昭和24(1949)年の完成以来、少なくとも昭和40年代初頭までは和歌山県最長の道路トンネルであった深谷隧道の歴史を紐解いてみよう。
和歌山県知事の揮毫による堂々たる「祖国再建」の四字は、いかなる隧道に飾られたのか。
謎解きのアイテムは複数用意されているが、まずは現地探索で手に入れたものを使いたい。
ということで、本編では撮影だけして面倒な解読を後回しにしていた隧道東口の「真砂久一氏頌徳碑」を、気合いを入れて書き出してみた。
以下、漢字カナ交じりの一見すると気むずかしそうな文章を転載するが、この手の碑文としては異例と思えるほど平易な表現のみで構成されており、実は凄く読みやすい。なので読者諸兄も怖じ気づかずに読んでいただければ嬉しい。(漢字の旧字体や異字体は整理した)
真砂久一氏ハ明治卅七年三月新庄村ニ生レ田辺中学カラ東大農学部林業科卒帰郷
後自家ノ植林育成紀州木炭ノ振興ニ尽力ノ傍幾多ノ社会教育事業ニ率先奉仕一貫
セラレ健在今日ニ至ル昭和十二年ヨリ当三川村深谷小谷地区内山林地主及ビ村当
局ト計リ深小森林土工組合ヲ設立又鮎川村当局ト治ノ谷地区内地主ヲ説キ愛賀合
森林土工組合ヲ設ケ共ニ其ノ組合長トナリ三川村ハ小谷ヨリ鮎川村ハ治ノ谷地ヨリ
林道開発起工シ両地区共墜道工事ヲ残シテ第二次大戦デ中断此ノ間村単位組合ヘ
改編トナリ深谷墜道開サクハ三川村森林組合ノ事業トナリ昭和十八年八月ヨリ三
川村民一丸トナリ約六ケ年ノ歳月ヲ要シテ昭和二十四年四月墜道ハ開通シ自動車
便ニヨル山林資源日用物資ノ運搬ハ開ケ昭和二十六年十月ヨリ明光バスノ乗入レ
アリ三川村民多年ノ宿望達成ハ是一ニ氏ノ献身的努力ノ賜物デアリ特ニ地元深谷
小谷両地区民ノ感一入ナリ今四三川鮎川富里三ケ村ノ合併ニ際シ真砂氏ノ功労ヲ
賛エ後世ニ伝ヘル 三川村 深谷小谷区建立
昭和三十一年九月
この碑文により、隧道開鑿の経緯と時期などの概要が了解される。
こうして碑を現地に留める事の意義の大きさを改めて実感する内容だ。半世紀を経ても、正確に当時の情報を伝えている。また、碑の存在自体が事業の重要度を証明しているという側面も見逃せない。
碑文から判明した内容の重要な部分を以下に整理する。なおいろいろな地名が出ているが、位置関係は次の旧版地形図の所を見てもらいたい。
- 真砂久一氏は、昭和12(1937)年に、三川村当局および同村の深谷と小谷の山林地主を説いて「深小森林土工組合」を設立、組合長に就任した。続いて鮎川村当局と同村治ノ谷(地ノ谷)地区の山林地主を説いて「愛賀合森林土工組合」を設立し、この組合長も兼任した。
- 同氏は、三川村小谷から鮎川村治ノ谷に至る林道を計画し、自らが組合長を務める三川村と鮎川村の土工組合が着工した。
- 第二次大戦のため隧道工事を残して林道の建設は中断されたが、昭和18(1943)年8月から三川村森林組合に引き継がれ、6年後の昭和24(1949)年4月に全線が開通した。
- 開通後は木材の伐出だけでなく、日用物資の運搬にも活用され、昭和26(1951)年10月から、この道を通って路線バスが三川村への乗り入れを果たした。
このような経緯から、林道開鑿の発案者として初期の工事を主導した真砂久一氏の徳が慕われ、特に隧道の恵沢を受けた三川村小谷深谷の両地区住民が、昭和31(1956)年にこの頌徳碑を建立したということのようだ。
続いては、定番の新旧地形図の比較であるが、昭和28(1953)年版と昭和33(1958)年版を較べてみる。
前者には描かれていなかった深谷隧道が、後者に現れている。隧道の向きや長さが実際とは少し違っているが、机上調査の結果も踏まえれば別の隧道があったとは考えられないので、これこそが深谷隧道なのだろう。
深谷隧道が出来る前から鮎川村と三川村を結んでいたのは、図中に県道として表現されている黒野峠越えの道である。
この道は現在も林道として使われている(一部廃道区間あり)が、山腹に沿って大きく迂回しながら峠を越えるので距離が長い。図中の「地ノ谷」と「合川(ごうがわ)」の間の距離を測ってみたが、黒野峠経由は14km、深谷隧道経由は11kmであった。
他に麦粉森越という峠道もあり、こちらは距離こそ短いものの、車輌の通行は出来なかった。
2枚の地形図の違いは、深谷隧道の出現だけではない。
目立つところで二つあげると、まずは鮎川村と三川村が合併して大塔村になったことだ。これは頌徳碑が建立されたのと同じ昭和31(1956)年の出来事であるが、両村が合併の気運を高めた理由の中に、昭和26(1951)年から路線バスが通っていた深谷隧道の存在があったと思う。
もう一つは、旧三川村の中心地である合川の地に大きな人造湖が出現したことである。
こちらは昭和30年に着工し、同32年に関西電力が完成させた殿山ダム(合川ダム)によるもので、同ダムは我が国2番目のアーチ式ダムとして、黒四ダムのモデルになった。このダムの建設車輌や資材がどこを通っていたかは不明だが、路線バスが通ったくらいだから、深谷隧道が通路となった可能性は十分にあるだろう。
このように、深谷隧道が三川村森林組合の林道として完成してから数年の間で、三川村には極めて大きな変化が起きたことが分かる。
そして断片的な情報ではあるものの、昭和40年頃になるとこの道は林道ではなく「一般県道鮎川古座川線」へと“昇格”していることが「道路トンネル大鑑」から分かるのであるし、その後に路線名は変わったが現在まで県道は存続し、平成11(1999)年には待望の新トンネルが完成したのである。
平成22(2010)年に発売された地図「プロアトラスSV6」ではバス路線として描かれていたが、最新の地図でそうなっていないのは時代の趨勢だろうが、全国区では省みられないようなマイナーな“和歌山県最長隧道”も、ちゃんと「祖国再建」の一翼を担う活躍してきたことが伺えて、嬉しい。普段、不憫な道路に触れる事が多いだけに、こうして長寿を全うした道路を見て、本当に心温まる気がする。
心温まるといえば、部外者の私だけが勝手に盛り上がっているのではないところが、この隧道の魅力だ。
机上調査のために訪れた地元の公式情報サイト「三川村郷土誌」内の「三川を遊ぶ」というコーナーに、そのものずばり「深谷隧道」というページを見つけた。
その内容は、まず一度訪れてみて欲しい。
昔懐かしいブラウザADVゲーム風の「隧道レポート」なのだが、随所に隧道への愛着や畏敬の念が感じられる出来であり、“隠しエピソード”を全て見つけるためにかなり頑張ってしまった。(ページには4つくらいの“隠しエピソード”があると書いてあるが、1番のエピソードがどうしても見つけられなかった。もし見つけたら教えて欲しい←見つかりました!ヒントは、「坑口の画像」です。)
そしてそんな“隠しエピソード”の中には、地元ならではの貴重な体験談が含まれていた。
例えば、現役時代の隧道を徒歩で探検した子供達の話。
現役当時から隧道は真っ暗闇だったそうで、ライターの明かりを頼りに探検した彼らが遭遇した轟音を放つ巨大な光源体の正体とは!!! 対向してきた路線バスだったそうな。そりゃ、ビックリするよな。逃げ場無いもの。
- 隧道工事中はまだ、三川地区には電気が通っていなかった。
- 工事は全て手作業で、一部ダイナマイトを使った他は、鑿とハンマーで岩盤を掘り進めた。
- ズリ出しには二人押しのトロッコを用いた。洞内が拝み勾配になっているのは、トロッコを楽に走らせる工夫でもあった。
「三川地区には電気が通っていなかった」は、結構衝撃だった。この「三川地区」がどの範囲を示すかはっきりしないが、旧三川村全域、少なくとも村の中心地である合川がそうであったとしたら、隧道の完成が風穴を開けた僻地性の大きさに興奮を覚える。隧道の完成を遠因としてに合川にダムが出来、そして電気が通ったのかもしれないのだから。
そうでなくても、隧道の完成が僻地性を大きく突き崩し、全国の山村と肩を並べる現在の(お茶目なページを作る)三川地区を作り上げてきたのは間違いない。
深谷隧道について探ってきたが、まだ重要な謎が残っている。
それは東口に大きな存在感を誇示している「祖国再建」を扁額である。
これが掲げられた経緯がわからない。
頌徳碑の内容から、隧道を含むこの林道は、第二次大戦中の工事中断を乗り越えて完成したことが分かっている。
しかも碑文をそのまま信じるならば、戦争が最も激化していたはずの昭和18年から隧道工事が始まり、終戦わずか4年目の昭和24年に、全長654mもの隧道が完成したというのである。
これは戦時中も含めて毎年平均100m以上掘進した計算になり、当時の建設業界の極度な疲弊や、手作業であったことを考えれば、相当意欲的に工事が進められた事を示している。
これほどまでに林道の工事が急がれた(戦時中に隧道に着工した)理由が、まず謎である。
さらに、三川村森林組合の林道であるにもかかわらず、和歌山県知事が扁額を揮毫した経緯も気になるところだ。
何か理由があって、この工事に対して県や国のリソースが優先的に投入された可能性を疑いたくなる。
だが、この林道と関係した大きな開発計画が当時あったという情報は、いまのところない。
結局、ひときわ印象深い扁額については分からない事ばかりなのである。
それこそ、「祖国再建」への堅い決意が、岩をも砕く神速の事業をならしめたのだ、と考えたほうが幸せになれる気もする。
その後、読者諸兄の情報により、紀伊半島には扁額に隧道名以外の題字を掲げたものが少なくないということが判明した。
例えば、深谷隧道と同じく富田川水系〜日置川水系の分水嶺越えにある卒塔婆隧道などにも、題字があるそうだ。
つまり、隧道の題字は、県が事業に関わったかどうかということより、地域性の結果としてもたらされたという可能性がある。
「西日本には、東日本よりも題字のある隧道が多くある」という情報は知っていたが、実感として体験したことがなかったゆえの盲点であった。
ということで、題字の存在自体の希少性は、地域的な理由で薄れたといわざるを得ないが、その内容に対する感銘は色褪せない。
なお、隧道の題字については、「廃道をゆく4」収録の「隧道扁額を読む」がとても参考になる。