現地探索により、赤芝橋には少なくとも2世代の旧道と3世代の旧橋が存在していたことが分かった。
つまり、現在の赤芝橋は3代目の道で、4代目の橋と言うことになる。
3本の旧橋はすべて落橋しており現存しないが、これからそのそれぞれについて、前回までの現地探索の結果に、机上調査から分かったことを加えて、簡単な解説を試みたいと思う。
@ 初代橋 明治17年に小国新道の一部として架設さる
現存する初代橋の痕跡は少なく、左岸の岸壁上に刻まれた橋脚埋め込み用の3つの孔が、確認されている全てである。
この数少ない遺構から分かるのは、橋が木橋であったと言うことくらいで、実際にどんな橋だったかは、机上調査に拠らねばならなかった。
土木学会図書館内の「橋梁史年表」に、この橋のデータが存在する。
それによると、初代橋は明治17年の完成で、橋長、幅員は不明(無記入)。形式は「仮橋」と記載されている。(※理由は後述するが、おそらくこれは「板橋」の誤りである)
また、橋名の欄には「落合橋(後・赤芝橋)」とあり、初代橋の名前は赤芝橋ではなくて、落合橋であったことが分かった。
だが、初代橋(落合橋)の実際の姿については、今のところ写真や図面が発見されていないため、不明のままである。
(三島の新道を数多く描いている高橋由一は、明治17年にこのすぐ近くの片洞門まで来てその風景を描いているが、赤芝峡には来ていないようだ。また、同じ時期に三島の新道を多く撮影していた菊地新学も、この地は被写体にしていないようだ)
記録が少ない原因として、この初代橋はとても短命であったことが挙げられる。
先の資料には、特記事項として「1889(明治22)年6月流失」とあるのだ。
すなわち、完成からわずか5〜6年しか存続出来なかったのである。
本編中では、位置的に見て「洪水に強そうだ」という感想を持ったのだが、そう甘くはなかったようだ。
しかし、改めてこの地形を見てみても、橋脚の立っているところまで水位が上がるというのは、流石に想像出来ない気がするが、洪水による流出は確かなことであるようで、「小国町史」にも初代橋について次の記述がある。
明治18年新道開発の際、荒川と横川のの合流点のやや下流に落合板橋(※これが、橋梁史年表の「仮橋」を誤表記と疑う根拠)が架けられたが、同22年6月洪水で流出した。
A 2代橋 明治41年にようやく復旧された? 石の橋脚を持つ橋
今回の探索のきっかけともなった“お立ち台”は、2代目橋の遺構である石造の橋脚だ。
両岸に同じような石造橋脚が一基ずつ存在するのだが、この橋脚についても謎がある。
それは、橋脚の上部がまっ平であるため、どんな桁が乗っていたのか全然想像出来ない点がひとつ。
そして、これだけ堅牢そうな石造橋脚を持っているにも関わらず、橋台が見あたらないのも不思議な点のひとつだ。
さらに、この橋がいつ建設され、またいつ3代目の橋に切り替えられたのかも、現地にそれを知る手がかりが無かった。
「小国町史」には、先ほどの流出の記事に続いて、次の記述がある。
同(明治)41年に工費1万1000円で鉄橋を架設。
初代橋の流出が明治22年なので、それから20年近くも架橋されないままであったのだろうか。
この道は、小国新道の開通後まもなく県道3等「山形新潟線」に仮定されており、仙台-山形-新潟を結ぶ東北横断路線の一部という重要な位置づけだった。
したがって、明治22年の流出後も何度か板橋を修繕して、架け直していたと思われる。
だが、木橋では頻繁な架け替えという宿命から逃れることが出来ず、明治末になってはじめて、鉄橋という文明の利器を、大々的に導入したと考えられる。
そして嬉しいことに、この2代目の鉄橋は、写真が残ってくれていた!
ガガガガ ガーダー!
まるで鉄道橋のような、立派なプレートガーダーが、巨大な橋脚の上に鎮座している!
明治時代の道路橋としては、かなりの大迫力だ!
…でも、
そんな立派な橋は主径間だけで、(この写真では右側は見えないけれども…)両側の側径間は木橋だった……。
おそらくこの木橋の部分は、初代橋をそのまま流用しているのではないだろうか。
このちぐはぐさが、如何にも“当時の道路らしい”感じである。
同じ時代でも、鉄道(国鉄)の場合は、ちゃんと国が主導して規格を決め、お金も潤沢に投じられていたので、こんなちぐはぐで貧乏くさい組合せは、まずありえない。
現在の金銭感覚と較べても仕方がないが、この橋を「1万1000円で架けた」というのも、何となくシュールだ。
ところで、この写真をひと目見た瞬間に気付いた人も多いだろうが、
橋脚が、現在残っているものよりも、遙かに高い!
まず、この写真の橋脚が左岸右岸のどちら側かということだが、これは右岸でろう。
その根拠は、岩場の形などの地形が第一であるが、これに加えて、実はここにある石造橋脚の断面は、上流側と下流側で異なる形をしている。
上流側にのみ、“水切り”という出っぱりがあるのだ。
しかし、この写真の橋脚には、そのでっぱりが見えていない。
したがって、下流側から上流を見ているということになる。
写真の橋脚は、右岸である。
現在の右岸の橋脚は、こんなである。↓
比較すると、現在は【これだけしか残っていない】ことが分かる。
この様子だと、古写真に写っていない左岸の橋脚(=お立ち台)も、現状の高さは半分以下になっていると思われる。
←確かに、両岸の橋脚の高さが違っていたり、旧々道の路面の高さに較べて、お立ち台(右岸橋脚)の高さが何メートルも低いことは、現地でも謎だった。
そして、こんな大破壊をやってのけたのは、初代橋を押し流したのと同じく、やはり洪水の力だと思われる。
ここは川に少し突きだした地形なので、雪崩の通り道にはなっていないだろう。
谷底から10m以上も高い岩盤の上部にまで、石造橋脚を押し流すほどの激流が押し寄せたのだ。
なんとも凄まじい洪水が、過去に発生していることになる。
先ほどの疑問点に戻るが、
両岸にある石造橋脚の上面が平らになっているワケは、それが途中で折損していたからである。
また、両岸に橋台が存在しないのも謎であったが、これも橋脚と同様に洪水で破壊されたのだろう。
「土木図書館デジタルアーカイブズ『戦前土木絵葉書ライブラリー』」より転載。
この写真も2代橋のもので、「小国峡 赤芝トビラ澤」の注記がある。
ただし、撮影時期は不明。
今度も右岸から左岸を見ており、対岸(左岸)の袂近くに小さな沢が流れ込んでいるのが見えるが、それが「トビラ澤」だろうか。(現状写真)
また、前の写真にあった茶屋らしき建物は存在しないが、おそらくこちらの方が古い写真だからだろう。
背後に写る山肌にはほとんど木が生えていないが、そこにうっすらと右へ抜けていく水平のラインが見える。
これは小国街道開通前に地元の人々が切り拓いたという、幅3尺の杣道の名残かも知れない(『小国の交通』にこの道についての記述あり)。
この橋は一見したところ木橋のようだが、中央部分に鉄の欄干があるので、2代橋と分かる。
鉄の欄干はPG(プレートガーダー)の一部であり、上路/中路/下路の別で言えば、本橋は中路PGだったようだ。
十分に幅も広く取られていて、これならば馬車も悠々と通行出来たことだろう。
貧乏くさいなんて書いたが、なかなか立派な橋である。
このほか、親柱も存在したようだが、残念ながら文字を読み取ることは出来ない。
左岸には親柱の他に、飾り柱のようなものが見えるのだが、或いはこの写真は2代橋開通を記念して撮影されたもので、そうした飾り付けなのかもしれない。
この2代橋についても、「橋梁史年表」に記載がある。
赤芝橋
開通年月日: 1908(明治41)年 橋長(m):53 幅員(m): 4.5 形式: プレートガーダー l=22 木桁 l=13+18 下部工: 石造橋脚
これにより、2代橋の全長53m、全幅4.5m、PG長22m、木桁長31mといった緒元が判明。
谷の狭いところを渡っているといっても、思いのほかに長大で巨大な橋だったのである。
これは、両岸の地形が険しく、馬車道としての勾配を維持するためには、あまり岸壁の先端にまで道を下ろす事が出来なかった為だろう。
現地での印象は、机上調査によって覆されたと言って良い。
山深い小国の地に、多数の鉄橋を連ねる国鉄米坂線が出現するのは、昭和初期(全通は昭和11年)のことである。
その20年以上も前に、時代を先取るように現れた赤芝トビラ沢の鉄橋だった。
赤芝峡もこの頃から、その名の由来となった紅葉の美しさで著名となり、袂には茶屋が出来、絵葉書も描かれた。
だが、この一世を風靡した鉄橋の行方は、残念ながら分からない。
初代橋のように洪水に押し流されたのか、或いは次の代が出来るときに解体されたのか、どこか別の場所に転用されたのか…。
分かっているのは、昭和14年に役目を終えたと言うことだけである。
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B 3代橋 昭和14年に完成した、モダンなコンクリート橋
初〜2代橋とは場所を移して架設されたのが、3代橋であった。
その橋桁の一部は、谷底に落ちて常時水に洗わるという姿で発見された。
橋の末路としては、考え得る限り最も苛酷で、最も惨めな姿を晒してしまっている…といえるかも知れない。
もちろん、こんな事は予定されていなかった。
流石に平成の今日まで現役であったとは思えないが、それは現道橋の隣にあって、四季の赤芝峡を背景に、我々オブローダーの目を存分に楽しませてくれていたはず。
同年代の橋達の多くが、今も各地の山峡でそうしているように。
壮絶な3代橋の生き様を、『小国町史』が語る。
昭和13〜14年11月にかけて架け替え工事で、やや上流に工費2万8000円で最新式鉄筋コンクリートのモダンな橋を架設。
同42年8月の羽越水害で流出、同44年に現在の赤芝橋が完成。
正直、現地で墜落した残骸を見た瞬間、この2行目の記述は予想できた。
荒川沿いの大抵どこへ行っても、羽越水害による破壊と更新の話しが出てくる。
過去に採り上げた中では、「八ツ口旧道」がその一例だ。
そんなわけだから、この“赤芝橋累代記”のどこかには羽越水害による破壊と更新が入ってくると思っていたし、その犠牲者が昭和初期生まれのコンクリート橋だろうというのも、実は予想通りだった。
ただ、その残骸が回収されず谷底に残っていることは、全く想定の範囲外だったが…。
小国町公式サイト内「小国町の近代のあゆみ」より転載。
これが昭和14年に、私の月の家賃より少し安い金額で架けられた、“モダンな”3代橋在りし日の姿である。
転載元のキャプションは「赤芝峡にドライブインできる(昭和40年9月)
」というものなので、既に完成から30年近く経過してだいぶ草臥れてきた頃だろうが、三角屋根が特徴的な“ドライブイン”と一緒に映る未舗装路の姿は、いかにも二級国道的で素敵だ。(昭和28年にこの道は二級国道新潟山形線に昇格し、昭和40年に一般国道になったばかり)
だが、この2年後に橋は未曾有の洪水で流失することになる。
ちなみに、現在これとほぼ同じ位置、同じアングルで撮影した写真は、【これ】だ。
リンクミスじゃないぞ。
赤芝橋
開通年月日: 1939(昭和14)年11月 橋長(m): 幅員(m): 形式:RC橋 特記事項:1967(昭和42)年8月流失
3代目橋の緒元はむしろ2代目よりも謎が多く、長さや幅のデータが「橋梁史年表」にも記載されていない。
だが、上に掲載した当時の写真や、谷底の残骸を見る限り、昭和初期日本中に建設されたRC道路橋の典型例であり、変わった橋ではなかった。
また単径間ではなく、中間部に1本だけ橋脚を下ろしていたようだが、橋桁の半分(おそらく右岸側径間)と共に洪水で完全に流失したようで、谷底にも何も残っていない。
『白い森への想い(小国国道出張所小史)』より転載。
この写真は、国直轄の復旧事業が完成した国道113号赤芝橋、開通直後の姿だ。
一般国道113号はもともと県管理の国道だったが、羽越水害の被災状況があまりに甚大だったこともあり、昭和42年に村上市〜南陽市の間が国直轄の「指定区間」に指定され、赤芝地区の復旧は「建設省東北地方建設局小国国道出張所」が担当した。
参考:【「ハイウェー」と呼ばれた新道開通を伝える新聞記事】←今では呼ぶ人もいないが、当時は“もみじライン”という愛称があった。(『白い森への想い(小国国道出張所小史)』より転載)
赤い3径間箱桁橋の向こうに、すっかり姿を消してしまった3代橋の橋頭部と、今と変わらぬ姿の2代橋“お立ち台”が見える。
おそらく川岸の岩が露出している部分は、完全に洪水時の水位下になったものと思われる。
3代橋の岩盤上にあった橋脚は跡形も無くなっている。
赤芝峡は、荒川にその第一支流である横川が合流する小国盆地のすぐ下に【位置】しており、洪水時には特に水嵩が上がりやすい地形に思われる。
また反対にこの赤芝峡という狭窄部の存在が、小国盆地の洪水を誘発しやすいとも言えるだろう。
『白い森への想い(小国国道出張所小史)』より転載。
羽越水害の全貌はwikipediaなどに詳しいので、ここでは述べないが、小国町中心部の浸水状況を示した右図を見ていただくだけで、尋常ではない洪水の規模がお分かりいただけるだろうと思う。
街の中心部を完全に覆い尽くしている赤い部分は、浸水は浸水でも、床上浸水だという点に注目。
完全に湖となってしまった小国盆地の“堰堤”が赤芝峡であり、中でも“お立ち台”がある第一狭窄部こそ、最大の戦犯だろうと思う。
橋を架けるにはよほど便利で喜ばれた地形だと思うが、奴は自然の一部であり、時には牙を剥く…ということだろう。
小国町公式サイト内「小国町の近代のあゆみ」より転載。
小国町公式サイトのライブラリーに、こんな写真もあった。
これは、平成16年7月17日に発生した豪雨(7.17豪雪災害と呼ばれ、小国町内や新潟県の一部では、昭和42年の羽越水害以来の大きな災害になった)時に赤芝峡で撮影された写真だ。
荒川が凄まじい沸騰するような流れとなっているが、その濁流に半分呑み込まれているのは、あの“お立ち台”である!
これは、ひとたび洪水が発生すれば、この位置まで水位が上がるという何よりの証拠であり、明治の初代橋が洪水で流出したというのも、不思議ではないということになる。
正直この写真を見るまで、半信半疑だったのだが…。
なお、谷底に墜落した姿で発見されている3代橋の高さも、初〜2代橋とほとんど変わらない。
つまり、洪水時には3代橋の橋桁まで、水位が上昇するということである。
参考までに、平水位と比較してみた。
平水時と洪水時の写真は、ややアングルが違っているが、“お立ち台”の位置を一致させている。
洪水時の水位上昇幅は、優に10mを超えているようだ。
まったく恐ろしい。
それしか、言いようがない。
『白い森への想い(小国国道出張所小史)』より転載。
当時の写真の中に、「落橋した赤芝橋に急遽架けられた組立橋」という1枚を見つけた。
仮設橋だけに、役目を終えてすぐに撤去されたのだろう。
その架設位置についての記録も、残念ながら見あたらない
が!
ちょっと待て待て待て待て
!!!!
↓↓
!!!
ど、どういうことなの?
よく似た別の岩場なの?
ででもでも、似すぎてないか?
マジで明治道が仮設道路として一瞬だけ甦ったのか?!
だとすると、石造橋脚の現状についても、洪水云々とは断じられなくなる…。
つか、さっきの仮設橋の写真だと、
仮設橋の橋脚として、両岸に健在な石造橋脚がそのまま用いられているように、見えるのだが…。
下手したら、右岸の石造橋脚を今のように低くしてしまったのは、仮設道路工事…?!
…この問題については、当時を知る人の証言を、大人しく待ちたい…。
あう…。
チキショ−、なんかすっきり終われねぇ…。
再調査をしたわけではないが、写真を見直していて新たな発見があった。
まずは次の写真を見て欲しい。
これは、今回の探索で撮影した、右岸の石造橋脚である。
この橋脚の真後ろの山肌に、注目してみて欲しい。
ちょうど、草地から林に変わっているあたりだ。
なにか褐色の柱が2本、見えるのではないだろうか?
これは仮設橋の残骸なのではないだろうか。
この発見により、初〜2代橋があった旧々道ルートが、
応急仮設路として使われていた可能性は、ますます高くなった。
最後の最後に、この仮設橋の写真を見直してみると…
鉄骨の橋脚はフレーム外にあるようで写っていない。
ただ、位置的にはどうも、この仮設橋本体の橋脚ではなくて、
それに繋がっていた仮桟橋のようなものの橋脚だったと思われる。
また、本文では「興奮してしまい」指摘し忘れたが、
どう見ても、両岸の石造橋脚がそのまま
仮設橋の橋脚として使われたように見えるが、いかがだろうか…。
もしそうならばますます、右岸の橋脚が今ほど低くなってしまったワケなど、
工事関係者に伺いたいことは、山積みと言うことになるな…。
【お立ち台の上】に薄くモルタル舗装がされているのとか、どう見ても後補だったしな。
(お立ち台に立った瞬間に感じた最大の違和感は、なぜ断面がこんなに綺麗なんだ?ということだった)
もちろん、これは緊急時のことだし、そもそも私が作った橋でもないし、
文化財が云々などと責める気は毛頭ない、というか、明治の遺構を一瞬とは言え現代に
価値あるものとして甦らせてくれて、ありがとう
…なんて、勝手に思っているわけだが…。