上段は人車鉄道時代、
下段は軽便鉄道時代。
“豆相人車鉄道 & 熱海鉄道”。
これらの路線が、一般的にどの程度有名なのか、正直ちょっと分からない。
ただ私の中では、結構有名どころの廃線という風に認識している。
廃線ファンのバイブルといわれる『鉄道廃線跡を歩く』シリーズでも、初期作の「第2巻」でしっかり採り上げられているし、より詳細な情報を知りたければ『静岡県鉄道軌道史』(森信勝著)は無二の資料である。
また、ウィキペディアの「熱海鉄道」の項目も良くまとめられているので、私も今回は喜んで歴史解説はサボらせてもらうことにする。
そこで話を、豆相(ずそう)人車鉄道の“有名さ”に戻す。
この路線は、少なくとも「人車鉄道」なる、人間が客車を押すという際だった特徴を持つ鉄道の中では、全国一有名なものと考えている。
そのように考える理由は、豆相人車鉄道が馬匹に較べて非力な人力を動力としながらも、全長25.6kmという、この種の鉄道では圧倒的な長さを誇っていたことや、芥川龍之介の小説作品『トロッコ』の中で印象的に描かれたこと。さらに、小田原と熱海を結ぶという鉄道としての役割が後の東海道線や東海道新幹線に受け継がれたことから、一帯がわが国の鉄道発達史上における技術の変遷を感じ取れる舞台となっていることなどが、挙げられるかと思う。
小田原市根府川付近の廃線跡の模様。 付近に根府川駅跡があったことを記す 立派な案内板が整備されている。 |
これも小田原市根府川付近の廃線跡風景。 現在は県道(旧国道)になっていて、 右上に東海道線が並走。交通の輻輳を感じる。 |
事実、今日その廃線跡を歩いてみると、沿線の随所に本線に関わる案内板や、復元されたレプリカ車両などを見る事ができ、観光客や鉄道廃線ファンに対して向けられた、地域の誇らしさを感じ取ることが出来る。そういう意味では、「碓氷峠アプトの道」として活用されている信越本線の旧線跡と似た、廃であって廃ではない生気の感じられる廃線跡である。
なお、本線の全線にわたる詳細な現状レポートとしては、『歩鉄の達人』さんの記事をおすすめしたい。
このように、廃止から非常に長い時間が経過しているにも拘わらず、今なお地域の役に立っているという“殊勝すぎる”本路線であるが、私のように偏屈なほどに“廃然”とした廃線跡を好む一部の廃線ファンにとっては、あまり食指が動かないかもしれない。
そもそもの話、この路線に純然たる(= 一切転用されていない)“廃線路盤跡”が存在するのだろうか。
……という疑問を私は持っていたし、寡聞にして私は今までそういうものが見つかったという話を聞いたことが無かった。
本線が誕生したのは明治28(1895)年と極めて古い。そして明治40(1907)年に改軌され蒸気機関車が牽引する軽便鉄道「熱海鉄道」となった本線の実質的な廃止は、大正12(1923)年である。
これは既に、廃止から100年近い時間が経過してしまっていることを示している。
交通が輻輳している本地域にとって、この古さは非常に厳しい条件といえるだろう。
しかもである。この路線(人車鉄道も軽便鉄道も)の大半(おおよそ9割)は、道路上に線路を敷いた併用軌道として運用されていたとされる。そのため廃線後も道路として活用された。その中には現在も国道として働いている部分さえある。
さらに駄目押しとばかりに、人車鉄道や軽便鉄道というものの構造は一般に軽易で、土木構造物の規模も小さかった。特に25.6kmもある全線に、ただの1本も隧道が掘られなかったことは有名である。
……ここまでの情報を読んで(知っていた方も多いだろう)、次のように思った方は多いだろう。
「じゃあ、お前はここで何を紹介するんだよ?」
その答えはもちろん――
廃線跡である。
私は以前から、豆相人車鉄道(および熱海鉄道)にも“純然たる廃線跡”(繰り返すが、廃止後に他の用途に転用されていない廃線跡のこと)がないだろうかと考えていた。 そしてもしもあるのならば、自分の手で見つけたいとも。
それで、これまで数度に分けて、旧版地形図などから把握した廃線跡を調べてきた。
結果、何カ所かは廃止後に転用をされなかったとみられる廃線跡を見つけたが、それらはいずれも「小渓流や河川を渡る橋の前後」という極めて限定された環境であり、望むような遺構らしい遺構(橋はむろん、橋台や橋脚さえ)見つけたことはない。(都市開発に呑み込まれている部分も多く、それは論外である。)
今回行った探索は、この路線の全線を一巡する探索のうち、最後まで未探索だった区間である。
ゆえに、もしここで目立った成果がなければ、「本線には純然たる廃線跡はない」と結論付け、(無念の全ボツで)一連の探索を終結させるつもりであった。
そんな背水の陣で臨む今回の探索区間とは、熱海市北部の大字泉から大字伊豆山にかけての海岸沿い、「大黒崎」 周辺(から終点の熱海まで)である。
次に、大黒(おおくろ)崎一帯を描いた新旧の地形図をご覧頂こう。
←これを見て頂ければお分かりの通り、全線の約9割が併用軌道であったと言われる本線中で、大黒崎周辺には珍しくまとまった長さの専用軌道があったと思われる。
もっとも、地形図がそのように描いているだけで、本線を採り上げる色々な書籍の説明文などをみても、このことに触れたものはあまり見たことがない。
ただ明治時代の地形図が、このように門川(現神奈川県湯河原町門川(もんがわ/もがわ))から稲村(現静岡県熱海市伊豆山稲村)までの約2kmにわたって、軌道を専用線として描いているのである。
このことは、私がここを期待すべき区間と見做し、最後まで探索を楽しみにしていた(そして恐れてもいた)ことの一番の理由である。
これがダメなら、全部ダメだったと諦めもつくだろう。
だが、このようにややまとまった長さの専用線があったとしてもなお、楽観視を許さない事情があった。ソレハナニカ。
←このように、廃線から非常に長い時間を経た現在では、かつて専用線の廃線跡があっただろう海岸線に、「熱海ビーチライン」という名の大規模な自動車専用有料道路を出現させてた。さらに、区間の核心部といえる大黒崎に至っては、「東熱海別荘地」として大規模な開発を受けていたのである。
大丈夫なのか? それとも、ダメなのか…。
『鉄道廃線跡を歩く(2)』より転載。
実はこれと関連し、既に紹介した『鉄道廃線跡を歩く(2)』に、右の写真が掲載されている。
いまでも難所の大黒崎付近、この断崖のどこかに人車軌道は走っていた
――という、非常にそそる放任的なキャプションが印象的で、これも私が大黒崎一帯での廃線跡発見を期待した大きな理由の一つなのだが、正直この写真の状況では、猛烈な夏草のせいで、廃線跡があったとしても発見は困難だろうと恐れた。地形の悪さ(険しさ)も本物だ。
そんなわけで、私は現地の藪が最も薄くなる時期を選んで探索した。 2016年2月21日、探索決行である。
果たして、大黒崎の断崖に
約100年前の人車軌道や軽便鉄道の痕跡は
残っているであろうか。
もし上手く見つかりましたら、拍手のほどを、お願い申し上げますー。