廃線レポート 藤琴森林鉄道粕毛支線 素波里ダム直下編 前編

公開日 2020.06.16
探索日 2020.06.03
所在地 秋田県藤里町



「藤里町:写真集」より転載

見事な隧道だと思わないか? →

こんな場所に巡り会えたら、どんなに素敵だろう。夢のようだ。
そう、林鉄探索者の夢の中に出て来そうな良い景色である。
レールは、さすがに期待できないのかもしれない。
いや、木橋も難しいか。
だが、せめて隧道。
渓流に臨む絶壁に穿たれた、歪さすら味わいと思える美しい隧道。
せめてこれだけは、どこかに残っていてはくれまいか。

この写真を、『藤里町:写真集』(昭和58年/藤里町教育委員会刊)という本で初めて見たのは、15年以上も前だと思う。
ずっとこの写真の隧道に焦がれてきたが、未だに見つけられていない。

写真集にはキャプションがあり、こう書かれている。
旧素波里峡 現在のダムサイト付近(昭和40年)

ここから分かるのは、素波里(すばり)を通っていた藤琴森林鉄道粕毛支線のどこかの風景だということだ。
しかし、附属する「ダムサイト付近」という文言が、私に絶望的な感想を与え続けてきた。
これはそういう曰く付きの写真だ。



藤琴森林鉄道粕毛支線は、私が森吉林鉄に次いで初期に何度も探索した場所で、これまで数編のレポートを公開している。
多くは2005年頃の古いレポートなので今読んでも物足りないと思われるが、私の中ではほぼ全線の探索が完了しているという認識なので、再訪も長らくしていなかったのだが、当時から探し続けている上記写真の隧道は、跡地も発見されておらず、おそらく素波里ダムによって水没してしまったのだと判してきた。

粕毛支線は、廃止直前時点で秋田営林局二ツ井営林署が管理していた森林鉄道2級線で、本線である藤琴林道の藤琴分岐点を起点に、粕毛川上流の白神山地の奥深くまで分け入っていた。開設は秋田大林区署時代の大正10(1921)年で、その後も延伸が相次ぎ、昭和29(1954)年頃には、支線としては異例ともいえる27kmもの全長(プラス支線が1本)を有したが、昭和38(1963)年に藤琴川流域を襲った大水害により壊滅的な被害を受け、そのまま同年10月に廃止されている。

起点からおおよそ9kmの位置には、前記の豪雨災害を契機として計画・建設された秋田県営の素波里ダムが、昭和45(1970)年に完成し、軌道跡が約6km(加えて支線の一部)にわたって水没した。
ダムが建設された地点は、それまで素波里峡と呼ばれた両岸絶壁相迫る景勝地で、江戸時代の有名な紀行家である菅江真澄も訪れている。

かつて県内では名の知れた観光地だったらしく、秋田魁新報が昭和27(1952)年に購読者の投票で決定した「秋田観光30景」には、県内の他の著名観光地とともに選出された。しかし、ダムの建設によって核心部が失われた影響か、同52年の「新30景」には再選されていない。今日、素波里峡の名は、モノクロ写真の中の美景と一緒に忘れ去られつつある。

今年春の段階で、この粕毛支線に残された未探索のエリアは素波里ダムの湖底となった約6kmのみであり、冒頭の古写真の隧道も、既に深い湖底に消えてしまったものと考えていた。

だが…



先日、図書館で何の気なしに眺めていた、昭和36(1961)年に発行された『地質調査所月報 第12巻 第1號』に、こんな地図を見つけてしまったのである。(↓)

“ダム中心線”より下流に、隧道が!

しかも2本ある!

凡例を見ると、この隧道がある道は、「営林軌道」であり、森林鉄道ということだ。
粕毛川の最も狭まった素波里峡谷の核心部にダムは造られた。
だが、隧道はそのダム中心線よりも下流にあったらしい。それも2本!

この図は、ダムの設計という緻密さが求められる分野であるが故に、同時代の地形図では絶対にあり得なかった大縮尺をもって描かれており(図の下端に記載されたスケールを見て欲しい)、それゆえに全長40mと5m程度(!)とみられる短い2本の隧道が、描かれることになったのだろう。
これらは、歴代の旧版地形図には描かれなかった隧道だった。

この図「粕毛川第一地点地質要図」を含む論文「秋田県米代川水系粕毛川・萩形ダム地点および子吉川水系百宅ダム地点土木地質報告」は、表題にある県内3河川の電源開発用ダム建設の適性を主に地質的観点から調査し論じたもので、この段階では粕毛ダムと仮称されていた後の素波里ダムも調査の対象になっていた。

この図面のダム中心線の位置は、現在ある素波里ダムと大差ないように思われるので、もしかしたら2本の隧道が今もダムのすぐ下流に残っているかも知れないという希望を抱かせる発見となった。

なお、ここに2本の隧道があったとして、冒頭に紹介した私が長年探し求めてきた隧道は、下流側に描かれている“短い方”と思われた。
“長い方”は、そのようなものがあったこと自体、この資料で初めて知った。



新旧地形図の比較から、この2本の隧道の現存可能性を検討した。

昭和28(1953)年板と最新の地理院地図を比較すると、前者には谷底を走る軌道が描かれている。
だが、後にダムが作られる素波里峡の核心部に隧道は描かれていない。

ちなみに、図の下端辺りに見える「4号隧道」(仮称)から「浅渡橋」にかけては、平成16(2004)年に公開したこの回で訪れており、今回捜索する隧道はこれに続く、「5号隧道」と「6号隧道」(仮称)になるはずだ。(そして素波里ダムの上流部はこのレポートに続く)

一方、最新の地理院地図だと、素波里ダム周辺はごちゃごちゃしていてよく分からないので、思いっきり拡大してみたのが次の図だ。




これと見較べるべきは、前掲の「地質調査所月報」の図面であるが、すぐに一つの重大な事実に気付いてしまった。
「図面」に引いてあった「ダム中心線」より、実際に建設された素波里ダムの中心線は、数十メートルほど下流に寄っていることに!

誠に残念だが、この位置だと、“長い方”の現存は絶望的のように思われた。
堤体に呑み込まれてしまっている可能性が高い……!

しかし、下流にあった“短い方”ならどうだろうか。
今度はこの位置には、発電所の建物が建っている可能性が……!



……そんなわけで、私が久々に秋田県内において新たな廃隧道と遭遇できるという“夢”を懸けた探索は、相当に厳しい予測を与えられながらも、現地探索なくして結論なしの信念から、一縷の望みを胸に、行なわれたのだった……。

令和2(2020)年6月3日、HAMAMI氏を誘って現地へと向かった私を待ち受けていたのは、なかなかに信じがたい光景だった。



素波里神社から、レッドラインを越えて…


2020/6/3 4:39 《現在地》

かなり久々にやってきた、素波里ダムのすぐ下流にある素波里神社。

道路よりも大きな鳥居が、かつてここが素波里観光の中心地であった名残を感じさせる。
右の広大な空き地にもキャンプ場とかいろいろあったんだが、今は概ね草むらだ。

粕毛支線の軌道跡は、浅渡橋からここまで現在の道路に重なっていて、
途中に遺構らしい遺構は見当たらない。



鳥居を避けて車道は進み、右手に素波里神社の鬱蒼とした社叢と赤と青の社殿を見ながら進む。

写真は振り返って撮影した。
この車道が軌道跡そのものである。




上の写真と同じ立ち位置で進行方向を見ると、素波里不動滝の案内板が指し示す先に、道を塞ぐ門扉がある。
素波里発電所の敷地がこの先にある。

滝へは、門扉の脇に左へ入る歩道があるので、それを数分行けば辿り着ける。私も行ったことがある。




しかしこっちの

発電所の奥へは行ったことがない!

というか、多分行っちゃダメなんだと思うが……

そこに隧道がある可能性が浮上したのなら、川を横断してでも行くのみだ!

しかも、今まで意識したことがなかったが、こうして改めて見れば、
水路と化した不動沢の対岸、ちょうど発電所の建物が背中を預けている
小さな尾根が粕毛川に落ちるところは、ナイフエッジ状の薄尾根になっている気配。

あそこが“短い方”(5号隧道)の存在地ではないのか?!


ああっ! 凄いドキドキしてきたーッ!




第5号隧道(仮称)…古写真の隧道の捜索活動


2020/6/3 5:00 《現在地》

行動を開始した。
不動沢を渡った左岸に発電所の敷地と建物がある。
川沿いの道はこの発電所で行き止まりになっており、奥に既に見えている素波里ダム(それは約200m奥にある、したがって今回の探索はどれほど遠出しても最大で片道200mに過ぎない。そこにこの探索世界の果てがある)へ通じる道は、意外にも存在しない。

多くのダムでは、天端に通じる道は当然あるとして、ダム直下に通じる道もあるが、素波里ダムにはそれがないらしい。
そして、その“ない道”の場所に、かつて森林鉄道があったはずなのだ。大小2本の隧道と共に。

写真の撮影地点は、発電所の敷地の川側を取り巻いている護岸擁壁の外側だ。
チェンジ後の画像に黄色く着色した位置に護岸擁壁があり、その外側へと移動してきた。
どうやったかは想像にお任せしたい。



擁壁の向こう側にさっそく隧道があったりしたら最高だったし、実際ここへ辿り着こうとしている最中は、もの凄い期待感を高めていた。
樹木の多さから見ても、この擁壁の外側には開発の気配を感じなかったし、発電所の存在がバリケードとして働いていただけで、その先には手つかずの廃線跡が隧道と共に残っているのではないか。そんな期待感があった。

だが、そもそも擁壁の向こう側には期待した高さに地面がなかった。
軌道跡の高さは発電所の敷地と同じであるはずだが、擁壁の外側の地面は、それより3m以上は低かった。

しかし、20mほど先には、微かに平場があるような気配があった。
当然、我々は次にそこを目指した。




擁壁の中段から、ぬるっとした感じで湧き出してくる、緑色の平場……。

近づいて見ても、やはりこの地形には人造的な気配を感じた。

もしこれが軌道跡だとすれば……、 この先に!

それほど急ではないものの、草と苔で妙に滑りやすいので、気が急いている私はすぐに登ることが出来ず、もどかしかった。

やっと登った!




緑が濃い!

だが感じるッ!

路盤の気配を。

発電所の奥は、本当に手つかずだったのでは?
工事車両のために大々的に改築したような気配は、とても感じられない。

数分前、隧道の存在を推定した発電所裏手の険しい岩尾根を、川岸に沿って回り込むように平場があるッ!
岩尾根を回り込む途中に、隧道がありそうな気がする!




5:04 《現在地》

なんだここは!

切り通し?

いや、それにしては、地面が凸凹しすぎている気がするぞ。
路盤といえば平らなものじゃないのか?
写真のHAMAMI氏の身長と比較しても、小さな凹凸ではないことが分かるはずだ。

それにしても、大量のツタや低木が呪わしいほど進路を邪魔してくる。
全く誰にも歩かれていない気配が超絶濃厚だ。
撮影のためのポジションを得ることさえ困難だった。




枕木だ!!

HAMAMI氏の足元に、1本だけだが、明らかな枕木があった!

いや、そればかりか、この周囲の小石はバラストのように見える。

ここが……、この激しく凸凹した切り通しのような場所が、

かつての路盤なのか?!

なお、この枕木に犬釘は残されていなかったが、それよりも小さな金属製の鋲が1本だけ、端っこの辺りに刺さっていた。
以前も別の場所でこれを見たことがあるが、枕木の規格に関係したものだったと記憶している。(数字が書かれていたりするのだが、ここのは見えなかった)




ダムが近いッ!

私がいま立っている場所からダムまで、残り150mを切っている。
第5号隧道がなければならない場所、あるべきと推定していた岩尾根の突端はここだった。この足元。
枕木が1本だけ残っていた切り通しのような場所こそが、隧道の擬定地の中心!

どこへいってしまったんだ!! 【古写真】の中の隧道は……。


岩尾根の突端を越えて、さらにダム方向へと進もうとした私を待ち受けていたのは……





5:06 《現在地》

既視感を感じる入江。

【古写真】に見事な木橋が写っていた入江は、きっとここ。

証拠はないが、私の勘がそう告げている。

そして、なんだあれは! 古写真の撮影者の立ち位置に、謎の物体。
“ダム関係者”の雰囲気を色濃く感じさせる、正体不明の巨大コンクリートがある。
橋台にしては不自然な形状で、此岸に対となるものもない。
どちらかというと水門のような形だが、水を通す穴もない。




まだはっきり確定したわけではないが…、

たぶん、第5号隧道の現存は、絶望的になったのだと思う。

発電所の奥は手つかずであることを期待したが、やはりダムは甘くなかった……。
なんの妨げになったか知らないけれど、行きつけの駄賃のように隧道を打ち壊したか。

しかし、まだ可能性が完全に失せたわけではない。
この足元の入江を越えた先が、真の第5号隧道所在地だった可能性もあるし、
それでもダメでも、堤体に呑まれたと推定された第6号隧道が、
奇跡的にはみ出している可能性だって……ゼロじゃない。

進むぞ、HAMAMIさん!
ここを下って、入江を越える!



植物を頼りに、ほぼ直角に切れ落ちた数メートルを下った。
(写真中央に後続して下降中のHAMAMI氏が写っている)

橋台は残っていないが、木橋ならば、木製橋台の可能性がある。
それだと残っていなくても不思議はなかった。


下った先は――



おそろしく静かな入江だった。

そして信じがたいほど美しい…。


私は、昔人が木舟を浮かべて遊んだ、幽玄の素波里、

あるいは、か細い線路を頼って歩いた、冒険の素波里、

失われたと見えた素波里峡の風景が、ここに残されていたことを知った。

失われた勝景を訪ねる道は、いつもこの廃の道だ。