白砂川森林鉄道を、ご存知だろうか。
ここは全国に累計1200路線以上も存在していた国有林森林鉄道の中にあって、特に情報が少ない路線の一つである。
試しにこの路線名でネットを検索してみて欲しい。この回を執筆している時点では、私が今回の探索の出発地点とした“典拠”以外のヒットは皆無(無関係の内容)であった。
この路線は、なぜこれほどマイナーなのだろう。
よほどアクセスに恵まれない僻遠の土地に孤立していたのだろうか。
それとも、非常に規模が小さくて、探索者にたまたま発見されたり、その興味を引くことがなかったのだろうか。
あるいは、極端に存在した期間が短かくて、あらゆる人々の記憶に残らなかったのだろうか。
私はこれら全てについて「ノー」と言いたい。
まず立地だが、関東地方にある。それだけでもう極端な僻地ではないといえる。
続いて路線の規模だが、まもなく紹介する“典拠”によれば、全長10kmに迫る林鉄としては中堅規模の長さを有していた。
そして存続した期間だが、これも“典拠”によれば、昭和時代におおよそ20年間存続しており、これも林鉄としては短くない。
このように、立地、規模、期間のいずれも“普通”であったこの林鉄が、今まで非常にマイナーだった理由は、大きく3つあると思う。
第一は、森林鉄道ファンの多くがバイブル的に利用する西裕之氏の『全国森林鉄道』巻末の「全国森林鉄道リスト」に未掲載であること。(理由は後述)
そして第二に、歴代の地形図に全く記載されなかったことである。
最後に第三の理由として、これは探索本編の内容とも深く関わるのだが、この路線は周辺の道路から観察しづらい場所に存在していた。
前置きはこのくらいにして、内容に入っていこう。
まずは、私がこのマイナーな森林鉄道を知ったきっかけである“典拠”を紹介する。
戦後の国有林森林鉄道全ての運営者であった林野庁のサイトに「森林鉄道」というページがあり、戦前の帝室林野局管轄の路線を含め、かつて存在したことが資料から裏付けられた国有林森林鉄道のリストを、「国有林の森林鉄道の全路線」と「国有林森林鉄道路線別概況」という2つのPDFファイルとして令和元年頃から公開している。内容は時折更新されており、現在公開中の最新版はいずれも令和3年10月1日版である。
そしてこれらの資料に、私は白砂川森林鉄道の存在を初めて見つけた。それが探索のきっかけだった。
林野庁サイト「国有林の森林鉄道の全路線」「国有林森林鉄道路線別概況」より
これらの“典拠”の内容(上図)をまとめると、私が白砂川森林鉄道と呼称している路線の正式名は白砂川林道といい、前橋営林局草津営林署(現:関東森林管理局吾妻森林管理署)が管理していた2級森林鉄道で、全長9337m、昭和13(1938)年開設、昭和32(1957)年廃止である。
路線概況として、「吾妻川支流の白砂川沿い、六合村大字入山字引沼付近を起点に、白砂川沿いを三浦国有林まで溯上。
」という内容が記録されている。
まずポイントは、廃止がやや早いことだ。昭和32(1957)年廃止ということで、これが原因で『全国森林鉄道』巻末の全国林鉄リスト(その元となっているのは「昭和35年3月31日現在全国森林鉄道一覧表(『汽車・水車・渡し船』 所収)である)からは漏れたことが分かる。また、廃止が早いことは、現地の遺構の現存度や廃線跡の荒廃具合を考えるうえでの大きな不安材料だ。
なお、最初この“典拠”の情報に接した時点では、それがどこにあるのかということが、全くピンとこなかった。
そもそもこんな路線があったことを全く知らなかったので無理もないことだが、その「知らなかったこと」に興味をひかれた私は、この全長10km近い未知の林鉄がどこに隠されていたのかを積極的に調べ始めたのである。
この時点で初めて路線名をネットを検索したが、森林鉄道に言及した記事は全くなく、この林野庁の林鉄リスト公開までは、ネット上での言及が皆無な路線であったと推測された。
続いては、この謎の路線の在処を地図上に推測し、探索計画を建てるまでの流れを紹介しよう。
まずは、路線名でもある白砂川がどこを流れているかだが、群馬県北西部にそれはある。
そしてここまでは私にも心当たりがあった。以前行った国鉄太子線の廃線跡探索で、白砂川流域を訪れたことがあったのだ。
白砂川は、利根川の支流である吾妻(あがつま)川最大の支流である。
三国山脈の名の由来である群馬、長野、新潟の三県(国)境に聳える白砂山(2140m)付近より群馬県側へ流れ出し、深いV字谷の白砂川渓谷となって中之条町の六合(くに)地区(=旧六合村)を貫流、草津温泉より流れ出る強酸性の湯川を合わせつつ長野原町で吾妻川と合流するまで、流長約21kmを持つ一級河川だ。
流長のおおよそ南半分は、渓谷の沿川にいくつもの集落が点在し、それらを経由しつつ長野原と野反湖を結ぶ国道405号が川に並走している。かつて太子線があった(昭和20〜46年)のも、この範囲のさらに一部だ。そしてこの範囲内に森林鉄道が隠されていた様子はない。
おそらく白砂川林鉄があったのは、国道が白砂川沿いから遠く離れ、同時に一切の集落も沿川より消失してしまう、この川の北半分であろう。
そして、前述した林野庁のリストに見られた「六合村大字入山字引沼付近を起点に、白砂川沿いを三浦国有林まで溯上
」という所在地に関する唯一のヒントにある「大字入山字引沼」が、北半分の入口にあたる位置にあることを地図上から確認した!
なお、現在は源流から長野原の吾妻川合流までを白砂川と呼称するが、昭和41年の改称までは、白砂川は源流から引沼までの呼称で、それより下流は須川が正式名だった。この事実も、白砂川と称する森林鉄道が引沼より下流にはなかったと考える傍証になる。
起点の位置がだいたい絞られた一方で、終点とされた「三浦国有林」という地名は、地形図や道路地図などに見つけることは出来なかった。だが、全長が9337mと判明しているので、とにかく引沼の起点から9kmほど廃線跡を溯上して辿り着いた場所がその三浦国有林なのだと判断はできる。
というわけで、右図のチェンジ後の画像のように、白砂川林鉄は入山(引沼)から白砂川上流へ向かって伸びていた路線であろうと推測した。
……推測はしたが、これだけで秋田の自宅から遠く離れた現地へ探しに行くのは無謀というか、勇気がありすぎる。
それで私は、次に自身の推測を裏付ける作業を行った。
@ 昭和27(1952)年 | |
---|---|
A 昭和34(1959)年 | |
B 地理院地図 |
まずは、この林鉄の擬定地としたエリアについて、右図のような歴代地形図をチェックしたのであるが……。
(画像左下に起点とされた「引沼」の地名が見える)
先ほども少し言及したとおり、この路線は歴代の地形図に一度でも描かれたことがない!
そもそも、地形図に描かれていたなら、とっくに探索者の目にも留まっていたはずである。
昭和14年から32年まで存続していたらしいが、昭和27年版には影も形もないし、廃止直後の昭和34年版も同様だ。そして、最新の地理院地図についても、私がこの辺にあったのではないかと推理したエリアのどこにも廃線跡を窺わせる徒歩道などの表記は見当らなかった。
本当に、影も形も見られなかった……。
ならば次の手だ。
情報公開が進んだ現代では、数十年前のオブローダーが足で稼がねばならなかった稀少な資料の中にも、家にいながら読めるものが沢山ある。
最近の私が林鉄や林道の探索で愛用しているのが、これまた林野庁が公開している国有林の森林計画図である。ここでは全国の国有林内の林道や歩道の位置を網羅した国有林野施業実施計画図という縮尺20000分の1の地図が公開されている。
今回探している白砂川流域の地図もあり(PDF)、それをよくよく眺めてみると――。(↓)
これはーっ!!!
地形図には一度も道が描かれたことがない引沼より上流の白砂川左岸沿いに、
「白砂線」と注記された1本の「歩道」が延びている!
それも等高線にあまり逆らわない経路であり、いかにも林鉄跡っぽく見えた。
途中で途切れているのは、国有林ではない部分の表現が空白になるせいで、おそらく道自体は続いているだろう。
図に描かれている歩道「白砂線」の全長は、空白部分を入れても5kmほどと林鉄の全長には足りないが、
これでいよいよ、引沼から白砂川の左岸を上流に伸びる廃線跡の実在が強く推測される状況になった。
ここまでの事前調査で、廃線跡の一端に触れるための最低限の情報は集まったが、現地探索のスケジュールが決まるまでの期間も机上調査を続け、さらに以下に述べるような情報を収集した。
まずは、『国有林森林鉄道全データ』シリーズの著者である矢部三雄氏(前東北森林管理局長)より、同書のフォーマットで編集された白砂川林鉄の沿革データのご提供をいただいた。(前橋営林局分は未刊行である)
主に各営林局が保管していた林道台帳からまとめられたその貴重な内容を以下に全文転記する。
白砂川林道 (しらすながわ) (軌道→森林鉄道2級) | |
・昭和13年度 | 大字入山字引沼から字三浦国有林17林班い小班までの4,377mを新設。 |
・昭和14年度 | 480mを延長開設。(4,857m) |
・昭和15年度 | 昭和14年度開設の牛馬道100mを改良編入、897m、1,071mを延長開設。(6,925m) |
・昭和16年度 | 2,412mを延長開設。(9,337m) |
・昭和24年度 | 4,960mを廃止。(4,377m) |
・昭和28年度 | 704mを廃止。(3,673m) |
・昭和32年度 | 全線を廃止。(0m) |
この矢部氏のデータにより、これまで判明していた「全長9337m、昭和13年開設、昭和32年廃止」という全容に大幅な肉付けがなされた。
まず、多くの林鉄の例に漏れず、10km近い路線の開設は数年を掛けて徐々に行われており、廃止も同様であった。
特に、全長の半分以上の4960mもの区間が昭和24年度という早い時期に廃止されていたことは、この区間の保存状況にさらに大きな不安を抱かせる内容だ。
また昭和13年度時点の終点が「三浦国有林17林班い小班」と相当詳しく言及されているのだが、残念ながら前掲した現行の「森林計画図」の林班は改定されているようで対照はできなかった。
『群馬県地下資源調査報告書 第3号』より
さらに、国立国会図書館デジタルコレクションを検索したところ、この林鉄の存在に言及した文献を僅かながら発見できた。
それは昭和28(1953)年に発行された『群馬県地下資源調査報告書 第3号』という文献である。
同書は群馬県内の未開発にある地下資源の現地調査報告であり、硫黄や鉄鉱など様々な地下資源を豊富に賦蔵する旧六合村でも多くの調査が行われた記録がある。
その調査箇所をまとめた手書きの地図(右図)には、矢印の位置にはっきりと軌道の記号が描かれていた!
略図ではあるが、初めて現役当時の軌道が描かれた地図を発見したのである。そしてその位置は、前述した森林計画図に歩道「白砂線」が描かれていた位置とも一致して見えた。
さらに各調査地を紹介する本文中にも、次のような軌道に関する言及があった。
引沼の農協事務所前には、白砂川の奥から営林署の林産物搬出用軌道がきているので、これから奥地の開発にはこれの利用も考えられる。
これにより、引沼にあるとされていた軌道の起点が、具体的には引沼の農協事務所前にあったことが分かった。それが具体的にどこであるかは、さすがにPC作業では分からなかったが、現地でこのキーワードを使って聞き取りなどを行えば、起点を詳細に特定する役に立つはずだ。
そしてさらには、探索欲を大いにくすぐる内容も飛び出してきたぞ!(↓)
六合村の葦谷地(Yoshiyachi)とは、花敷温泉の北東部に当り、白砂川に沿ってトンネルをくぐって3Kmほど登った左岸(南岸)の地名である。ここには営林署の軌道が通じていて、歩行及び物資の運搬には至極便利となっている。高距は海抜900m余の場所で、引沼部落との高さの差は100mを越えない。
なぬーっ!! トンネルだってーーっ!
前掲の手書きの地図にも「葦谷地」の地名が確かにあり(矢印の位置)、そこを軌道が通じている。なお、歴代の地形図にこの地名は見られない。
引用では省略したが、この葦谷地でも引沼地区と同様に褐鉄鉱の露頭が発見されているとのことで、開発は有望と評価している。
そしてこの葦谷地への径路として、「(引沼から)白砂川に沿ってトンネルをくぐって3Kmほど登」るとある。おそらくこれは軌道の路盤を歩くことを言っており、おそらくは引沼に近い位置に軌道が潜るトンネルがあったと読み取れるのである。 ……地図には描かれていないが…。
これは、現地がますます楽しみだ!
――といった辺りが、この全く未知の状況から始まった白砂川森林鉄道の現地探索前に行った、事前の調査の流れである。
そして待ちに待った現地探索を、令和3(2021)年5月15日に単独で行った。
私自身、心底先が読めない軌道跡の探索に挑んだ、恐ろしくも貴重で楽しい機会となった。
それでは、現地探索編へバトンタッチだ。