廃線レポート 豆相人車鉄道・熱海鉄道 大黒崎周辺 第1回

公開日 2016.3.18
探索日 2016.2.21
所在地 静岡県熱海市




『静岡県鉄道軌道史』より転載(2点とも)。
上段は人車鉄道時代、
下段は軽便鉄道時代。

日本鉄道旅行地図帳 4号 関東2
より転載、一部著者加工。

“豆相人車鉄道熱海鉄道”。

これらの路線が、一般的にどの程度有名なのか、正直ちょっと分からない。
ただ私の中では、結構有名どころの廃線という風に認識している。
廃線ファンのバイブルといわれる『鉄道廃線跡を歩く』シリーズでも、初期作の「第2巻」でしっかり採り上げられているし、より詳細な情報を知りたければ『静岡県鉄道軌道史』(森信勝著)は無二の資料である。
また、ウィキペディアの「熱海鉄道」の項目も良くまとめられているので、私も今回は喜んで歴史解説はサボらせてもらうことにする。

そこで話を、豆相(ずそう)人車鉄道の“有名さ”に戻す。
この路線は、少なくとも「人車鉄道」なる、人間が客車を押すという際だった特徴を持つ鉄道の中では、全国一有名なものと考えている。
そのように考える理由は、豆相人車鉄道が馬匹に較べて非力な人力を動力としながらも、全長25.6kmという、この種の鉄道では圧倒的な長さを誇っていたことや、芥川龍之介の小説作品『トロッコ』の中で印象的に描かれたこと。さらに、小田原と熱海を結ぶという鉄道としての役割が後の東海道線や東海道新幹線に受け継がれたことから、一帯がわが国の鉄道発達史上における技術の変遷を感じ取れる舞台となっていることなどが、挙げられるかと思う。




小田原市根府川付近の廃線跡の模様。
付近に根府川駅跡があったことを記す
立派な案内板が整備されている。

これも小田原市根府川付近の廃線跡風景。
現在は県道(旧国道)になっていて、
右上に東海道線が並走。交通の輻輳を感じる。

事実、今日その廃線跡を歩いてみると、沿線の随所に本線に関わる案内板や、復元されたレプリカ車両などを見る事ができ、観光客や鉄道廃線ファンに対して向けられた、地域の誇らしさを感じ取ることが出来る。そういう意味では、「碓氷峠アプトの道」として活用されている信越本線の旧線跡と似た、廃であって廃ではない生気の感じられる廃線跡である。
なお、本線の全線にわたる詳細な現状レポートとしては、『歩鉄の達人』さんの記事をおすすめしたい。

このように、廃止から非常に長い時間が経過しているにも拘わらず、今なお地域の役に立っているという“殊勝すぎる”本路線であるが、私のように偏屈なほどに“廃然”とした廃線跡を好む一部の廃線ファンにとっては、あまり食指が動かないかもしれない。

そもそもの話、この路線に純然たる(= 一切転用されていない)“廃線路盤跡”が存在するのだろうか。
……という疑問を私は持っていたし、寡聞にして私は今までそういうものが見つかったという話を聞いたことが無かった。

本線が誕生したのは明治28(1895)年と極めて古い。そして明治40(1907)年に改軌され蒸気機関車が牽引する軽便鉄道「熱海鉄道」となった本線の実質的な廃止は、大正12(1923)年である。
これは既に、廃止から100年近い時間が経過してしまっていることを示している。
交通が輻輳している本地域にとって、この古さは非常に厳しい条件といえるだろう。

しかもである。この路線(人車鉄道も軽便鉄道も)の大半(おおよそ9割)は、道路上に線路を敷いた併用軌道として運用されていたとされる。そのため廃線後も道路として活用された。その中には現在も国道として働いている部分さえある。
さらに駄目押しとばかりに、人車鉄道や軽便鉄道というものの構造は一般に軽易で、土木構造物の規模も小さかった。特に25.6kmもある全線に、ただの1本も隧道が掘られなかったことは有名である。


……ここまでの情報を読んで(知っていた方も多いだろう)、次のように思った方は多いだろう。

「じゃあ、お前はここで何を紹介するんだよ?」



その答えはもちろん―― 





廃線跡である。

私は以前から、豆相人車鉄道(および熱海鉄道)にも“純然たる廃線跡”(繰り返すが、廃止後に他の用途に転用されていない廃線跡のこと)がないだろうかと考えていた。 そしてもしもあるのならば、自分の手で見つけたいとも。

それで、これまで数度に分けて、旧版地形図などから把握した廃線跡を調べてきた。
結果、何カ所かは廃止後に転用をされなかったとみられる廃線跡を見つけたが、それらはいずれも「小渓流や河川を渡る橋の前後」という極めて限定された環境であり、望むような遺構らしい遺構(橋はむろん、橋台や橋脚さえ)見つけたことはない。(都市開発に呑み込まれている部分も多く、それは論外である。)

今回行った探索は、この路線の全線を一巡する探索のうち、最後まで未探索だった区間である。
ゆえに、もしここで目立った成果がなければ、「本線には純然たる廃線跡はない」と結論付け、(無念の全ボツで)一連の探索を終結させるつもりであった。
そんな背水の陣で臨む今回の探索区間とは、熱海市北部の大字泉から大字伊豆山にかけての海岸沿い、「大黒崎」 周辺(から終点の熱海まで)である。

次に、大黒(おおくろ)崎一帯を描いた新旧の地形図をご覧頂こう。


←これを見て頂ければお分かりの通り、全線の約9割が併用軌道であったと言われる本線中で、大黒崎周辺には珍しくまとまった長さの専用軌道があったと思われる。

もっとも、地形図がそのように描いているだけで、本線を採り上げる色々な書籍の説明文などをみても、このことに触れたものはあまり見たことがない。
ただ明治時代の地形図が、このように門川(現神奈川県湯河原町門川(もんがわ/もがわ))から稲村(現静岡県熱海市伊豆山稲村)までの約2kmにわたって、軌道を専用線として描いているのである。

このことは、私がここを期待すべき区間と見做し、最後まで探索を楽しみにしていた(そして恐れてもいた)ことの一番の理由である。
これがダメなら、全部ダメだったと諦めもつくだろう。
だが、このようにややまとまった長さの専用線があったとしてもなお、楽観視を許さない事情があった。ソレハナニカ。



←このように、廃線から非常に長い時間を経た現在では、かつて専用線の廃線跡があっただろう海岸線に、「熱海ビーチライン」という名の大規模な自動車専用有料道路を出現させてた。さらに、区間の核心部といえる大黒崎に至っては、「東熱海別荘地」として大規模な開発を受けていたのである。

大丈夫なのか? それとも、ダメなのか…。


鉄道廃線跡を歩く(2)』より転載。

実はこれと関連し、既に紹介した『鉄道廃線跡を歩く(2)』に、右の写真が掲載されている。

いまでも難所の大黒崎付近、この断崖のどこかに人車軌道は走っていた

――という、非常にそそる放任的なキャプションが印象的で、これも私が大黒崎一帯での廃線跡発見を期待した大きな理由の一つなのだが、正直この写真の状況では、猛烈な夏草のせいで、廃線跡があったとしても発見は困難だろうと恐れた。地形の悪さ(険しさ)も本物だ。


そんなわけで、私は現地の藪が最も薄くなる時期を選んで探索した。 2016年2月21日、探索決行である。


果たして、大黒崎の断崖に
約100年前の人車軌道や軽便鉄道の痕跡は
残っているであろうか。


もし上手く見つかりましたら、拍手のほどを、お願い申し上げますー。




県境よりスタート。 まずは大黒崎の別荘地を目指す


2016/2/21 10:49 《現在地》

ここは、千歳川の河口に架かる国道135号千歳橋。
前方には、土地に不慣れなドライバーをむしろ混乱させかねないほどの、おびただしい数の青看の洪水が待ち受けているが、その中に「静岡県」「熱海市」などの案内標識がみえる。
この川が神奈川県湯河原町と静岡県熱海市の県境であり、かつては相模国と伊豆国の国境であった。豆相人車鉄道の名前の由来も、この国境を越えて走ることにあった。

にしても、あり得ないほどの青看ラッシュだ。
そんな複雑な分岐でもなく単なる三叉路で、しかも左右どちらへ行っても行く先は同じなのだが、左の熱海ビーチラインが微妙に近道になる有料道路であるため、渋滞緩和的な意味から、出来るだけそちらへ誘導したいという関係者の思惑を感じる。

我が探索目標もここは左方向へ続いていたとみられ、左折してあげたいのだが、残念ながらこの道は自動車専用道路でもあるため、自転車の私は行くことが出来ない。仕方なく国道135号を直進する。



ここは分岐地点から国道を300mほど進んだ地点。
国道は分岐から常に緩やかな登り坂で、まだまだ上っていくが、ここからは眼下の海岸線に横たわるビーチラインと、その料金所を見晴らす事が出来た。

冒頭で紹介した明治の地形図を見る限り、人車鉄道は国境付近で熱海街道(=現在の国道135号)から左に離れて専用区間が始まる。
そしてしばらくは渚に沿って進むが、徐々に山肌について上り始め、国境から1.3km地点の大黒崎付近では、海抜40m付近を横切っている。
同じ図で、熱海街道は大黒崎を海抜80m付近で越えている(現国道は70m付近で越えるようだ)。
また、ビーチラインは大黒崎を海抜10m以下で回り込む。

つまり、大黒崎付近の廃線跡は、現在の国道とビーチラインの中間辺りの高度を横切っていたはずである。
ビーチラインに自転車や徒歩で立ち入って念入りに探索する事が出来ない以上、まず目指すべきは大黒崎である。



国道はさらに高度を挙げつつ、やがて前方に大黒崎の名前を与えられた、海岸線のたおやかな膨らみを視覚させた。

今日は土曜日で、関東有数の観光地である伊豆半島の東京側メインストリートである国道の交通量は、非常に多かった。
特に続々と私を追い抜く大型観光バスたちは、交通量に対して道幅が足りていない苛立ちを、自転車で道の端をのろのろと走らざるを得ない私に、普段以上に邪魔者扱いの視線として投げかけてきた。被害妄想かも知れないが、私は遂に居たたまれなくなった。
一度上がった息を整えることを口実として、ガードレールの外の何気ない草むらへ待避して眺めたのが、この景色というわけである。

写真の通り、別荘地として開発された大黒崎には、まるで都会のようにマンション群が立ち並んでいる。
あれが100年前の遺物を留める環境とは、とても見えなかった。




休息を終え、再び大黒崎への前進を再開する。
そして大体上り尽くし、勾配が平坦に近付いてきたのは、海抜60mを越えた辺りだった。
路肩の向こうには、大黒崎の尾根と言うにはゆったりとしていて、とても日当たりの良い斜面が広がっていた。
そこはみかん畑やテニスコート(これは使われていないようだ)、そして別荘地として利用されている。

俯瞰で軌道跡らしいものを探してはみるが、果樹園内の小径はあれど、それらしい物は見あたらない。
やはり、私が求めるべきもの(廃然たる廃線跡)は、農地であれ宅地であれ、開発された土地には期待できない。
その意味で、大黒崎はダメであった。 幸先不良である。




11:10 《現在地》

海抜70m、国道は大黒崎の椎(つい)の位置に到達。
大黒崎に開発された「東熱海別荘地」の入口が、ここにある。

私は迷わず左折した。
遠望や俯瞰では期待薄だったが、実際に足を踏み入れてみなければ、後悔することは間違いない。
この左折が、私に決して軽くない“労働”を強いることになることは理解していたが、それでも左折したのであった。




11:17 《現在地》

国道を外れると、即座に始まる急な下り坂。
急坂のうえに九十九折りを重ねながら、国道で手にした高度を、一気に手放していく。
地図を見る限り、この下りの最終的な行き先は、ビーチラインである。

そして案の定、九十九折りのアスファルトを中心に両側を段々の宅地で隙間無く囲まれた別荘地に、人車軌道の形跡を見つける事は不可能だった。
その元来の位置を正確に知っているわけではないので、一点集中で突き詰めることも出来ない。おそらく、もう誰も今の風景に重ねて廃線跡を語る事は出来ないだろう。度重なる造成で、地面の位置さえ変わっていると思うのだ。

ここはダメでも…



「せめて、この先に望みを繋ぎたい。」

そんな心持ちで、別荘地の南の外れから眺めた、南の熱海方向の海岸線。

なるほど…。 ここが、『歩く』に掲載されていた“例の写真”の撮影地のようである。

やっと私もこの廃線探索の最先端に辿り着いたという心境になった。



が、

正直、オブローダーとして、ピンとくるものがない!

風景は文句なく綺麗だと思ったが、この広大な“崖”と言っても良いくらい急な海際の斜面に、
廃線跡の“ライン”をどのように想定できるのか、皆目見当が付かなかった。

なまじ見通しが良すぎるために、立ち入って探そうという意欲を削ぐのだ。
おそらく『歩く』の筆者も、同じような心境で、あの名キャプションを綴ったのだろう。
この断崖のどこか」を探し求めることを、この眺めは否定していた。

また、下草が薄い冬を狙いはしたが、これほど日射しに満ちたマント群落相手では、意味がない…。



海蝕崖の地形のまま、九十九折りは下るにつれ急勾配を見せ、この写真の一番最後の段なんかは、直後に予測される自身の運命を呪いたくなるくらいの急さだった。
ビーチラインという名の終点へ、間もなくタッチする。

なお、今見えている北側の山腹も、軌道跡の擬定地ではある。
だが、南側以上にどうにもならなそうだ。
今下ってきた九十九折り沿いに建つ巨大なマンションが、可能性を打ち砕いていた。


11:18 《現在地》

下りに下って辿り着いた、ビーチライン。

だが、これは予め予想できていたことではあるが、自動車専用道路でかつ有料道路であるビーチラインに、別荘地の道からアクセスする事は許されてない。
一応路面自体は繋がっていたものの、固定されたガードレールや有刺鉄線、そして看板が、ここを行く宛て無き袋小路にしていた。

予想していたし、そのつもりだったとはいえ、いま下ってしまった分を、またすぐに登り返さなければならないんだな…。
特に成果らしいものを得られなかっただけに、憂鬱だった。



「最高級別荘地」って、自分で名乗るものなんだな…。

こうして道の形自体は接続しているので、計画段階では、
ビーチラインから別荘地に出入りする事が見込まれていたのだろうか。

さて…、きつい上り返しが始まるお…。



約900mで70mの高低を上り下りする別荘地のメインストリートは、ほぼ一本道。
その唯一の枝道が、一番下の切り返しカーブの突端から、南方向に分かれていた。

この狭い(幅2.5mくらい)の道幅と、やや上りながら南へトラバースしていく線形…

もしかしたら、人車鉄道の廃線跡である。(だとしても転用済みだが)

別荘地内で得られた唯一の手掛かりかも知れない枝道へ、進行する。



別荘地の外れまで、約50m。
舗装された道はそこで終わったが、なおも南へ向けて平場が通じている気配。
平場の中央に鎮座する大きなコンクリート擁壁が気にかかるが、山側の斜面は明らかに人工的に削り取られた雰囲気だ。

もしやマジで引き当てたか?!

海抜は20m程度で、少しばかり想定よりも低い(明治の地形図を信じれば海抜40m付近を通過)が、はっきり言ってこの程度は、明治の5万図相手では誤差の範囲。
自転車を置き残し、いざ、眼前の平場に突入した!




これ、った〜…(涙)

藪に入るとすぐに道は下り坂になり(←この時点で期待度大幅減)、さらに平場の中央にあったコンクリート擁壁の上に立派な落石防止ネットが生えて来た時点で、確信。

…こいつの正体は、ビーチラインの防災施設用の段差だ…。
工事中はさて置き、これは“道”でさえないだろう……。
だめ。 全然ダメでした……。





11:34 《現在地》

結局、大黒崎での探索は、ただ私に状況の難しさを理解させただけで、具体的な成果を与えなかった。
25分ぶりに国道へ戻ってきた私は、なんだかえらく疲れたと思った。

そもそも、相手が悪かった気がしてきた。
この豆相人車鉄道&熱海鉄道の遺構発見が期待薄である理由は、前説で述べた理由(廃止の古さ、構造物が小規模であること)の他に、もう一つあったのだ。
知識として知ってはいたが、確認するまでは認めたくなかった、もう一つのとても大きな理由。
それは…、

大正12(1923)年に“実質的廃止”となった、この年に関わりがある。


大正12年9月1日午前11時58分突如発生した大地震は東京はじめ関東地方に大被害を与えた。この関東大震災は、熱海軌道組合にも壊滅的な打撃をもたらした。真鶴、湯河原、熱海の各駅はいずれも倒壊し、線路も全線各区にわたり崩壊、埋没し、復旧の見込みは全くたたないほどの甚大な被害であった。同年9月25日営業廃止願いを提出し、翌13年3月26日豆相人車鉄道の開通以来、幾多の話題を生んだこの軽便鉄道は、29年にわたる歴史にその幕を閉じた。

『静岡県鉄道軌道史』の上記記述が、その答えとなる。

この路線の廃線跡が、ただでさえ険しい海蝕崖で明確な形を留めている可能性は、如何ほどなのか。

その難しさを予期しなかったわけでは無いが、条件はあまりにも悪かった。