内国有林の運材法」という本で見たっきりだったが(右画像)、これは林鉄の保線に使う道具の一つで、レールを自在に曲げる事が出来る。
これを使ってレールを必要な形に修正し、路盤に敷いていたのである。
やべぇものを紹介したかもしれん…。
とても重い道具なので持ち出すことは出来ないと思うが、林鉄で使われていた“生ジムクロー”とは貴重品。
ちゃんとした場所に展示しても良いくらいだ(ろう)。
この廃屋、やっぱりやべぇ。
林鉄の時代がそっくり残ってるっぽい。
これをもって3階の探索は終了。
玄関正面にある下り階段で2階へ。
…思いがけずに長くなったので、この「最終回」も “2回” に分けることにする。
突き当たりに見える立て札がまた、逸品だった…。
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