JR上越線 旧湯檜曽駅跡 前編

公開日 2012.5.11
探索日 2007.9.26
所在地 群馬県みなかみ町


【周辺図(マピオン)】

昭和6年、当時日本最長の鉄道トンネルだった清水隧道(全長9702m)を含む希代の難工事が終わり、北と南の上越線は1本に繋がった。
これにより上越線は、東京新潟間の信越本線に代わる幹線として生まれ変わり、後の複線化や、平行する上越新幹線の開通へ向け、長い繁栄の道を歩み始めることとなったのである。

このときに開通したのは、群馬県の水上(みなかみ)駅から、新潟県の越後湯沢駅までの約35kmの区間であったが、途中駅は湯檜曽(ゆびそ)と越後中里の2駅だけであった(平成24年現在では5駅に増加)。
そして、当時の湯檜曽駅は、現在の湯檜曽駅と異なる位置にあった。

駅位置の変化を示したのが右の地図である。
新旧駅間の直線距離は、たった500mほどである。
だがその一方、線路に沿った距離を見ると、実に3.7km近くも離れているのだ。
そしてこのあいだに横たわっているのは、上越線清水峠越えのシンボル的存在としてよく知られる、湯檜曽ループトンネルである。
これがあるため両駅間の高低差は、50mもある。

今回訪れるのは、上越線開通当初の旧湯檜曽駅の跡地だ。


だが、現地を紹介する前に、駅移転の経緯を含む歴史の話を先にしよう。

まずは次の年表を見ていただきたいのだが、ここに登場する【A地点】【B地点】とは、それぞれ上図の通り、旧湯檜曽駅と新湯檜曽駅の位置で起きた出来事を示していることに注意していただきたい。

A地点の出来事B地点の出来事
昭和6年9月上越線 単線開業
(旧)湯檜曽駅 開業
昭和24年12月大穴仮乗降場 開業
昭和38年3月大穴仮乗降場 廃止
12月新湯檜曽信号場 新設
昭和42年9月複線化開業 (従来線は上り線に)
北湯檜曽信号場 新設(新)湯檜曽駅 開業(駅移設完了)
昭和59年11月北湯檜曽信号場 廃止
現在

いかがだろう。

駅の移転という大筋については、上図のうち赤く着色した部分だけを追っていけば良い。
つまり、昭和6年に湯檜曽駅は旧位置に開業し、昭和42年の複線化開業に合わせて、新位置に移転したということである。
ただ、上の図が少し複雑になっているのは、旧新位置ともに、それぞれ湯檜曽駅として使われる前後史があるせいだ。
例えば、昭和24年12月から昭和38年3月までの期間、大穴仮乗降場と呼ばれる仮駅が現在の湯檜曽駅の位置に存在していたこと。
そしてもうひとつ、旧駅が廃止された昭和42年9月以降も、昭和59年11月までそこに北湯檜曽信号場が置かれていた事だ。




『町誌みなかみ(昭和39年発行)』より転載。

大穴仮乗降場については、それの現役当時に書かれた『町誌みなかみ』に、右の1枚の写真と共に僅かながら記録されていた。
p.359より引用しよう。(ちなみに当駅絡みの記述はこれで全てだ)

大穴仮停車場
昭和24年12月より、冬季スキー客乗降のため開設、12月20日―3月10日間列車が停車する。複線化のため昭和38年3月10日で一応閉鎖の予定。

冒頭に掲載した地図にも、現在の湯檜曽駅のそばに大穴スキー場が描かれているが、このスキー場は歴史が深く、大穴仮停車場(仮乗降場とも)はその最寄り駅として冬期間限定で運用されていた模様である。その盛況ぶりは写真からもよく分かるだろう。




『町誌みなかみ(昭和39年発行)』より転載。

そしてこちらの写真は、旧湯檜曽駅のホーム上で撮影されたものだ。

残念ながら周りの景色はよく分からないが、架線柱の配置の具合などから、交換可能な配線であったことや、ホームが緩やかに湾曲していたことなどが窺える。

湯檜曽駅
沿革 昭和6年9月1日、上越線全通と同時に開通、当初から電化された。この駅は地形の関係上、湯檜曽部落より140メートル(※)高位置にあって、ループ隧道の頂点にあり、大荷物の取扱いは出来ない。一時エレベーターによる昇降を開始したが程なく廃止した。
(※実際には50m前後である

このように、当初から集落との大きな高低差や、大荷物の取り扱いが出来ないことなど、不便さと同居する駅だったことが窺える。
後に移転となった原因は、複線化だけではなかったのかもしれない。




『町誌みなかみ(昭和39年発行)』より転載。

この写真は、【このへん(地図)】から旧湯檜曽駅方向を写している。
右端の鉄橋(第一湯檜曽川橋梁)を渡った線路は、すぐに全長1753mの第一湯檜曽隧道に入る。
これが世にいうループトンネルで、地中に半径約500mの円形を描きつつ高度を上昇、短い明りを経て第二湯檜曽隧道(全長423m)をくぐるとループが一周し、以降は明りで黄線のごとく山腹を横断している。そして、この壮大なループにより、上越国境清水隧道へ向けて貴重な50mの高低差を稼ぎ出す。

さて、肝心の湯檜曽駅なのであるが、残念ながら写真からはよく判別出来なかった。
しかし、当時の地図などと照らし合わせると、赤い矢印の位置にあることは間違いない。
いずれ、写真を見るだけでも、そこが急な斜面の中腹であるが分かる。
これでは確かに、相当窮屈な駅であったろうと思うのだ。



さて、前置きはこのくらいにして、見に行ってみよう。

旧湯檜曽駅跡地を。



現在の湯檜曽駅から、旧湯檜曽駅へ向かう



2007/9/26 13:12 《現在地》

これが、現在の湯檜曽駅。

…と言いたいところだが、いまここを訪れても、もう壮大なこの駅舎を見る事は出来ない。
昭和42年の新駅完成と同時に使われ始めた駅舎は、それ自体の老朽化や利用客数の減少によって解体され、私が訪れた3年半後の平成22年1月から、こじんまりとした新駅舎に変わっている。
(私が訪れた時も広い駅舎内はがらんどうのようで、外壁の消えかけたペンキの文字「湯檜曽駅」も侘びしさを醸し出していた)

しかし、それでも駅の位置自体は変化しておらず、湯檜曽集落内の国道291号脇に相変わらず大きな敷地をもって存在している。
また、旧駅舎時代でも既に「大穴仮乗降場」の痕跡を見出すことは不可能であったから、現在ではなおさらだろう。

ここから旧駅への短い旅を開始する。




現湯檜曽駅前から100mばかり国道を進むと、上越線の上り線と国道が並行して湯檜曽川を渡る。
国道は湯檜曽橋、鉄道は第一湯檜曽川橋梁である。
そして、線路が向かっていく山の上の方に目を向ければ、そこにはループ隧道の先のラインが見えるのである。
目指す旧駅があるのもあの高さだから、「ムムムッ」という感じである。

それにしても、この鉄道と国道の位置関係と線形は、昭和6年当時から何も変化していない。
強いて言えば、国道が昭和6年当時まだ県道であったくらいである。(道路の湯檜曽橋も昭和6年竣工の古橋である…ただし、平成24年度内に架け替えられるらしい…)

今回の本題とはずれるが、この湯檜曽橋の親柱のひとつには「縣界へ十六粁四」と刻まれている。
これは新潟県境清水峠までの距離を示しているが、明治の「清水新道」経由とは距離が一致しないので、湯檜曽川沿いの登山道経由であるようだ。



湯檜曽橋を渡ると国道は直角に左へ折れ、そのまま湯檜曽の集落へ入る。
ここは湯檜曽温泉街でもあるが、いまだバイパスはされておらず、1.5車線の前世代的街路国道となっている。

湯檜曽の歴史は、ここが南口となる清水峠とは切っても切り離せない関係がある。
清水峠が初めて歴史書に現われる戦国時代は元より、その通行が幕府によって厳重に取り締まられた近世あっても、やはり関東と北国の界として一定の存在感を維持し続けた。
さらに明治時代の清水国道の開鑿は、廃道となるまでの僅かな期間とは言え、ここを宿駅として栄えさせたし、大正期から長期間に亘って続けられた鉄道工事にあっては、述べ291万人もの工事従事者の多くが、この地と何らかの関わりを持った。

そして鉄道の開通は東京との直結を意味し、湯檜曽温泉や大穴スキー場、さらにアルピニスト羨望の谷川岳の玄関口として、多くの観光客を誘い続けたのである。

最近でこそ、その繁栄にはいくらかの疲れが見られるものの、依然として清水峠がある限り、この地が無人となることは考えられないのである。




13:47 《現在地》

湯檜曽橋から500m、道の両脇の集落が途切れはじめるこの場所に、1本の老木を背負った大きな石碑が建っている。

やや黄ばんだ表面に深々と刻まれた文字は、「上越南線 殉死者 供養塔」。

大正11年にはじまり、昭和4年に概ね完成した清水隧道の工事では、44人の犠牲者が記録されている。
このうち上越南線とは、この全長9702mの清水隧道ほぼ中央に設けられた茂倉信号所(もちろん地中である)以南、前橋までの長い区間を示していたが、昭和6年の全線開業を契機に上越北線と合併し、上越線に改名された経緯がある。

しかし、どうしてこの路傍に突然、鉄道の供養塔が建てられているのか。
その答えは明瞭である。
それは、ここが旧湯檜曽駅の入口だったからに他ならない。



駅への進入路へは、湯檜曽の集落から来ると150度くらい転回しなければならない。
しかも、前述したとおりここはもう集落の端であり、今の駅に較べると不便な立地である。
もっとも、駅が移転してから既に40年余りも経過しているのだから、この風景だけで両者の立地の優劣を語るのはナンセンスかもしれないが…。

そして、この“旧駅前”が未だ交通における一定のシンボル性を保っていると感じられるのは、ここに「ゆびそ温泉」というバス停があることだ。
このバス停には、かなり年季の入ったコンクリート造りの待合室が附属しているが、これは旧駅時代からのものではないかと思案される。





さて、旧駅へ進もう。

150度ターンして、この少々頼りなさげな細道へ。

そしてこれは予想していたとおりだが、最初からもの凄い急坂だ。




ものすごい急坂!!

+ 道も狭い

= スゴク頼りない!


しかし、路傍には(雑草に絡まれてものすごく息苦しそうな)サクラの老木が、
ちょっとした並木になっていたりと、微かだが、

駅前通の雰囲気が、ないわけではない。

未解明事項がある。それは、湯檜曽停車場線なる県道が存在していたかだ。
もし存在していたならば、この道は旧県道だったということになるだろう。



13:50 《現在地》

入口を出発して3分後、あっという間に息切れさせられた私であったが、どうにか自転車を無人の広場まで引っ張り上げた。

ようやく、駅前に辿りついたらしい。

ああきつかった。
でも、ひどい急坂だったのは肯ける。

なにせ、地図を見ると分かるが、入口から駅までの高低差が50mもあるのに、水平距離はたったの200mしかないのだ。
これって、単純計算しても平均勾配25%という…。


…うん。ちょっとありえないよね。

25%は流石にナイ。

あっても15%くらいだった。


……ということは、 どういうこと??





駅は、
まだ上!


こいつは、なかなかエキサイティング!!

ホームへの通路が、バリアフリーへの嫌がらせに他ならない。
これは確かにエレベーターかエスカレーターが欲しいレベルといえるだろう。

まあ、東京の大深度地下にある地下鉄駅なんかも、もし歩いたらこんな感じなんかもしれないが。
そして、この隣の土合(どあい)駅の下り線ホームから地上に出るときも、462段もの階段を歩かされるワケだが(高低差81m)…。

湯檜曽駅も、昔はそれに負けないような“登山駅”だったんだなァ。
たまにならいいけど、日常使いにはキツイだろ。


次回は、ホーム“登頂”すっぞ!