廃道の中の廃道。
皆様にとっての廃道とは、どんなイメージだろう。
草むした砂利道、苔の生えたアスファルト、ひび割れたコンクリート、消えかけた白線、色あせた道路標識、忘れられた路傍の石碑、照明の消えた真っ暗な隧道、落石に埋もれたガードレール、路面を奔る沢水、崩れ落ちた橋や路肩、草いきれのする藪、弱音、諦め、安堵とガッツポーズ…
ここには、それら考えられる要素のほとんど全てのものがある!
廃道の中の廃道とは、決して険しいだけの廃道だとは思わない。
ここには、演出過剰なほどに分かりやすい、“廃道の真景”がある。
それゆえ、以前執筆させていただいた『廃道をゆく (イカロス・ムック)
』にも、巻頭企画としてこの道を紹介した。
この道を辿ることは、廃道の酸いも甘いも同時に体験することに他ならない。
同書にて一度紹介済みではあるが、本とネットでは表現方法も異なることであるし、今回はより詳細なレポートを作成したい。
都合により、このレポートの完結までには数日間の更新停止を数度挟むと思いますが、なにとぞ気長にお楽しみ下さい。
国道158号は、福井県福井市と長野県松本市を結ぶ約250kmの一般国道で、中部日本の内陸部を東西に連絡する路線である。
この地域には南北方向に走向する地溝および山脈が連続しており、路線内には険しい峠が複数ある。
そのなかでも、北アルプスの穂高連峰と乗鞍岳の間を越える岐阜長野県境「安房(あぼう)峠」は冬期閉鎖を余儀なくされる最大の難所であったが、平成9年に念願の安房トンネルが開通したことで長年の困難は解消された。
だが、この安房峠越えの道。
険しいのは峠だけではなかった。
むしろ、安房峠が飛騨国と信濃国の最短距離にありながら、歴史的には南方に大きく迂回する野麦峠の方が両国を結ぶ街道の本道とされて来たのは、安房峠そのものよりも、その信濃側(長野側)アプローチとなる梓川渓谷の、尋常でない険しさのためであった。
右の地図を見ていただきたい。
密に描かれた等高線の最も密なところ、さらに多数の崖の記号を従えて描かれているのが、梓川渓谷である。
どこまでが谷で、どこからが山腹なのかの区別は難しいが、稜線に対する谷の深さは1000mを下らない。
北アルプスの名を冠するに足る、極めて険しい山岳の描写だ。
そして、梓川の流れに寄り添う、一筋の道がある。
今回辿る、国道158号旧道の姿である。
この渓谷沿いにクルマの通う道が初めて開通したのは、昭和2年に奈川渡(ながわど=奈川渡ダムの湖底にあった集落)から沢渡(さわんど)を経て上高地の大正池畔まで、発電所建造のための専用軌道が敷設されたときである。(釜トンネル(古釜)も同時に完成)
そして翌年に発電所が完成すると、軌道撤去のうえで改めて車道化され、昭和8年には公道たる県道松本槍岳線になった。
昭和13年、安房峠に自動車道が開通して中ノ湯で接続、同28年に二級国道158号福井松本線に昇格した。(昭和40年に現在の一般国道158号に改名されている)
驚くべき事に、国道158号の前身は工事用の鉄道だったのである。
同じ範囲を、現在の道路地図と比較してみる。
前図からの変化は一目瞭然で、路線上には沢山のトンネルと梓川を渡る橋が生まれている。
両者を細かく照らし合わせて見ると、もはやほとんど重なっている区間がないことも分かる。
さらに旧道のほとんどは地図上から姿を消し、廃道となった現状を強く示唆している。
上図に描かれた頼りない細道から国道然とした現道への転換は、昭和30年代以降、加熱するマイカー観光ブームを背景として、長野県の手により進められた。
特に、上高地に対する関東方面への玄関口となる松本〜上高地間の道路改良(交通容量の拡大と安全性の確保)は、観光立県を目指す同県にとって重要な課題となっていた。
このうち、松本〜沢渡(さわんど)間は、東京電力による安曇3ダム開発補償に関わる国道改良を軸として、昭和44年までに完成。
続いて、今回紹介する沢渡〜中ノ湯間約7.5km(現道延長)の改築が、昭和44年から2工区に分けて進められ、数回の部分供用を経て、平成元年に全線の一次改築が完成した。
平成21年現在では、安房峠道路をさらに延伸する中部縦貫自動車道の計画が進められており、中ノ湯IC〜沢渡IC〜波田ICは基本計画区間となっている。