道路レポート 鳳来湖湖底の宇連旧道 第2回

所在地 愛知県新城市
探索日 2019.05.23
公開日 2023.02.03

 湖底に消えた古き景勝地「穴滝」


2019/5/23 13:13 《現在地》

首尾良く旧道の入口を発見した私は、自転車に乗ったまま旧道へ突入した。
写真は入ってすぐの場面で、目立っていないが左に現道のガードレールが見えている。この先、現道と旧道の高低差は広がる一方で、旧道は進むほど高度を下げていくことになる。実際にどこまで辿っていけるかは、宇連ダムの水位次第だ。

今日の貯水率は10%程度と、昭和60(1985)年ぶりの極めて低い数字であるから、普段は見られない湖底の景色を見られるのではないかと思う。

入った直後の道路状況は、少し幅が広いハイキングコースみたいな雰囲気。
誰も通っていない廃道ではなさそうだが、現役の車道でないことは極めて明らかだ。
この道の現役時代がどのようなものであったかは分からないが、現状を見る限りは未舗装路だったようである。まあ昭和33年というかなり早い時期に水没している道なので、舗装していたら逆に驚くだろう。幅は2mくらいで勾配も緩やかなので、車道っぽい。



入って50mも進まないうちに、道の右側が急に明るくなり、川の瀬音が間近に聞こえるようになった。
満水であれば水面があるはずの場所が、白く明るく見えているのである。

(チェンジ後の画像)
道はまだ森の中を直進しているが、私は川の音に誘われて道を右に逸れ、明るさの元に向かってみた。するとすぐに視界が開け、白っぽい一枚岩の谷底を恐ろしいほど透き通った水が流れている場所に出た。谷底との落差は5m程度だ。
これは満水時には湖の底に隠される、かつての宇連川の谷である。

ダム湖の湖底といえば、大量の泥が堆積している場所という印象があるが、少なくともこの位置の湖底には全く泥っぽさがない。堆積よりも浸食が勝っているような風景で、湖底っぽくない。

このミニ千畳敷のような平らな岩の岩壁から、少しだけ下流方向へ平岩の地平を歩いていくと、この湖底での“最初の威容”に遭遇した。




13:15 《現在地》

うぉおおおおっ!!

水が引いた湖底の峡谷が、強烈過ぎるツートンの景色になっている!

目の前の威容であり異様な景色に、シンプルに気圧された。
ここへ入っていくのは、凄く興奮するぞこれ! やう゛ぁい。

チェンジ後の画像は、満水時の水面を擬似的に再現してみた。
これだけの水がなくなって、変わりに眼下の渓谷を露出させているのである。
そしてこの水面下の風景の中には、私が欲する道路が、はっきりした痕跡を見せていた!



これこれ! この長城を思わせる、緻密な高石垣を見よ!

湖底を常の住処とする呪いを受けた、昭和33年まで地上に存在していた道。宇連集落への旧道だ。

今回の主役!




主役である道路の探索を進める前に、もう少し寄り道させてくれ。
とても素通りできないくらい、ここには見どころが多い。
人が作った景色ではないが、旧道時代の旅人に知られていた景勝がここにある。

この写真の右側を占める、垂直に切り立った巨大な岩の面。
これは、つい先ほど【県道から見た】、設楽町と新城市の境となっている巨大な岩脈だ。
一応名前もついていて、 穴滝岩脈 と呼ばれている。




県道からだと、この岩脈は宇連川の対岸に露出している部分しか見えないが、その続きは県道がある左岸にも露出していて、谷の両側に対面して幅5mほどの岩盤が突出している。その全容は、まるで大洪水で破壊!破堤!突破された砂防ダムのようである。

このように上流側から見ると、岩脈突破の前後で谷底が10mほど低くなっており、この落差が岩脈の名前の由来となった穴滝である。私がいる場所は滝の落口の傍であり、足元は切れ落ちているが、そこに流れている水は全く見えない。瀑音すれども姿は見えず。それが穴滝の不思議なところだ。



真横から見る穴滝岩脈の突出部分。手前の谷底の高さ右と左で違っているが、そこに穴滝がある。

樹木があるために満水位より上の岩脈は見えないが、実はこの岩脈、驚くべきことに、いくつもの山や谷を越えて8kmも追跡することが出来るのだという。
この岩脈の成因を含めて、『鳳来町誌 交通史編』(平成15年刊行にある解説を抜粋して引用しよう。

この地にあった火山の最後の活動は、大地の割れ目に次々と安山岩質の溶岩が貫入するものであった。垂直に近い割れ目に貫入した溶岩は、一部は地上に噴出して火山となったが、大部分は地下で急冷して薄いせんべい状に固まった。火山活動終焉後の浸食は、せんべい状に固まった溶岩の折れ口を地上に現わした。地表に現われた帯状の連なりは岩脈と呼ばれ、湯谷の「馬の背岩」は国指定の天然記念物に指定されている。
中でも「参河国名所図絵」に載っている奇観「穴滝」を宇連川と交差してつくる穴滝岩脈(鳳来湖第10岩脈)は、8km余に及び総延長を持っており、穴滝のあたりの帯状に地表に突き出た部分は、南設楽郡と北設楽郡の郡界ともなっている。

『鳳来町誌 交通史編』)より

チェンジ後の画像も同書からの引用で(着色したのは私)、縦方向の岩模様のように見えるたくさんのラインが、地表で確認されている岩脈の位置である。
このように鳳来湖の上流部には膨大な数の岩脈が露出しており、中でも穴滝岩脈は最大規模の長さを持っている。

さて、先ほど引用した文章には、穴滝が「参河国名所図絵」にも載っていると出ていたので、こちらも確認してみたい。
なお『参河国名所図絵』は、江戸時代後期の嘉永4(1851)年に完成した三河国の名所図会である。


穴 瀧 
あみだが瀬の川上十町(約1.1km)ばかりあり、四方とも岩を以て囲みし箱の如くの中へ落込滝なり、滝壺の深さ幾千尋と云ふ限りを知らず、水の通流するところ岩面唯一円形の穴のみあり実に奇絶の壮観なり

『参河国名所図絵 中 (愛知郷土資料叢書 第12集)』)より

……とこのように書いてあった。
江戸時代の後期には既にこの滝の景観がある程度広く知られていたことが分かる。当時の交通路についてははっきりしないが、辿り着く道があったのだろう。


@
明治11(1878)年以前
A
明治11(1878)年
B
明治22(1889)年
C
昭和31(1956)年
C
平成17(2005)年

ついでにもう一つ、景色の話からは少し離れるが、この岩脈が南北設楽郡の郡境であったことについても、補足して説明していきたい。
実は設楽郡が今のように南北二郡となったのは、明治11(1878)年のことである。それ以前は一つの設楽郡だった。
では明治11年以降は、常にこの場所が郡境であったのかというとそういうことでもなく、右図のようにやや複雑な経過を辿っている。

@明治11年以前、この場所は設楽郡川合村と設楽郡宇連村の境であった。これらは自治体と異なる江戸時代からある村だった。

Aそして前述の通り、明治11年に設楽郡が南北に分割されるのであるが、このタイミングで宇連村が川合村の一部となる形で消滅し、一つの北設楽郡川合村となる。したがってこの時期以降は、郡境はおろか村境でもなくなっている。ちなみに流域単位で最もシンプルな形がこのときの川合村だ。宇連川の流域で完結している。

B明治22(1889)年に町村制が施行されると自治体としての町村が誕生するが、このタイミングで川合村はかつての宇連村と川合村の領域に再び分けられ、前者は振草村、後者は三輪村の一部となり、それぞれの大字川合となる。なぜ旧宇連村の領域が再び流域の単位を超えた合併を選んだかは不明だが、それを希望する住民が多かったのだろうか。

C昭和31(1956)年、昭和の大合併によって振草村や三輪村は解体され、前者は設楽町と東栄町のそれぞれ一部に、後者は東栄町と南設楽郡の鳳来町のそれぞれ一部となった。このとき以降が、現在地が南北設楽郡の郡境となった時期である。案外最近の話なのである(そしてその後まもなく昭和33年に宇連ダム完成)。

D最後は平成17(2005)年、平成の大合併の中で鳳来町が新城市の一部となった。これで現在地は、北設楽郡設楽町大字川合と新城市大字川合の市町境となって現在に至る。

以上のように、穴滝岩脈は江戸時代以前からの伝統的な村の境だったが、明治11年から22年までの短い期間だけ同じ村に収まり、その後はまたさまざまな村や町や市の境となってきたのである。郡境だった期間は昭和31年から平成17年までだった。



おっとっと。
机上調査編を今回は用意しないので、その分ここで文章量が迸ってしまった。
探索に戻って進むぞ。

穴滝を上から見下ろした後は少しだけ陸へ上って、ちょうどダム満水時の喫水線付近にある旧道へ戻った。引き続き自転車も一緒だ。

ここから先、路上に邪魔な植生はない。
一気に見通しが開けて興奮する。
満水時はここで探索終了なのに、今日はあとどれだけ進めるだろうか。今のところ、その果てとなるダムの湖面はどこにも見えない。

この場所は穴滝のすぐ下流で、先ほど滝の上から遠望した【立派な石垣】がある部分だ。
路肩は石垣、法面は切り立った岩場なので、必要とされていた道幅がここで分かる。

この旧道にはおおよそ2〜2.5mの幅があり、自動車も通れる規模である。石垣の上面である路肩部分はコンクリートになっていて頑丈そう。こういった部分も自動車道的だ。とはいえ、昭和33年以前のこの地方できっと幅を利かせていたであろう小さな自動車……オート三輪とかのサイズ感といえる。ガードレールなんかもちろん無かった。



これが下流側の旧道上から振り返り見た穴滝だ。
先ほども同じ事を書いたが、本当に破れた砂防ダムのよう。
メカニズム的には、侵食に強く抵抗する岩脈を高圧のウォータージェットで無理矢理貫通させた風景だろう。

そして相変わらず、穴滝を落ちる水は見えない。
滝の上にある水流と、下にある滝壺の水は見えるが、落ちている水が見えない。
穴滝、なるほど言い得て妙だと思える。
きっと水は、「四方とも岩を以て囲みし箱の如くの中へ落ち込」んで、轟々と流れている。

…すごい滝だ。




私は、寄り道になるが、滝壺へ下りてみることを選択した。
こんな奇絶な滝だから、いろいろなアングルから見たいと思った。

写真は下降の最中に振り返り仰いだ、旧道の見事な路肩擁壁。
整然としていて廃道とは思えないほど。水抜きの穴も完全な状態で残っている。

なお、よく見ると背後の森の中に白いラインがある。
これは現県道のガードレールだ。
徐々に高度差が大きくなっている。




13:20

「滝壺の深さ幾千尋と云ふ限りを知らず」

なんともすごい景色だが、

この上から下まで、

全部水中に沈んでいる姿を想像したら……


怖…怖…怖!!!


(滝壺を泳げば、隠れている滝を見られるらしい…… →外部リンク





『参河国名所図絵 中 (愛知郷土資料叢書 第12集)』より

(↑)これは先ほども紹介した『参河国名所図絵』に描かれている、穴滝の姿。

この絵には現状と異なる大きな特徴がある。
滝壺の手前で、隧道のような丸い穴を川の流れが潜っている。
「水の通流する処ところ岩面唯一円形の穴のみあり」と説明されている部分だろう。

今以上に奇絶なる滝の姿であるが、現状に当てはめると、
ちょうど岩脈の部分が、天然橋となって川を渡っていたと考えられる。
これは地質的にも実際にありえそうなことだ。




滝壺から道へと戻った。

穴滝がこのように全貌を水面上に現わすのは、貯水率が30%より低い時だけだという。

江戸時代にも知られていた滝が、今や年の大半を湖底の幻として過ごしている。

ここから先、さらに“出現確率”の低い幻を探しに行く。

レアな景色を取りに行く!



 満水時の穴滝 
2023/2/1追記

本編で、穴滝は満水時に水没すると書いたが、今回あまりにも完璧に水上に露出しているために、本当に水没しているのか、俄に信じがたい方もおられるようだ。
そこで平成25(2013)年3月に訪れた際の画像をご覧いただきたい。

県道の下に広がるエメラルドグリーンの湖面の眺め。
実はこれが、満水時の穴滝付近の風景である。
穴滝も、旧道も、完全に水没していて、全く見えていない。




ただし、穴滝岩脈の上の方だけは、満水時にも突出して対岸にそそり立っている。
この岩脈の直下が穴滝の在処であることは、本編の画像と見較べて貰えば明らかだろう。

以上が、穴滝が完全に水没しているときの写真である。
この水中深くに、地上で目にしたものと全く同じ滝の地形が存在しているのである。頭では分かるが、なかなかその光景は想像しがたい。




 不毛の大地を道は往く


2019/5/23 13:23 《現在地》

ダムのバックウォーター付近にある穴滝を後に、“今日の湖面”を目指した前進をスタート。
旧道の路面は、少し荒れた林道のような、私にとってはとても見慣れた陸上の道さながらの姿で、干上がった湖畔の斜面に伸びていた。

期待以上に、自転車での走行に支障を感じない。湖底にありがちな泥っぽさが皆無であるせいだ。空気には確かに干上がった湖底でよく嗅ぐゲオスミン臭があるのだが、それも不快を感じるほど強くはなかった。




少し進むと視界が開けはじめ、旧道の周りも平らな土地になってきた。
そこには石舞台と呼びたくなる平らな大岩が鎮座していて、道はその脇を隣にある別の大岩との隙間を縫って進んでいた。

今日は一滴の水も視界に入らないこの干上がりきった風景だが、数ヶ月前、あるいは後には、岩のてっぺんが辛うじて浮上するかどうかという水位にもなるのだから恐ろしい。この風景も、時によっては魚眼の捉える眺めとなるのだ。さなかヨッキ。



穴滝付近は峡谷であり谷は狭かったが、下って行くとこのような谷底平野の地形となった。
両側は傾斜のキツい山だが、谷の底に堆積作用が作った細長い平地があり、さらにその一部を深くえぐり取ったV字の狭い谷底を川が流れている。

一般にこうした谷間の平地は水を得やすいので、いち早く開墾されて後に集落となったところも多い。しかし宇連ダムにはまとまった規模の集落が水没した記録がない(水没戸数は6戸という)。ここより奥地のほとんど平地のない山岳地に宇連集落があったのとは対照的だ。なぜ宇連川沿いの谷底平野に大きな集落が出来なかったのか私には分からないが、何かしら理由はあるのだろう。

それにしても、この湖底の旧道の状態の良さは、なんか異様ですらある。
泥もなければ、道を塞ぐような面倒な倒木もない。なんか普通に荒野を走る現役の道路のようだ。並んだ2本の轍さえ見える気がする。

昭和33年のダム湛水以来、渇水の度に浮上しているにしても、基本は水中にある道で、しかも陸上にある県道との繋がりは、ここまで辿ってきたルートだけである。近年の渇水時も、活きの良いモトクロッサーが大挙して走りまわったりしたのだろうか。

令和元(2019)年の前に貯水率がゼロになった昭和60(1985)年1月には、確かにそのような湖底を舞台としたレジャー的な車両走行があったらしい。
昭和62(1987)年に発行された『奥三河1600万年の旅 設楽盆地の自然と人びとの暮らし』(横山良哲 著)にその時の模様が描かれており、「日ごろ静かな山あいの町も見物の人々の車のラッシュには驚きました。湖畔にはやきいも屋さんが店を出し、モトクロスの愛好者は、自在に干上がった湖底を走り回っていました」などとある。

2019年の渇水時に見物人が殺到してニュースになったことは既に述べたが、30年以上前にも同じ事が起きていたのである。
人というのは、普段見えないものが見えることに、抗いがたい魅力を感じる生き物であるらしい。
そしてもしかしたらこの辺りの湖底に刻まれている自動車の轍は、そのくらい昔の渇水時に刻まれたものなのかも知れない。
泥の堆積が起りにくい湖底なら、長い間轍が残る可能性はありそうだ。



これはなんだろう?

ちょうど旧道の路傍と言える位置に、コンクリートの基礎らしきものが2つ並んでいた。
いずれも上面に錆びたボルト状の突起があり、例えば鉄塔、あるいは火の見櫓のようなものの基礎に見えなくもない。
ただ、そういうものは四つ足になりそうだが、これはそういう配置ではない。
陸からは50mほど離れた“湖中”の場所であり、周囲に同じような構造物は見当らなかった。正体不明である。

(→)
“謎の遺構”の位置から見た、現県道がある湖畔の景色。緑が濃く、道路はもう見えない。
岸の辺りに水色の何かが見えるが、あれは岸にロープで繋がれていたボートだ。浮かぶべき水がなくなって、なんとも虚しげな姿を晒していた。

この湖底の風景は、本当にコントラストが強烈だ。
満水位より上は一面緑の森だが、満水位以下には草木一本生えない荒れ地が広がる。
そのコントラストは過去に見たどのダム湖より強烈な感じがする。草木の青さが際立つ5月という季節のせいもあるだろうが、他のダム湖では良く目にする、水域とも陸域ともつかない、どっちつかずの領域がない。一年の大半が陸であるような湖底には、しばしば好水性の灌木が生い茂っていたり、草地になっていたりするが、この湖は高度によって、緑と岩の領域で綺麗に二分されている。



13:27 《現在地》《現在地:昭和26年地形図》

旧道の入口から約600m(うち500mは満水位以下の湖底域)進むと、再び前方が峡谷的……いや、あえて“キャニオン”と表現したくなるような荒々しいV字谷に変わった。
道は緩やかに下りながら、左岸伝いに伸びている。
ただ奥の方に一部道のラインが斜面に隠れて見えていない場所があって、ドキドキする。大丈夫かな…。

まあ、行けるところまで自転車同伴で行き、最後は歩いて行けるところまで……だな。

さて、そんな遠くの風景に思いを馳せつつも、間近なところに重要な遺構が出現中!!
コンクリートの橋……、いや暗渠だ! 湖底に暗渠が沈んでいた!

しかも、暗渠は連続して2本あった。
2本目はここからだと見えないが、位置だけはチェンジ後の画像に示している。




湖底の暗渠 第1号!

まるで砂漠にあって、雨期にだけ出現する川のような景色だと思った。
路面が少し傾いているのは写真の撮り方ではなく、実際に右が少し低い坂道になっている。

穴滝の脇にあった立派な間知石の石垣に、この道が隠し持つ規格の高さというか、公共事業を背景とした仕事の丁寧さのようなものをなんとなく感じていたのだが、この暗渠の姿形は、ますますそうした印象を深くさせた。

確かにデザインは古いものの、水没さえしなければ、普通に現代も使われていそうな頑丈な暗渠だった。
構造に目を向けると、布積みの目地をモルタルで埋められた質実剛健な石壁と、土木定規(規格)の存在を窺わせる、洗練されたコンクリートミニアーチの組み合わせだ。

全体の印象としては、鉄道(それも上等な)の構造物である。この旧道が作られた時期についての情報はないが、構造物の印象は昭和前半だ。同年代の平均的な道路よりも上等な造りに見える。

例えばこの地方にある有名な廃線跡である田口線(昭和7年全通)とか、現役のJR飯田線の構造物に近い印象を受けた。
実はここが鉄道だったというオチはないはずだが、こうした印象の類似は偶然ではなく、施工の年代や施工業者が共通している可能性は高い。あるいはこれらの鉄道工事を通じて、当時のこの地方に根付いた技術によるものかもしれない。



こんな程度の小沢であれば小さな木橋でも渡れるだろうに、永久的な構造物である暗渠を設えているのは、規格が高いと思える。

これが、名の知れた幹線道路の旧道だというのであれば、規格の高い構造物があっても意外性はないのだが、本編の冒頭で述べたとおり、この湖底に沈んでいる道路の末裔は、令和の現代でもどこにも抜けられない筋金入の“不通県道”だ。古くは重要な幹線道路だった……とも思えない。水没する以前の昭和20年代の地形図でも、この道は町村道の頼りない記号で描かれていて、やはり宇連集落の先に車道はない。

まあ、思いのほか高規格な構造物が一つ二つあったとして、それは意外ではあっても矛盾ではない。たまたま高規格に見えるだけかも知れないし、深い意味はないかも知れない。
でも、これを整備した時期には峠越えの車道の貫通を目論んでいた。それを見越して敢えて高規格にした。そういう夢のある想像も可能だ。
残念ながら真相は不明だが、この湖底に眠る旧道には、単に宇連集落に通じる道という以上の利用度を想定しているように感じられる部分が全般に多かった。(今回机上調査編はないのだが、その理由は、現時点までにこの道の正体が分かっていないためだ)



湖底の暗渠 第2号!

といってもこちらは路上にいると存在に気付きづらいかもしれない。
地形的にも明確な沢の地形を横断していた前の暗渠と違い、こちらは築堤によって出口を塞がれる形になった小さな地形の凹み(沢というほどではない)から水を逃がすためにある、ごく小さな暗渠だ。
しかしその割に造りは前の暗渠と同様にコンクリートアーチの堅牢なもので、規模を考えればヒューム管を埋設するだけで足りそうだが、手が込んでいる。

小さな暗渠を跨ぎながら緩やかなカーブを描いて伸びる築堤の姿は、やはり鉄道を思わせるものがある。道幅が狭いので、林鉄などのサイズ感だが。




この第2の暗渠の出口は、さらに目立っていない場所にあった。
路面より5mくらい低い築堤の法面にぽっかり口を開けていた。
入口よりもかなり低い位置にあるので、内部は強く傾斜しているのであろう。

話は変わるが、この辺りまで来ると満水時の水面からは10m以上深い湖底にいることになり、手が届く範囲からは一木一草まで生あるものは排除される。完全なる不毛の大地に自転車を走らせるという体験だ。これは非日常の感覚があり、とても愉快だった。
こういう楽しさを追い求めて、かつての渇水時にモトクロッサーが大挙訪れたというのも分かる気がする。現代の渇水時にそれをやればニュースを火種に“炎上”しかねないだろうが…。昭和時代は、他人の楽しみ方にはとても寛容な時代だった感じがする。そのぶん露骨な偏見を語ることも許されていた気がするが…。




さて、2連続暗渠を楽しんだ後は、

目に見える難関地帯だ。

旧道の入口からここまで来て、初めて道が途切れている。

途切れた奥にも、岩脈を切断する見事な切り通しが見えるので、
間違いなく道はそこまで伸びていたのだろうが、湖底の急斜面に、
途中の道は掻き消えたように見えなくなっていた。



大ガレの峡谷地帯に突入!

乾ききった路肩から跳ね飛ばされた小石が、土埃を巻き上げながらガラガラと斜面を転げ、
最後は宇連川の透き通った水面に一瞬だけ波紋を散らす。再び訪れる長い静寂。
昔の映画なんかで運材トラックが走り回っていた林道は、しばしばこんな裸の山だった。
今の日本は何のかんのと自然は豊かで、あまり管理はされていないが、緑の山ばかりである。
咥えタバコに捻りハチマキでハンドル握る命知らずの林道トラドラに心をコスプレさせながら、
道が途絶える末端まで豪快に自転車を走り進めた。




キキーーッ!(イメージブレーキ音) パラパラ……(小石の飛び散る音、そして静寂)

崩れかかった石垣の末端に到達。

その先は……(チェンジ後の画像)

目指す切り通しの直前で、邪魔な大岩が道を見事に遮っていた。

遠望で道が途絶えていたのは、ここから先である。

突破にはまず、目の前の大岩を乗り越える必要があるが…。




小型トラックくらいはある一塊の巨石が旧道を塞いでいる。
おそらくは湖面の上から墜落してきて、湖底の斜面をここまで滑り落ちてきたのだろう。
そして旧道の段差に引っかかる形で止ったが、その重みの影響で、
この周囲の路肩石垣は全て崩れ、バラバラに谷底へ転げ落ちた模様。

この巨岩表面の傾斜した平滑面を、自転車を抱えたまま横断するのは
滑りそうであまりに恐ろしく、岩の上部までガレた斜面の高巻を行った。
写真はその高巻の高さから撮影したが、強い恐怖感を感じる高さがある。



これは反対に高巻の最上点から撮影した上方で、満水位の水面が近い。
魚になって見る湖面は、こんな風景だろう。釣り糸が垂れていそうで怖い。
そして湖岸は一枚岩の急峻な岩盤になっていて、これ以上はもう登れない。
ここで横移動して巨岩を突破した。



そして巨岩を巻いた先がまた、怖かった。

ガレ場もガレ場、ふわっふわのガレ場だった。
まだ誰も踏み込んでいない、無垢のガレ場の柔さがある。
どこを踏んでもバラバラと石が動き、そこを起点に谷底まで落石が走った。

万が一、足元全体が大きな流れとなって落ち始めると逃げ出せないので、
恐怖心を圧して素早く進んでしまうのが吉である。
まして自転車などという大荷物を抱えているのだから、長居は無用。
大量の岩を落としながら、斜めに駆け下るようにしてガレ場地帯を突破した。
ここは転んだらヤバかったろう。

少しひんやりしたが、無事突破し……



13:35 《現在地》《現在地:昭和26年地形図》

岩脈ぶち抜く、湖底の切り通しに到達!


この先はどうなってやがるんだ……?