2011/2/8 7:18 《現在地》
随所に石畳の痕跡を留める“車力道”を湖畔(標高100m)からさかのぼること、約20分。
距離にして2〜300m進んで来たところで、これまで路盤と共にあった沢筋が自然と消滅し、道だけが山腹に取り残される形になった。
地形図を見ると、標高150mあたりを境に山腹の傾斜が増しているが、それがこのあたりだろう。
傾斜がさらに急になったことで、車力道もこれまでのような直登を断念し、蛇行をはじめた。
このカーブした堀割は、これまでで最も大きな“土工”の跡といえるだろう。
左の法面は最大で5mくらいの高さがあり、しかも垂直である。
また、おそらくこの場所にも石畳が敷かれているが、大量の瓦礫が路盤を埋めてしまっているので確認は出来ない。
そして、このようなカーブを設けているにもかかわらず、ここはこれまでで最も急な坂道であり、先を見ると自然に空を見上げるような感じになる。
そもそも、これまでは鬱蒼とした森の中を辿ってきたので、頭上に空はほとんど見えなかった。
それがここに来て急に空が近付いた感じである。
ん?
うおっ!
み、見えてるジャン!!
坑門見えてる〜!
もともと薄暗い森のなかで、カメラ望遠&興奮による手ぶれという悪条件のため、かなり激しくブレた映像になっている。
だが、間違いなくある。穴が。
まだこれが目指してきた隧道だとは断定できないが、それも間もなく確定出来よう…。
気が急く場面。
おかげで、気づきながらも無視しかけたが、そこはグッと踏みとどまって手に取ったのが、これ。
一部が割れて欠けた、陶器のお皿(椀?)である。
表面に鮮やかな模様が残っているが、私にはこれが作られた時代を推測する事が出来ない。
状況的には、明治から大正の稼行期のものと判断して良いと思うが…、はたして。
堀割カーブを抜け出すと、坑口は真っ正面となる。
だが、木が邪魔をして、まだよく見えない。
いやに勿体ぶりやがる。
しかも、坑口だけに意識を集中してはいられない。
なにやら左の山の上にも、石垣のようなものが見えるではないか。
まさか、別の道の路肩工とかか?
き、気が散るぜ。(幸せな悩み)
7:20 《現在地》
これはもう、断定して良いだろう。
隧道だ。
ここからだと出口までは見通せないものの、地被りは非常に小さく、反対側へ貫通していることはほぼ間違いない。
また、旧版地形図に隧道が描かれている場所と現在地とでは、その地形的な特徴が一致している。
すなわち、湖畔からここまで辿ってきった沢筋より、その東隣の沢筋へ尾根をくぐって移るという、分かり易い特徴である。
ということなので、これが「今回探索の発見目標としていた隧道」だと考えて良いだろう。
石畳から隧道へと、無駄のない順調な流れ。
意地悪にいえば、少々呆気ない。
そしてまだ時間も早い。早すぎるくらいだ。
朝日がまだ地表に届かない。
ここで私は、隧道を“おあずけ”にして、隧道の前で分かれている道の先を探ってみることにした。
この道は、堀割カーブのところで頭上に確認した石垣の上へと向かっているようだ。
え? 本当におあずけなのかって? 本当は隧道の中を確かめたんじゃないかって?
いえいえ。本当に見てません。
もうあの隧道は捕らえた獲物。逃げも隠れもしないし、焦って結論を出す必要はない。
メインディッシュは最後にとっておくのが、一人っ子オブローダーの楽しみ方なのだ。
というわけだから、隧道を目前にしながらここで“Uターン”。
浅い堀割のカーブを切り返して進む。
いったいこの道、どこへ通じているのだろう。
それに、いつの時代の道なのか。
↓ ちょっとだけ考察してみた。
改めて、明治39年と大正10年の地形図を細かく見較べてみると、大正10年版地形図の破線道は、私が辿ってきた石畳の沢の西隣(現在の地形図に照らせば【ここ】)の沢筋にあるように見える。
これが正確な表記だとしたら(誤差かも知れない)、石畳は大正時代すでに廃止されていた可能性が高いことになる。
そして、いまから探索しようとしている枝道は、どちらの地図にも描かれていない。
しかし、おそらくは石畳とワンセットの道(すなわち明治の車力道)だろうという感じはする。
なお、この大正時代の道にも何か石畳のような遺構が存在する可能性があるが、現時点では未探索だ。
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分岐した道は、西方向へ等高線にほぼ沿う形で続いていた。
そしてこの分岐の周辺には、石を積み上げた跡が沢山あった。
その正体は石垣であり、上に平場が設けられていたのである。
おそらくこのあたりには、石切に従事する人々の休憩所か飯場のようなものがあったのだろう。
そういえば、先ほど欠けたお椀を見つけた場所は、このすぐ下だ。
時代が古いせいで、建物の痕跡はまったく残っていないが。
また、木性のツタが地面を縦横にのたうっており、入り込み辛い状況になっている。
そしてこれが路肩側。
先ほど【見上げた石垣】がここにあった。
下に見えるのは、堀割カーブと隧道を結ぶ、先ほど歩いた道である。
それにしてもこの石垣、ずいぶんと作りが雑だ。
石垣を構成する石も、無整形の丸石と整形された角材が混ざっているし、その積み方にも法則性が感じられない。
いわゆる乱れ積みなのだが、その場合でも整形された石とそうでない石を混ぜるのは、あまり見ない。
まあ、ここはもともと“公道”ではない、どこかの採石事業者の私道と思われるから、こういう間に合わせの構造も“アリ”かもしれない。
凝った石畳を見たあとだけに、すこし萎えたが…。
妙に平坦な場所に出た。
地形図を見ると、西側の尾根が近い。
というか、このあたりも尾根の一角といえるのだろう。
そして地形が平板になったせいで、道はよく分からなくなってしまった。
分岐後は石畳も見ないし、もしかしたら車力道ではない、ただの歩道跡かもしれない。
また、この平坦な場所の所々には、大量のスイセンが密生していた。
元々は庭先に植えられていたものが、野生化したのだろうか…。
くすんだ装いの森の中で、気持ち悪いくらいに鮮やかな緑だった。
そして、尾根のてっぺんと思われる場所に着くと、奇妙な景色が待っていた。
それはまるで背骨。
尾根のてっぺんには、どこまで続いているのか見当もつかない超長い一枚岩が、脊梁となって横たわっていたのである。
元々はこの上にも土が乗っていたのか、或いは少しでも日光の近くに伸び上がりたいという木々の執念がなせる業なのか、一枚岩の上にも大量の木の根がのたうち、さらにそこから生えている木が何本もあった。
鋸山の特徴である尾根ばかりがゴツゴツと突きだしたような山容は、こういうマクロなレベルでも表現されていたのだ。
そして昔の人は薪採りの合間にでもこれを見て、「ここから石を伐り出したら、儲かるんじゃね?」と思ったのだろう。
7:25 《現在地》
尾根がゆるやかなので、道がこれをどのように乗り越えていたのか、分からない。
少なくとも堀割のような特徴的なものはなく、ただその先にも人為の加わったと思しき平場が続いていることをもって、道が尾根を越えて西へ続いていたと考えるのみだ。
ちなみにこの尾根の周辺には、大量の丸石が散乱していた。
これらが自然の浸食作用で削り出されてきたものなのか、それとも非常に古い時代の採石の名残なのかは分からない。
苔むしたロックガーデンには、一種異様な儀式的雰囲気があった。
尾根を西に越えると、当然そこには沢筋がある。
だが、そこに木々を透かして見えてきたのは、“沢”というにはあまりにもスパルタンな岩の切れ込みだった。
つか…
なんなんだあれは。
堀割か?
頭上にはてなマークをいくつも点灯させながら、早足で近付いてみると…。 うおっ。
整理しよう。
堀割に向かって歩いてきたら、その隣に穴が現れた。
かなり小さな穴である。
でも、私が辿ってきた道は、自然とこの穴に吸い込まれていくような感じ。
というか、これ以上西へは行けないようになっている。
堀割が異常に深くなっていて、その底は穴よりも遙かに深い。
そして縁はすっぱりと切れ落ちていて、下りるのも容易で無さそうなのだ。
堀割へ通じる“赤い矢印”と、穴へ通じる“黄色い矢印”は、別世代の道だと考えるのが妥当な気がする。
おそろしく深く狭い堀割 と…
謎の穴。
鋸山の探索は、まだまだ終れそうもないな…。
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