2014/5/23 9:39 《現在地》
自転車に乗ってスタンバイした私が、隠岐汽船のフェリーしらしま(2343t)の船首ランプフェイより、中ノ島に一番乗りで解き放たれる。
上陸!
本日は隠岐で過ごす3日目で、2日間いた島後を後に、初めて島前へと渡ってきた。
上陸地の名前は菱浦港といい、この中ノ島(海士町)で唯一の旅客港である。
菱浦港の内航船乗り場(目の前に見える船が内航船の「いそかぜ」)から何気なく眺めた海が、まさにこれから向かおうとしている県道319号の海上区間がある辺りだった。
まず、ここから遠方左に見える陸地は、この中ノ島ではなく隣の西ノ島である。海岸に見える集落は宇賀という集落だ。
対して右側から張り出している半島は中ノ島の一部で、この半島の突端部(ただし写真に見える部分は半島の枝で、その向こうにある見えない部分)から向こうに渡ろうというのが、島前大橋の計画だ。
前述したとおり、両島を隔てる中井口という海峡の幅は、800mほどである。
これから、間近に見えるあの半島を目指す。
この日はとにかく猛烈に暑かった記憶がある。何度だったかは覚えていないが…。
菱浦港の前を通る道路に出た。
そしてこの辺りが、中ノ島に3本ある県道の一つ、県道317号海士島(あまとう)線の起点だ。
島の名前は中ノ島で、町の名前が海士町なのだが、この島を一周する県道の路線名が海士島線というのは、どういう経緯なのか謎である。
鏡浦という名前の通り、とても静かな入り江を抱く菱浦の港は、島前では最も風待ちに適した良港として古くから発達してきたところだという。
そしてこの港がある集落の名前は、元は菱といって、古い5万分の1地形図の図名にも、この珍しい地名が採用されていたのだが、現在は普通に集落名としても菱浦と呼ばれているようだ。
菱浦から町役場がある海士地区へ行くには、小さな峠を越える必要があるが、頂上は深い切り通しになって、アップダウンは20mほどに過ぎない。
この峠を越えて少し下った所に、左に分岐する丁字路が二つある。
一つめは、関係ないのでスルーである。
そして二つめが…
10:08 《現在地》
探索目標、県道319号西ノ島海士線との分岐地点である。
信号機は無論、青看もないこの交差点が県道319号の終点であり、島前の長い歴史にエポックをメイキングする野望を持った、島前大橋計画の中ノ島側入口である。
地図を見る限り、ここから1.1kmほど先の半島突端付近まで、2車線幅の立派な道路が既に出来上がっている。
私が見ている前では誰も左折しないようなので、私が左折した。
お! 早速、ヘキサを発見!
ちなみにこれが、この島で最初に見たヘキサであった。
ヘキサの下の補助標識には、「西ノ島海士線 海士町菱浦」と書かれていた。
それ自体はつっこみどころの無い完備されたヘキサだが、夏草の一言で片付けるには濃すぎる緑に激しく侵蝕を受けているのが、現状未成道であることの悲哀を感じさせた。
さらに良く見ると、ヘキサのすぐ先にも「その他の危険あり」の警戒標識が、やはり籔に埋もれかけていた。
こちらの補助標識には、「この先行き止まり」とあって、より直截的に不通の無念を訴えかけてくるようだ。
だが、不通県道の入口にしばしば見られる「通行止め」や「工事中」といった掲示物は無く、誰でも拒まないようであった。
まだアスファルトに新しさが感じられる2車線の舗装道路が、緩やかに登りながら、まっすぐ北へ向かっていく。
分岐地点の標高は20mほどだが、そこから標高50mくらいある半島の尾根を目指す。
なお、この高さは山を越えるという目的だけでなく、航路である海上に十分高い橋を架けるための準備でもあったはずだ。
道が森の中に入ると、あっという間に路肩の白線辺りは両側の森からの厳しい幅寄せに奪われてしまった。
この道が建設された正確な時期は不明だが、島前大橋の事業全体は昭和57(1982)年に着手されているので、それから工事が中断される平成15(2003)年までの期間だろう。たぶん開通は平成に入ってからだと思う。
500mほど進むと緩い左カーブがあり、その先に山を二つに割ったような、大きな切り通しが見えてきた。
どうやらあそこが登り坂の頂点になっているようだ。
また、切り通し手前の右側に、アスファルトで舗装された広場があった。
何のための広場か分からないが、広場の一角に次の標柱を見つけた。
「海士町千本桜構想実行委員会」
書かれているのはそれだけで、周辺に千本桜が植えられている様子もまだ無いが、この道を二つの島の歴史的交流における文字通りの“花道”として飾ろうという構想だろう。
素晴らしいことだと思うが、植樹が実行される前に工事の中断が決まったのは、桜の苗木達にとっては幸運だったと思う。
現状では夏草に圧せられる悲しい未来しか見えない。
切り通し部分の道は、これまでよりも少し開通が新しいのか、白線がより鮮明だった。
黙っていても汗が垂れるほど気温が高いことと、この年は毛虫が異常発生していて、頭上に木が生えているところには、
自分で垂らした細い糸にぶら下がった毛虫が沢山いて、油断すると顔面にヒットすることを除けば、快走路だった。
…いや、多すぎる毛虫のせいで、正直、快走路なのは写真の中の風景だけだった。
悲しいかな、実はデロデロの毛虫道である(涙)。(島後はそうでも無かったが、島前はどこも毛虫まみれだった)
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10:15 《現在地》
入口から850mほど進み、切り通しを抜けた。
このすぐ先が上りから下りに転じるサミットになっているようで、地図上ではこのまま直線の道を250mほど進んだところが終点のように描かれているが、まだ見通す事は出来ない。
しかし、もう終点は近いはずだ。
サミットの手前で、右に別れる砂利道があった。
地図には描かれていない道で、入口には「カズラ島 対岸慰霊所」という、見馴れぬ文言が。
分岐地点に立って、この砂利道の行く先を見てみると――
――何とも心洗われるような、美しい道の風景が。
目算で150mくらい先に、展望台のようなものが見える。
どうやらあれが「対岸慰霊所」というもので、カズラ島というのは、写真の右橋にちょっと見えている小島である。
これを見たとき、私はてっきり、過去にカズラ島で何か大きな遭難事故でもあって、その慰霊所なのだろうと考えたが、帰宅後に調べてみると、そういうことではなかった。
「自然散骨カズラ島」のサイトによると、カズラ島は日本初の専用散骨所として整備された場所なのだという。
同サイトの説明によると、散骨は、火葬後の遺骨をミリ単位に細かく砕き粉末状(粉骨)にした上で、海や山などに撒く葬送の方法
とのこと。
散骨自体はニュースなどで聞いたことがあったが、ここに日本初の専用散骨所があったというのは初めて知った。
さあ、このサミットを越えたら…、
どうなっている〜?!
うおー! まだ続いてる けど、
終わってるー!!(興奮)
道が終わってるのを見て「興奮」するとか、明らかに変態なんだけど、不謹慎なのかも知んないけど、
するんだから仕方ない。
サミットから行き止まりまで、最後の250mも本当に綺麗な直線で、地図の通りである。
相変わらず封鎖などもなく、淡々と、もう見えている終わりに向かって距離を減らしていく。
頭上に木が無いので毛虫のプランプランがなく、しかも緩やかな下り坂なので、ここは爽快である。
加えて、この県道上で初めて海を見た気がする。
両側を海に挟まれた半島上にあるくせに、ここまでほとんど路外の眺望が得られなかった。
自転車を停め、白いガードレール越しに海を眺めた。
隠岐が美しい島々である事は今さらの事柄だが、それでも語らずにはいられない。
2日間いた島後が、どっしりとした丸い原始島の趣きであったのに対し、この島前は、陸海が複雑に印象し合う小さな箱庭のようだ。
どちらもそれぞれに素晴らしい島であり、探索の舞台であった。
まるで湖のように穏やかな海の向こう真っ正面に見えるのは、西ノ島の中心的な港である別府港とその周辺で、県道319号西ノ島海士線の起点のある場所だ。
橋があれば、車なら10分そこらで行けるだろう。直線距離で3.6kmくらいしか離れていない。
10:17 《現在地》
この県道を走り始めて約10分、1.1km。
さっきから見えていた、終点らしき地点に到着。
傍らには、取って付けたようにしか見えない、車を転回させるためのスペースと、そこになぜか二つの擬木製ベンチ。
ベンチ置くなら、せめてさっきの景色が良いところだろ〜(苦笑)。
これではいかにも、終点に何か役立つものを置かなければ格好が付かないから置きましたって感じが溢れちゃってる。
あー……
これまだ続いてるね!(歓喜)
毛虫たちが待ち受ける緑の園へ、いざ…!(ウヘェ)
藪が深く地面の状況がよく分からないが、右の法面はコンクリートで固められており、ある程度本格的な道路工事が行われた形跡がある。
道は相変わらず直線で緩やかに下っており、これまでの展開を追従している。
この先、海に突き当たった所が、架橋地点なのだろう。
もう遠くはない筈だ。
それから、2分後――
真っ正面に海面が見えてきた!!
もちろん、その向こうにあるのは、お隣の西ノ島ッ!
近いッ !! すごく近くに見えるッ!!
10:22 《現在地》
ベンチの所から、おおよそ100m。
今度こそ、終点だった。
海抜は20mくらいまで下がっており、どのような形式の橋を架けるにしても、ちょうど良いくらいの高さだろうか。
目の前に有刺鉄線付きのフェンスがあり、さらにその20mくらい先まで木が刈り払われている。
そして、この島の中の一番奥に見える人工物が、“謎の鉄製パネル”である。
正体を確かめるために、もっと近付きたかったが、有刺鉄線と毛虫軍団がいやらしいので躊躇する。そうして辺りを観察するうち、正体が分かったので、見に行く必要が無くなった。
鉄製パネルの正体は…
↓↓↓
…と、書かれたパネルなんだな〜。 しみじみ。
この場所は、隠岐にある四つの有人島のうち二つを一つにしようとする、もし実現したら、
長い隠岐の歴史上の際立った快挙となることが確定している、そういう偉大な挑戦の現場である。
しかも、間近に見える800m先の陸地まで橋を架けるのは、現代の技術をもってすれば容易そうに見える。
だが、それでも簡単に架かってはくれない。実現可能で偉大な事業だというだけでは、実現出来ない理由があるようだ。
現代の土木を巡る情勢は、きっと過去のどの時代よりも、複雑化しているのだろう。