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道路レポート 山口県道23号光上関線旧道 上関狭区 後編

所在地 山口県上関町
探索日 2019.12.24
公開日 2025.01.08

 続々・離島の名残りが色濃い旧県道をねっちりと愉しむ


2019/12/24 7:09 《現在地》

町役場前の交差点から、激狭&激坂の約300mで高度を30m上昇させた旧県道は、県道の証しともいえる夏みかん色のガードレールと共に最終ステージへ。

ここまで1.5mあるかどうかだった道幅が3mほどまで回復すると同時に、3方向へ分岐していた。
狭路区間では見られなかった四輪車が右にも左にも停まっているのが、 “ 普 通 ” だった。現代の県道としては明らかに“普通”じゃなかった区間は、突破したらしい。
また、周囲の景色にも大きな変化があり、ここまでは軒を連ねる家並みを縫うような路地であったが、行く手に広がっているのは山並みだった。

現在地から、一連の旧県道区間の終わりとなる現県道合流地点までは残り500m弱とみられるが、ここで少し悩んだのが、この3方向の道のうち、@とAのどちらへ進もうかということだった。Bについては明らかに進行方向じゃないので、すぐに除外できたが…。


そもそも、最新の地理院地図と、そうではない旧県道時代の地理院地図をぴったり重ねても、どちらも「現在地」から3方向に道が分れているようには描かれていない。
線形的には、最新版は@を、旧版はAを、それぞれ省略しているようであり、これを真に受けるのであれば、旧県道は@だったということになりそうだが、ぶっちゃけこれは縮尺的に旧版が不正確だっただけという可能性を除外できないし、たぶん実際そうだ。

ただ、そのうえでなお、@もAも旧県道だった時期があるというのが、私の考えである。
もっと言えば、@が旧旧県道で、Aが旧県道だと思う。
その根拠については、もうちょっとだけ後で説明する。
ぶっちゃけ枝葉末節な話しだが、そもそもこの県道の旧道を探る活動自体が、世の枝葉の最たる部分だからね、許してね(笑)。


まず、Aが旧県道であろうという根拠はシンプルで、前回(したり顔で)解説したとおり、夏みかん色のガードレールがあるからだ。
このガードレールは山口県の独自アイテムで、山口県が管理している道路に設置された。県の管理ではない例えば市町村道などに設置されなかったという証明は出来ないが、これまで山口県内の道路を見てきた中で例外をまだ見ていないので、まずまず信頼して良いと思う。

加えて、“赤矢印”のところに立っている標識も、旧県道説に一役を買う存在だ。


「 この先 通り抜け てきません 」

これで末尾に設置者名が「山口県」なんて書いてあったら完璧だったが、それがなくても、この独特の看板の雰囲気はもう8割方「県」の仕事だって分かるものがある。
雰囲気なので根拠をうまく説明できないけれど、字体や、表現や、外観の古びた感じや、そして何より、見た目は何の変哲もない路地の入口にわざわざこの看板が設置されているという事実が、重いのである。

おそらく、ここから、下りていって【港で現県道に出る】までの約300m区間が、山口県道としての自動車通行不能区間だったんだと思う。だから標識を設置していたのだろう。
ただ、あくまでも注意を促していただけで、特定車種の通行規制は行われていなかったようだ。


「見て分かるよな。 四輪車で入るべきじゃないだろ?」

そんな山口県(道路管理者)の嘯きが聞こえてきそうな急坂激狭ぶりを見せる“来た道”の出口を撮影した。

とはいえ、先を知らなければ、うっかり入ってしまう車もいそうな雰囲気だ。
ぶっちゃけ元離島みたいな超絶ローカルな環境でなければ許されない規制の緩さだったろう。
もしこういう立地でなかったら、速攻で県外ナンバーのカーナビ盲進アル●ァードが突撃して大惨事(大袈裟)になっていると思う。
見たところガードレールに擦られたような疵もないので、誰もこの県道で無茶をしなかったようで安心した。


改めて、【さっきの分岐で@】を選んで進んでみた。
私の予想だと旧旧県道であり、線形的にも一番すんなり分岐を進める直進ルートである。
が、車が通れる幅を有していたのは最初の10mくらいだけで、すぐさま激狭へ逆戻りであった(チェンジ後の画像)。

なお、狭くなるところから左へ下りていく舗装された階段が分れており、これは写真左に見える沖の浜と通称されている街区の道になっている。
沖の浜にも漁港があり、上関市街地の一部を構成しているが、役場がある中心部とはいま上ってきた尾根を隔てていて、自動車で行き来するには島の入口である上関大橋の袂まで大きく回り込まないといけない。先ほどあった【六地蔵の分岐】を左折しても辿り着ける。


目の前にある、おそらく旧旧県道であろうこの道も、舗装された徒歩道だった。
自転車と比較して貰えば分かるとおり、舗装部分は幅1mくらいしかない本日最“狭”の道であるが、沿道に人家があるわけでもないのに舗装がされていて、両脇の鬱蒼とした草も刈り払われていた。
明らかに現役の徒歩道なのである。沿道に人家のない旧旧道なのに。

これはちょっとばかり、世界が違う。

私はここまでの展開を振り返りながら、漠然と感じ続けた「違い」の印象をまとめるような言葉を探した。

つまりこれは――

この地を含む瀬戸内海の島々も、“田舎”や“地方”という大きな括りでは私の住む秋田県と同じであろうが、何を差し置いても広い道路の整備が行政サービスとして優先されている雪国とは、街路というものの整備水準が根本的に違っている。これは除雪の問題だけでなく、年中温暖な気候のお陰で徒歩による移動が大きな負担にならないせいでもあるのだろう。逆に瀬戸内海の住人が秋田の田舎を見たら、街路が全体的に広いから驚くと思う。(そもそも人口密度も全然違う。秋田県の人口は96万人、山口県の人口は129万人、人口の差はこのくらいだが、人口密度は山口県が2.7倍も大きい。当然、平均地価も2倍以上違う)

山口県なんて、ガードレールが夏みかん色なだけで道路自体は同じでしょって思っていたけど、違うわ。



7:16 《現在地》

100mほどで、舗装された徒歩道は広い道にぶつかって終わった。
これがAから続く道、すなわち旧県道である。

チェンジ後の画像は分岐を振り返って撮影した。
今抜けてきた右の道のフニャフニャな形容しがたい雰囲気がおかしい。
これと見較べると、左の道はあまりにも真っ当で面白みはない。もう完全に“普通の旧県道”である。


……なんか、妙に路駐が多いけど……。



いや、路駐多いな!

沿道は草地なのに、道の両側に10台以上の路上駐車車両がいて、大都会並にしっかりとした密な縦列駐車を決めていた。
さらに路外の駐車スペース的なところにも数台の車が停まっていた。
なになに? なんか今日運動会とかやってる?!近くにグラウンドがあるとか?

ちなみに、直前の合流地点から今度は旧県道を引き返す方向へ進んでみている。
どうせ100mほどで知っている場所に戻るはずだから、先にやっつけることにした。



7:17 

左右の路駐の隙間を縫うようにして(一応車が通れるスペースは空いていた)100m戻ると、ちゃんと「この先 通り抜け てきません」の看板の交差点に辿り着いた。
この間の道路は至って普通の1.5車線道路であった。勾配もほとんどない。
しかし、めっちゃ路駐が多いのに全然人気が無い(沿道に民家もほとんどない)ことは不思議だった。

ハテナを心に抱えたまま、またまた引き返して旧道と旧旧道の合流地点へ。



7:18 《現在地》

あっ(ひらめいて)分かったわ!

この旧県道上に停まっている沢山の車って、先ほど登ってきた激狭区間の沿道住人のマイカーでしょ。

確認をとったわけじゃわけじゃないけど、そう考えると辻褄が合う。
で、旧旧道がしっかり刈り払われて生かされていたのも、車へのアクセスに便利だからだ。きっとそうだよ。

やべ。笑。
別にからかっているとかじゃなく、なんか面白い。
集落内に車が入れないから外に停めてるって、考えなかったわ、今までそういうこと。
文化が違うといったら言いすぎだろうけど、少なくとも駐車習慣は違っている。



@
全国地価
マップ
A
昭和42(1967)年
B
昭和46(1971)年
C
昭和50(1975)年
D
令和6(2024)年

ここで用意した歴代の航空写真などを比較して見て欲しい。

@は全国地価マップでみられる大縮尺の地図で、地理院地図よりも遙かに精細だ。おかげで、私が旧旧道と考えている道もちゃんと描かれている。旧旧道、旧県道、現県道の色塗りだけは私の加工である。

Aは昭和42(1967)年版である。
@と比較すると分かるが、この時点では「旧旧道」しかない。そして、この時点で既に県道四代平生線は認定済み。他にめぼしい経路はないから、ここが県道だったと判断できる。これが、旧旧道も県道だった(旧旧県道)とする根拠である。

Bは昭和46(1971)年版だ。たった4年後だが変化は大きく、“赤矢印”の位置に「旧県道」が、“黄矢印”の位置には「現県道」が、なんと同時期に建設されていた。
なお、この間の昭和44年に県道四代平生線の一部として上関大橋が完成し、長島の本土化が果たされている。島内道路の整備もたけなわだったことが窺える。

しかしそれにしても、こうしてほぼ同時に開通していた「旧県道」から「新県道」へ実際に県道のバトンが渡されるまで、このあとうん十年の月日が流れるとは面白いものである。
そもそも、最初から「新県道」として建設されていたのかも不明だが…。

Cは昭和50(1975)年版である。
「旧県道」(注:この時点では現県道だが)の、路上駐車の台数がやべえ!!(笑)
上手な縦列駐車が上関住民の必須スキルだったなこれは。私は未だにヘタクソだ。

そして最後は一気に時間が下ってD令和6(2024)年版だ。
なんというか、島の地表が緑に覆われている。従来段々畑だった集落周辺の斜面がことごとく畑仕舞いされている。私が常々言っている、現代日本は有史以来最も“緑豊かな”日本であるというのが現れている。あと、集落の範囲は縮小していないが、軒数は明らかに間引かれている。“路駐の台数”も、随分減ってしまった。

肝心の道については、ようやく県道への昇格を果たした「新県道」が新県道らしい清純な2車線舗装路に生まれ変わっている。だが、この道のサバ読みを皆さんはもう知ってしまった。
いまから、サバ読み県道へ会いに行こう。



旧県道を前進再開。
もう完全に集落は外れていて、沿道は基本的に山。ただ昔は全て段々畑だったようだから、今もアクセスしやすい沿道だけは細々と家庭菜園的利用がされていたり、なかったり。道自体は普通の1.5車線道路だが、あまり手入れは行届いていない。路駐している車も、あまりこちら側から出入りしないだろうからね(Bの道から現県道に出ていると思われ)。

そして、白いガードレールの夥しい連なりとして、山の上手に見えてきたのが、現県道だ。
この先、旧県道はやや上り、現県道はやや下りとなって、両者が自然とぶつかるのを待つ感じだ。


進行方向の眺めはあまり良くないが、左の海側や背にした側の視界はとても良好。
瀬戸内らしい多島海的眺望を堪能できる。あいにくこの朝は海霧があって薄曇りだが、それはそれで、良い風情。
潮騒も風もないので、湖っぽくも見えた。


これも同じ景色の一部を切り取ったもの。
カーブごとに路駐している車が見えるのが、辿ってきた旧県道で、中央奥の家並みに溺れた鞍部が、3本に道が分岐していた後編冒頭の地点である。
あの向こう側の見えない路地を海からよじ登ってきた。

こんなに人家に溺れた鞍部の県道を拡幅し、さらに勾配を緩和して整備をするとしたら、立ち退きの量からして無理があり、真っ当な車道として整備がなされないまま時が経った。だが最近になって急に思いだしたように、従来からある遠回りだがちゃんとした車道である町道を県道へ昇格させて、なかったことにした。


キター!

いよいよ合流のときが近いぞ!
注目すべきは、「新県道」の純白のガードレールだな。
これが普通なんだけど、山口県においては意味ある情報だ。


見よ!

旧県道と合わさった瞬間、ガードレールの色が夏みかん色に!

あんなに純白だったのに、一瞬で染まりましたねぇ(笑)


7:20 《現在地》

現県道と合流〜〜!

しようとする私の目の前を、絶対に旧県道時代は通れなかったサイズの車が我が物顔でぶっ飛んでいった!
これだよな! これが、現代の県道に求められている能力であろう。
【最初の分岐】から、旧県道経由で約900m、新県道経由だと2.5kmというかなりの遠回りで、海抜50mのこの地へ邂逅したのである。新県道は80m近い峠を越えてきているから、遠いのは仕方がない。自動車の速力を以てすれば、このくらいの距離の差は大したものではあるまい。


現県道側から分岐を撮影。奥が四代方向で、県道の進行方向だ。
分岐の手前も奥も同じ幅の2車線道路で、線形的にも違和感はないが、よく見ると路面の舗装が区切られている。
これは、手前は町道だった名残だろう。

そして度々言及しているガードレールの色もそうだ。合流地点を境に、それまで白かったガードレールが唐突に夏みかん色になる。県道リトマス試験紙(笑)。
チェンジ後の画像は、町道側の様子。道は普通だが、白い(普通だ)。


そして最後に、“重大なもの”を発見する。





新道と旧道の間のブッシュ大統領に……





ブッシュ〜〜〜!!!!!




セメント詰めドラム缶の土台ごと乱暴にぶっ倒された“ヘキサ”が!!(涙)

約900mの旧道区間内には1回も見られなかったヘキサだったが、思い返せば区間に入る直前に【あった】のだ。

旧道となった区間をサンドイッチしていた片割れのヘキサであった。
この位置に立って、右の道こそが県道であることを、不本意な実態に涙を呑みながら伝えていたのだろう。
いまは県道が左に移って不要になった。

それで撤去するならまだしも、藪の中に倒したまま置いていくなんて、山口県には県道(を愛する私)の心が分からないのか。
ガードレールをオレンジ色にしている場合じゃないぞ。
つうか、最近は山口県も普通に白いガードレールばかり設置してるうえ、オレンジのガードレールが更新されるとだいたい白くなるんだよな。
まあそれはともかく、このヘキサの待遇にはもの申すぞ! いらないならドラム缶ごと貰っていっちゃうぞ。冗談だよ。


……というわけで、最後の立腹はポーズだが、発見したこと自体はとても興奮した。ヤブニラミの私らしい大発見である。




 机上調査編 〜謎に包まれた県道ルート変更の経緯〜


@
明治32(1899)年
A
昭和28(1953)年
B
昭和43(1968)年
C
昭和53(1978)年
D
地理院地図(数年前)

まずは歴代の地形図を振り返ってみよう。

当地を描いた最古の地形図が@明治32(1899)年版である。
この時代の瀬戸内海は蒸気船の全盛期で、従来の帆船は姿を消しつつあったから、風待ちや潮待ちが重要な役割だった上関港の重要度は低下し、さらに明治34(1901)に山陽本線が神戸から下関まで通じたことで、港湾としての斜陽が決定的となった。以後、長島は他の瀬戸内の大多数の島と同じく、漁業と農業中心の島としての発展を目指すことになる。

この時点で既に建物が密集している中心市街地を東西に抜ける街路が描かれており、これが現在の「旧県道」である。
そんな気はしていたが、やはり今回探索した道は、車両による交通が普及する以前から存在した古い歩きの道に由来していた。

A昭和28(1953)年版も大きくは変わらないが、“青矢印”の位置に「荷車が通れる町村道」が誕生し、従来の山道に代わって島の東西を結ぶ役割を担っている。四代へ通じる県道の原形である。

B昭和43(1968)年版は上関大橋架橋前夜といえる時期で、“黄矢印”の位置に新たな道路が登場し、これによって今回探索した激狭・急坂の街路区間を通ることなく、島の東西を自動車で行き来できるようになったとみられる。

C昭和53(1978)年版では、“赤矢印”の位置に幅の広い道路が新たに登場し、上関大橋で本土と結ばれた島内の陸路は、大型自動車の行き来も出来るように改良された。
ただ、どういうわけか、この新道は長らく県道に昇格することなく、町道として管理されたのである。
最後のDは比較用に掲載した今から数年前の(旧県道時代末期の)地理院地図である。




長島の島内道路が整備されてきた経緯について、少し資料を調べてみた。

日本離島センターが出版する雑誌『しま 昭和40(1965)年12月号』の記事「山口県長島架橋の建設計画について」は、現職町長の中守庄治氏(1963年〜1971年の町長)によるもので、架橋の経緯が詳細に述べられているが、それに関わる島内道路網の整備についても言及があるので、抜粋して紹介しよう。昭和40年当時の現状がよく分かる内容だ。

この島は、瀬戸内海西部の島々と同様、平坦地の少ない急傾斜地帯であって、人家は大小5つの部落にわかれて密集している、地形的な事情が主因となって、道路の整備が遅れており、交通はほとんど海上による以外にない現状である。したがって、部落間の交流は乏しく、本土と至近距離にありながらも文化・経済等に後進性の強い地域である。

長島は昭和36年離島振興法の適用を受けて現在に至っており、各部落とも漁業施設など部落内の諸施設は相当進んできた。しかし、島全体の発展の方向には多くの問題が残されており、幹線道路である県道改修は、過去3年間で全体計画の約2分の1の5キロ程度が改修されたものの、難工事の部分は着手されていないため、事業費としては今後に残されたものが大部分である。目下農道・町道の改修に重点をおき、遅れている道路整備に取り組んでいる状態である。

長島架橋の完成は、着工後少なくとも3年を要するものと予想されている。その間に島内重要路線の県道四代平生線はだいたい完成されるものと考えている。この架橋が島民のために価値を発揮するのは島内道路の整備が前提となるといっても過言ではない。したがって、町としても現在計画中もしくは実施中の町道・主要農道の改修に全力をあげて取り組み、大体架橋竣工時には島の全部落に大型自動車の乗入れができる状態にしなければならないと思っている。

『しま 昭和40(1965)年12月号』より

この記事により、島内の幹線である県道四代平生線の整備は、昭和38年頃から島内延長の約半分にあたる5kmで実施されたが、残りの半分は難工事が予想されるため着手されていないこと。そして架橋工事が行われる今後数年間のうちに、町道と主要農道の整備を重点的に行い、島の全集落へ大型自動車が入れるようにする計画であることが述べられている。
実際に昭和44年に架橋が完成しており、先ほど歴代地形図のBからCにかけての変化が、これであろう。

つまり――、
現在の県道である道は、やはり、当初は町道や農道として整備されており、県道ではなかった。
県道には別の整備計画が存在していたが、難工事が予想されるとして着工されなかった
 ――というようなことが窺えるのである。

右の写真は、今回の探索後の帰り道、上関大橋の上から振り返った長島の様子である。
黄色い線の位置が現在の県道(山の裏の見えない部分も描いている)で、赤線が旧県道だ。
チェンジ後の画像は、旧県道の周辺を望遠で撮影している。

この旧県道を拡幅整備するとなると、市街地中心部で膨大な立ち退きが必要になるだろうし、別に道路を整備するとしても、急斜面の山岳地のため難工事になる。だからこそ、3倍近く迂回する町道の整備という“妥協”を選んだのだろう。一刻も早く大型車が通れる道路を島の西まで届けさせるために。

補足的に、架橋完成と同時期の昭和44(1969)年9月号の同誌からも抜粋しよう。

道路整備事業は長島に集中しており、本土室津と上関町を結ぶ上関大橋の建設、県道四代平生線の島内分の整備および町道上関戸津線整備の3事業である。
現在車輌通行可能な道路は長島では上関から蒲井を経て四代に至る県道四代平生線の9.3キロ、また町道として上関から福浦〜戸津〜中ノ浦〜白井田に至る6.2キロと、蒲井〜白井田1.2キロの道路がある。

『しま 昭和44(1969)年9月号』より

ここに長島島内の車輌通行可能な道路の長さが延べられているが、島内の県道四代平生線の全長を後の県道光上関線から検討すると、今回探索した旧県道経由で約10kmあったので、9.3kmということは少し足りない。
この足りない部分が、狭隘・激坂であるため自動車交通不能区間となって残された今回探索部分であろう。




現在の島内における車道の大部分は、県事業である上関大橋の架橋前後に、上関町が町道や農道として集中的に行った成果であることが、前掲の文献や歴代航空写真および地形図などから判明した。
上関の密集した市街地を縦貫する県道の拡幅整備は難工事であるから、そこを大きく迂回する町道を町が整備することで、当面の解決を図ったのである。
離島振興法が適応され、町村の事業であっても高率の国庫補助を受けることが出来た。このことも、県による県道整備を待たずに、町が独自の町道整備で対処できた理由だろう。

そうして開通し、盛んに利用されるようになった町道を、すぐに県道へ昇格させなかった事情を明言している記録は見当らないが、おそらく町としては、いずれ県によって本来の県道整備が行われるという期待を持ち続けたかったのではないだろうか。

だが、町道が開通して半世紀近く経った“最近”になって、遂にこの町道を県道へ昇格するという行政の判断が下された。

今度はその経緯を探りたいが、まず、具体的に、いつ、県道へ昇格したのかが不明だった。wikipediaの山口県道23号光上関線の記事にも、「上関町道が県道23号へ編入され自動車通行不能区間が解消された」とあるが、これに対して、[いつ?][要出典]という2つの“疑問符”が付いたままになっていた。

この疑問については、上関町議会の広報誌かみのせき議会だよりを調べることで、相当絞り込むことが出来た。
まず、平成24(2012)年4月20日発行のNo.118に掲載された平成24年3月定例議会の議決内容に、次の項目があったのだ。

○県道の路線認定
 長島東町稲積線・蒲井四代線の県道を町道に移管するものです。

『かみのせき議会だより 2012年4月20日号(No.118)』より

そして、次号となる平成24年7月20日発行No.119に掲載された平成24年6月定例議会の議決内容に、次の項目が。

○町道の路線認定の変更
 町道移管による起点の変更、上関白井田線起点上関町大字長島字御客屋村582の6から、上関町大字長島字道前180の10に変更するもの。

○町道の路線の廃止
 町道から県道への移管のため先水ヶ久保を起点とし稲積876の1までの町道路線を廃止するもの。

『かみのせき議会だより 2012年7月20日号(No.119)』より

これらの字名は地形図だと確認できなかったので、伝家の宝刀である「eMAFF農地ナビ」を使用して附近の字名を徹底的に調べたところ、「道前」「先水ヶ久保」「稲積」の3つの字の在処が分かった。「御客屋村」は近くに農地がないせいか不明だが、一部推定を交えながら地図上に当てはめると、これらが今回テーマとしている町道の県道昇格に関わる議決であったことを確信できた。

3月定例会で、県道から町道への移管に伴い新たに2本の県道が認定され、ここで認定された「町道長島東町稲積線」が今回探索した道路である(右図の青線)。
そして6月定例会では、右図の赤線の道路が町道から県道へ移管されたことに関わる町道の廃止と起点の変更が議決された。

もっとも、町議会の議決日が、県の行為である県道への昇格や降格(より正確に言えば「道路区域の変更」)の実施日と同一であるとは限らない(寧ろその可能性は低い)から日付は不明とさせて貰うが、間違いなく、平成24(2012)年に県道のルート変更が行われている。(山口県報を調べれば正確に日にちが判明すると思うが未確認)


さっそく読者さまが、これに関する県報を見つけて教えて下さった。

山口県報 平成24年3月27日に、次の内容があった。


山口県告示第九十八号
 道路法第十八条第一項の規定により、次の通り道路の区域を変更する。(中略)
  平成24年3月27日  山口県知事 二井関成
区     間新旧別敷地の幅員(メートル)延長(メートル)備考
熊毛郡上関町大字長島字御客屋村582の3地先から
同郡同町同大字字稲積876の1地先まで
最狭  2.0
最広 12.8
962.3
熊毛郡上関町大字長島字御客屋村582の3地先から
同郡同町同大字字先水ヶ久保277の3地先まで
及び
熊毛郡上関町大字長島字先水ヶ久保277の3地先から
同郡同町同大字字稲積876の1地先まで
最狭  4.9
最広 20.0
1283.3上関町道上関白井田線の道路の区域
最狭  6.0
最広 14.4
1191.7上関町道先水ヶ久保稲積線の道路の区域
( 以下略 )
『山口県報 平成24年3月27日』より

昭和40年代の初頭に開通していた町道が、40年以上経って、県道へ昇格したのであった。

なぜ、いまさら?

この素朴な疑問に応えてくれる資料は今のところ見当らないが、町として、もはや県がこの県道を本来あるべき形で整備する見込みが無いと諦めたのだろうか。
それに、市販の道路地図の類は例外なく県道がここで【途切れている表現】になっていたから、あまり格好が良くないと(今さら)気づいたのかも知れない。
いずれにしても、今回の県道の変更は、県ではなく、町の側から県へ働きかけた結果である可能性が高いようである。

そう考える根拠を紹介する前に、この県道にまつわるもう一つのルート変更を紹介したい。
先ほど紹介した平成24年3月定例会の議決内容に、町道東町稲積線と一緒に、町道蒲井四代線を県道から町道へ移管したことが出ていた。
これがどこを指しているかというと……(↓)。


長島の西の端っこの方、一番奥の集落である四代(しだい)から蒲井(かまい)までの約5kmが、県道から町道へ降格していたのである。
ここは架橋前の県道四代平生線時代からずっと県道だった区間で、山口県によって整備と管理が行われていたが、県道認定から少なくとも50年以上経ってから、町道へ降格した。代りの新県道ができたとかでもなく。

まとめると、山口県は平成24年に県道光上関線について、上関市街地附近の約900mを町道へ移管し、代わりに約2.5kmを編入すると共に、蒲井から四代までの約5kmを町道へ移管して、終点を四代から蒲井へ変更していることになる。これにより路線の総延長が差し引き3.4kmほどマイナスになったはずだ。

既に四代集落が無人化しているとかならまだ納得しやすいが、そういうわけでもないのに、県はなかなか大胆なことをしたと思う。
これはなんともゲスな想像だが、立場が上である県が上関町に対して、「なんだよ……。今さら町道を県道にしてくれってんなら、代わりに末端部分は町道に降格するからそちらで管理しろよな。交換条件だ」……みたいなことを提案したのかと。

だが、どうもそんなゲスで単純なことではないらしく(たぶん)、山口県議会の会議録に、令和6(2024)年3月の土木建築委員会で行われた、概略次のようなやり取りを見つけた。

○委員
 ……上関町での場合、県道を町に移管をして、中電が事業をと。こういう場合は、県道ですから、県の財産だったと思うんですけど、こういうふうな議案で手続はされたんでしょうか。

○道路整備課長
 上関におけます県道の町道への移管は、上関町からの島内の道路の再編という要望に基づいて対応したものです。終点を四代から蒲井に変更したというものです。議会には、終点の変更でしたので、上程の規定にはなっていませんので、道路法の中での処理をしています。

「山口県令和6年土木建築委員会 3月11日 1号」より抜粋

このやり取りは本来上関町とは無関係な内容で、県道の橋を国に譲与する場合の行政の手続きについての質疑である。
が、たまたま例示されたのが、この会議より12年も前に行われた、県道光上関線の終点を四代から蒲井に変更した事例だった。
で、その中で議員がしれっと延べている、「県道を町に移管をして、中電が事業を」と。
さらに、回答する道路整備課長は、「上関町からの島内の道路の再編という要望に基づいて対応した」と回答している。

山口県議会議員なら当然の知識であるかのようにさらっとやり取りしているが、これが真実なら、上関町が県道から町道への降格を要望したということに。
そしてその目的は、「中国電力が事業を行う」ことであった?

さらに調べを進めると、県道降格から4年後の2016年になって、蒲井と四代の間の難所を短絡するトンネルの建設がスタートし、2018年11月に全長396m幅8.0mの長島トンネルが開通していることが判明。
これは完全に町道降格後の事業である。県道時代に整備されなかったトンネルを、町道になった直後に町が単独で整備している。
上関町の最近の収支報告は知らないが、普通に考えたら、余力は大きくないはずなのに。

町としては、このトンネルを自前で整備するアテがあって、町道への移管を県に要望したのだろう。

上関原子力発電所の建設予定地へ通じる、この町道を!


これまた、読者さまが見つけて教えて下さった。2024年2月の中国新聞に次の記事があったのである。

なんと、町道蒲井四代線約5kmの改良工事は、上関町の依頼を受けた中国電力が、用地買収を含めて、自社の事業として、地元の建設会社に発注して行ったという。そして完成後には町へ土地ごと譲渡したというのである。道路管理者ではない第三者による道路事業は道路法第24条に規定があるが、本来は小規模な、例えば公道と私道が接続する部分での公道側に行う工事などを想定したものであり、自治体の依頼を受けた企業が、数十億円規模の道路事業を自前で行うのは、極めて異例であると。

……驚いた。これは道路法大好きな私も初めて見聞きする事例だ。個人的に本編探索での驚きが霞んでしまうくらい驚いたが、本題ではないから深く追求はしない。


中国電力が長島西端の海岸一帯に建設を計画している上関原子力発電所については、計画の浮上が昭和57年頃、上関町が正式に誘致要請を行ったのが昭和63(1988)年である。
だが、紆余曲折があって2025年現在も建設に向けた調査が進められているという段階で、本体の着工には至っていない。
それでも、中国電力からは「建設が具体的に動き出した2007年8月以降、上関町に対し計5回にわたって総額24億円の寄付を行って(wiki)いるとのことではある。

今回紹介した旧県道区間については、代替となる町道の整備が昭和40年代であったわけで、原発計画の影響というのはなかったと思う。
最近になって県道光上関線の終点が変更された出来事は原発計画と関わりがありそうだが、これと今回探索区間の県道ルート変更が人質交換みたいに同時だったからといって、両者に有機的な繋がりがあったかは分からない。そこはちょっと見えない。




ある道が、そこにあることの経緯というのは、突き詰めれば奥が深くて、地図上に違和感を零すような道には、たいてい変な経緯が隠れているもの。
今回も、突き詰めきれはしなかったが、調べる過程はとても面白かった。
そしてその前段階には、現地で道を辿る面白さもあるのだから、2025年もますます道にぞっこんである。今年もよろしくおねがいします。m(_ _)m






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