【この坑門】の反対側を見つけたわけだが、
ちょっと想像していたのとは違っていた…。
2008/3/15 15:11 《現在地》
坑口はほとんど土砂に埋め戻されており、開口部の高さは1mにも満たなかった。さらに周囲には笹が密生し、遠目にはここに坑門があるとは分からないだろう。
そしてそんな坑門は、これまで見たことがないと思えるほどに、もの凄く風化していた。
素材としては先に見た北口と同じくコンクリート製なのだが、僅か数十メートルを隔てて近接する、同じ時代の構造物とは思えないほどの風化ぶり。
今さらだが、コンクリート(混凝土)とは、骨材といわれる砂利や砂を水とセメントなどで混ぜ合わせて作る、人工的な「石」である。
だから風化などが原因で本来のコンクリート構造物らしい人工的な形状が失われてくると、外見的には礫混じりの砂岩と大差なくなってくるものである。
そして風化の進み具合、すなわち劣化の度合いは、経過した時間とその環境は当然としても、コンクリート自体の品質によっても大きく変わってくるという。
何が言いたいかと言えば、この坑門はあまりいいコンクリートを使っていないのじゃないかと、そう疑われる。
この異様な坑門を目の当たりにして、私はこの探索中はじめて、この隧道はいつどんな環境で生み出されたんだろう? という疑問を持った。
探索当時は東京に引っ越してきてまだ2年目で、千葉の鉄道網がどんなものであるかもよく知らなかったし、友人の案内に身を任せていたから、事前にどんな場所に行くのかという最低限の下調べもしていなかった。腑抜けていた。
しかし、この遭遇で俄然興味を持った私は、帰宅後に改めて小湊鉄道のことを調べてみた。
これはよく知られているとおり、小湊鉄道という社名は、現在の鴨川市小湊に由来している。
小湊には一時期同社最大の株主となっていた誕生寺があり、清澄山地を貫いて房総半島内陸部を南北に縦断する鉄道(電車)が目論まれていたのである。
だが当初から資金繰りは苦しく、大正14年の第一次開業(五井〜里見間(25.7km))までも、会社設立から8年もかかっている。
やや大きな橋が3つとトンネルは1つだけという、比較的容易な工事であったにもかかわらずだ。
そしてこのあとの延伸は、大正15年に月崎へ、昭和3年には遂に房総半島の分水嶺を越えて上総中野まで達したが、その先は清澄山地が険しく立ちはだかり、利益が期待できないとして着工されずに終わった。
以上のような小湊鉄道建設小史を見ただけで、この目の前にある構造物の低品質を「判った」と納得するのは、少々飛躍が過ぎるか。
資金難による低品位自体想像の産物だし、他にもっと有力な事情があったかも知れない。
たとえば、技術不足。
この路線の工事は、千葉にあった鉄道連隊の訓練を兼ねて行われていたという記録があり、土木構造物も専門の職人よりは低熟練の人間によって建設された可能性がある。
また、コンクリートの品質自体に問題があったかもしれない。
小湊鉄道が第一次開業の終点を里見としたのは、そこに同社の収入源だった砂利採取場があったからである。(側線が廃線として残っている)
おそらく当路線の工事にも用いられただろう砂利に、過剰に塩分を含むなどの、品質的な問題があった可能性もゼロではない。
もっと単純な見方も可能だ。
先に第一次開業区間にあった隧道は1本だけだと述べたが、ここがそれだ。
残念ながら名称不明だが、小湊鉄道史上の記念すべき第一号隧道なのだ。
煉瓦やコンクリートブロックを用いても不思議はない時代に施工された、初期の(場所打ち)コンクリート構造物ということになる。
国鉄ほどに技術の蓄積もなかった小私鉄が、砂利採取事業に懸ける心意気とばかりに手がけた最初のコンクリートトンネルが、思いがけず低品位に仕上がってしまったという仮説も成り立つ。
こんなにウダウダ語りつつ、真相は闇の中というのが憎たらしいが…。
ともかく“机のうえ”はもう終わり、あとは現地探索の模様をどうぞ。
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前述の通り、隧道はほとんど埋没しているので、天井付近を擦るようにして入ることになる。
で、間近にある天井には、見慣れぬ作りをした鉄の骨組みが巻き付けられていた。
古い鉄道隧道ではたまに見る補強用の鋼製セントルというやつだが、これは国鉄で一般的に使われている廃レールを用いたものではない。また、柱と柱の間まで金網で完全に覆っているというのも、初めて見る構造。
一見して素材の鉄は錆びついており、相当に昔から設置されているように見えた。そしてこのことは、坑門コンクリートの凄まじい劣化ぶりが、内壁にも共通していることを感じさせた。
←なんつっても、セントルに巻かれていない入口の部分は、ここまで風化が進んでいるのだ。
素手で触ってみたが、爪を立てるまでもなく容易にボロボロと崩れてきた。
はっきり言って、石綿と大差ない手触りだった。
こんな状況では、地山の圧力に抵抗する云々以前に、巻き立て自体がその自重で崩壊してこないか不安だし、もしかしたらセントルの存在意義も大半はそこにあるのかも知れない。
少なくとも壁を覆う金網のメッシュは、剥離した表面がこぼれ落ちてこないようにするためだろう。
(よく見ると目の細かいのと荒いのと二重巻きだった…)
隧道には無事に入ることが出来たわけだが…
水没ですよね。
分かります。
全長(目測)40mほどのうち、ほんの3mほど入っただけであるが、残りは長靴が無意味な深さで水没していた。
洞内は緩やかにカーブしているものの、透き通った水鏡は外光を内壁全体に反射しており、見えないところはない。
これ以上無理矢理進む意義は感じられないので、ここは大人しく撤退することにした。
15:15 《現在地》
地上に戻ってきた。
前回も半信半疑で見ていた風景だが、やっぱり改めて見ても、全く旧線のあった痕跡はない。
そもそも、隧道の洞床の高さを考えれば、目の前の景色は全て洞床より高い。
ようは、綺麗さっぱり埋め戻されたと言うことだ。
唯一当時の遺構かも知れないと思ったのは、右にあるコンクリート製の土台のようなものだが…、正体不明。
そして隧道から真っ直ぐ進んだ先には、穏やかな水を湛えた湖が横たわっている。
これは高滝湖といい、養老川を高滝ダムで堰き止めた、まだ新しい人造湖だ。
立地的には、ダムの完成によって旧線が水没するために新線を作ったではないかと言うことを疑っていたのだが…。
…どうなんだろうか?
実際に現地を見てみると、ダム湖に近接しているのはこの橋だけだし、高さ的にも旧線はぎりぎり水没していない感じだが…。
現在線の橋は、鉄道橋としてはやや珍しい、立派な欄干を有する橋だった。
また、これまた鉄道用橋としては珍しく、道路橋のような銘板があった。
ただし、どういう訳か銘板は取り外されており(それとも最初から取り付けられていなかったのか)、線路の外の草むらに放り投げられてあった。
しかしこれで橋の名前が明確に判明した。
「第三養老川橋」である。
旧橋も同名だろう。
キター!
てな感じで、1両だけキタ。
高滝ダムはおそらくこれで満水なんだろうけれど、とにかく橋と水面の高低差が小さい。
さらに橋の下には車道が一本通っているのだが、
何気なくそれを見ていて、発見!
15:27 《現在地》
割とインパクトは弱いが
旧橋の橋台を発見!
インパクトは弱いが、結構重要な発見かと思う。
何が分かったって、これで旧橋がダムに水没まではしないまでも、そのままでは使えない高さだったということがはっきりした。
橋台の形状から考えて旧橋はプレートガーダーだと思うが、水面と橋の下面の高低差が1mも無いというのは、ちょっと考えられないだろう。
よって、旧線が新線に切り替えられた時期は、ダムの完成よりも前ということになる。
と同時に、新線はダムを前提とした高さに架かっていることから、
この線路変更はダム建設に伴うものだったと判断できる。
ただ、あの隧道の老朽ぶりも気になる。
ここから先は想像だが、線形的には隧道を活かしたまま橋を隣に架け替えるくらいの余地はあったと思う。
しかしそれを選ばなかったのは、やはり隧道にも問題があったからだと思うが、どうだろう。
ここに架かっていた旧第三養老川橋もまた、鉄道連隊の人海戦術によって架けられたのだろうか。
高滝ダムによって水位が20m以上も高くなっているが、本来はかなり深い谷間が口を開けていたはず。
そして一連の旧線は、この橋を渡り終えたあたりで新線と合流していたようだ。
新線と旧線の最大5mほどの高低差は、おそらく対岸に見えている新線の築堤で吸収されるのだろう。
分岐部分に特に遺構は無いようなので、探索を終了した。
長さ約400mのミニ旧線。
この短かさの割に橋と隧道が1つ存在しているのはお得だが、如何せん、これらを結ぶ路盤が完全に埋め戻されているために、旧線跡を探索しているという感じは余りしない…というのが正直なところだろうか。
しかし何度も言うように、今回見た遺構はどれも小湊鉄道の草創期のものであり、地味だが歴史的な価値はあるものと思う。
また、ダムによる水没ではなく、水位上昇を原因にした路線の付け替えというのも、あまり例がないように思われる。
最後に線路切り替えの時期を改めて確認するために、新線と旧線がそれぞれ写された航空写真を見ておこう。
←昭和49年撮影
(国土画像観覧システム)
昭和63年撮影→
(国土画像観覧システム)
本編では、高滝ダムの建設に合わせて線路切り替えが行われたと判断したが、高滝ダム建設事業は昭和45年から平成2年まで20年がかりで行われたものであり(参考:「ダムマニア:高滝ダム」)、実際にいつ切り替えられたのか謎だったが、航空写真によっていくぶん絞り込まれた。
結論。
昭和49年から63年までの間。
最後に地形図も確認。
これは昭和27年応急修正版なので、もちろん描かれているのは旧線時代。
短い隧道がしっかりと描かれている。
…県道にも、隧道あるね…。
気になる? やっぱり…。
旧道の北側の入口。
と、こう書くと目の前の細い上り坂が旧道のようだが、違う。
昭和63年の航空写真でもうっすらと残る旧道は、この坂道の更に左。
明らかに民地化していそうな低利用地が、それである。
奥の竹藪へ進む。
けほっ けほっ!
思わず乾いた笹のカスが口や鼻に入ってきそうな、乾いた竹林。
林相は極めて荒れており、立ち入る人は少ないことを感じさせる。
しかしこう見えても、実際は昭和49年の時点で現役だったわけで、竹の生長する力の強さに感心する。
なお、向かって左側にはコンクリートの擁壁がある。
なんじゃこりゃあああ!
私有地なんだろう。多分。
そこに私は勝手に入り込んでいる可能性が高いので、まあ…
上の太文字は現地での感想と言うことで、ひ、批判じゃないよ…うん…。
なんじゃこりゃあああ!
竹藪となった堀割は、廃車の投棄場になっていた。
普通じゃない転がり方(ひっくり返ったりしている)だが、おそらく右の坂道から転げ落としたんだろうな…。(上の道から見下ろした様子)
この時点で、前進する気力の90%を使い果たしてしまったが、幸いというかなんというか、…もう行き止まりだった。
写真奥に見える土の壁が堀割の終点で、本当ならばそこいらにあっただろう旧隧道の入口は、跡形もなかった。
隧道は口を開けておらず、堀割の終点から上に登ると、そこは墓地だった。
さすがに地被りが小さすぎる(隧道の必要性を感じない)ので、堀割の末端部は埋め戻されているのかも知れない。
よく分からないが、この墓地の広がりがおそらく隧道の全長に近いだろう。
…100mほどである。
そしてこれが、隧道の南口があったであろう一角。
こちらも全く痕跡を留めていない。
高さ的に見ても、道路ごと坑口は埋め戻されているように思われる。
旧線の方もそうだったが、廃を遊ばせておく風土ではないのかも知れない。
なお、この隧道は「道路トンネル大鑑」巻末のリストにある「久保隧道」と思われる。
隧道名:久保隧道/所在地:南総町(※加茂村の間違いか)高滝/路線名:主要地方道南総天津小湊線/全長:99m/車道幅員:4m/限界高:4.6m/竣工年度:不詳/素堀 覆工の別:素堀/舗装:未
竣工年が不明とのことだが、明治の地形図には描かれていない。
また廃止年度は、昭和49年から昭和63年の間と言うことになる。おそらくこちらもダム工事に付随する付け替えだったのだろう。
養老川を渡るところには、やはり橋が架かっていた。
しかし、この旧橋も橋台だけを残して消滅していた。
対岸には現在も生活道路と化した旧道があるようだが、時間的な都合で探索はしなかった。
完全に蛇足だったかも知れないが、以上で旧道のほうの隧道探索の報告を終える。