2020/6/3 5:09 《現在地》
美しい入江だが、ゆっくり休む気には二つの理由からなれなかった。
理由その一、まだこの探索に期待されていた成果を挙げていないと感じていたこと。
理由その二、入江を取り巻く地形が陰険で、足を止めているような場所ではなかったこと。
特に二番目の理由が強く、写真だとそれほどの傾斜がある地形と見えないが、実際の印象は違っていて、ひとことで言えば、苔生した水際のスラブ(滑らかな一枚岩)だった。
手掛かり足掛かりに乏しく滑りやすい岩場が、底が全く見えない群青色の水面を取り巻いている入江の周りは、どこにいても一歩間違えればドボンと行きそうな怖さがあった。
そんな場所で、よく分からないコンクリートの巨大な構造物によって、おそらく原型を止めないほどに破壊されてしまった軌道跡を捜索するのは、油断ならなかった。
手掛かりを一つも見逃したくなかったが、歩き回って探すことは危険な場所。それがこの入江だった。
まずは“矢印”のようなルートで入江を突破した。
ここも地形的には隧道があっても不思議ではなさそうな、小さな尾根突端の突出したところである。
【古写真】の“桟橋”の“手前”にあたると推定されている位置だから、当然、路盤の痕跡がなければならなかったが、そこにあるのは入江を見下ろすガレ気味の急斜面と、そんな斜面からにょっきりと突き出した謎のコンクリートの上面だけだった。
思ったものが見つからないもどかしさに身を焦がしながら、謎のコンクリート上面へ移動。
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驚いた。
足元のコンクリート構造物に、“入口”があった。
これは、建物だったの?
しかし、極端に水面に近い高さに口を開けている。
もし水位が1mも上昇すれば、たちまち水に浸かってしまうはずだが…。
しかも、普通にアクセスする方法がないと来ている。
入口の両側にある壁が邪魔をしていて、この謎の入口は水面からしかアクセス出来ないように制御されていた。
それこそ、泳いでくるか、ボートを浮かべるか……だ。
RPGのダンジョンや街や城を彷彿とさせるような、意味不明な造りである。
だが、もしも本当にRPGだったら、ここには終盤……、船を手に入れてからやっと入手できる重要なアイテムがありそう。
……とまあ、冗談はこのくらいにして、こいつの正体にはやはり、思い当たるフシが……。
まあ、入れば私の想像が正しかったと証明できるだろうから、一旦それを目指すことにしよう。
穴? があったからには、やはり入らないと……。
そして一つ残念なお知らせが。
長年その所在を求めてきた古写真の隧道(5号隧道)は、
尾根ごと切り崩されてしまった可能性大。
昭和40年に撮影されたとされる古写真と比べると、この入江の地形や雰囲気は、かなり似ている。
もちろん、それだけならば弱い理由だが、今回この場所に隧道があったことを知った理由(ここに隧道が描かれていたこと)を踏まえれば、ダム付近という相当に限定された範囲内に、このような特徴的な風景が何箇所もあるとは思えないという消去法的な理由も加わってくる。
仮にここが5号隧道の跡地だとすると、前回紹介した【切り通しのようなところ】こそがその核心であり、驚くべきことだが、路盤よりも上部にあった最低でも30mはあろうかという鋭い岩尾根が、跡形もなく失われたことになる。
これほどの地形改変。
自然現象であれば巨大な山崩れとなるが、それなら跡地は完全に土砂に埋没していそうなところ、そうはなってはいないので、ダム工事の一環で故意に“除去”された可能性が高いと考えている。
この隧道は素波里峡の景観の代表的なものの一つであったと思われるだけに、何もそこまでという感じはするが、発電所の建設によって二度と人を立ち入らせるつもりがなかったとすれば、そして全国で見られるダムによる地形改変の大きさを考えれば、突飛な予想とはいえない。
ちょうど私の足元にある構造物を建造するには、目の前の岩尾根をくぐってくるしかなかったはずだ。
この足元に大規模なダム関連工事の痕跡を認めた以上、工事から年月を経た今日の緑化が十分に進んでいたとしても、一帯にあった林鉄時代の名残は既にダム工事によって一掃された後だという悲しい推論が現実味を帯びる。
次に私は、足元に口を開けている“謎の入口”の内部を確かめることで、“謎のコンクリート構造物”の正体を暴くことにした。
前述の通り、正規の突入手段はボートということになろうが、陸路での到達を邪魔しているコンクリートウォールを強引に巻く“ウラワザ”にチャレンジしてみた。
↓↓↓
ここに不思議な突起があるじゃろ? →
(チェンジ後の画像)
これをこうして… →
こうじゃ!
←
水面上ギリギリラインの弘法攻防を制して、HAMAMI氏のカメラの向こうの私は独り、入口の前へ。
“ウラワザ”でショートカットして到達した未知のエリアは、たいてい敵が強すぎてヤバいわけだが…、
いざ、入洞……。
(なお敢えて面白げに表現したが、この水際から転落すると足の付かない深さがあり、機材喪失の危険が大きい)
案の定、隧道だった!
ただし、これは私が探し求めてきた隧道ではない。
入口と水面との位置関係を見た時に、内心察していたことだが、
これは素波里ダム工事中に使われた仮排水隧道だ。
建設中、上流からくる粕毛川の水を、ダム建設現場から迂回させるために掘られた河川バイパストンネル。
したがって、こいつの行き先は確実に、湖底だ。
仮排水トンネルの役目はダムの完成と共に終わりを迎え、廃止される。
それまでは川の水を通したり、場合によっては工事用車両や関係者の通路となるケースもあるが、いずれダムが完成すれば入れ替わりに廃隧道となる。
入口が狭くなっていたのは、必要がなくなったから塞いだと思うが、それでも敢えて人が出入りできるスペースを残したことには、何か目的があったのだろう。
しかし、現状ではその何かの目的も喪われ、完全な廃墟と化しているらしかった。
隧道の断面は、普通の単線鉄道トンネルを彷彿とさせる規模で、仮設構造物とはいいながらも、数年間にわたって膨大な水量を通過させるだけの強度を要求されるためか、しっかりとコンクリートで巻き立てられていた。
また、純粋な水路トンネルであれば、洞床にはコンクリートのインバートを露出させておくだけで良いはずだが、ちゃんと路面のように均されていた。これは閉塞工事に際し工事用車両を通行させたためだろう。
閉塞は確実だが、念のため閉塞壁を確認できるまで進んでみることにした。
この方角へゆけば100mほどで堤体サイドの地中に差し掛かるはずなので、そう長くはないだろう。
天敵が近づかない洞内は、コウモリの一大コロニーと化していた。
進むほどその数を増したが、天井に鈴なりになった地点を通過した時点で一斉に飛び立ったため、洞内はパニック状態に。
動きのすばしっこい彼らが1枚の写真にこんなに治まっている状況が、どれほどの飛翔密度になっているかは、経験者でなければ分からないかも知れない。
出来るだけ身を低くしている私も、バシバシと衝突されまくった。
分厚く堆積した糞で舗装されたような路面を、鼻を曲げながら進むと、閉塞壁が見えてきた。
入口から約100mで、閉塞壁に到達した。
ここは厚みが堤体の下流端辺りで、壁の裏側には水面下50m以上の暗黒水没隧道が、永遠の眠りに就いているはずだ。
もっとも、湖底の水圧に耐える閉塞壁は数十メートルの厚みを持った圧密閉塞になっているのが普通で、一切安全だ。
今まで私はいろいろなダムでこの閉塞壁を見てきたが、素波里ダムのそれは、言っては悪いが雑に見えた。
あくまでも外見的にそう見えただけの話だが、もともとの隧道の壁面が乱暴に打ち崩された端部を晒しており、それと閉塞壁が密着していないせいで、雑な印象になっている。
こんな部分を部外者に見せるつもりは絶対なかったはずだから、無理もないのだが。
“隧道の探索”はしたが、お目当ての隧道ではなかった。
仮排水隧道の在処を見たことで、発電所からここまでの軌道跡も、手付かずではなかったことも理解した。
そのうえで、探索の対象がまだ少しでも残っているとしたら、それはもう一箇所しかない。
それは、この仮排水隧道からダム直下まで、残り100mの川岸に他ならない。
そこに第6号隧道を含む軌道跡の遺構を求めることを、今回の最終ミッションと定めた!
というわけで、正体が判明したコンクリート構造物の上に再び登り、その裏側(上流側)を、見下ろし気味に覗いてみると……。
平らではないが平らだ!!
すまん! 興奮して意味が分かりにくい発言をしてしまった。
数メートル下に見えた川岸は、
ゴツゴツしていて平らではないのだが、
周辺の岩場と較べて傾斜が緩やかなのである。
つまり、平場っぽい。
平場は軌道跡と等価であるという“探索者心理あるある”に従えば、これは軌道跡に他ならない!
草付きを頼りに、ほぼ垂直の落差を2mほど下降し、“平場”へ。
紆余曲折あったが、軌道跡を寸断する形になっていた仮排水隧道の坑口構造物を、突破した。
私いま降り立ったこの“平場”は、ダム堤体へ突っ込む軌道跡の最終パート入口だと判断していた。
未だかつて体験したことがない
5:27 《現在地》
軌道跡が堤体に突き刺さる瞬間まで、
80m!
2020/6/3 5:27 《現在地》
果たして、この平場は軌道跡なのだろうか?
もしそうだとすれば、これはなかなか、未だかつてない種類の凄まじい場面のように思う。
この規模のダム直下に、これほど深く入り込んでいくこともそうだし、本当に最終最後のダムに呑み込まれる直前まで、軌道跡がこうして原形を留めていることもそうだ。
衝撃的な光景と言っていい。
そのうえで、
これは軌道跡であるはずだ。
今回の探索では、発電所の裏に入り込んでからここまで約120m、はっきりと軌道跡の遺構といえそうなのは、せいぜい1本の枕木くらいであって、期待の星であった古写真の隧道は開削済みとの判断を下さねばならなかったほどに、総じて遺構の残存度は低水準だった。
そんな中、普通に考えれば最も状況の悪そうなダム直下に、これほど明瞭な路盤の痕跡が残っているとしたら、それは意表を突く驚くべきことだったが、冒頭に紹介した『地質調査所月報』の中の精度の高い図面には、確かにこの位置に軌道が描かれているのだし、このような隧道以外に全く逃げ場のない地形であるからこそ、隧道でない以上は、ここを通らざるを得ないのだ。
結局、この平場は軌道跡に由来するものだとしか考え難い。
とにかく凄いところだ。
こんな貧弱なボキャブラリーで表現したくなるほど、余裕のない凄みがある。
ここに立ち至って前進する私は、気軽に始めた悪戯が取り返しが付かない状況に入り込んでいるのになお止められないときのような、心臓のバクバクする緊張感を感じていた。
繰り返しになるが、とにかくこれまでとは段違いに険しい、逃げ場のない地形だ。
ここにある歩行者の心を和ませる唯一のものは、ポヨっとした垂壁の草付きだけだった。
路肩のない、ただすっぱりと切れ落ちた縁の下には、底がまるで見えない、不気味に静止した水が溜まっていた。
これほどの峡谷を削り出した本流が静止しているのは、ダムが堤体から一滴の水も流していないからで、粕毛川を流下する水はいま、その全量が発電所のタービンを回す強制労働をさせられていた。
(……だが、ここの水底がどういう地形だったかを後に知ったときには、息を呑んだ。底なんて見えるわけがなかったから……(後述))
しかも、進むにつれて、さらに険しくなろうとしていく変化を感じた。
これ以上険しくなろうというのか!!
路肩のない道幅がさらに狭まり、もう幅の全体が深淵へ向かって傾斜しているようだ。
水面からあまり高くないことだけは唯一の救いだが、落ちたらなんて考えたくもない。
←これはなんだ?
最初、遠目に見たときは、何か流木が引っかかっているのだと思ったが、間近に寄って見ると、そうではなかった。
アンカーボルトで岩盤に固定された木材だった。
かなり太いボルトを使っているので、機関車を支えていた林鉄時代の桟橋跡を期待したが、なにぶん残っている木片がボロボロすぎて原形を留めていないので、なんとも言えない。
そもそも、林鉄時代にここまで路盤がゴツゴツしていたはずはなく、このゴツゴツの上に客土された土やバラストが載っていて、ちゃんとした路盤が作られていたはずだ。
そうなると、この木材は林鉄時代のものではなくて、ダムからの放流の影響によって路盤が流失した後に、歩道か何かの目的で作設された桟橋の残骸といった感じがした。
ここ、上手い写真が撮れていなくてミスった。
ここまでは、徐々に狭まりながらもなんとか人が歩けるだけの幅はあったのだが、ついにここで道幅が全て切れ落ちている場所があって、そのため慎重に岩場を水際近くまで下りてから、再び路盤の高さまでよじ登らねば突破出来なかった。
写真はその切れ落ちたところの下の方が写っていないが、ヒリつきながら突破した。
そして、ダム下端までの残距離は、目測30mを切るほどになった。
切れ落ちたところ越しに振り返り見る、ここまでの路盤跡。
崩壊のためか、路肩が撫で肩になっているが、もし角がキリッとしていたら道幅は2m程度あるはずで、やはり林鉄の路盤跡だと思う。
ここが巨大ダムを支え得るほどの堅牢な地盤であるがゆえに、刻まれた軌道跡は半永久的に痕跡を留めることになったのだろう。
5号隧道もそうだが、ここも大変な難工事だったことは疑いようもない。
過去の探索で見たダム湖の上流、粕毛川源流地帯の厳しさは未だに忘れないが、そうした険しさの第一関門、いわば奥地への登竜門が、この素波里峡だった。
林鉄時代の白神山地は、いまのように世界遺産とやらで持て囃されてはいなかったが、その宝蔵された膨大な木材資源を運び出す要が、ここにあった。
その一方で、現在は湖底になっている辺りには大開という広い開拓村が存在しており、肥沃な盆地だったらしいから、峡門を突破することで得られる恵みは木材だけではなかったのだと思う。
すごいすごいすごい(笑)
めっちゃ近くて笑っちゃう。
もうすぐそこに、素波里ダムがある。
でも、「ダムがある」って言って普通イメージするのは、この72mも上にある天端の景色だよ(笑)。
そして、この写真とか景色のスケール感が全然意味不明だと思うけど、高さ72mもあるダムのくせに、その底部は想像以上に狭い。
ここで対岸まで何メートルだろう。10mはないんじゃないかと思う。
これで一つはっきりした!
第6号隧道も現存していない。
ここから底部の厚みが100mほどある巨大な重力式ダムが始まっているので、
軌道跡はその部分だけは絶対に何の痕跡も留めていないと断定できる。
おそらくダム築設の際に、風化を受けていない基盤層まで掘削しており、
そのため側面は地表近くにあったはずの第6号隧道は岩盤ごと失われたはずだ。
ここまで実景のみで納得させられる展開が、なんともパワープレイじみていて笑いが出た。
さすがに……、さすがにこれ以上は進む必要がないか。
だが、進んでいく!
この行動、一見するとただの悪ノリと思われても仕方がない。
これ以上先の地面は、さすがにコンクリートの城壁そのものと言って良く、探し求める林鉄の遺構が残されているようには見えないし、また堤上路から人目にさらされるリスクも増える。
なにより、何かの手違いで放流が行なわれたりしたら、この場所は無事では済まないことを私は知っているのだ。
だが、先ほどから歩いてきた岩場の平場が軌道跡であったことの証拠と言えるものが、ここを最後まで詰めることで得られると私は考えていた。
ここもスケール感が分かりづらいと思うが、先へ進むための唯一の通路になっている平らな部分は、幅30cmほどしかない。
荷無しならばまだしも、一眼レフを首からぶら下げ、ウェストバッグを巻いている私は、こういう狭いところが大嫌いである。
荷物が壁に接触した弾みで、身体が外側へ弾かれるのが恐ろしい。
だから、ここでは予め身体の前に付けていたものを全て後ろ側に回して通行した。
この部分だけ、壁面がしとどに濡れている理由、
放流されたらヤバいと言った理由、
後でお知らせしますね……。
まあ、晴天続きのこの朝に洪水吐きが開かれることはないだろうし、最悪、放流前にサイレンが鳴るだろう。
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5:31 《現在地》
素波里ダム下の軌道跡を極めた。
昭和45(1970)年に堰き止められた素波里峡の核心部、そのかつて水上であった位置に、私は立っている。
そして、この位置からでなければまともに見えない“軌道跡の証明”を――
捕えた!
この位置に、玉石練り積みの石垣が存在することは、私が通ってきた平場が、
ダムの建設以前から、この石垣の道幅(2m)で存在していたことの証拠といえた。
すなわち……
隧道こそ残っていなかったものの、
素波里峡に林鉄があった、その失われた絶景を、我々は得た!
(さっきまで全く動きのなかった水面に、このとき突然大きな波紋が浮かんだ)
(それが徐々にこちらへ近づいてきたが、途中で消えたきり、まだ静まった)
(河童でも潜んでいるんか……)
長居は無用、撤収開始だ。
その後我々は来た道(?)を慎重に引き返し、無事に車まで戻った。
以上が、「秋田観光三十景」のロストナンバー、素波里峡の僅かな残存領域に眠っていた、
藤琴林鉄粕毛支線の遺構の全てである。
こんなに狭い区間で、ここまで鬼気迫る探索になるとは、全く想定以上だった。
2020/6/3 6:43 《現在地》
我々は車に戻った後、素波里ダムの天端へやってきた。
自分たちが探索した場所を、最後に俯瞰で眺めようと思ったからだ。
堤高72m、堤長142mある天端上は公道を兼ねており、常に解放されている。
この日の素波里湖はほぼ満水状態で、白神山地の美味しい水を、なみなみと湛えていた。
ダムがある辺りの谷幅は狭く、上流にはゆったりとした広闊な谷があるという、典型的なダム好適地の地形である。
この広い湖底に大開の開墾集落があった。軌道も延々6kmにわたって水没している。
ちょうど堤上路の真下辺りが、幻となった第6号隧道の跡地である。
その在りし日の姿は、探索後の検証調査で判明した(後述)。
そしていよいよ、
私お待ちかねの俯瞰の風景。
見えますね〜、軌道跡。
この景色を見たのはおそらく4度目くらいだが、軌道跡を視認したのは今回が初めてだった。
これまではただの岩場の造形程度にしか思わなかった部分が、実は路盤の名残だったのだ。
ダム工事によって完全に取り壊されたものとばかり思っていた。
これがラスト80m区間の全貌だ。
ここを歩いたんだなぁ。歩いているところを見つからなくて良かったなぁ。
そして、忘れてはいけない、林鉄時代の決定的な証拠が――
この石垣だった。
改めて上空から観察すると、やはり石垣はダムの一部ではない。より古い存在だ。
ある事情により、
ほとんど失われているが、昔時は、我々が歩いた高さまで積まれていて、
路盤を守る緻密な城壁を構成していたはずなのである。
その、「ある事情」 とは――?
!!!
素波里ダムの2門あるテンターゲートが開放されると、
洪水吐きから発電所を通さず、下流への直接放流が行なわれる。
その状況下では、さっきの私と【HAMAMIさん】は頭蓋骨陥没&流出確定。
軌道跡の石垣がほとんど失われている原因も、この放流機構の影響と思われる。
これが観光ガイドには載らない、秋田の期間限定ナイアガラの勇姿だ。
この景色は知っていたが、まさかそこに愛する軌道跡が打たれていようとは…!
そして、実際に足を踏み入れて踏破する日が来ようとは、当時全く思わなかった。
今回探索区間全体の俯瞰を最後にお送りして、今度こそ現地調査編は終了である。
次回は検証編と銘打って、机上調査によって素波里峡の変貌する歴史を紹介しつつ、
失われた2本の隧道の最後の姿を追求してみたい。
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