「藤里町:写真集」より転載
見事な隧道だと思わないか? →
こんな場所に巡り会えたら、どんなに素敵だろう。夢のようだ。
そう、林鉄探索者の夢の中に出て来そうな良い景色である。
レールは、さすがに期待できないのかもしれない。
いや、木橋も難しいか。
だが、せめて隧道。
渓流に臨む絶壁に穿たれた、歪さすら味わいと思える美しい隧道。
せめてこれだけは、どこかに残っていてはくれまいか。
この写真を、『藤里町:写真集』(昭和58年/藤里町教育委員会刊)という本で初めて見たのは、15年以上も前だと思う。
ずっとこの写真の隧道に焦がれてきたが、未だに見つけられていない。
写真集にはキャプションがあり、こう書かれている。
「旧素波里峡 現在のダムサイト付近(昭和40年)
」
ここから分かるのは、素波里(すばり)を通っていた藤琴森林鉄道粕毛支線のどこかの風景だということだ。
しかし、附属する「ダムサイト付近」という文言が、私に絶望的な感想を与え続けてきた。
これはそういう曰く付きの写真だ。
藤琴森林鉄道粕毛支線は、私が森吉林鉄に次いで初期に何度も探索した場所で、これまで数編のレポートを公開している。
多くは2005年頃の古いレポートなので今読んでも物足りないと思われるが、私の中ではほぼ全線の探索が完了しているという認識なので、再訪も長らくしていなかったのだが、当時から探し続けている上記写真の隧道は、跡地も発見されておらず、おそらく素波里ダムによって水没してしまったのだと判してきた。
粕毛支線は、廃止直前時点で秋田営林局二ツ井営林署が管理していた森林鉄道2級線で、本線である藤琴林道の藤琴分岐点を起点に、粕毛川上流の白神山地の奥深くまで分け入っていた。開設は秋田大林区署時代の大正10(1921)年で、その後も延伸が相次ぎ、昭和29(1954)年頃には、支線としては異例ともいえる27kmもの全長(プラス支線が1本)を有したが、昭和38(1963)年に藤琴川流域を襲った大水害により壊滅的な被害を受け、そのまま同年10月に廃止されている。
起点からおおよそ9kmの位置には、前記の豪雨災害を契機として計画・建設された秋田県営の素波里ダムが、昭和45(1970)年に完成し、軌道跡が約6km(加えて支線の一部)にわたって水没した。
ダムが建設された地点は、それまで素波里峡と呼ばれた両岸絶壁相迫る景勝地で、江戸時代の有名な紀行家である菅江真澄も訪れている。
かつて県内では名の知れた観光地だったらしく、秋田魁新報が昭和27(1952)年に購読者の投票で決定した「秋田観光30景」には、県内の他の著名観光地とともに選出された。しかし、ダムの建設によって核心部が失われた影響か、同52年の「新30景」には再選されていない。今日、素波里峡の名は、モノクロ写真の中の美景と一緒に忘れ去られつつある。
今年春の段階で、この粕毛支線に残された未探索のエリアは素波里ダムの湖底となった約6kmのみであり、冒頭の古写真の隧道も、既に深い湖底に消えてしまったものと考えていた。
だが…
先日、図書館で何の気なしに眺めていた、昭和36(1961)年に発行された『地質調査所月報 第12巻 第1號』に、こんな地図を見つけてしまったのである。(↓)
“ダム中心線”より下流に、隧道が!
しかも2本ある!
凡例を見ると、この隧道がある道は、「営林軌道」であり、森林鉄道ということだ。
粕毛川の最も狭まった素波里峡谷の核心部にダムは造られた。
だが、隧道はそのダム中心線よりも下流にあったらしい。それも2本!
この図は、ダムの設計という緻密さが求められる分野であるが故に、同時代の地形図では絶対にあり得なかった大縮尺をもって描かれており(図の下端に記載されたスケールを見て欲しい)、それゆえに全長40mと5m程度(!)とみられる短い2本の隧道が、描かれることになったのだろう。
これらは、歴代の旧版地形図には描かれなかった隧道だった。
この図「粕毛川第一地点地質要図」を含む論文「秋田県米代川水系粕毛川・萩形ダム地点および子吉川水系百宅ダム地点土木地質報告
」は、表題にある県内3河川の電源開発用ダム建設の適性を主に地質的観点から調査し論じたもので、この段階では粕毛ダムと仮称されていた後の素波里ダムも調査の対象になっていた。
この図面のダム中心線の位置は、現在ある素波里ダムと大差ないように思われるので、もしかしたら2本の隧道が今もダムのすぐ下流に残っているかも知れないという希望を抱かせる発見となった。
なお、ここに2本の隧道があったとして、冒頭に紹介した私が長年探し求めてきた隧道は、下流側に描かれている“短い方”と思われた。
“長い方”は、そのようなものがあったこと自体、この資料で初めて知った。
新旧地形図の比較から、この2本の隧道の現存可能性を検討した。
昭和28(1953)年板と最新の地理院地図を比較すると、前者には谷底を走る軌道が描かれている。
だが、後にダムが作られる素波里峡の核心部に隧道は描かれていない。
ちなみに、図の下端辺りに見える「4号隧道」(仮称)から「浅渡橋」にかけては、平成16(2004)年に公開したこの回で訪れており、今回捜索する隧道はこれに続く、「5号隧道」と「6号隧道」(仮称)になるはずだ。(そして素波里ダムの上流部はこのレポートに続く)
一方、最新の地理院地図だと、素波里ダム周辺はごちゃごちゃしていてよく分からないので、思いっきり拡大してみたのが次の図だ。
これと見較べるべきは、前掲の「地質調査所月報」の図面であるが、すぐに一つの重大な事実に気付いてしまった。
「図面」に引いてあった「ダム中心線」より、実際に建設された素波里ダムの中心線は、数十メートルほど下流に寄っていることに!
誠に残念だが、この位置だと、“長い方”の現存は絶望的のように思われた。
堤体に呑み込まれてしまっている可能性が高い……!
しかし、下流にあった“短い方”ならどうだろうか。
今度はこの位置には、発電所の建物が建っている可能性が……!
……そんなわけで、私が久々に秋田県内において新たな廃隧道と遭遇できるという“夢”を懸けた探索は、相当に厳しい予測を与えられながらも、現地探索なくして結論なしの信念から、一縷の望みを胸に、行なわれたのだった……。
令和2(2020)年6月3日、HAMAMI氏を誘って現地へと向かった私を待ち受けていたのは、なかなかに信じがたい光景だった。