北側の金谷集落から見る鋸山の稜線。採石場らしき垂直の岩盤も見える。
鋸 山 (のこぎりやま) [位置[マピオン]]
鋸南(きょなん)町と富津市の境にそびえる山。標高329m。南房総国定公園のうち。第三紀三浦層の砂質凝灰岩が刻まれて、稜線が鋸の刃のようになっていることに山名は由来する。また安房・上総両国を限る山であるところから「限の山」ともいわれている。山頂は昔から東京湾に出入りする船の目印とされてきた。鋸南町側の中腹には僧行基創建(養老7年)の日本寺がある。(中略)山頂の十州一覧台の眺望は、東京湾・三浦湾・箱根・富士・関東平野を遠望できる。
山麓の北側には凝灰岩の石切場がある。この石は房州石・金谷石・元名石などと呼ばれ、建築用石材として江戸期から採掘され、明治期には横浜港建設などに30数万本が採掘された。明治後期から大正期にかけてが最盛期で、大谷石が出回るようになると次第に衰退、現在の採掘量はわずかである。
浜金谷カラロープウェーが通じ、様々な観光施設がある。昭和51年には明鐘岬から登る自動車専用道路も完成。
「角川日本地名大辞典」より転載
房総の名山という観光地として、また行基ゆかりの霊山として、古くから著名な鋸山。
確かに山名をそのまま現したような特異な山容は、一度目にすると印象に残る。
以前千葉県内で行われた「千葉を代表する山は?」というアンケートでも、一位に選ばれたことがあるそうだ。
これまでに当サイトでも、鋸山の稜線が東京湾へ落ち込む先端にある明鐘岬の国道127号旧道を採り上げているが、今回はさらに山の中へ入り込んでみようと思う。
明鐘岬の難所に切り拓かれた明治生まれの“旧明鐘隧道”。
内壁に房州石を用いている。
この山は冒頭の引用文にもあるとおり、石材の産出地として関東有数の地位を誇っていた時期がある。
一帯から採掘された石材は、明治に入ってから「房州石」という名称に統一されたが、それ以前はより細かな産地ごとに「金谷石」「明鐘石」「元名石」などとも呼ばれていた。
石材の東京・横浜方面への積み出し港として、また石切に従事する人々の生活の場として栄えた金谷や元名の集落には、いまでも房州石で作られた多くの石塀や土塀、石灯籠などが残っている。
今回探索した廃道は、昭和60年を最後に全ての採掘事業が終了した「房州石」の運び出しに用いられたもので、中でも廃止の時期が早かったと思われる南麓側(鋸南町元名)にある。
北麓側(富津市金谷)での採掘については、平成21年に「石のまちシンポジウム実行委員会」が発行した『房州石の歴史を探る』(以後『探る』と略す)にかなり詳細な記述があり、本稿を執筆する上で大いに参考にさせて頂いた。
この道が廃止された時期は、かなり早かったようである。
次に明治39年と大正10年の地形図を比較する。
2枚の地形図の間に流れた時間は16年と、さほど長くない。
しかし、地域の様相はかなり変化しているように見える。
ぱっと見て気づくのは海沿いに鉄道が開通していることだが、山の中の様子も一変している。
明治39年版の鋸山には、採石地を示す“あみだくじ”のような記号が稜線の南北に沢山並んでいる。
これが大正10年版になるとグッと減り、北側にいくつか残るのみである。
実際には山の南側での採掘も続いていたが、主力は北側の金谷方面に移っていったことが伺える。
(『探る』によれば、房州石の採掘の全盛期は明治35年から大正元年までだったという)
そして、いずれの版においても採掘場へ通じると思われる道が、幾筋も描かれている。
今回私が探索した道はそのうちの1本である。
↑黄色く着色したのが、今回探索した廃道である。
何はともあれ、隧道がある。
図歴上の次版である大正10年版では描かれ方が弱体化した上に、隧道を含む末端部の表記が消えてしまっている。
もし地図の表記通りならば、そこには明治時代の廃隧道が眠っている可能性がある。
しかも二重破線の表記から、当初はただの徒歩道よりは手の込んだ高規格なもの(車道?)だったという期待も持てる。
だが、実際に探索することを考えて、この廃道の在処を現在の地形図にプロットすると、いきなりの難題にぶつかってしまった。
次に現在の地形図を見て貰いたい。
↓黄線が推定位置としてプロットしたラインだ。
途中にダムらしき湖が…。
地形図上では名前さえ書かれていない小さなダム(溜め池)だが、湖畔を迂回する道が無ければ、その上流へ入り込むことは難しい。
もしかしたら別のルート(例えば「日本寺」のあたりから東へトラバースするような)が有るのかも知れないが、地形図はもちろん、ネット上をサラッと見た感じでも、そんな山道の存在は確信できなかった。
ダム湖によって、日常から隔絶されている可能性がある沢の奥の廃道。
「明治廃隧道」「明治廃車道」という2つの魅力的な誘いに、この「隔離性」と「秘匿性」という要素が加わったとき、私わもふ我慢ならなくなった!
行ってみようぜ! まだ誰も知らない(かもしれない)、鋸山の奥地へ!!
2011/2/8 6:24 《現在地》
私にとって房総での廃道探索は、冬の行事である。
この探索は、房総を覆う緑のオーラが最も勢力を弱める2月を選んで行われた。
ヤマビルもまだ冬眠しているはずである。
ここは鋸山の南側の入山口である、鋸南町元名(もとな)の海岸線。
この場所に車を停めて、ある程度朝空が明るくなるのを待った。
弓なりの海岸線の向こうに見えるのは、かつて“関東の親不知”とも呼ばれた難所の明鐘岬だ。
いまは数本の狭いトンネルを縫って国道127号が通じ、それ以前の明治廃隧道も眠っている。
岬から急激に高度を上げてゆく稜線の先に、鋸山とその眷属である十を超える尖鋒がそびえている。
これが同じ地点から見た内陸側の眺め。
鋸山は標高わずか329mの低山だが、海岸線から直に立ち上がる姿は雄々しく、前倒してくるような圧迫感さえある。
その稜線には同じくらいの高さの峰がいくつも鋸歯状に並んでおり、私の目には、そのうちのどれが主峰であり“山頂”なのかが分からない。
ただし今回の目的地となるのは、地形図に「鋸山」の注記付きで三角点が描かれた“山頂”の近傍である。
したがって、この写真に写っている範囲に目的地がある可能性が高いが、まもなく現れるだろう朝日を背負った山は全体的に黒く沈んでおり、山容はよく分からない。
いままで海岸沿いの国道は何度も通行しているが、この山の中へと入り込んだことは一度もなかった。
これは意外に大変な探索になるかも知れない。 …そんな予感があった。
6:25 自転車に乗って出発!
まずは海岸沿いの国道127号とJR内房線を横断する。
この国道の角に、房州石製らしい「羅漢道 日本寺」と刻まれた石柱が立っていた。
鋸山の南側は、この日本寺を中心とした霊山として主に観光され、東京に近くロープウェーなどがある北側が一般的な行楽的観光の対象になっているような棲み分けがあるのだろうか。
北側をあまり知らないのではっきりした事はいえないが、鋸山の南の玄関口であるこの交差点には信号機もなく、想像以上の静けさに包まれていた。
平日の早朝だと言うことを差し引いても、そういう印象だ。
←ガードをくぐるとすぐに、橋の欄干のようなものが道の左側(山側)に見えてきた。
その欄干の向こうには深さの知れぬ水が湛えられ、消防水利の看板が立っていた。
泉は狭く、その奥地は岩の割れ目のような暗がりに通じていた。
両側の岩盤はコンクリートのように垂直であり、自然の地形としてはあまりにも不自然。
さっそく現れた石切場の遺構だろう。
『探る』によると房州石は上石、中石、下石の三種類に分けられ、それぞれ山頂付近、山の中腹、周辺の他の山から採掘したものを指すのだという。
そして品質は上石が最も良く、中石、下石は劣った。
麓に近い方が採掘は容易だが、製品としての価値を考えて採掘地が奥地化したのである。
この場所では中石か下石の採掘を行っていたと思われるが、その規模は大きくなかったようだ。
道と川に沿って数軒の民家が建ち並んでいた。
根本という集落らしい。
写真はそこで見つけた、道ばたの“変なもの”だ。
地面に半ば埋め込まれた“黄色い丸いもの”の表面に、1つはコミカルな顔が、1つは「ご苦労さま」の文字が書かれていた。
何ともいえない脱力系の表情に、こちらまで脱力する。
周囲にポリバケツが見えるが、どうやらここはゴミの集積場らしい。
なお、この丸いものの正体は、網漁で使うブイと思われる。
金谷は房総有数の漁港であり、この地域の人々は漁に農に石稼ぎと、時期により時代により様々な仕事を行ってきた。
集落中ほどには、道の両側に巨大な石柱が立っており、参道の入り口を思わせた。
奈良時代に僧行基が開山し、最盛期にはわが国有数の寺格を誇ったという日本寺(にほんじ)の神域に、立ち入ったのであろうか。
道もこのあたりから結構な急坂で上り始める。
集落は長く続かなかった。
河口から一緒に来ている川(小磯川という)を小さな橋で渡ると、今度は左岸伝いに登っていく。
道は橋から急に広くなり、センターラインこそ消えてしまっているが2車線の道幅と歩道がある。
路傍には「日本寺大仏」という赤矢印付きの看板も現れ、ここに来てようやく観光地らしい雰囲気になってきたのだが、如何せん人通り、車通りは皆無である。
6:34 《現在地》
出発から10分後、私は国道から約500m入ったところにある分岐地点に到着した。
現在地の標高は約50mで、目的地まではまだまだ登らねばならないだろうが、周囲の木々が切り払われているために視界は広い。
なお、私の進路はこのまま直進だが、日本寺や鋸山への登山道は左折する。
その道は「鋸山観光道路」と命名されており、標識には「町道1-107号線」の表記もあった。
今回は探索していないが、この町道「鋸山観光道路」の雰囲気には何となく惹かれた。
大型の観光バスも悠々と通れるゆったりとした道幅だが、路肩やセンターラインの白線は消えたままになっている。
地図を見ると、鋸山には山頂直下まで登れる「鋸山登山道路」(民間経営の有料道路)があり、別にロープウェーもある。
この道は「鋸山観光道路」とは言ってはいても、実質的には日本寺への参拝道路としての役割が主なのかも知れない。
直進する道も依然として2車線の道幅があるが、歩道は無くなった。
そして登り坂は一層急になり、自転車を漕ぐ足に力がこもる。
だが、それも長くは続かないだろう。
この道の最高地点である大きな切り通しを持つ峠が、既に前方に見えていた。
そして切り通しの左側には、一面の草地となったロックフィルダムの堰堤がある。
今回の探索中の最大の障害と目されたダムは、もう間もなくだ。
ダムがあるのは左側だが、道の右側には山を削り取ったような広大な空き地があった。
昔ながらの石切場ではなく、山自体を削り取ってゆく機械化の現場だが、そもそもここは房州石の採掘場ではなく、山砂や砂利の採石場だったのかもしれない。
あたりに人気はなく、静かに海から吹き上げる風が通っていた。
路肩から小磯川対岸の鋸山を見る。
中央のピークのところに電波塔があり(写真だと解像度が小さいので見えない)、地図と照らし合わせると、だいだいそのあたりが鋸山の山頂であることが分かった。
自転車で辿れる道があるのは、おそらくダムまでだろう。
その先は緑の山の中に残された廃道を探りながら、最終的にはあの高みの近くまで達することになるのだろうか。
確かにここからでも、山肌の一角に石切場の跡らしき、垂直の岩盤を見る事が出来た。
それは私が目的とする場所からは少し離れていたが、石切場は一箇所だけではなかったのだ。
また、現在居るところは河床から20m以上も高いが、かつての石切道は谷底に付けられていたはず。
しかし護岸工事の済んだ川に、痕跡は見られなかった。
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6:43 《現在地》
切り通しの直前で、ダムの堰堤に通じる道が左に分かれた。
現在地の標高はほぼ100mである。
左折する道は大半部をガードパイプで封鎖され、車1台分の隙間にチェーンが閉ざされていた。
自転車を持ち上げて先へ進む。
そのまま堤上路に立ち入るが、道は堰堤の先で山に遮られるように、ぷっつりと途絶えていた。
やはり湖畔を周遊するような車道は存在しない。
なお、地形図に名前が書かれていないこのダムは、町営の「元名ダム」といい、昭和54年の完成である。
堤上路の中央付近に記念碑があった。現在は鋸南町の上水道水源として用いられている。
堤上路から川下を見ると、先ほど脇目に見た採石跡地の向こうに東京湾を臨むことが出来た。
海が見えるダムというのは、結構珍しい。(久慈市の「滝ダム」がそれをウリにしている)
だが、私の目的地はこっちではなく、この反対。
元名ダム湖は小さな湖だが、この日の水位は満水に近かった。
私が目指すべき谷は、この奥である。
鋸山の山頂へと駆け上がる名もなき谷は、絶望さえ感じさせる薄暗い水面の向こうに隔てられていた。