《周辺図(グーグルマップ)》
先日、探索から10年かかってやっと千頭森林鉄道の長編レポートを完結させたばかりの“千頭”だが、今回はそのレポートの中で起点&終点となった大間(おおま)の地に眠る、まだあまり知られていない廃道(廃線跡?)を紹介したい。
千頭森林鉄道とも少なからず関係がありそうな物件だ。
この探索のきっかけは、2019(平成31)年4月に匿名の読者様からメールで寄せられた、以下のような情報だった。
情報という程のものではないのですが、大間ダム建設資材運搬用の鉄道跡が残っており、隧道も二本健在しています。コースは草履石公園からダム管理棟のあたりまでで1kmほどの短かさですが、天子トンネル下部の垂直に近い岩壁に穿たれた隧道の孤高の容姿はまさに圧巻です。
書き出しは謙遜しているが、内容は超HOT!!
なんでも、大間集落の外れにある草履石公園付近から大間ダムの辺りまで約1kmにわたって、大間ダム建設の際に使われた工事用軌道の跡が残っていて、天子トンネルの下方には2本の隧道が残っている?!というではないか。
これまでの千頭林鉄探索の過程でこの区間(大間〜天子トンネル〜大間ダム)を何度も往復しているのに、そんなものが近くにあるとは、ぜんぜん気付かなかったぞ!
さらに、この辺りを描いた歴代の地形図は全て集めたつもりだったし、この辺りに関係する文献の資料だって相当に読んだと思うが、ぜんぜん知らなかったぞーー!!
匿名の情報とはいえ、ガセ情報が寄せられることはほとんどなく、信頼は出来ると思う。
とはいえ、現地の地形をそれなりに知る者として、何度も通った道の近くにそういうものがあるといわれても、即座に信じがたいのもまた事実なわけで……。
実際に現地へ行く前に、保険として、昔の航空写真をチェックをしてみると――。
右図は昭和22(1947)年の航空写真だ。
この当時の大間集落は、まだ寸又峡温泉として発展する前の素朴な山村であったが、ここを通る千頭林鉄はもちろん健在で、柴沢に終点があった歴代最長の時期だった。
その路線の位置は航空写真でもよく見えており(線が見える部分を緑色に着色した)、忠実に現在の右岸林道の位置と重なっている。
そして確かに、大間集落から大間ダムへ向かう林鉄(=右岸林道)と並行する位置に、別のラインが見えていた(見える部分を赤色で表示)。
さすがに航空写真からは、これが道路なのか鉄道なのかの判別が付かないし、大間ダム付近や天子トンネルの辺りがどうなっているかはよく分からないが、少なくとも現在の地形図には描かれていない道が林鉄の下方に並行して存在していたらしいことが分かった。
これが情報提供者のいう、大間ダム建設用軌道なのだろう。
建設用軌道というからには、大間ダムが完成すれば用済みだったように想像するが、少なくともこの航空写真の中では、当時現役だった林鉄と同じくらい鮮明に見えており、廃道になって久しい感じでは明らかにない。何らかの用途に利用され続けていたのだろうか。
航空写真のチェックにより、大間にはまだ探索すべき道が眠っていることが確かめられた。
左図は、昭和13年8月現在における、寸又川周辺の発電所と軌道の概念図だ。
寸又川における最初の水力発電所は、昭和初期に大井川水系での水電事業を目論んでいた富士電力(株)の分社である第二富士電力(株)が、昭和10年9月に竣工させた湯山発電所である。
この事業計画は昭和5年に許可され、寸又川の上流に取水のための千頭堰堤が建設されることになったが、このダムの建設によって不可能になる千頭御料林の木材流送補償および、工事用資材輸送手段として、同社の負担で軌道が敷設された。これが工事完了後の昭和13年12月に帝室林野局に譲渡され千頭林鉄となった、寸又川軌道および大間川支線である。
湯山発電所の完成後、第二富士電力を再び吸収した富士電力は、寸又川第二の発電所として、下流に大間発電所を計画した。同発電所の事業許可は昭和11年8月に出され、同年10月に着工。
湯山発電所に続いて、この工事も請け負った間組が請け負っている。『間組百年史』に次のような記述がある(抜粋)。
工事は寸又川に大間堰堤(堤高32.5m、堤頂長107m)を築造、延長約2kmの圧力隧道で大間発電所に導き、最大出力1万6100kWを得て、放水隧道でふたたび大井川電力の寸又川調整池に放流するものである。
当社は昭和11年11月、大間出張所の直轄下に飛龍詰所、赤石詰所、井川詰所の三つの詰所をおき、工事を進めた。昭和13年8月完成。
なにぶん古い工事であり、これ以上の詳細な情報は今のところ得られていない。
大間ダムの建設に工事用軌道を敷設したというはっきりした記録も見当たらないが、上記引用文中の「大間発電所工事用材料輸送工事」が、それに当たるのではないかと思う。この工事は、発電所の建物新設工事と同程度の高額な請負金額になっており、当時既に寸又川軌道が完成していたことも合わせて考えれば、これを利用した単なる交通費とは考えにくいものがある。
大間発電所の着工時点では既に、ダム建設予定地の上部を寸又川軌道が開通していた。にもかかわらず、並行する工事用軌道を新たに敷設したという点には疑問符が付く。現地探索で地形的な妥当性なども判断したい。ちなみに、寸又川軌道であった時代から帝室林野局による木材輸送は、富士電力の受託輸送という形で行われていたので、その利用との兼ね合いで、新たに工事用軌道を敷設したということも考えられる。
今回探索したものが大間ダム建設用軌道だとすれば、利用された期間は、昭和11年11月から13年8月頃までの短期間だと考えられる。
そしてそれは、千頭林鉄の前身である寸又川軌道と同じ時代の遺物ということになる。
千頭林鉄の風景は既に見慣れたが、その先代の実態と近いものを見られるかも知れない。
このような期待感を持って挑んだ現地調査を待ち受けていたのは、期待通りの風景と、予想外の風景の両方だった。