この直近に書いたレポートは、秋田県道401号雄和仁別自転車道線という県道の一部区間であったのだが、そのなんとも無用過ぎる状態が、私の中でとても印象に残った。
物理的に壊れている廃道探索とはまた違った、存在自体が故障ではないかと思えるような県道が新鮮に感じられた。
そこで今回も、少し近いテーマの道路を採り上げたい。
今回紹介する道路も都道府県道である。
都道府県道はすべからく、道路法条文における都道府県道の定義通り、「地方的な幹線道路網を構成」するものとして都道府県の長が認めたものでなければならない。
少なくとも認定された時点では、そういう見込みがあったはずのものである。
だが、令和4(2022)年度末時点で全国に存在する13338本(ただし異なる道路管理者間の越境路線は重複してカウント)という膨大な数の都道府県道の中には、「地方的な幹線道路網を構成」しているとは思えない、存在意義が怪しい路線というのがいくらかある。
例えば、事情により未開通区間を持っている路線であれば、未開通であることを理由に幹線道路網を構成し得ないことが理解できるが、しかし全線が開通済であるにも関わらず、その全線を通じて存在意義が怪しい路線というのが、あると思う。
その最も典型的なものは、いわゆる「停車場線」である都道府県道(路線名に「●●停車場」という名が入る鉄道駅を経路の一端に認定された路線)において、その●●駅が既に廃止されていて営業していない場合だ。以前紹介した「青森県道274号陸奥関根停車場線」がこのパターンだが、全国的に100本を超える程度の廃駅に向かう停車場県道の認定が存続している。(廃駅に伴って廃止される停車場県道もあるが、その基準は同一都道府県内であっても明確でない)
そして今回採り上げるのも、表題を見れば分かる通りこのパターンの路線であるが、そこからもう一歩進んで、無用度が極まっていると感じる路線だ。かつて活躍していたことは確かだが、現状についてはあまりにも「地方的な幹線道路網を構成」するところから遠いと感じる路線である。
それでは本題へ入っていこう。
今回紹介する都道府県道は、「北海道道道665号 上茶路上茶路停車場線」という、たまにあるけど珍しい、同じ地名が二度繰り返されるパターンの路線名を有する路線である。
我が秋田県にも秋田県道226号脇本脇本停車線という、男鹿市脇本脇本と脇本駅を結ぶ県道があるので親しみを覚えるが、こちらは北海道白糠郡白糠町上茶路(かみちゃろ)と同地の上茶路駅を結ぶ路線である。
「かみちゃろ」というノリのいい地名が2つ重なって、個人的には口に出したくなる路線名トップ10に入ると思う。サア皆さんご一緒に「カミチャロカミチャロテイシャジョウセン」を唱えよう。
ただし、ここまでの説明から察せられると思うが、この上茶路上茶路停車場線の一端である上茶路駅は廃駅である。廃線ファンにはそれなりに名前が売れていると思う旧国鉄白糠線の駅だった。
廃線による駅の廃止が昭和58(1983)年だそうだから、実に40年以上も廃駅を相手にして存続している停車場線ということになる。ずいぶんと年季が入っている。
そして、そこからもう一歩進んでこの路線の無用度が極まってしまっていると感じる理由は、路線の終点である上茶路駅が廃駅であるだけでなく、起点である上茶路は盛業を誇った炭鉱だが、既に廃坑から久しく時間を経過しており、現状では全く人家がないところであるということだ。最近の地図を見る限り、おそらくこの県道の単独区間の沿線には一軒の人家も残っていない。
要するにこの道道は、廃坑と廃駅を結ぶ。
どうだろう?
興味が湧いてこないだろうか?
そういう路線がかつてあったというのではない。
今もちゃんと道道に認定されており、供用も続いている。
だが、結ぶべき起点と終点が共に機能を失っているのである。
さらに具体的に路線の在処を見ていこう。
右図は白糠町のおおよそ全域をハイライトした図である。
平成の合併以降、太平洋岸では両隣を釧路市に挟まれる形となった白糠町だが、内陸部では十勝地方の足寄町などに接しており、国境の峠を越えて白糠駅と足寄駅を結ぶべく茶路川沿いに建設されたのが白糠線(白糠駅〜北進駅)だった。
白糠の中心市街地がある海岸部を除くと人口は全般に稀薄だが、豊富な森林資源を有し、釧路炭田地帯の西部に位置することから、明治から昭和にかけて町域内に複数の炭鉱が開発された。
白糠線においても林産物や産炭の輸送が目論まれ、白糠〜上茶路が昭和39年に、上茶路〜北進が昭和47年に開業したものの、昭和40年代後半から石炭産業は全国的に斜陽となり、町内の全ての炭鉱が昭和45年までに閉山した。もはや僅かな沿線住民にできる廃止回避の策はなく、最初の開業からわずか19年目の昭和58年に未完のまま全線廃止の憂き目を見た。
道道上茶路上茶路停車場線は、上茶路駅と上茶路炭砿を結ぶ総延長7554mの一般道道として、昭和44(1969)年6月18日に認定されているが、なんと上茶路炭鉱はその翌年2月に閉山している。
道路管理者と炭鉱の経営者が全く別なのでやむを得ない部分は大きいのだろうが、なんと間の悪い道道だ…(涙)。
@ 地理院地図(現在)
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A 昭和48(1973)年
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B 昭和42(1967)年
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C 昭和19(1944)年
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続いては本路線の全体を含む範囲を描いた新旧4世代の地形図を見較べてみる。
まずは一番新しい@地理院地図であるが、ここに見える黄色く塗られている道が道道665号だ。
「起点」の位置に目を向けてほしいのだが、そこはまさに山の中の行き止まりという感じで、附近に一切の建物はおろか人工物らしいものが全く見当たらない。
そこへ至る経路についても、シュウトナイ川に沿って坦々と延びており、いくつか分かれ道はあるものの、沿線集落、人家、耕地は全くない。
唯一、終点近くで国道392号と重複する短い区間に上茶路集落の人家がぽつぽつと見えるだけだ。
そして最後の「終点」も強烈で、上茶路駅跡らしきところでぷっつりと終わっている。
総じて、存在感も存在意義も稀薄な路線に見える。
特に、起点と終点が共に地図上では何もないようなところで終わっているのが、この路線の“廃”と“廃”を結ぶという虚しさを象徴しているようだ。
だが、少し古い時代に遡れば、意義が見えるようになる。
というわけで、A昭和48(1973)年版になると、終点の上茶路集落の一帯は別世界みたいに賑やかだ。鉄道があり、駅があり、たくさんの社宅があった。
ただしこれはぎりぎり上茶路炭砿閉山後の時期である(閉山は昭和45年)。そのせいか起点附近はやはりこれと言って人工物がない。この数年前までは上茶路炭砿があったはずだが、稼行期間が短いせいで、施設を描いた地形図は存在しない。
この一つ前のB昭和42(1967)年を見てみると、今度は上茶路炭砿開発以前の状況が描かれている。
実際は昭和38(1963)年に上茶路炭砿が開鉱されており、開発が始まっていた時期であるが、地形図への反映が間に合わなかったようだ。
だからシュウトナイ川沿いの道路は途中までしかなく、上茶路駅(昭和39年開業)周辺の人家もまだ疎らだ。
逆に言えば、炭砿の開発がいかに上茶路発展の核であったかということが窺える。
最後のC昭和19(1944)年版は、まだほとんど原野に近い。上茶路地区にも入植が行われたが、白糠線開業以前は交通が極めて不便で、開発はなかなか進まなかった。
上茶路の開発の歴史について、『角川日本地名辞典』の「上茶路」の解説文を引用して紹介しよう。
かつて良い木材を出し、白糠駅へ茶路川を用いて流送した。昭和38年三菱鉱業系の雄別炭鉱が茶路川上流シュウトナイ川の奥7kmに上茶路炭鉱を開坑、同40年道道白糠本別線に通じる産業道路を上茶路まで完成。また炭鉱住宅を建て、通勤にはトラックを用い、上茶路は市街地化した。一方送炭はトラック輸送のほか、昭和39年国鉄白糠線白糠〜上茶路間が開通してからは貨車輸送も併用した。同45年雄別三山の閉山で上茶路炭鉱も閉鎖され、人々は四散して住宅跡はレクリエーション地域となる。同58年国鉄白糠線が廃止され、代わりに町営バスが運行を開始。
『角川日本地名辞典 北海道』より
上記の下線部分にある、昭和40(1965)年に建設された産業道路が道道665号の元となった道である。
道道認定は昭和44(1969)年であったが、道自体はさらに数年早く整備されて、炭鉱への通勤や出炭に利用されていたのである。
なお、“廃”と“廃”を結ぶこの道道には、やはりそれなりの現状の困難がありそうだった。
というのも、国土交通省が運用する道路情報提供サイト「道路情報提供システム」で道内の規制情報を見ると、この路線の「通行止」がヒットするのである。

道路情報提供システムより
ここに引用した内容は2025年の規制状況を示しているが、私が探索を行った2023年当時もほぼ同じ内容で掲載されていた。
どうやらここ数年は毎年、「冬期通行止から引続き通行止め」が更新されているらしく、一見すると当年内だけの通行止のように見えるが、何年も前からずっと継続中の規制である。
規制の内容としては、1.50kmの区間が災害等を理由に通行止とされているのだが、記載された地名を見ても区間がどこかが分からず、おそらくは起点側の末端部1.5kmが対象だと判断した。
というわけで、“廃”と“廃”を結ぶ道道は、起点附近から廃道になり始めている懸念があって、その区間も含めて、全長7554mの完全走破を目論んだのが、今回の探索である。
終点附近より起点へ向けて、探索を開始!
森に溶けるヘキサゴン
2023/6/7 8:28 《現在地》
ここは国道392号の26.5kmポスト地点だ。対向車線側の赤い屋根の建物の傍に青いキロポストの標識が写っている。
この国道が上茶路のメインストリートである。
地理院地図上では、道道665号の終点は、このすぐ先で右へ分岐して間もなくの突き当たりにあり、そこが上茶路駅跡らしい。
今回は終点側から起点を目指して探索を進めたいので、まずは上茶路駅跡へ向かうことにする。
それはそうと、私は白糠線の跡を訪れるのも今回初めてだが、その駅の跡へ“曰く付きの道道”で辿り着くシチュエーションに胸がときめいている。廃線にさほど明るくない私でも、白糠線のことは多少知っていた。かつて国鉄の第1次特定地方交通線に真っ先に指定され、真っ先に廃止された、日本一営業係数(赤字率)の悪いローカル線という悪名で以て。
これから向かう上茶路駅にしても、開業から廃止までの期間はわずか19年。その先の線路となると僅か11年という、もはや事故のような短さで、ほとんど新線という状況のまま廃止されたのである。そこがどんな場所なのか、気にならないわけがなかった。
そして実は既にこの写真には、駅跡への入口、すなわち道道の入口が見えているが、まだ私は気づいていない。
予め知って訪れない限り、初見では少し気付き辛そうな入口が待ち受けていた。
道道の最初の目印となるのは、前の写真にも写っているこの赤屋根の建物だ。
クレヨンを渡された子供が最初に描く形をしたその建物は、「上茶路集会場」の気の扁額を掲げており、そう古いものではなさそうだ。
(チェンジ後の画像)建物の隣に運動場のような広い前庭があり、そこに物置小屋と、何かの石碑と、あと「山火事注意」の横断幕がある。
そして、横断幕の少し左の辺りに目を懲らすと、我々道路ファンであれば見過ごせない核心的アイテムが見えた。
見えてしまった…………!!!
森に溶けるヘキサゴン!!!
これはたまらん…… ゾクゾクしちゃうぜ〜!!
想像を遙かに超える道道との素敵な出会いに、テンションが上がってしまって、国道の路上にいることも忘れて(車はあまり通っていない)遠近様々なアングルからシャッターを切りまくっていた。
おそらくいまだかつてこんなに熱っぽく撮られまくった経験はないんじゃないかな。このおぼこいヘキサは、きっと戸惑っていたと思う。
タマリマセンよこれは! 今までも各地散々妄想した――この県道のこの場面にヘキサがあったら完璧なのに、きっと100倍シンボリックな風景になったのに――という欲望が、完璧に満たされるワンシーンであった。
いやはや、あるんだねぇこんな場所……。
40年も前に廃止になった駅に通じる、ヘキサが証す現役の道道……。
入口からして今どきは珍しい未舗装であり(つうか駅に通じる唯一の道が未舗装とか既にヤバイ)、道全体が6月の旺盛な緑陰でトンネルみたいになっていて………。たまらんちん。これが、思わず名を唱えたくなる、「カミチャロカミチャロテイシャジョウセン」の凄さか!!!
この道へ機首を向けた自分の探索勘を迷わず誉めたい出会いだった。
道道入口脇の広場にある上述の石碑には、「幸せを待つ心」と刻んであった。
上にあるマークは校章らしく、中央に「小」の文字があるデザインだ。
帰宅後に調べてみると、北海道新聞に記事があった。平成22(2010)年11月2日の記事「1976年に閉校の旧上茶路小中*思い出の地に記念碑*完成式に50人」によると、案の定、昭和51(1976)年に閉校となった上茶路小中学校の記念碑だった。
明治43(1910)年開校の上茶路尋常小学校より始まった同校は、集会場の国道を挟んだ向かい側にあった。炭鉱のあった昭和40(1965)年頃には190人が在籍したが、閉山によって減少し閉校を余儀なくされたという。その跡地が2000年代に道東自動車道の工事事務所用地に使われたことで、工事関係者による地域貢献として、地元町内会の協力を得て建てられた記念碑だそうだ。
碑の裏面には校門に掲げられていたであろう中学校の扁額や、10名の氏名が刻まれた「町内会」のプレート、建立に携わった業者名を列記したプレートに加えて、次の碑文がしたためられていた。
大正五年 二十一坪の校舎建設以来 栄華の夢となり 石炭の灯火も古に潰え 先達の思いを馳せ ここに水上の清き流れに洗われた 白珠の光石を建立す
平成二十二年十月吉日 建立者 上茶路町内会 会長石田正義
まるで廃村に立つ記念碑のような文言だ。
しかしそれにしても、「幸せを待つ心」とは、なんとも慎ましやかで、奥ゆかしい。
スローガンであれば、「幸せを掴み取れ」くらいの勢いがあるのが普通な気がするが、ここにあるのは謙虚に待つという心。
待ちに待ってようやくたどりついた鉄路の末路を思うと少しいたたまれない気持ちになるが、さらに昔、当地に石炭産業がもたらした一大繁栄は、待った先に訪れた幸せであったのかもしれない。前出の記事によれば、この言葉は閉校時の校長のものであるという。
改めて、道道665号の入口を国道から臨む。
行先についてなんら案内らしいものはないが、とにかくヘキサの存在が強すぎる。これさえあれば何もいらないレベルだ。
国道を行き交う車の目からは全く目立たない分岐であり、ヘキサだが、それがまた慎ましくて良い。良くない?
まだ見ぬ起点からはるばる山をおりてやって来た道道665号は、ひとしきり国道392号と重複した後で、最後にまた終点へ向けて単独区間を持つ。
その入口が、この慎ましい交差点だ。
地図を見る限り、ここから終点の上茶路駅跡までは、僅か約120mほどである。
全長7554mに占める割合としてもごく僅かな、まるでオマケのような最終単独区間であるが、それでも往時は上茶路駅の唯一のアクセスルートであり、この路線が“停車場線”として認定を受けるのにも欠かせない区間であったはず。
炭鉱と最寄りの駅を繋ぐ送炭路という性格付けがよく分かる筋が通った道道であるだけに、起点と終点が共に廃止施設となっている現状で、存在の意義を求めることが難しいのはやむを得ないだろう。
う〜〜ん、何度見ても素敵な眺めで、夢に出そう。
この道道の認定は昭和44(1969)年であるという。
ただ、その当時は都道府県道標識(ヘキサ)の設置はまだほとんどなく、後年になってから設置されたものだと思う。
気になるのは、上茶路駅が廃止された昭和58(1983)年よりも新しいかどうかだが、もし新しかったら、それはそれでなんだか虚しいな。
控え目な大きさの補助標識に、何度でも口に出したくなる路線名が書かれていて、当然ここでも何度も口に出して読んだ。
なんぼこのヘキサ一つで擦るんだと突っ込まれそうだが、許してください。
標識板自体は、夏場には草に埋れてしまいそうな、廃道の一歩手前のような道路上にあるものとしては意外に痛んでいないが、この標識柱はなんだ?
工事現場とかで使われる鋼管のような銀色の光沢を持つ鉄柱で、しかも全く錆がないのが一種異様だ。まさかステンレスとか?
素材は不明だが、普通この手の標識柱は白い塗装で覆われていて、金属色ということはない。また、塗装が剥げると中の金属が露出するが、その場合は酷く錆びて赤い色になるのが普通だ。
なんでこの標識柱は、こんなに錆のない綺麗な銀色なんだろう。
しかも、よく見ると「北海道」という文字のところに白い塗装の名残があって、もともとはやはり白い塗装のある支柱だったっぽい。謎深いなぁ。
“ヘキサ”にねっとりと挨拶をした後、自転車の私は、草に優しく臑を撫でられながら、魅惑の未舗装路へ漕ぎ出した。
道は国道から離れると緩い下りで森の奥へ向かう。
だが森は深くならず、反対にすぐに開けて草原が現われた。ここまで50mほどで、またここから先は平坦だ。
草原の向こう側はまた深い森になっている様で、そのさらに向こうは山だ。見えないけれど、森と山の間には茶路川の広い谷も開いているはず。
先ほど述べたように、この道道の区間は短く、100mそこいらで上茶路駅跡へ達して終わるはずだ。
ということは、もはやこの目の前の草原が駅跡であり、終点ということだろうか。
おそらくそうなのだろうが、草原の奥の方にまだ道は延びているので、行き止まりがあるまで進んでみよう。
チェンジ後の画像の道の行く先の左手に、ひときわ色の濃い立木が見えているが、次の写真はその場所で撮影した。
おおっ! これって駅前ロータリー的なものの跡では?!
綺麗な円形花壇の中央に伸び放題となったおそらく本来は園芸的な種類の樹木がある。
上茶路駅の在りし日の駅頭風景と比較してみたいところだが、きっとこれはロータリー。
相当規模の小さな小さなローカル駅とばかり思っていたが、よく考えてみれば一時は国鉄の終着駅で、かつ炭鉱街で栄えたところ。このくらいの都会的な設備があっても不思議はないのかも……。
ただ、現状の駅頭風景の中にあって、この草生したロータリーは、寂しさの強調にしかなっていない。
道道もまた、このロータリーのどちら側を通っていいのか悩んだみたいに少し右へ逸れ、選ばれなかった左側は踏み跡一つない。
もちろんどこも鋪装されていないから、駅前未舗装という、そういえばこれも最近ではまず見ないような風景だ。ていうか、車が入れないような秘境駅だけだろうな今どきでは。
8:32 《現在地》
ロータリーらしき円形花壇のすぐ先、再び森へと迫るところで、道道であるはずの道は、遂に終わる。
地理院地図に描かれている道の終点に辿り着いたのだと思う。
したがって、ここが道道665号の終点だ。
地理院地図だと、行き止まりの突き当たりに、まるで駅舎のようにポツンと一軒だけ建物が描かれているが、それらしいものはない。
ただ、駅頭の賑わいをほのかに思わせる広さの草地が、平らな森と接しているばかりであった……が!
森の中に見えた!
紛うことなきプラットホームのシルエット!
敢えて調べもせずに来たので驚かされる。なんとホームが残っている!!
そうかそうか……、なんというか、証しは豊富に残ってる感じだな。
もちろん駅舎とか、倉庫とか、残されていないものの方が多いとは思うが、それでもここに道道が認定される縁(よすが)となった駅は、廃止から40年も経って、まだ明確にそれと分かる形で残っていた。あまりにも田舎で開発圧が強くないからなのか、はたまた意図的に残したのかは分からないが。
ここはもう列車の来る駅ではないけれど、それでも確かに上茶路駅がここにあり、だから道道もここにあるのだという納得感。
独りで廃は寂しいだろうから、一緒にいてやるよ。 多分に感傷的ではあるが、そんな風に感じる場所だ。
そして、廃道と廃線を共に愛する人にとって、こんなに贅沢なスポットはなかなか無いと満たされまくった私は思った。
次回は、駅跡を少し観察してから、いよいよ廃道疑惑のある“起点”目指して、出発するぞ!
道道の終点 ホームが残る上茶路駅跡
2023/6/7 8:33 《現在地》
森の中に見えたプラットホームへ歩いて近づいていく。
駅の構内外を隔てる柵も、地形の傾斜も、立ち入りの規制も、観光客向けの案内も、全くない。そのせいで、好きなところから思うがままに近づける。特に踏み跡のようなものもなく、本当にただ使われていない駅のホームが、無造作に、森の中にある。
しかし、森の中のシルエットとしてはそれなりに大きく見えたホームは、近づいてみるとこれが信じられないほど短くて驚いてしまった。
形状は片側に歩行用スロープがある中空式ホームで、ローカル線の駅ではよく見るタイプだが、大半が取り壊された後なのかと疑わしく思うほど短かった。国鉄時代のホームというと、相当なローカル線でも5両編成分くらいあるイメージだが、ここは1両分しかないのでは…。
これも、恐るべし日本一の赤字ローカル線ならではなのか……。
さらに驚きは続き、なんとホームの奥側の線路部分には、レールが敷設された状態で残っていた。
ここまで来るとさすがに無作為というわけではなく、廃駅の修景用に故意に残されたものだと思うが(白糠線の廃線跡の大部分はレールが撤去されている)、ますますファンを喜ばせてしまうに違いない。私ももちろん大はしゃぎ。
本題(道道)のこともひととき忘れて、片側にレールが残る小さなホーム上へ躍り出た。
本当に清々しく美しい廃駅だ。
北の地ならではの淡い緑が、非暴力主義で優しく遺構を包み込んでいる。凡庸な表現になるが、おとぎ話の中の風景みたいだと思った。
ホーム上も廃駅らしく余計な清掃などがされておらず、徐々に自然に還りつつあった。
今いる一面二線の島式ホームの他に、国道側に最初は気付かなかった片面一線の小さな土盛りのホームがあった。
この駅の構内配線については後ほど資料を挙げて紹介するが、察しの良い人にはお分かりの通り、貨物用ホームの跡である。
向こうのホームにも一部のレールが敷かれて残っているのが見て取れた。
そしてこの短いホームの白糠側の端部に近いところに、四つ足の上屋(うわや)が建っていた。
現代のローカル駅だと、ホーム上は全て野天で、どこかに待合室だけがあるパターンが多く、都会の駅ではよく見る上屋があるのは珍しい気がする。こんなに短い上屋というのもな!(笑)
ただ、支柱もかなり錆びて見えるので、雪の重さに耐えきれず倒壊する日は遠くないかも知れない。
それと、上屋の手前にあるのは明らかに駅名標の支柱だろう。
この駅について調べた人なら既に読んでいるかもしれないが、Wikipediaの当駅の解説ページに、主な遺構の時間経過による変化が掲載されており、駅舎が平成16(2004)年時点では残っていたことや、平成22(2010)年時点では駅名標が健在であったことなどが記されていた。
ホームの末端に立って、白糠側の線路の行く末を眺めている。
どこまでが駅の構内かは分からないが、見える範囲にはずっと真っ直ぐ線路が伸びていた、
また、視界の左端には貨物ホーム側の線路が見える。
これらの線路はおそらく構内の端で合流しているだろうから、ホームは短くても構内の広がり自体は常識的な国鉄の終着駅、あるいは交換駅に準じたものであったと思う。
そもそも、残っている遺構は廃止末期の状況を反映していると思われ、炭鉱で賑わっていた開業当初の施設は全く違っていた可能性がある。終着駅だったわけだし。
残されたホームを振り返りながら、探索を折り返す。
たとえ構内は広いにしても、残っているホーム2本のコンパクトぶりが、やはりインパクト大だ。
とてもじゃないが、停車場線である都道府県道を獲得する駅の規模とは思えない。
本題である道路の話に徐々に戻していきたい。
道路法第7条にある都道府県道の認定要件に関して、「主要な停車場または停留場」が、都道府県道の起点や終点になり得ることが示されている。
そして、道道上茶路上茶路停車場線が存在する以上、上茶路駅はこの要件を満たしたことになる。
この「主要な」という言葉の中身が気にならないだろうか。
この具体的な基準は条文ではなく、建設省通達という形で存在しており、本路線が認定された当時使われていた昭和46(1971)年の通達において、年間の旅客発着人員が44万人以上(定期券利用を含む)
、もしくは貨物取扱トン数が年間1万8千トン以上、このいずれかを満たす駅が「主要停車場」とされていた。
上茶路駅の場合、間違いなく炭鉱絡みの貨物トン数で基準をクリアしたんだろうな。
閉山前に認定されてなかったら、絶対無理な相談だった。
白糠線の駅で停車場線の道道を持ったのは、根室本線との接続駅である白糠を除けば、この上茶路だけである。

『国鉄全線各駅停車 1 (北海道690駅)』より
これは、昭和58(1983)年7月に小学館から刊行された宮脇俊三氏の著書『国鉄全線各駅停車1 (北海道690駅)』に掲載された白糠線の全駅構内配線図だ(分岐駅の白糠駅は除外)。
この年の10月23日に白糠線は全線廃止されるのであって、その直前の状態を描いていると考えられる。
全長約33kmの路線内に上茶路を含む6つの駅が存在したが(白糠を入れると7駅)、上茶路以外は全て一面一線だけのホームを持つ極限にシンプルな配線で、唯一上茶路だけが交換施設を設置可能な島式ホームを有していたが、少なくともこの当時は交換を行っておらず、島式ホームの片面(レールが残っている部分)だけで乗降を行っていた。
貨物用の構内側線も複数あったが、同駅は昭和49年の駅員無人化(簡易委託化)と同時に荷物の取り扱いを廃止し、さらに昭和53年には貨物の取り扱いも廃止したので、廃止直前はこれらの側線や貨物ホームは旧遊していたようだ。
せっかく文献的な資料に手を付けたので、他の資料からも、在りし日の上茶路駅の姿を拾ってみよう。(こうしてまた本題の進展が遠のくが…)

『日本の駅 写真でみる国鉄駅舎のすべて』より
(→)
こちらは、昭和54(1979)年6月に竹書房から刊行された『日本の駅 写真でみる国鉄駅舎のすべて』に掲載された上茶路駅の姿である。
だいぶ失礼な感想だとは思うが、思いのほかモダンな喫茶店風のコンクリートビルの駅舎で驚いた。掲げられた「上茶路駅」のフォントまでなんだか垢抜けて見えるではないか。(神路駅的なものを勝手に想像していたのだが、考えてみれば開駅の時期が全く違うのである。これなら平成になっても崩れずに残っていたのが肯ける。)
そして、ほとんど見切れてしまっているが、駅舎の左奥に現存しているホームが見える。改札を通り、地べたの渡り通路で3本の側線を横断してから、島式ホームへ上がっていた。
なお、下の方に掲載されている@〜Eの各項目は、@開設年月日、A駅舎改築年月、B接続鉄道線名、C職場の標語・モットー、D附近の名所旧跡など、E特殊弁当とのこと。

『国鉄全線各駅停車 1 (北海道690駅)』より
前出の『国鉄全線各駅停車』には、駅舎を少し遠くから撮影したこの写真が掲載されている。
小さい写真で解像度が低いが、それでも先の写真と比べてなんだか寂しい雰囲気がある。
本の出版時期から逆算して、きっと廃止直前に撮られたからだろう。
手前に写る鬱蒼とした丸い植え込みは、現存している【ロータリー】
の反対側である。撮影者の立ち位置は、今ではすっかり草の海ということだ。
しかしこうしてロータリーの位置を基準にすると、間違いなく【道道の行き止まり】
に駅舎が存在したことが分かる。

『釧路鉄道管理局史』より
一方で、同じ場所とは思えないほど賑わっている写真もあった。
これは昭和47(1972)年に釧路鉄道管理局が発行した『釧路鉄道管理局史』に録された1枚だ。
単に「白糠線上茶路駅」というキャプションしかないが、物凄い群集を左手前の人物がスマホで撮影(?!)しているので、開業式典の一幕とかではないかと思う。
この時点では、駅員も配置された白糠線の終着駅だった。

『鉄道の旅 全線全駅 1 (北海道4000キロ)』より
これまた宮脇俊三氏が小学館から出した、昭和57(1982)年発売の『鉄道の旅 全線全駅 1 (北海道4000キロ)』からの引用である。
上茶路駅の発車時刻表とのことで、やはり廃止が近い時期の撮影であるが、行き来する列車は上下3本ずつという末期的状況である。
開業当初は何往復していたのだろう。ご存知の方がいたらお知らせください。

『鉄道の旅 全線全駅 1 (北海道4000キロ)』より
同じ本からもう1枚。
【この写真】
とほぼ同ポジの構内風景である。
キハ40という、当時のローカル線では最もありふれていた気動車が停車しているが……、やっぱり1両編成……!
そういうサイズ感だもんな、このホーム…。今日でこそ、1両だけの列車風景は珍しくないが、国鉄時代はとてもレアだったろう。
ホームの北進側端部へ戻ってきた。
そこから北進方向の線路を見通している。
最後の力を振り絞るように、もはやない袖を振ってここから7kmばかり延伸したのが、白糠線最後の伸びしろだった。
見渡す限りは真っ直ぐレールが敷かれているが、どこまで敷いてあるものだろう。
気にはなったが、いい加減“道道”が待ちくたびれているだろうから、駅についてはここまでとする。
後にする構内線路上から、失われた駅舎の跡地(手前のフキが生えているあたり)越しに、道道終点および駅前ロータリーを見ている。
背景には国道沿いの冒頭に紹介した赤い屋根の建物(集会所)も見えるし、国道の道路標識も見える。
寂しいところではあるが、それでも車さえあれば交通不便という感じの場所ではない。
本当に不便なのは、これから向かう先だろう。
8:35 上茶路駅出発! 道道665号の全線踏破を開始する!
-->
続く