道路レポート 旧三原山ドライブウェイ 序

公開日 2016.12.28
探索日 2016.02.06
所在地 東京都大島町


“島さ行がねが”シリーズの次なる舞台は、大島へ。

私に島の楽しさを教えるためにあつらえられたかのような絶妙さで、東京の沖合に浮かぶ個性豊かな多数の島々からなる伊豆諸島。
このうち大島、またの名を伊豆大島は、同諸島中最大の面積と最大の人口を有する本土に最も近い島である。伊豆半島との最短距離は22kmほどで、東京港から約100kmの南方海上に浮かぶ。
島には観光名所が豊富にあり、海路・空路とも便数は潤沢であるから、同諸島中では圧倒的に訪れやすい。

長径15km、短径9kmの南北に細長い楕円形の島は面積91㎢で、中央に聳える複式成層火山の三原山(標高758m)が営々と形成した、我が国の中でも活発な活動を続ける火山島のひとつである。
直近では昭和61(1986)年11月に大規模な噴火が発生し、当時の全島民約1万人が1ヶ月にわたって島外避難を余儀なくされた出来事は、ブラウン管に写し出された鮮明な噴火の映像と共に記憶している方は多いと思う。



伊豆半島の東岸、東伊豆町稲取港から遠望した、大島の姿。

島のほぼ全体が、複式成層火山である三原山により形成された、火山島である。
全体的になだらかなシルエットは、非常に流動性が高い玄武岩質の溶岩による。
ハワイのキラウエア火山、イタリアのストロンボリー火山と共に、世界三大流動性火山に数えられている。




『グランプリデラックス全日本道路』(昭和57年/昭文社)より転載。

そんな大島にあったのが、表題の「三原山ドライブウェイ」である。

この道路は、伊豆諸島中の歴史の中で唯一の有料道路だ。
それも、「ドライブウェイ」という名のイメージ通り、自動車専用の道路だった。
道路運送法に定められた「一般自動車道」という種類の道であったため、自動的に自動車以外(原付も、自転車も、もちろん歩行者も)の通行は許されなかった。
「一般自動車道」は一種の私道であり、大島登山自動車道株式会社という民間企業が一切の管理を行っていた。

右図は、島に有料道路が有った当時(昭和57(1982)年)の道路地図だ。
有料道路を意味する青色の線が、三原山の中腹から山頂にかけて伸びている。
三原山ドライブウェイという道路名や、麓側の入口近くにある料金所の記号、そして普通車800円大型車3200円という通行料金も見て取れる。
また、巻末の有料道路一覧表には、自動二輪車の通行料金が600円であったことや、全長が4.1kmであったことが載っていた。

この有料道路、カーフェリーの就航していない離島という特殊な立地にあったから、通常の旅客船で運べるバイク以外のマイカーで走ったことがある人は、島民の外では極めて稀だろう。
レンタカーを運転して走ったことがある人はそれよりは遙かに多くいるだろうが、それでも本土の大概の有料道路よりは少ないと思う。
やはり一番多いのは、観光バスに揺られて通行したという人だろう。
残念ながら、私はどれも未体験だ。

ドライブ旅行が国民最多数の余暇の過ごし方として盛り上がっていた昭和50年代は、日本中の著名な観光地で、全く有料道路を持たなかった場所の方が珍しいくらいだった。
だが、多くの有料観光道路がその後に採算の困難を来たし、無料化と引き替えに、その看板を下ろした(=公道となった)。
大島観光の中心である三原山に所在した三原山ドライブウェイも、そんな路線の一つであっただと書けば、「そーなのかー」と納得されるかも知れない。

だが、この道路が看板を下ろした直接の理由は、もっともっと劇的な出来事のせいだった。

そう、それは冒頭にも書いた、この島の忘れるに難い大事件、「昭和61年 伊豆大島噴火」。



左図は現在の大島の地図だ。

三原山ドライブウェイに代わって山上へ通じているのが、都道207号大島公園線(通称「三原山登山道路」)である。

このくらいの縮尺では、三原山ドライブウェイと三原山登山道路のルートの違いが分かりにくいが、2万5千分の1地形図では両者の違いが鮮明である。
次の図を見て頂きたい。

昭和46(1971)年【噴火前】と平成3(1991)年【噴火後】の地形図を比較すると、「三原山ドライブウェイ」が途中で不自然に寸断されて、代わりに以前は「大島温泉」までしか通じていなかった都道が、ドライブウェイの終点と同じ「御神火(ごじんか)茶屋」まで延ばされていることがはっきりと分かる。これが現在「三原山登山道路」と呼ばれている道だ。

そしてこのドライブウェイの寸断された部分には、噴火口のような窪地の記号が幾つも描かれている。
そこで、何が起きたのか。
当時の噴火のニュースをよく見ていた方なら、私よりも先に答えに辿り着くかもしれない。どんな噴火が起きていたのかを、思い出しそうである。
かく言う私も、昼夜を問わずに繰り返された緊迫のニュース映像を夢中で眺めた憶えはあるものの、いかんせん、当時の私は10歳そこらであったから、具体的な記憶は曖昧になっていた。

そして、あの全島民避難という大きな大きなニュースの影で、それが収束した後の地図からはひっそり“消えていた有料道路”についてじは、どの程度報道されていたのだろう。
もちろん報道自体はされたのであろうが、私の記憶にその映像は無かった。
まして、あれから30年も経た現状についてなど、身近な誰かに教えて貰える気はしない。

我が国が世界有数の火山の国だとしても希有な存在であるのは間違いない、火山噴火によって寸断された、有料道路。
その30年目の現状というものを、私は見にいくことにした。
もちろん、大島には外にも沢山気になる道があったので、それらと一緒に…。




元町港から上陸し、登山道路を目指す。


2016/2/5 10:32

やって来ました! 久々の“島いが”!
ここは、大島に二つある海の玄関口のうちの一つ、元町港だ。

伊豆半島の稲取港から、東海汽船のジェット船「セブンアイランド虹」で、たった35分の短い船旅だった。
(写真右に見える船に乗ってきた。その左に白く小さく見えるのは、富士山だ。)
以前に旅した新島や神津島へは、どうやっても数時間の船旅が必要だったが、さすがは一番近い島、そしてジェット船。これならばもっと前に気軽に訪れても良かったかもしれない。

でも実は、大島へ上陸するのはこれが初めてではない。
それこそ、2年前に新島&神津島へ初の島旅をした帰り、この大島のもう一つの旅客港である岡田港で下船して乗り継ぎをしている。
その時に、ほんの1時間ほどだが、土砂降りの岡田港周辺をウロウロした。
まあだからなんだという話しだが。本格的に上陸するのは、これが初めて!

右図は、現在位置である元町港と、このレポートで紹介する旧三原山ドライブウェイの位置関係を示す地図だ。
ドライブウェイの終点は、三原山の外輪山上にある御神火茶屋で、標高約550mである。
現在地は誰の目にも明らかに海抜0m付近なので、まるまるこの標高を上る必要がある。もちろん、足はいつもの自転車だ。
そしてその前に辿り着くべきドライブウェイの起点は、湯場と呼ばれる標高約430mの山腹だ。既にかなり高い位置である。

この大島では、新島や神津島では体験しなかった高度まで上ることになるのだ。それはとても楽しみなことだった。



初めて訪れる元町港からの大島の眺めは、何とも形容しがたい……、とにかく興奮度の高いものだった!

まず感じたのは、山の圧してくるような大きさ。
0mから見上げる758mは十分に高いが、何より行く手の視界を満遍なく塞ぐどっしりした山容が、その印象を強くした。
地形図を見ても明らかなことだが、南北に長い楕円形をした島の東西の斜面は全般的に急傾斜で、海岸から山頂までの距離が短い。
元町の港はそんな島の西面にあるから、山の圧してくる迫力は格別だった。

もともとは陸地でないところにゼロから作られた巨大な突堤に立って眺めると、前景として島最大の集落(小都市と言える規模がある)を構成する密集した屋根が、きつい傾斜の山腹に段々と並んでいるのを見る。それだけでも気圧されがちだというのに、背後には前述した雲を突く山の姿なんだから、たまらない。

これは私が、予めその山頂付近に重大な用事を持って上陸してきたことから、より強く感じた部分もあるのだろうが、かかってこい!と挑発された感じが凄かった。  (もちろん、これに対する私の答えは、「屠(ほふ)ってやる!」)



10:44 《現在地》

自転車を輪行袋から取り出して、組み立てる。
今回予定している探索は3日間で、背負う荷物もそれなりに多い。
埠頭の上で全てを身に付け、準備完了となって、港の前の道へ出た。

写真は港の待合所の前にあるロータリーの風景だ。
沢山の旅人を迎え入れてきたここは、さながら地方都市の中心駅前広場のようだ。新島や神津島よりも遙かに都会だということを、改めて感じた。




どこの島へ行っても、その島の道を最初に踏む時には、得も言われぬ興奮がある。
遠くの見知らぬ土地の道路を踏むのはいつだってワクワクするが、中でも島の道は、ふだんの道から物理的に寸断された存在であることが楽しい。
そこでは島の道ならではの“独自の生態系”のようなものを捜してみたくなる。

とはいえ、実際にはそこまで道に個性が強い島というのは、まだ見たことがない。
少なくとも、設置された道路標識はどこも一緒だ。我々には当たり前のことなのだが、日本が先進国の一員だからこそとも思う。

東京都大島町で最初に私を迎えてくれた案内標識は、「大島一周道路」と書かれた「道路の通称名」の見馴れた標識で、「ここから」の補助標識が付いていた。
文字通り、ここから始まり大島の外周をぐるっと回って戻ってくる、見事な一周道路のスタートだ。
私もこれから1日半ほどかけて、寄り道しながら一周するつもりだ。



港の周囲は元町の市街地で、島内最大の集落を構成している。
大島町役場や、東京都大島支庁という都の出先機関もここにある。
現在は島の全体が大島町だが、昭和30年までは6つの村が島内にあった。
そのうち旧元村の中心地だったのが、この元町集落であったそうだ。

集落全体が三原山の裾野にあり、東高西低の土地になっている。
そのため東西方向の道はことごとく坂道である。
港を出た私を迎えたのもそのような坂道だったが、いくらも進まないうちに、「三原山登山道路 Mt.Miharayama Mountain Road」の始まりを告げる標識が現れた。

どうやら私の三原山登山は、港を出た時点で、もう始まっていたらしい。
ここは「一周道路」であると同時に、「登山道路」でもあったのだ。




ここが「東京都」であることを強く印象づける、都民には見馴れた色と形のキロポストが、上記標識の下に設置されていた。

都道207号の0.2kmポストである。
都道207号大島公園線は、元町港を起点に三原山山上の御神火茶屋を終点とする、東京都が定めた通称「三原山登山道路」のルートと(ほぼ)合致する一般都道である。
対して通称「大島一周道路」の方は、都道208号大島循環線とほぼ合致している。両者は元町地区内では一部重複しており、複雑だ。



港を出発して5分目で、島での第一号ぬこを発見した。いわゆる、イズオオシマヌコか。
この大きな島には、どれだけ豊かなぬこの生態系があるのかも、楽しみなところだ。

んで、このぬこを発見の辺りで都道208号との重複が始まり、以後急な上り坂はなりを潜めて、概ね等高線に沿った形で島の外周を回るルートが始まる。海抜は40〜50mである。

東京都の大島支庁も、この通り沿いにある。
島の全ての集落を結ぶ唯一無二のメインストリートだけあって、交通量はこれまで見てきた伊豆諸島のどの道よりも豊富だ。

しばし、走る。



11:01 《現在地》

港を出発して2km(自転車で15分)で、重要な分岐地点に到達した。

「一周道路」(都道208号)と「登山道路」(都道207号)の分岐地点である。
後者は右折で、青看の行き先は「三原山」となっている。

旧三原山ドライブウェイへ向かうためには、ここを右折する必要があるが、それは“明日”の行程だ。



翌日へ、ワープ!



2016/2/6 12:47 

大島上陸から26時間を経過し、島の方々に少しずつ足跡を刻んだ私は、この分岐へと戻って来た。
あいにく今日は昨日ほどの晴天ではないが、雨の予報は全くないので、探索は問題無かろう。

分岐地点には、様々な標識が設置されていて、これから始まる長い山登りへの覚悟を決めさせてくれる。
中でも、「三原山 10.6km」と表示された、ペイントの剥げかけた案内標識は、グッと来るものがあった。ピクトグラムに噴煙を上げる火山の姿が示されているのも独特である。




島内の全ての集落は、一周道路沿いにある。
そのため、登山道路に一度入ると、周囲は山林ばかりである。
中でも目立つのは、大島の名産である椿の林だ。
自然林ではないのだろうが、沿道には綺麗な椿林が延々と続く。

二車線の道路自体も良く整備されており、ほぼ一定の勾配で上り続ける。
勾配があまり変わらない代わりに、進むにつれて徐々に九十九折りの頻度とカーブの厳しさが増していく。そのようにして、成層火山らしい上に行くほどきつくなる傾斜に対応している。

上り始めて30分が経過しても、ほとんど景色に変化は無かった。
目立った変化が現れたのは、ちょうど1時間を過ぎたときだ。




入口から4kmを少し過ぎて、地図に大丸山と注記された小山の近くを過ぎた辺りで、それまでずっと樹木に覆われていて見えなかった路傍の視界が初めて開けた。

ガードロープの外を眺めると、大島空港が横たわる島の北西部にあたる北の山地区が見晴らされる。
その向こうはもちろん海だ。
その更に先には伊豆半島や富士山が見通せるはずだったが、残念ながら霞が濃い。

期待したような眺望こそいまいちだったが、黙々とした上りの1時間の成果が確認でき、励まされる。
現在地は標高約330m。「ドライブウェイ」の始まりまで、残り約100mである。



上っていく途中、何度かこの案内標識を見た。
「三原山登山道路」という日本語の表記は、麓で見たものと変わらないが、その下のローマ字表記が「Miharayama tozan doro Ave.」となっていて、道路標識のローマ字表記を外人にも意味の分かりやすいものにしようという活動が活発化する前の、やや古いものと分かる。

もしかしたら、目指す「ドライブウェイ」が現役だった時代のものかも知れないと思ったが、答えは分からない。
噴火が起きたのは昭和61(1986)年で、そのくらいの時期の案内標識は、今も各地で普通に現役である。だから、可能性はある。

それにしても、「doro」が「road」と似ているのは、完全に偶然のことなのか、微かには蓋然性があることなのか、昔から不思議に思っている。




14:12 《現在地》

入口から自転車を漕いで上り坂に耐えること約6km、要した時間1時間25分をもってようやく、「ドライブウェイ」の起点だった「湯場三叉路」の付近に到達した。

交差点そのものより先に見えてきたのが、ご覧の青看である。
行き先表示は直進が「三原山」、右折が「割れ目火口」とあった。
そして、「ドライブウェイ」はここを右折したところから始まっていた。青看そのものも噴火後に改めて設置されたもののようで、「ドライブウェイ」の表記があった気配はない。

余談だが、「割れ目火口」のローマ字表記は、「Crevice Craters (クレバスクレータース)」になっている。
だが、この表記に“修正”されたのはかなり最近であるようで、googleストリートビューの画面(リンク)を見てみると、「Waremekako」という、全くそのまんまの表記になっていた。確かにこれでは外人には伝わりづらいだろうが…。




『昭和六十一年伊豆大島噴火の記録』
(昭和63年/大島町教育委員会)より転載。

「割れ目火口」の言葉で思い出した人は、多いと思う。

昭和61(1986)年11月21日の夜に、我々がブラウン管の向こうに固唾を呑んで見守った、

あの怖ろしくも、あまりに美しかった、赤熱のカーテンの映像を。

山頂ではない場所から突如吹き上がった溶岩の映像は、巨大な地球エネルギーの前では、
この世に真に安全な場所など一つも無いのだということを、一種の諦観とともに思い知らせてくれた。

割れ目噴火が、ドライブウェイを破壊した張本人!!




そしてここが、旧「三原山ドライブウェイ」の入口である。

ちょうど目の前を、大島唯一のバス事業者である大島旅客自動車の路線バスが下ってきたが、かつては山頂方面のバスは右の道を使っていたに違いない。

果たして、噴火前と現在とでは、この場所の景色はどのくらい変化しているのだろう。
正直、噴火前を見ていないので比べようがない。

また、現在の状況については特段に不自然な部分も感じない。
左右の道の行き先は噴火の前後で変化してしまったが、どちらの道も以前から存在はしていたものなので、違和感を与えづらいのか。
それに、噴火からはもう30年も経っているから、色々と“馴染んだ”のかもしれない。



分岐地点には色々な案内板が設置されているが、妙に汚れている。
すぐ近くに「湯場三叉路」のバス停があるのだが、あまり利用者もいないのか。

だが、案内板の地図を見る限り、噴火で被災した旧ドライブウェイも決して廃道になってしまったわけでは無く、被災区間(=割れ目火口)の前後は今も道路として使われているようだ。
また被災した区間内も、道路の代わりに「溶岩流遊歩道」なる点線の道が描かれている。

ドライブウェイとしては蘇らなかったものの、道は割れ目噴火によって寸断されるという得難い経験を活かし、第二の人生を手にしていたのである。



旧ドライブウェイが廃道になったわけでないことは、予期したとおりだった。

私がここへ来たかった一番の目的は、それが廃道であろうとなかろうと……

有料道路として活躍していた時代の面影を捜すこと!

オブローダーは、廃道探索だけをするわけではない。道路の歴史を実地で掘り出そうとする者は、全て彼の者だ。
(そう嘯くことで、勝手に仲間を増やしていくゾンビのようなオブ軍団…)