廃線レポート 白砂川森林鉄道 導入

公開日 2023.11.05
探索日 2021.05.15
所在地 群馬県中之条町


白砂川しらすながわ森林鉄道を、ご存知だろうか。

ここは全国に累計1200路線以上も存在していた国有林森林鉄道の中にあって、特に情報が少ない路線の一つである。
試しにこの路線名でネットを検索してみて欲しい。この回を執筆している時点では、私が今回の探索の出発地点とした“典拠”以外のヒットは皆無(無関係の内容)であった。

この路線は、なぜこれほどマイナーなのだろう。
よほどアクセスに恵まれない僻遠の土地に孤立していたのだろうか。
それとも、非常に規模が小さくて、探索者にたまたま発見されたり、その興味を引くことがなかったのだろうか。
あるいは、極端に存在した期間が短かくて、あらゆる人々の記憶に残らなかったのだろうか。

私はこれら全てについて「ノー」と言いたい。
まず立地だが、関東地方にある。それだけでもう極端な僻地ではないといえる。
続いて路線の規模だが、まもなく紹介する“典拠”によれば、全長10kmに迫る林鉄としては中堅規模の長さを有していた。
そして存続した期間だが、これも“典拠”によれば、昭和時代におおよそ20年間存続しており、これも林鉄としては短くない。

このように、立地、規模、期間のいずれも“普通”であったこの林鉄が、今まで非常にマイナーだった理由は、大きく3つあると思う。
第一は、森林鉄道ファンの多くがバイブル的に利用する西裕之氏の『全国森林鉄道』巻末の「全国森林鉄道リスト」に未掲載であること。(理由は後述)
そして第二に、歴代の地形図に全く記載されなかったことである。
最後に第三の理由として、これは探索本編の内容とも深く関わるのだが、この路線は周辺の道路から観察しづらい場所に存在していた。




前置きはこのくらいにして、内容に入っていこう。
まずは、私がこのマイナーな森林鉄道を知ったきっかけである“典拠”を紹介する。

戦後の国有林森林鉄道全ての運営者であった林野庁のサイトに「森林鉄道」というページがあり、戦前の帝室林野局管轄の路線を含め、かつて存在したことが資料から裏付けられた国有林森林鉄道のリストを、「国有林の森林鉄道の全路線」と「国有林森林鉄道路線別概況」という2つのPDFファイルとして令和元年頃から公開している。内容は時折更新されており、現在公開中の最新版はいずれも令和3年10月1日版である。

そしてこれらの資料に、私は白砂川森林鉄道の存在を初めて見つけた。それが探索のきっかけだった。


林野庁サイト「国有林の森林鉄道の全路線」「国有林森林鉄道路線別概況」より

これらの“典拠”の内容(上図)をまとめると、私が白砂川森林鉄道と呼称している路線の正式名は白砂川林道といい、前橋営林局草津営林署(現:関東森林管理局吾妻森林管理署)が管理していた2級森林鉄道で、全長9337m、昭和13(1938)年開設、昭和32(1957)年廃止である。
路線概況として、「吾妻川支流の白砂川沿い、六合村大字入山字引沼付近を起点に、白砂川沿いを三浦国有林まで溯上。」という内容が記録されている。

まずポイントは、廃止がやや早いことだ。昭和32(1957)年廃止ということで、これが原因で『全国森林鉄道』巻末の全国林鉄リスト(その元となっているのは「昭和35年3月31日現在全国森林鉄道一覧表(『汽車・水車・渡し船』 所収)である)からは漏れたことが分かる。また、廃止が早いことは、現地の遺構の現存度や廃線跡の荒廃具合を考えるうえでの大きな不安材料だ。

なお、最初この“典拠”の情報に接した時点では、それがどこにあるのかということが、全くピンとこなかった。
そもそもこんな路線があったことを全く知らなかったので無理もないことだが、その「知らなかったこと」に興味をひかれた私は、この全長10km近い未知の林鉄がどこに隠されていたのかを積極的に調べ始めたのである。
この時点で初めて路線名をネットを検索したが、森林鉄道に言及した記事は全くなく、この林野庁の林鉄リスト公開までは、ネット上での言及が皆無な路線であったと推測された。

続いては、この謎の路線の在処を地図上に推測し、探索計画を建てるまでの流れを紹介しよう。

まずは、路線名でもある白砂川がどこを流れているかだが、群馬県北西部にそれはある。
そしてここまでは私にも心当たりがあった。以前行った国鉄太子線の廃線跡探索で、白砂川流域を訪れたことがあったのだ。

白砂川は、利根川の支流である吾妻(あがつま)川最大の支流である。

三国山脈の名の由来である群馬、長野、新潟の三県(国)境に聳える白砂山(2140m)付近より群馬県側へ流れ出し、深いV字谷の白砂川渓谷となって中之条町の六合(くに)地区(=旧六合村)を貫流、草津温泉より流れ出る強酸性の湯川を合わせつつ長野原町で吾妻川と合流するまで、流長約21kmを持つ一級河川だ。

流長のおおよそ南半分は、渓谷の沿川にいくつもの集落が点在し、それらを経由しつつ長野原と野反湖を結ぶ国道405号が川に並走している。かつて太子線があった(昭和20〜46年)のも、この範囲のさらに一部だ。そしてこの範囲内に森林鉄道が隠されていた様子はない。

おそらく白砂川林鉄があったのは、国道が白砂川沿いから遠く離れ、同時に一切の集落も沿川より消失してしまう、この川の北半分であろう。
そして、前述した林野庁のリストに見られた「六合村大字入山字引沼付近を起点に、白砂川沿いを三浦国有林まで溯上」という所在地に関する唯一のヒントにある「大字入山字引沼」が、北半分の入口にあたる位置にあることを地図上から確認した!

なお、現在は源流から長野原の吾妻川合流までを白砂川と呼称するが、昭和41年の改称までは、白砂川は源流から引沼までの呼称で、それより下流は須川が正式名だった。この事実も、白砂川と称する森林鉄道が引沼より下流にはなかったと考える傍証になる。

起点の位置がだいたい絞られた一方で、終点とされた「三浦国有林」という地名は、地形図や道路地図などに見つけることは出来なかった。だが、全長が9337mと判明しているので、とにかく引沼の起点から9kmほど廃線跡を溯上して辿り着いた場所がその三浦国有林なのだと判断はできる。

というわけで、右図のチェンジ後の画像のように、白砂川林鉄は入山(引沼)から白砂川上流へ向かって伸びていた路線であろうと推測した。


……推測はしたが、これだけで秋田の自宅から遠く離れた現地へ探しに行くのは無謀というか、勇気がありすぎる。
それで私は、次に自身の推測を裏付ける作業を行った。

@
昭和27(1952)年
A
昭和34(1959)年
B
地理院地図

まずは、この林鉄の擬定地としたエリアについて、右図のような歴代地形図をチェックしたのであるが……。
(画像左下に起点とされた「引沼」の地名が見える)

先ほども少し言及したとおり、この路線は歴代の地形図に一度でも描かれたことがない!
そもそも、地形図に描かれていたなら、とっくに探索者の目にも留まっていたはずである。

昭和14年から32年まで存続していたらしいが、昭和27年版には影も形もないし、廃止直後の昭和34年版も同様だ。そして、最新の地理院地図についても、私がこの辺にあったのではないかと推理したエリアのどこにも廃線跡を窺わせる徒歩道などの表記は見当らなかった。

本当に、影も形も見られなかった……。


ならば次の手だ。
情報公開が進んだ現代では、数十年前のオブローダーが足で稼がねばならなかった稀少な資料の中にも、家にいながら読めるものが沢山ある。
最近の私が林鉄や林道の探索で愛用しているのが、これまた林野庁が公開している国有林の森林計画図である。ここでは全国の国有林内の林道や歩道の位置を網羅した国有林野施業実施計画図という縮尺20000分の1の地図が公開されている。

今回探している白砂川流域の地図もあり(PDF)、それをよくよく眺めてみると――。(↓)

これはーっ!!!

地形図には一度も道が描かれたことがない引沼より上流の白砂川左岸沿いに、

「白砂線」と注記された1本の「歩道」が延びている!

それも等高線にあまり逆らわない経路であり、いかにも林鉄跡っぽく見えた。
途中で途切れているのは、国有林ではない部分の表現が空白になるせいで、おそらく道自体は続いているだろう。

図に描かれている歩道「白砂線」の全長は、空白部分を入れても5kmほどと林鉄の全長には足りないが、
これでいよいよ、引沼から白砂川の左岸を上流に伸びる廃線跡の実在が強く推測される状況になった。


ここまでの事前調査で、廃線跡の一端に触れるための最低限の情報は集まったが、現地探索のスケジュールが決まるまでの期間も机上調査を続け、さらに以下に述べるような情報を収集した。

まずは、『国有林森林鉄道全データ』シリーズの著者である矢部三雄氏(前東北森林管理局長)より、同書のフォーマットで編集された白砂川林鉄の沿革データのご提供をいただいた。(前橋営林局分は未刊行である)
主に各営林局が保管していた林道台帳からまとめられたその貴重な内容を以下に全文転記する。

白砂川林道 (しらすながわ) (軌道→森林鉄道2級)
・昭和13年度大字入山字引沼から字三浦国有林17林班い小班までの4,377mを新設。
・昭和14年度480mを延長開設。(4,857m)
・昭和15年度昭和14年度開設の牛馬道100mを改良編入、897m、1,071mを延長開設。(6,925m)
・昭和16年度2,412mを延長開設。(9,337m)
・昭和24年度4,960mを廃止。(4,377m)
・昭和28年度704mを廃止。(3,673m)
・昭和32年度全線を廃止。(0m)

この矢部氏のデータにより、これまで判明していた「全長9337m、昭和13年開設、昭和32年廃止」という全容に大幅な肉付けがなされた。
まず、多くの林鉄の例に漏れず、10km近い路線の開設は数年を掛けて徐々に行われており、廃止も同様であった。
特に、全長の半分以上の4960mもの区間が昭和24年度という早い時期に廃止されていたことは、この区間の保存状況にさらに大きな不安を抱かせる内容だ。
また昭和13年度時点の終点が「三浦国有林17林班い小班」と相当詳しく言及されているのだが、残念ながら前掲した現行の「森林計画図」の林班は改定されているようで対照はできなかった。



『群馬県地下資源調査報告書 第3号』より

さらに、国立国会図書館デジタルコレクションを検索したところ、この林鉄の存在に言及した文献を僅かながら発見できた。
それは昭和28(1953)年に発行された『群馬県地下資源調査報告書 第3号』という文献である。

同書は群馬県内の未開発にある地下資源の現地調査報告であり、硫黄や鉄鉱など様々な地下資源を豊富に賦蔵する旧六合村でも多くの調査が行われた記録がある。
その調査箇所をまとめた手書きの地図(右図)には、矢印の位置にはっきりと軌道の記号が描かれていた!
略図ではあるが、初めて現役当時の軌道が描かれた地図を発見したのである。そしてその位置は、前述した森林計画図に歩道「白砂線」が描かれていた位置とも一致して見えた。

さらに各調査地を紹介する本文中にも、次のような軌道に関する言及があった。

引沼の農協事務所前には、白砂川の奥から営林署の林産物搬出用軌道がきているので、これから奥地の開発にはこれの利用も考えられる。

『群馬県地下資源調査報告書 第3号』より

これにより、引沼にあるとされていた軌道の起点が、具体的には引沼の農協事務所前にあったことが分かった。それが具体的にどこであるかは、さすがにPC作業では分からなかったが、現地でこのキーワードを使って聞き取りなどを行えば、起点を詳細に特定する役に立つはずだ。

そしてさらには、探索欲を大いにくすぐる内容も飛び出してきたぞ!(↓)

六合村の葦谷地(Yoshiyachi)とは、花敷温泉の北東部に当り、白砂川に沿ってトンネルをくぐって3Kmほど登った左岸(南岸)の地名である。ここには営林署の軌道が通じていて、歩行及び物資の運搬には至極便利となっている。高距は海抜900m余の場所で、引沼部落との高さの差は100mを越えない。

『群馬県地下資源調査報告書 第3号』より

なぬーっ!! トンネルだってーーっ!

前掲の手書きの地図にも「葦谷地」の地名が確かにあり(矢印の位置)、そこを軌道が通じている。なお、歴代の地形図にこの地名は見られない。
引用では省略したが、この葦谷地でも引沼地区と同様に褐鉄鉱の露頭が発見されているとのことで、開発は有望と評価している。
そしてこの葦谷地への径路として、「(引沼から)白砂川に沿ってトンネルをくぐって3Kmほど登」るとある。おそらくこれは軌道の路盤を歩くことを言っており、おそらくは引沼に近い位置に軌道が潜るトンネルがあったと読み取れるのである。 ……地図には描かれていないが…。

これは、現地がますます楽しみだ!




――といった辺りが、この全く未知の状況から始まった白砂川森林鉄道の現地探索前に行った、事前の調査の流れである。

そして待ちに待った現地探索を、令和3(2021)年5月15日に単独で行った。

私自身、心底先が読めない軌道跡の探索に挑んだ、恐ろしくも貴重で楽しい機会となった。

それでは、現地探索編へバトンタッチだ。




 〜探索前日夕刻の偵察〜


2021/5/14 18:01 《現在地》

やって参りました。
現地へ。

ただし、今から行うのは偵察だ。
探索予定日は明日の5月15日だが、今はその前日14日のまもなく日没という時刻である。
最初からそのつもりだったわけではないが、前泊のための現地入りが少し早くできたので、もう30分ばかり残された明るい時間を有効に活用するために車から自転車を降ろして探索の準備をした。

今から偵察と称して、明日の最初の行程となるはずだった軌道跡とのファーストコンタクトを図ろうと思う。
具体的には、私が事前の机上調査で「ここに軌道跡があるはずだ」と考えた最寄りの場所へ実際に踏み込んでみる。
もしも、そこに軌道跡らしいものが全くなければ、明日の計画は一気に振り出し以下へ逆戻りとなってしまう不安があるが、そうなるにしても早いほうがマシであろう。

というわけで、行動スタート。
まず、目の前にあるこの橋だが、これは国道405号が白砂川を渡る橋としては最も上流に架かる白砂大橋である。観光などで野反湖を訪れたことがある人なら、全員が渡っているはず。国道はこの橋を境に白砂川沿いを離れて、人造湖らしからぬ風光豊かな山上の湖へと上り詰めていく。
この場所から、偵察探索を始めるぞ。



先に偵察の内容を地図上で説明する。

左図は、冒頭の導入の復習となるが、国有林の森林計画図に描かれた歩道「白砂線」の位置を青色に着色した図だ。
この道こそが、かつて存在した白砂川森林鉄道(白砂川林道)の軌道跡だというのが、私の読みである。

そしてチェンジ後の画像は、森林計画図上の歩道「白砂線」の表示を残したまま、地理院地図を重ねて表示したものである。
歩道「白砂線」は国有林内にしか描かれていないため、その外にある起点周辺には軌道跡らしい道の表記はない。ただ、起点は「引沼の農協事務所前付近」にあったという情報があり、その大まかな擬定地を青い○で表示した。

一方、終点は国有林内だったと思うが、その位置を推測する根拠は今のところ起点から9.3km地点だったことくらいしか分からないので、だいたいその辺と思う適当な位置に○を付けている。




そしていま問題としているのは、起点近くの軌道跡だ。
右図は、地理院地図の起点付近を拡大したものである。

画像の青線の位置に、森林計画図に描かれた軌道跡とみられる道があった。
その最寄りである“西端”は、「現在地」である白砂大橋から僅か200mほど東の白砂川左岸にある。
ただ、繰り返しになるが、軌道跡はそこから急に始まっているわけではなく、さらに下流の起点方向へ続いていたはずだ。国有林の外であるため森林計画図に描かれていないだけで。

チェンジ後の画像に赤い破線で描いたのが、その軌道跡を想像した位置である。
これはいよいよ根拠の薄い想像のラインであるが、大胆にも1本の隧道を国道の白砂トンネル(昭和28年竣工、42年改修、全長112m)上部に描いてみた。
この辺りに隧道があったのではないかという想像の根拠は、これも導入で紹介した文献である。

これらの推定軌道跡(青線)と想像軌道跡(赤線)を念頭において、「現在地」から健康保養施設「バーデ六合」(令和5年8月末に閉館、探索時は健在)へ登る町道を辿ることで、軌道跡が町道と交差する地点を確かめるのが、偵察の内容だ。どこかで交差しているはず。
ここで軌道跡への最短進入路を確保して、明日の本探索をスムースにスタートさせたい。

偵察開始!



これは白砂大橋上から白砂川の上流方向を撮影した。

橋下の川は深く水を湛えた湖面となっているが、これは発電のための取水池があるせいだ。
湖としての名前は持たない小さな水域だが、探索の自由度を狭める存在としては、なかなか厄介だ。しかも、両岸の地形は見た目にかなり険しく、軌道跡へアプローチすることを物理的に難しくしている予感がする。

私の推理では、軌道跡は、向かって右側の岸の水面から30〜40mも高い位置にあると思う。
とにかく、かなり高い位置と推理している。
そのため水没の心配はないが、険しさが心配である。

チェンジ後の画像は、軌道跡があると思われる辺りを望遠で覗いた。
が、樹木が繁茂していてそれらしいラインは全く見えなかった。
季節が、ちょっと悪いな。



18:08 《現在地》

白砂大橋の袂にあるこの分岐を、「六合温泉医療センター」「バーデ・六合」の看板の案内に従って入る。

入ると直ちに結構急な上り坂で、とりあえずこの道そのものが軌道跡という“最短の解”では無さそうだった。




1.5車線の坂道を登りながら、右と左を交互に何度も観察した。
道から左を見下ろすと、白く光を反射させる水面が20mほど下に静まりかえっている。道と水面の間は樹木が茂る斜面で、軌道跡らしい平場は見えない。

チェンジ後の画像は、道から右の斜面を見上げている。
私の想像だと、この視界の中を軌道跡が横断していると思うのだが、とりあえず明瞭なラインは見えない。地形的にはあっても良さそうだが、笹が生い茂っていて、遠目には軌道跡のような微地形は隠されてしまっているかもしれない。



18:11 《現在地》

入口から150mほどで切り返しのカーブに辿り着いた。

ここが事前に想像していた軌道跡と町道の交差地点であるが、周りを一通り見回してみても、この町道の周囲にそれらしい分岐や平場の痕跡は見つけられなかった。

少しだけ焦るが、ここで交差するというのはあくまで私の軽い想像に過ぎない。
ここまでに見落としはなかったと思うので、さらに町道を進んで軌道跡との交差がないかを調べよう。

前進継続!




切り返した先は、さらに勾配を増して道は上っていく。
もともとの地形を活かした道路だと思うが、道全体が掘り込んだ沢底のようなところにあり、その沢底の傾斜のままに登っていく。
そして登り行く先の空が明るく開けている。地図によれば、そこに一連の大規模温泉保養施設があるようだ。

チェンジ後の画像は、道から左の斜面上を見上げて撮影した。
いままでの場所に軌道跡がないなら、この方向の斜面上になければならない。
というか、あって欲しい!

が、見えない。
無いから見えないのか、有るけれど見えないのか…。
薄暗くなってきたのもあって、偵察が辛くなってきた。(今日このまま見つけられず車中泊を迎え、明日の探索へ出発するのは、気持ちの面でキツいな…。)



18:14 《現在地》

入口から約300m進むと開けた場所に出た。
ここまでで国道から約30m登っており、白砂川の水面からは40m〜50m高い位置である。
右は保養施設の敷地で、いかにもそれらしいコンクリートの建物が建ち並んでいる。
道はここで分岐し、施設へは直進だが、私は左後方に分れる道へ進むことにした。

チェンジ後の画像は、分岐からその左後方へ向かう道の行く手を撮影した。
道の先は直ちに砂利敷きの広場になっている。施設の駐車場は別に有るので、謎の広場という印象だ。




広いな、この砂利敷きの広場は…。明らかに、人工的に均された土地だ。

もしかして……林鉄と関係した土場の跡(起点?)……だったりしないだろうか。
少し期待する。せざるをえない! ぶっちゃけこの場所が収穫無しなら、今日の偵察はもう時間切れである。下手に偵察をしたせいで、明日のスタートを重い気持ちで始める羽目になるのは、キツイ…。

そしてここが林鉄の土場跡だとしたら、路盤はここから奥方向へ繋がっているはず。
噛みしめるように、砂利広場の奥へ向かうと、そこにはひっそりと数軒の民家が建ち並んでおり、民家の出入りのために狭い舗装路が整備されていた。
これが軌道跡なのだろうか? 広さ的にも、あり得る気がするぞ……!



18:16 《現在地》

ウゥうぅーーーン……

…………なんか、違うなぁ……

私が欲しかったのは、このような廃公園ではなかったなぁ……。
錆びたブランコに滑り台、さらにはツタに絡まれた巨大なヒコーキジャグルジムが、奥は下り斜面という平場の縁の辺りに人知れず並んでいた。
手前の人家との繋がりが不自然だ。庭ではないと思う。この公園自体、民家の裏まで来ないと全く見えない位置である。まるで、隠し廃公園だ。

たぶんだけど、ここにはもともと公園があって、その敷地を住宅地に転用したのが現状だと思う。
公園が作られるさらに前は土場だったという希望は、まだ持っていたいが……、肝心の道…… 軌道跡であるべき道は…………、




ない。

廃公園や住宅地がある一連の広場の端には朽ちかけたフェンスが並んでおり、
その先は下草と樹木が茂る下りの斜面だ。斜面下に、さっき通った町道がある。
町道とは落差が20mくらいのあるので、ここからは見通せないが……。

軌道跡は……どこなんだ……?

私が事前にいろいろ推理した内容に、根本的な誤りがあっただろうか…。



もう辺りは本格的に薄暗くなっており、このフェンスを乗り越えて行動するか悩んだが、

最後に、ここから斜面へ降りて、町道にぶつかるまでの範囲に軌道跡がないかを、

確認してみることにした。





18:18

うおぉーっ!
平場だぁーッ!!!

これは、軌道跡っぽいッ!




振り返ると、こんな感じ。

廃公園から道なきササ斜面を適当に10mほど下ったところに、
立ってみて初めて明瞭にそれと分かる平場が隠されていた!

なまじ斜面が緩やか目で、そこにササが茂っているせいで、
遠くから見ただけでは、この平場の微地形は見通せなかった。



地形図上に表現すると、この位置だ。

下の町道と、上の廃公園や住宅がある広場の間の狭い斜面に、
この平場(軌道跡であるとほぼ確信済)が存在している。

一度分かってしまえば、ここへ来るのは簡単だ。
私と同じく、廃公園から下れば良い。

ただ、これしか下界に繋がる道がないとすると、
これは相当分かりづらい軌道跡だと言わねばなるまい。
意識的に探さなければ、見つけることは難しい立地だ。



これが軌道跡であれば、先ほどまでの落胆ムードから一転して偵察は大成功となる。
内心、ほぼ間違いはないと思っているが、確認のため、少しだけこの平場を進んでみよう。
軌道跡であった濃い証拠が見つかれば、なお素晴らしいのである。



レール、枕木、バラスト、犬釘、

それら直接的な林鉄の痕跡は、そうやすやすと見つからなかったが、

私が慣れ親しんだこの廃道の微妙な広さと緩やかさは、まさに軌道跡のそれだった。

まもなく眼下に町道の切り返しを見送ると、それで周りから見覚えの有るものは一掃された。

このまま軌道跡は独り、奥地への長い山旅を始めるに違いない。

この先はもう当分、まともな道に遭う場面はないはずだ。



18:20 《現在地》

歩くこと約2分。路盤の状態は意外にしっかりしていて悪くないペース。藪も浅い。
最初に軌道跡に降り立った地点からは150mくらい進んだと思われるところで、

道の中央に立てられた1枚の木造看板を発見!

もう誰も通わぬ道でもなお、見過ごしはを許さないという存在感を放っていた。
いったい、何が書いてあるんだ?



■■■■■■■■■
■■■■■草や土石
などをとることはでき
ません   前橋営林局

高山植物などの盗掘を戒める看板だった。

三国山脈の一帯は、昭和24年に当時の厚生省が上信越高原国立公園に指定しており、
林業や鉱業、道路の整備、観光開発などに一定の制限が行われるようになった。
それだけ全国的にみても貴重な自然環境に恵まれた地域ということになるが、
軌道跡は、その自然美の奥地へと、単独で踏み込んでいくわけだ。

今日はここで大人しく引き返すが……



明日はこの先を、出来る限り奥まで極めたい!

これは偶然なのか分からないが、看板地点の先は、かなり路盤が荒れている様子だった。

ここが軌道跡なのは間違いないと、ほぼほぼ確信できたが、

……明日は、ハードな探索になるかもなぁ……。




18:32 《現在地》

薄暮の森の道を速やかに戻り、そのまま最初に軌道跡に降下した
地点を通り過ぎて起点方向に軌道跡を歩いてみたが、
すぐに下から登ってきた町道に進路を奪われる形で路盤は消えた。

土場かと思った広場は、軌道より10mほど高い位置にあるので、土場では無さそう。
やはり軌道の起点は、もっと下流の引沼集落内にあったようだが、
どうやって通じていたのかは、これも明日以降の調査課題だな。

18:40 偵察探索、終了!