危険な探索でした。
危険と言ったら、日本の急峻を沢山集めた“南ア”エリアの十八番である。
千頭林鉄のふるさと、川根本町に再登場を願おう。
左図は川根本町の千頭地区周辺を描いた最新の地理院地図画像だ。
今回探索した道は、この地図をぼんやり眺めているときに、気になり出した。そして簡単な机上調査の末に、探索を決行した。
そんな緩い動機というか、きっかけから、非常に危険な探索に追い込まれた(苦笑)。
さて、この地図の中で、皆さまはどこが気になりますか?
私が着目したのは、大井川に沿って並走(一部重複)する国道362号と県道77号の位置関係であった。
千頭から金谷までの大井川の中流には、国道と県道が川を挟んで両側に並走しているのだが、これは国道が右岸(西岸)、県道が左岸(東岸)という位置関係を、まるで暗黙の了解でもあるかのように保っていて、国道が左岸へ“お邪魔”するのは、おおよそ42kmの中にたった2箇所、4kmくらいしかない(平成28年現在)。
大井川の激しい蛇行を思えば、もう少し橋を架けて川を串刺しにするショートカットが多くても良さそうだが、そうした改良は、まだまだ発展途上である。
そしてこの地図の千頭付近が、そんなレアな2箇所のうちの1箇所だ。
南から千頭を目指して右岸を北上してきた国道は、「崎平」で大井川を渡り左岸へ移動。以後「田代」「小長井」を経て、静岡方面へ向かっている。
だが、地図を良く見ると、「崎平」で川を渡らず、そのまま右岸の「富沢」「三ツ野」を経由して「千頭」へ至る道も描かれている。
この状況を見て真っ先に思ったのは、「富沢」や「三ツ野」を経由する道が、国道の旧道なのではないのかということだった。
以前、千頭林鉄の探索を行ったので、この辺りの机上調査資料は、既に入手していた。
そして、“右岸旧道説”を確かめるべくそれらに目を通すと、早速発見した。
動かぬ証拠。
左図は、『本川根町史 通史編3 近現代』(以後『町史』とする。なお、この書名は誤記ではない。本川根町が平成17(2005)年に中川根町と合併し、現在の川根本町になっている)より転載した、「本川根地域概略図〜明治初期〜
」である。
この図には明治初期の(おそらく近世から引き継いだ)交通網が描かれており、中央を大きく蛇行しながら流れる大井川の両岸に、それぞれ川岸の道が描かれている。
このうち右岸の道は、「千頭」「みつ野」「富沢」といった先ほども出て来た右岸の地名を貫いて、ずっと上流まで続いていて、「川根街道」と名付けられている。
地理院地図に描かれている右岸の道の正体は、この川根街道であろう。
なお、千頭は古くからの交通の要衝で、大井川に沿う川根街道と、富士見峠を越えて駿府城下(静岡)へ通じる川根東街道の結節点に位置している。そのため、大井川上流域の産物(主に木材)の集積地であった。(その地理的条件が、後にここを大井川鉄道や千頭森林鉄道の終点や起点にした)
なお、ここで一つ大井川流域の交通に関する、重大な“特殊事情”について、触れておきたい。
次の一文は、近畿大学がまとめた『本川根町千頭の民俗』からの引用である。
大井川は江戸時代には、川越し制度のために掛橋と渡船は勿論の事、川の流れを利用した運搬の船さえ禁止されていた。そのため、大井川上流の人々は峠道をつなぎ物資の運搬や搬入を行っていた
大井川は元来水量も豊富で、中流以下は流れも緩やかな舟運に適した河川であるにも拘わらず(その証拠に明治になってすぐに舟運が開始されている)、江戸幕府の政策により数百年ものあいだ、交通においては、障害としてのみ存在していたというのである。
(なお、千頭と対岸の小長井の間には、近世から例外的に「桶越し」というタライ船による通船が認められていた。このことも、千頭や小長井を発達させた)
この重大で全国稀な“特殊事情”は、大井川の両岸にそれぞれ1本ずつ、生活のための道を生み出さしめた。
それが、地形の緩急を問わず、激しい川の蛇行にもめげず、今日まで(ほぼ)両岸に1本ずつ国道と県道を並走させ、かつそれぞれがその領分を(ほぼ)守り続けている、原点である。
明治以降は架橋も自由になったが、簡単に数百年の伝統はふるい落とせないのだろう。
ただ、そんな中にあって、今回紹介する区間は、いち早く“架橋により棄てられた”のである。 な ぜ だ ?
そこに考え至ったとき、嫌な予感がした。
なお、入手済みの旧版地形図も当然見てみたのだが、私が最初に述べた予想 《「富沢」や「三ツ野」を経由する道が、国道の旧道なのではないのか》 は、正確では無かった。
明治41(1908)年の地形図では、「富沢」(冨澤)を通る右岸の道は、里道としてはっきり描かれているのだが、昭和42(1967)年版では既にそこを避け、左岸の「三盃」「田代」を通るようになっていたのだ。(他に昭和27年版も確認したが、道の表記は明治とほぼ変わらなかった)
国道362号が初めて指定されたのは昭和50年であるから、富沢経由のルートは、その遙か以前から旧道化していた(そしておそらく廃道化…)可能性が高い。
ちなみに、昭和42年版の地形図では、後に国道となる道が「主要地方道」として表現されていた。
これらのことから考え、今回私がチャレンジした道の正体は、近世から明治大正昭和中期まで「川根街道」として利用され、昭和42年以前の崎平地区への架橋により役目を終えた「旧道」である。
往時、この道がどの程度整備されていたのかは記録が乏しく分からないが、昭和6(1931)年の大井川鉄道開業まではそれなりの交通量があっただろうから、規模にも期待したいと思う。
なお、現在の地理院地図を良く見ると、
「三ツ野」から「千頭」までの区間、おおよそ3.4kmが、破線の徒歩道として描かれている。
そして、廃道化が強く疑われるこの区間こそ、今回の踏破目標の中心だ。
探索のスタート地点は、千頭駅に併設された「道の駅」とした。
そこから自転車で「三盃」「崎平」「富沢」を経由して「三ツ野」へ向かい、
さらに徒歩で破線区間を踏破(探索)し、スタート地点の「千頭」へ戻るプランである。
では、スタート!