磯根崎海岸道路(仮) 最終回(真相編)

公開日 2010. 8. 5
探索日 2010. 2. 4

今回踏破した仮称「磯根崎海岸道路」は、富津市大貫海岸と新舞子海岸を結ぶ全長約5kmの道であったが、そのうち2車線の車道として工事が進んでいたのは、両端部の3kmほどであり、中央部の2kmほど(図中の赤い部分)は中断されたものと考えられる。

最大の遺構といえるのは、大貫漁港から磯根崎に至る区間にあった「ループ橋」で、これ以外に橋やトンネルはない。
しかし、2車線道路として工事が進められていた区間内には、コンクリート製の側溝や、コンクリートブロックによる擁壁などが発見された。
また大貫漁港側の起点付近には、2車線の現道に沿うように4車線分の拡幅用地と考えられる未使用の国有地が存在しており、これも本路線の完成形と関係があるのかも知れない。


最終回は「真相編」と題して、探索直後に染川付近で行った現地聞き取り調査、帰宅後の机上調査、読者さまから寄せられた情報などを総合し、謎に包まれた本路線の正体に出来る限り近付いてみたいと思う。


1.現地聞き取り調査の結果


藪山から一目散に下山した私は、染川河口の自転車を回収し、来るときに通り過ぎた集落で人を見つけると、早速声を掛けてみた。

その人物は60歳くらいの男性で、私が「染川河口から東京湾観音に登る道路のことを知りたい」と切り出すと、予想以上に熱心な様子で色々な事を教えてくれた。
その様子からは、自分たちの集落を「終点」から「通過点」へと変える道路工事の未完を、未だに惜しんでいる様子が感じられた。

この聞き取りで教わったことを、以下に箇条書きにしてみよう。
かなり核心的な情報で、私も聞いていて血管が膨張した。


    地元男性からの聞き取り情報 (箇条書き)

  1. 道路工事は、今から30数年前(昭和40年代)に行われていた。
  2. 工事は一度完成している。道は2車線の幅があり、未舗装だった。
  3. 実際に車で通ったことがある。 
  4. 廃止の原因や時期は分からないが、完成後頻繁に「陥没」が起きた。
  5. 国道や県道ではなかったと思う。
  6. 事業を行ったのは「日本資源開発」という会社ではないだろうか? 工事の前に名刺を持って挨拶に来ていた。
  7. 「日本資源開発」は、市内の山砂採取場の事業者だった。
  8. その山砂採取場跡にも、この道の続きとして作ったと思われる道がある。
  9. この道が作られた当時、海堡を伝って三浦半島へ繋がる道の構想があり、その連絡道路として作られたのではないだろうか。

私はよほど運の良い出会いをしたのか、かなり具体性のある情報をたくさん得ることが出来た。
これから順に検証してみたい。


情報1/
 道路工事は、今から30数年前(昭和40年代)に行われていた。

戦後の工事であろうと言うことは現存する遺構から予想できたが、可能性が高いと思っていた「バブル期」よりは、だいぶ早かった事が判明。
男性は当時から当地に住んでおり、工事が進んでいく様子を見ていたし、それ以前から「情報6」のような関わりを持っていたということである。
したがってこの情報の信憑性は相当に高いと考えられるが、念のため当時の空中写真を確認してみた。


右画像は、国土交通省国土計画局サイト内にある「国土画像情報閲覧機能(試作版)」で見ることが出来るカラー空中写真で、撮影されたのは昭和49年である。

図の下端が染川河口で、北側の緑の山腹には、つづら折りを描く道が極めて鮮明に写っている。
これこそ、私を心底苦しめた激藪道の「在りし日」の姿である。

間違いなく昭和49年の段階で、この道は姿を現していた。
そして「情報2」の通り、確かに未舗装路であったことも茶色い路面の色から判断できる。
また、これが開通後なのか工事中であるかは図の範囲だけでは判断できないが、これは次に解明する。




情報2/
 工事は一度完成している。道は2車線の幅があり、未舗装だった。
情報3/
 実際に車で通ったことがある。 

この証言は予想外だった。
道は結局未成に終わり、車が通れる状態で一般に開放されたことはなかったと思っていたからだ。
だが男性は、自ら運転する車でこの道を「通り抜けたことがある」と言っていた。

現状の藪深さを知る者として相当に衝撃を受けたが、通り抜けた先がどこであったかとか、どのような車で通れたのかは、うっかり聞き忘れてしまった。

しかし、私はこの「通り抜けが出来た」というのは、大貫漁港までの全線ではなくて、東京湾観音までの部分であると考えている。
その根拠は、再び先ほどの空中写真である。
(読者の中で、自動車で通り抜けをしたという方がおられればご連絡を。)


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右図中で明瞭に道が途切れている地点は、現在の車道工事の中断地点と全く同じである。
しかも末端の路上に重機なども見あたらないから、既に工事が中止されているようだ。

つまり昭和49年当時、現在遺構として残っている全区間での工事が終わっていた。(後述するが、ループ橋もすでにあった)
やはり工事は完成せず、中断されて終わったのは間違いない。

一方で、確かに未成区間内にも「道」が存在しており、私もそれを通り抜けたわけだが、そこは戦時中の軍用道路に由来するもので、勾配、幅員とも「自動車道」であったとは考えられない。
だから男性が車で通り抜けたというのならば、それは東京湾観音までであったはずだ。

なお、この開通区間への南側アプローチでは、本編で紹介した【この激狭の路地】を通らなければならない。
ゆえに開通したとは言っても、実際的には東京湾観音から染川河口へのピストンコースであり、それゆえにほとんど利用もされなかったと考えて良いだろう。




情報4/
 廃止の原因や時期は分からないが、完成後頻繁に「陥没」が起きた。

そもそもが未成道であるため廃止というのもおかしいのだが、一時期は開放された区間についても、そう永く保たなかったようである。
そしてその理由として、男性は「陥没」という表現を用いた。
土砂崩れよりは、路肩の崩壊のような状況であろうか。

実はこの後、同じ集落の別の一人からも聞き取りを行った。
その方も道の存在を知っており、「道が海に落ちて通れなくなった」と語っている。

今回の踏査では、染川河口〜東京湾観音の区間内に目立った崩壊現場は確認できなかったが、それは藪が深すぎたためと考えられる。
特に「海に道が落ちる」ような場所は、右の写真の「最後のカーブ」付近しか考えられないが、そこはちょうど俯瞰探索に徹していたエリアで、路盤の状況は確認できていないのである。

廃止の明瞭な時期は不明だが、部分開通後さほど経たないうちに崩壊が起こり、復旧されず放棄されたようだ。
復旧されなかった理由も分からないが、既に工事中止が決定された後だったからではないだろうか。
したがって私を苦悩させたあの猛烈な藪は、私の年齢と同じくらいの時間をかけ熟成されてきたものだったようだ。…それにしても深すぎたが。




情報5/
 国道や県道ではなかった。

情報6/
 事業を行ったのは「日本資源開発」という会社ではないだろうか?
 工事の前に名刺を持って挨拶に来ていた。

情報7/
 「日本資源開発」は、市内の山砂採取場の事業者だった。

いよいよ素性にかかわる話である。

私は探索前と中を通じて、この道をガチガチの未成観光道路と考えていたのだが、実態は異なっていたかもしれない。

工事が始まる直前、地元に「日本資源開発」なる会社の名刺が配られていたという。
おそらく工事への理解を求めるための戸別訪問が行われたのだろうが、その際の記憶は曖昧で、社名も記憶違いかも知れないと仰っていた。
なので私もこの社名に拘ることはしないが、いずれにせよその会社は、市内で山砂の採取を行っていた会社であるという。
少なくとも、観光道路の事業者として真っ先に考えられる「千葉県道路公社」とか、「西武」や「小田急」などによる事業ではなかったようだ。

しかし、山砂採掘業者による道路建設事業とは、どのような目的で行われたのだろう。




情報8/
 その山砂採取場跡にも、この道の続きとして作ったと思われる道がある。

当然、見に行ってきた。


教えてもらった場所は、右図の通りである。

新舞子海岸から南東3kmほどの丘陵地帯には、首都圏最大規模の採砂場が存在しており、現在も多くの業者が稼働している。

砂はコンクリートの材料などに使われる重要な資源であり、昭和30年代以降首都圏の主だった河川からの川砂採取が禁止されたため、房総一帯の山砂採取事業が急発展した背景がある。

そして採取された山砂運搬の主力は今も昔もダンプカーで、県内の国道16号や127号などは典型的な「ダンプ街道」と化している。
そのため騒音、土埃、渋滞、交通事故の多発など、交通公害という社会問題にもなっているのだが、静かな海岸線を通る未成道は、これを一挙に解決する手段として構想されたものだったかも知れないのである。

なお現在はこれも廃止されているが、この富津市の山砂採取場では、専用のベルトコンベヤで直接に海上の船舶積込場に砂を運んでいた。
この砂は主に対岸の川崎側で、扇島(昭和51年埋立完了)や羽田空港などの埋め立てに使われたというのだが、男性の教えてくれた「未成道の続きかもしれない道」というのが、このベルトコンベヤが敷かれていた敷地と一致していた。
これは、偶然だろうか。


これが富津市笹毛にある運砂道路の風景だ。

全長は約1kmで、高低差も40mほどあるのだが、全線がただ一本の直線だけで構成されており、おおよそ人間的な道ではない。
すなわち、ベルトコンベヤと並行していたための特殊な線形であろう。

こんな姿でも専用道路ではなく、一応一般の車も通ることが出来るが、沿道にあるのは荒涼とした採砂場ばかりで、国道127号と県道256号を一直線に結ぶ立地にありながら、ほとんど通行量はない。
肝心のダンプカーも今は余り通っていないようだ。

この直線の道と、つづら折りやループ橋を持つ未成道とが、同じ道だとは正直思えない。
この部分で男性の証言は正しくないと思うが、それでも「砂を運搬するための道」という一線で繋がっている可能性は否定できないのである。


観光道路ではなく運砂道路だった。

明瞭な証拠が提示されない限り完全に信じることは出来ないが、昭和49年の空中写真に写るループ橋下の道の線形にも、一般道路や観光道路とするには不審な点があることに気付いた。

右図の写真にカーソルを合わせてみて欲しい。

赤い矢印は、“4車線に拡幅可能な余地を持っている事が特徴的な大貫漁港のメインストリート”である。
そして青い矢印は、空中写真から読み取れる当時の道路線形である。
現在はこの部分は整地され、スロープ状に海岸線へ下る道は存在しない。
そのかわり、赤い矢印の道が【やや無理矢理の坂道】でループ橋に接続されている。

ここは明らかに不自然であり、現状は本来予定されていた道の姿でないことは明らかだ。
もしかしたら、この部分に新たな埠頭を造成し、砂の積出港とする計画があったのではないか…。

こんなに紙幅を使う根拠もない妄想だが、経験上、スンナリしない線形は、どうしても気になる。
少なくともこれだけは言って良いと思う。

ループ橋下の線形には、未成にかかわる何らかの秘密があるはずだと。





情報9/
 この道が作られた当時、海堡を伝って三浦半島へ繋がる道の構想があり、その連絡道路として作られたのではないだろうか。


この証言が正しいと仮定すると、前出の「運砂道路」と矛盾が生じるかもしれないが、「この道が作られた当時、海堡を伝って三浦半島へ繋がる道の構想があり」という部分は、おそらく正しい。


そして、

この道路構想には、私も心当たりがある。


関東の住人ならば、ご存じの方が多いだろう。


東京湾口道路。


富津岬付近と三浦半島の馬堀海岸付近を結ぶ、海上道路の構想である。


東京湾口道路の構想は東京湾横断道路(アクアライン)と共に古くからあり、昭和37年に最初の実地調査が行われている。
平成10年には全国総合開発計画にも盛り込まれたが、現在は事実上凍結されている。

この千葉県側の起点になると考えられる富津岬は、磯根崎や大貫漁港から直線距離で約6km離れている。
そして仮に湾口道路が完成したとすると、磯根崎を通る道は房総半島南西部からの最短ルートということになる。
現在ある道なら国道465号が該当するが、既に大部分が住宅地を通っており、大規模なバイパスの建設は難しいだろう。





男性の証言から「東京湾口道路への連絡道路」というキーを貰ったので、これを核として机上調査を進めた。


2.机上調査の結果

右図は富津市の公式サイトで見ることが出来る都市計画の全体計画図だが、その中央付近に「臨海縦貫道」という計画道路が見える。

カーソルオンで図上に国道16号、127号、465号を緑色で、臨海縦貫道を赤で表示すると、この道が未成道と同じ位置を占めていることが、より明確となる。

未成道は、まだ死んでいなかったのである。

残念ながら、未成道が建設された昭和40年代当時の計画については調べがついていないが、磯根崎を通って大坪山の南北を短絡する道路の計画自体は、現在も存在していることが分かった。
そして、その道は「臨海縦貫道」という大層な名前をもっていた。

なお、図中では「東京湾口道路」の巨大な矢印が、海上から「臨海縦貫道」へと押し寄せるように描かれているが、実際には富津岬付近に“接岸”するはずだ。
だが、いずれにせよ無関係ではない位置である。



富津市が現在も有効としている都市計画では、「臨海縦貫道路」について本文中に次のように触れている。

2)都市の軸形成を担う幹線道路の配置方針
  (略)
 イ.臨海軸形成を担う幹線道路
  ■ 観光・レクリェーション軸道路
  * 臨海レクリェーション軸の骨格を担う道路として、
   3・4・2篠部新井線及び3・4・2千種新田高根線の延伸による富津市臨海縦貫道を配置します。

さすがに「東京湾口道路」が現実的でなくなっている現状があるせいか、連絡道路とのニュアンスは含んでいない。



右図は富津市の一部である大佐和地区の最新版都市計画図である。

ここには上記都市計画にも触れられている、「都市計画道路3.4.2号線」が描かれているが、それはまさに今回の探索の起点となった、あの“4車線に拡幅可能な余地を持っている事が特徴的な大貫漁港のメインストリート”だった(青矢印)。

そこには「(18M)2車線」の注記があるが、2車線道路としては既に相当広い(比較対象として、すぐ近くに「(22M)4車線」がある)。

私が探索したループ橋は都市計画区域外のため触れられていないが、位置関係はこのように近接している。




「山行が」生まれ。ヨッキれんが執筆に加わった本たち。
さらに深く廃道遊戯
全てはここから!
マニアック&上級向け
廃線探険を提唱




3.まとめの推論

「臨海縦貫道」は、東京湾口道路の活用に欠かせない道であることは疑う余地がない。

しかし、昭和40年代の磯根崎に建設された未成道の正体は、「運砂道路」(専用か一般兼用かは不明)の可能性が高く、「臨海縦貫道」ではないと思う。

その根拠は、ひとえに道路規格の違いである。
4車線化を想定しているかに見える「都市計画道路3.4.2号線」(大貫漁港のメインストリート)と、山中にループ橋やらつづら折りやらを配置した未成道とでは、全く別次元である。
しかも、未成道にあった側溝の上面が路面と同じ高さにあった事実は、舗装する予定がなかったことを示唆する。
とてもじゃないが、高速道路を補佐するような道の姿は想像できない。

以上のことから、次のようなストーリーを想定して本稿をとじたい。



磯根崎に車道を通す初期の計画は、市内の採砂業者による運砂道路であり、これは昭和40年代に着工して一部が完成するに至ったが、路盤崩壊やベルトコンベアによる運砂への計画変更など、“何らかの事情”により計画が中止され、未成のまま放棄された。

次の計画は大佐和町を引き継いだ富津市によるもので、当時構想されていた「東京湾口道路」へのアクセスルートとして、上総湊と富津岬を最短で結ぶ海岸道路である「臨海縦貫道」を都市計画に組み込んだのである。

この都市計画は現在も生き続けているが、いずれ日の目を見る日が来るとしても、未成道の工事が再開されたり、一部開通区間が再利用される可能性は低いだろう。




もっと夢をみたい人のための、オマケ。



「千葉県土木史」より転載

右の図は、昭和48年6月に公表された「千葉県第4次総合5か年計画」の付図である。
図は既設の一般道路を黒で、既設の有料/高速道路を赤で、計画道路を全て緑色で示している。

はっきり言って、この図からは夢と、道が溢れている。
こんな房総半島だったら、今よりもぜんぜん便利だったろう。良いか悪いかは別として。

カーソルオンで房総半島一帯を拡大するが、注目して欲しいのは次の点だ。

この計画では、「房総スカイライン」が「東京湾口道路」と富津市で接続していて、半島を完全に横断し東岸の勝浦市に到達している。

どうやら、房総スカイラインは当初、湾口道路とセットで半島の東西を結ぶ幹線道路として計画されていたらしい。
実際には中間の一部しか建設されず、今ではその全体構想も忘れ去られているが。

そして、この縮尺の図で確定することは出来ないものの、「房総スカイライン」は磯根崎付近(黄色い矢印)を通過している。

或いは今回の未成道も、「房総スカイライン」として日の目を見る可能性があったのかもしれない。
…などと、幻の道を旅する心に終わりはないのである。